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R18

 

「セっちゃん、お疲れ様!」

「セっちゃん、お疲れ。また明日ね」

「セっちゃん、明日早番だろ。俺もなんだ、よろしくな」

 スーパーの裏口からぞろぞろと、私服に着替えたパート従業員たちが出てくる。

 お疲れ様です、はい、また明日お会いいたしましょう、こちらこそよろしくお願いします、と律儀に挨拶を返し、キコキコと自転車のペダルを踏んで、セバスチャンは夜道を行く。

 このスーパーで働くようになって二ヶ月。はじめは身長180センチを超える外国人の男に、パートのおばちゃんレディ&おじちゃんメンズは引いていたが、いまではすっかり打ち解けて、「セっちゃん」と呼ばれるようになった。

「さあ、早く帰らなければ。坊ちゃんがおなかを空かせていることでしょう」

 右によろよろ、左によろよろとよろけながら曲がったハンドルを握りしめ、家路を急ぐ。

 なぜハンドルが曲がっているかというと、それは先月セバスチャンが電柱にぶつけたからである。

 なぜ電柱にぶつけたかというと、英国屈指の大貴族であり、ファントム社という巨大企業の社長たるシエル・ファントムハイヴの秘書兼執事だったセバスチャンは、常にロールスロイスで移動していて、自転車などに乗ったことはなかったからである。

 ではなぜ英国ではなく、ここ日本にいるのかというと……。

 シエルの経営するファントム社が、ライバル企業の罠にはまり、会社は倒産、それどころか偽りの情報を流され、それを信じた民衆に追われて、屋敷からも、ついには英国からも逃げ出さなければならなくなったのである。

 先祖代々ファントムハイヴ家に仕えてきたタナカの縁で日本にやってきたものの、財産はすべて敵に奪われて、ふたりを待っていたのは極貧生活であった。

 しかしセバスチャンは明るい。

 主人と一緒に小さなアパートで、毎日顔を見ながら暮らせるのはしあわせなことだったのである。

 屋敷では執事の部屋は地下、主人の部屋は二階で、その距離は随分と開いていた。ベルで呼ばれれば、いち早く駆けつけたが、本当は隣の部屋にいて、いつも主人の気配を感じていたかったのだ。

 それが今では隣どころか同室だ。狭いアパートではどんなに離れていたってせいぜい1メートル50センチぐらい。セバスチャンは嬉しくてたまらないのである。

 それに先日時給がアップし、風呂なしアパートから小さいながらも、風呂付きアパートに引っ越すことができた。

 そもそもセバスチャンは、シエルが銭湯に行くことを憂いていた。主人の白く清らかな柔肌を他人の目にさらすのが嫌だったし、当のシエルも恥ずかしそうに、いつもうつむいて湯船に浸かっていて、その姿を見るにつけ、ぎゅっと胸が締めつけられるような思いがした。

 だが、いまは違う。

 アパートの風呂で、ひとりゆったりと過ごすことができるのだ。それは貧乏暮らしの中の贅沢なひとときだった。

「今日の夕飯は、と」

 セバスチャンはどんなに疲れていても、夕食に手を抜かなかった。いやむしろ、疲れている時ほど気合が入った。シエルがおいしそうに、ぱくぱくと自分の作った料理を食べていると、胸がほこほこと温まり、疲れなんて吹き飛んでしまうのだ。

「まずはシチューからですね」

 頭の中で、今日の夕食の段取りを復習する。

 メインはミカエリス特製ホワイトシチューだ。朝、ルーを作ってホワイトソースを仕込んでおいたから、あとはオリーブオイルで炒めた野菜とチキン、秘蔵の調味料を入れて仕上げるだけ。

 それから従業員割引で買ったブロッコリーとエビでサラダを作ろう。ドレッシングはオーロラソース。マヨネーズとケチャップと牛乳を混ぜただけのものだが、おいしいし、なにより安上がりだ。デザートはゆうべこっそり作っておいたプリンだ。坊ちゃんの好きなカラメルソースもちゃんと用意してある。

