エディンバラに吹く風は

第八話

崖の上の城塞を打つ風は厳しかった。
海から来る風は暖流を通ってもなお冷たく、もう四月だというのに、冬の気配がいまだ残っている。吹きすさぶ凍えるような激しい風に、セバスチャンもシエルも身震いし、ぎゅっとジャケットの前を合わせた。

「行こう、セバスチャン」
「……ええ」
 決意を秘めたシエルの横顔を見て、セバスチャンの心はずしりと重くなる。



***
 昨日の早朝。
 本来の十六歳の少年として意識を取り戻したシエルに安堵し、喜んだのも束の間、シエルの取り乱した様子にセバスチャンは困惑した。覚醒したシエルは一刻も早くエディンバラに戻らなければならない、みんなが待っているとしきりに訴える。
「みんな、とは?」
 セバスチャンが尋ねても、説明する時間はない、とにかくいますぐ戻らなければ……の一点張り。
「シエル、きちんと話してくれなければわかりません」
 セバスチャンは焦れるシエルの両肩を軽く掴んだ。
 その瞬間。
「触るなっ!」
 シエルはバッと肩を振り、セバスチャンの手を強く払った。
「っ、シエル?」
「あ…………」
 シエルはハッとしてセバスチャンを見つめた。
 ふたりの間に、これまでにない緊迫した空気が張り詰める。
「あ、いや、ちが……。違うんだ、セバスチャン……」
 否定しつつも、シエルは口ごもる。
「その、いま……触られるの、怖くて……。ごめん」
「いえ」
 さりげない風を装ってセバスチャンは答えたが、その胸の内は激しく揺れていた。
 昨夜の自分の行為が脳裏をよぎる。自分はこともあろうに黒革のベルトで、記憶の混濁したシエルを拘束し、無理やり抱いてしまったのだ。まるで強姦のようにして。それは……そう、それは、彼を誘拐し、監禁していた男と同じ行為だ。いくら恋い焦がれていたとしても、愛おしい人の記憶を取り戻したかったとしても、絶対にしてはならないことだったのだ。ぎゅっと唇を強く噛んだ。
「あの……、シエル、……昨夜、は」
 ごめんなさい、と謝ろうと口を開いたものの、それすらも拒否するようなシエルの硬い表情に、身が竦んだ。結局、謝罪の言葉は口に出せず、シエルに請われるがまま、カフルイ空港からロンドン経由エディンバラ行きの便を予約した。
 支度もそこそこにパスポートだけ持って、車のキーを取り上げる。
 部屋を出るときに、ちらっとキッチンに目を走らせた。床にはスコッチの空き瓶が雑然ところがり、テーブルにはあの魔の本がページを開いたまま、放り出されている。
 不意に禍々しい気配を感じて、立ち竦んだ。ぞわぞわと邪悪な気配が、本の合間から這い出して、セバスチャンのからだにまとわりついてくる……。
「セバスチャン? 早く行こう!」
 ガレージから大きな声で呼ばれて、我に返った。途端、その声に怯えたように、黒い霧はズルズルと本の中に戻っていく。
「……?」
 一瞬訝しく思ったものの、自分を誘う魔を断ち切りたくて、セバスチャンは玄関の扉を思い切り閉め、シエルのもとに走った。

 空港まで車を走らせながら、セバスチャンは静かに訊いた。
「貴方がなにを思い出したのか……話してくれますか?」
「……わかった」
 車に乗ってようやく落ち着いたのか、シエルは小さくうなずく。
 語り始めたその物語は、セバスチャンの想像を遥かに超えていた。

 エディンバラを舞台にした映画の中の風景に、忘れていたあの『一ヶ月』の記憶が呼び起こされ、断片的に蘇ったこと。昨夜、セバスチャンに抱かれ、意識が飛んでいる間に思い出したのは、六年前の夏、両親と離れた一瞬の隙を突いて、配送トラックらしい車に乗せられ、誘拐されたこと、同じようにさらわれた数人の子どもたちと、地下の檻に閉じ込められていたこと、なかには虐待され、絶命する子もいたこと、子どもたちを人質に、何度もパブへ酒を買いに行かされ、そしてサッカー試合の夜に、車と人混みの中で倒、意識を失ったこと……。