 よし、なかなかな夕食である。

 坊ちゃんはきっと喜んでくれるだろう。

 アパートの駐輪場に自転車を止め、足取り軽く、たたたと階段を上がって、「坊ちゃん、遅くなりました」とドアを開ければ……

「おや?」

 坊ちゃんがいない。玄関から居間まで見通せるから、そこにいないのはすぐにわかる。

「坊ちゃん?」

 もうおやすみになったのだろうか。

 和室の襖を開けてみる。いない。

 そっとお風呂場をのぞくも、いない。

 いったいどこに行ってしまったのだろう。

 いつもなら、六畳の居間のちゃぶ台で勉強しているか、図書館で借りた推理小説を読み耽っているか、あるいはお風呂に入っているか、そのどれかだったのに。 

 セバスチャンが帰ってきて、不在だったことはこれまで一度もない。

「坊ちゃん……」

 セバスチャンは急に不安になる。

 もしかして家出?

 この貧乏暮しが嫌になったのだろうか。

 大貴族の長子で、贅沢に馴れている坊ちゃんには、やはり貧乏生活は辛かったのだろうか。

 しかし家を出て、いったいどうやって暮らしていくのか。未成年の坊ちゃんができる仕事は少ない。もしや、からだを売るつもりでは。あれだけ美しい坊ちゃんだ。きっと男どもが群がって……!

「そうはさせませんっ」

 セバスチャンは拳を握って叫んだ。

 このミカエリス、主人を働かせることなどできない。

 しかも売春など論外だ。坊ちゃんを止めなくては、探し出して止めなくては、と息巻いたとき、ガチャッと玄関の戸が開いた。

「坊ちゃん?」

 飛び上がって、玄関に走る。

 シエルは鼻の頭を真っ赤にして、大きな袋を両手に抱えていた。

「なんだ、もう帰っていたのか」

「坊ちゃん、どこへ行っていたんですか?」

 まさかプチ家出ですか、春をひさぐつもりでしたか、

いやもうひさいでしまいましたか、と聞こうとしたが、そんなことを言う暇も与えず、シエルは、

「どこでもいいだろ。おい、そこをどけ」

 あごをしゃくって、セバスチャンに命令する。まるで女王様のような物言い。

 セバスチャンは「はい」と大人しく一歩下がって、シエルを通した。

 スタスタと台所に歩いていくその後を、犬のようについていく。シエルはドンと大きな袋を調理台に下ろし、両手を腰にあてた。

「お前、疲れているだろう。今日は僕が夕飯の支度をする。先に風呂に入ってこい」

「え、でも坊ちゃん」

「いいから、僕がやる。さっさと風呂に入れ。お前がいると気が散る」

 しっしっと追い立てられるも、セバスチャンには状況がつかめない。

 坊ちゃんが夕飯?

 普段料理をしない、あの坊ちゃんが?

 今夜のメニューはもう決まっているんですが。

 坊ちゃんの好物のミカエリス特製ホワイトシチューなんですが。

 しかし、主人に口答えなどとんでもない。セバスチャンはすごすごと「わかりました」と行きかけて……ふと立ち止まり、振り返った。

「坊ちゃん、もう黙って出かけたりしないでくださいね。心配したんですよ」

 真顔で言えば、シエルは一瞬驚いたように目を見開き、「わ、わかった。今度から留守にするときは、メモでも残す」と言ってくれた。

 ちゃぷんと湯船につかり、「いつか坊ちゃんと一緒に入れたらいいですねえ」と、風呂場に備え付けられた小さな鏡を、なにげなく見る。

「こう、鏡の前で坊ちゃんにいやらしいことをささやいて、耳朶をかじって、『あ……っ』なんて言わせて、そのまま首筋に舌を這わせると、坊ちゃんはぶるって可愛く震えて。

 真っ赤になった坊ちゃんの頬にちゅっとキスをして、乳首をいじって、軽くねじったり、きゅっと引っ張ったりすると、坊ちゃんはあの綺麗な宝石のような瞳に涙を浮かべて、いやいやって首を振って。私は 『気持ちいいでしょう?』なんて、悪い男みたいに薄く笑うんですよ。恥ずかしがる坊ちゃんの足を開いて、兆してしまった坊ちゃんの坊ちゃんをそっと……ふふ。

 それから、からだをつなげて、つながったところを鏡に映して、じっくり坊ちゃんに見せつけて。

 坊ちゃんがたまらずに顔をそむけたら、愛らしい顎をつまんで無理やり鏡のほうに戻して、鏡越しに目を合わせながら、腰を動かすんですよ。坊ちゃんは私にゆさぶられて、『あっ、ああ……っ』て、甘い声で啼いて、その唇をふさいで舌を吸って……」

「おいっ、いつまで入ってる。いい加減出てこい!」

 シエルの苛立った声が、戸の向こうから聞こえた。

「あ、はい、申し訳ありません! もう、出ます。出ますから、坊ちゃん」

 慌てて叫んだものの、いやらしい妄想のせいで、セバスチャンのあれはしっかりと勃ちあがってしまった。

 いま動いたらまずいことになってしまう。股間に意識を集中しないように、そろりそろりと湯船から片足を出して縁をまたぎ、もう片足をゆっくり持ち上げた途端、「あッ、だめ……」という、妄想の坊ちゃんの声が脳裏に響いてしまい、あえなくぴゅっと果ててしまった。

「うっ」

 こんなときに、こんなところで、こんなことをしでかすなんて。中二男子じゃあるまいし、みっともないことこのうえない。

 ベトベトしたからだを洗い、風呂場を洗い、痕跡が残っていないか確かめて、セバスチャンは浴室を出た。その頃には身体はすっかり冷え切って、冷たい部屋着を着ると、ヘクシュンとくしゃみが出た。鼻をすすって、キッチンに向かう。

 と。そこには──。

 猫! ねこ! ネコ!

 たくさんの猫がいた!

 もちろん本物の猫ではない。

 海苔でデコレーションした猫のおにぎり。

 猫の形に成形したポテトサラダ。

 猫型のハムのソテーに、 兎リンゴならぬ、猫耳リンゴ。

 猫の足跡型で抜いた大根とにんじんのお味噌汁。

「まったく。お前が遅いから、すっかり冷めちゃったじゃないか。味噌汁は温めなおすから、それまでなんかつまんでろ」

 それは私が、と言うセバスチャンをいいから座れと椅子に押し戻す。

 熱々のお味噌汁をちゃぶ台に置いて、「じゃあ、食おう」とふたりで「いただきます」した。

 おにぎりが冷たくったってなんのその。

 大好きな坊ちゃんと、大好きな猫ちゃんおむすびを食べるのだ。ややしょっぱいけど気にしない。ひとつめを完食し、ふたつめのおむずびにぱくっと食いついた。瞬間。

「むひぇええ……!」

 セバスチャンは恐怖の叫びをあげた。

「うるさいぞ」

「坊ちゃん、こ、これ、まさか、チョコレートですか?」

「ああ」

「ああって……チョコのおにぎりなんてアリですかっ」

「いやなら食わなくていい。僕は食べる」

 シエルは平然とチョコ入りおにぎりを食べている。

 いったいどういう味覚なのだろう。こんな子に育てたつもりはないと、セバスチャンは一瞬おかあさんに変身する。

「いえ、せっかく坊ちゃんが作ってくれたものです。食べます」

 と半泣きで咀嚼すれば、意外にご飯の甘さとあいまって、不思議なおいしさが口の中に広がった。

「結構いけますね……」

「だろう? この間、クラスメイトがでんぶの弁当を持ってきたんだ。分けてもらって、初めて食ったんだが、うまかった。甘いものとごはんは合うな」

「臀部?」

「でんぶ! タラの身をほぐして、砂糖で煮込んで、乾かして、ふりかけみたいにしたやつ。臀部ってなんだ。お前、バカか」

 シエルはぷんぷんしているが、それでも席を立ったりはしない。セバスチャンと一緒にごはんを食べている。

 それがセバスチャンは嬉しくて、ついつい顔をほころばせてしまう。

 嗚呼、しあわせだ。

 食後のデザートは、手作りの猫ちゃんクッキーだ。

 ハチワレ、茶とら、キジ猫、白猫、黒猫、長毛種。

 よくもたくさん焼いたものである。

「坊ちゃん、すごいですね、勢揃いです」

「お前は猫が好きだろ。このアパートはペット可だから、僕がアレルギー持ちじゃなきゃ飼えるんだがな。代わりというわけじゃないが作ってみた。食え」

 勧められて、クッキーを口に入れた。サクサクとした歯ざわり、香ばしいバターの香り、甘さ控えめで、市販のものよりもずっとおいしい。

「坊ちゃん。今日のお料理はどなたに教えていただいたのですか?」

 いまの時代、携帯で簡単にレシピを調べられるが、料理苦手な坊ちゃんのこと、調べただけでは作れないだろう。

「うん?」

「あの、どなたに……?」

「言いたくない」

「は?」

「言いたくないから。聞くな」

 そう言われるとますます聞きたくなるが、聞いたらきっと坊ちゃんは怒り出す。このしあわせな団欒の時を止めてはならない。

「わかりました。それにしても坊ちゃん、このクッキー、とてもおいしいですね」

「ならよかった」

 いつもとは逆の会話である。

 デザートが終わって、そろそろ食器を洗おうと立ち上がったとき。

「待て、まだある」

 と坊ちゃんが言い出した。

「まだあるのですか? でも坊ちゃんはもうお腹いっぱいでは?」

 シエルはさりげなく、ちゃぶ台の下に隠していたものを取り出した。

「お前、ちょっと後ろを向いてろ」

「後ろ?」

「いいから早く後ろを向け。見られてると緊張するんだ」

 セバスチャンはしぶしぶと従った。

 かさこそと小さな音が聞こえて、背後がとても気になるが、振り返ったら怒られるので我慢する。

「もういいぞ」

 声と同時に振り向いた途端、セバスチャンは凍りついた。

 この世にこんなことがあっていいものか。

 嗚呼、生きていてよかった……。

「坊、ちゃん」

 そこにいたのは、猫だった。

 頭には可愛らしい銀色のもふもふした耳、首にはお揃いの首輪。どうやらお揃いのしっぽもついているらしい。

「坊ちゃん、一体どうしたんですか?」

 思わず、声がうわずってしまう。

 シエルは真っ赤になって、そっぽを向いている。

「2月22日」

 と不愛想に言った。

「え?」

「今日は2月22日」

 なぞかけのようである。

 セバスチャンは顎に指を添えて考えた。 

「はい。確かに今日は2月22日。それが猫とどういう関係が……?」

「お前、何も知らないのか? SNSぐらい見ろ! 今日はな、『猫の日』だ! にゃんにゃんにゃんで猫の日だ。お前、猫好きだろっ、だから……っ」

「だから今日はこんなことをして下さったのですか?」

「そうだ! この頃、お前ずっと疲れた様子だったから、まあちょっと、元気づけてやるかって感じだ!」

 ますます顔を赤らめて、怒鳴っている。

「坊ちゃん♡」

 感極まったセバスチャンはシエルに抱きついた。おっとっとっとシエルがよろめく。勢いよく、そのまま床に押し倒し、上からのしかかった。

「な、なにをする、セバスチャン」

「坊ちゃんがあんまり可愛いから」

「は? 血迷ったか!」

「さきほど、あんなことをした仲じゃありませんか。鏡の前で大胆に足を開いて……」

「はぁ、鏡? なにを言ってるんだ? お前は」

 興奮したセバスチャンにはもう何も聞こえない。さっきお風呂場で妄想したあれやこれやは、セバスチャンにとって事実に変換されている。

「さあ、坊ちゃん……」

 顔を寄せ、唇をとがらせて、キスを求めた。

「目を覚ませっ! この駄犬!」

 怒り心頭に達したシエルは、両膝で思い切りセバスチャンの股間を蹴った。

「うあ、し、ああ、っくっ。ウ、ウウッ」

 その痛みは激烈だ。

 セバスチャンはもうキスどころではない。股間を押さえて、ぴょんぴょんと飛び回っている。

 けれど、のたうちまわリながら、セバスチャンはまだ考えていた。

 嗚呼、いつか坊ちゃんとお風呂に入りたい。

 お風呂に入って、とてもいやらしいことをしたい。