 すべてを聞いて、しばらくの間セバスチャンは沈黙した。
 やはりあの映画がきっかけだったのだ。
 シエルのMacBookで再生されていた映画「バーク&ヘア」。十九世紀のエディンバラで実際に起きたおぞましい連続殺人の物語。映像の中の景色が引き金となって、監禁されていた記憶が蘇ったというのは十分あり得る話だ。
 だが。
 いまから六年も前の、十歳の子どもの記憶だ。その記憶がすべて真実かどうかはわからない。幼いシエルの思い込みという可能性がある。たとえば──彼の語る子どもたちだって、実在するとは限らないのだ。監禁されていたのは、実はシエルひとりで、男の虐待に心身ともに追い込まれた彼が作り出した、『幻の仲間』だとしても不思議はない。
 じっと考え込むセバスチャンに、シエルが訴えた。
「僕は戻らなきゃいけないんだ。あの場所で……あの地下室でみんなが待ってる」
──みんな、か。
 海沿いの道路に波しぶきが降りかかる。雨脚は弱くなっているものの、風はまだ強い。荒々しい波の向こうにモルカイ島の突端が霞んでいる。
「話はわかりました……。ですが、シエル、事件からもう六年も経っています。犯人や子どもたちが、いまもまだそこにいるとは考えにくい。それに……」
 セバスチャンは言い淀んだ。
 それに、仮にその子たちが実在していたとしても、おそらくもうすでに……。
「わかってる」
「…ッ」
「わかってるよ、セバスチャン。そのことは僕だって考えた。もしかしたら、もうみんなこの世にいないかもしれないって。僕が戻らなかったせいで」
「シエル……」
「でも! ひょっとしたらあいつの気が変わって、みんなはまだ生きていて、いまもあの場所に監禁されてるかもしれないんだ。……どういう結末が待っていようと、僕はあの街に戻らなくちゃいけない。そして僕がしてしまったことの責任をとらなくちゃいけない」
「責任? 事件は貴方のせいではありません。元凶はその男です。貴方はなにも悪くない」
 そうだとも。シエルに非はない。被害者なのだから。
 セバスチャンの脳裏にシエルの背の焼印が浮かんだ。あんな……あんな家畜のような印をつけられて、ひと月もの間、閉じ込められて虐待されて。呪わしい記憶など思い出さずともよかったのだ。
 あの一本の電話さえなかったら。
 セバスチャンは歯噛みした。
 エディンバラへ行けという誘いと、悪意に満ちた声をささやく魔のような本が届かなかったら。
 シエルは過去を思い出す事なく、私たちはこんな目に遭わずとも済んだのだ……。
「セバスチャン、いまのうちに向こうの警察にも知らせよう。あの場所にあいつが潜んでいたら、僕たちだけでは無理かもしれない……」
 シエルの声に恐怖が滲んでいる。
 警察?
 はたして、警察が六年前の事件など取り合ってくれるだろうか。
 セバスチャンは逡巡した。
 監禁されていた場所すらも曖昧なのだ。突然、拉致された記憶が戻ったと伝えても……。
 いや、いっそまかせたほうがいい。
 それで警察が信じるかどうかは、向こうの問題だ。私の知ったことではない。
「そうですね。あちらの警察に連絡して、あとはまかせましょう」
「え? まかせる……?」
「ええ、そうすれば、シエルが直接エディンバラに行く必要はなくなります。警察に依頼してしまったほうが安全でしょう?」
 彼の地を訪れて、直接過去と対峙してしまったら、再びシエルは壊れてしまうかもしれない。
 彼らがまだ生きていたとしても、失われた六年は戻らない。シエルはもっと早く助け出せればよかったと自分を責めるだろう。最悪なのは、全員が──いや誰かひとりでも──亡くなっている場合だ。いくら覚悟しているといっても、もしも地下の家で彼らの遺体を発見したら。そのとき、シエルは……。
 あの夜のようにシエルが壊れ、自分の手の届かないところへいってしまったら、今度こそ自分はなにをしでかすかわからない。
 狂ったような嵐の夜が脳裏をよぎった。
──いまならまだ引き返せる。
 セバスチャンにとって、囚われているかもしれない子どもたちよりも、シエルのほうが大切だった。それは身勝手で無慈悲な行為だと頭では理解していた。だが──自分にはシエルだけがいればいい。この世界にただひとり、シエルだけが自分の傍らにいればいいのだ。せっかくここまでふたりで愛を育んできたのだ。いまさら過去に掠めとられてはたまらない。
 家に戻ろう。
 そしてシエルとふたりだけ、あの岬の白い家で、あの安全な繭にこもって、平穏に暮らしていければ、私はそれで……。 
 セバスチャンは車のスピードを落とした。
「ねえ、シエル。エディンバラなどに行かず、事件のことは全部警察に委ねて、家に戻りませんか?」
 セバスチャンの言葉を聞いて、シエルは大きく目を見開いた。
「それ…、本気でいってるの……?」
「ええ、もちろん。私はこれ以上、貴方に辛いを思いをさせたくないのです」
 醜いエゴに捉われたセバスチャンは、シエルの想いに気づかない。
「貴方は僕に……過去から目を背けろというの?」
「いえ、そんなつもりは……。ただ、私は」
「セバスチャン」
 哀しみを湛えた声に、セバスチャンはハッとした。
「……僕が過去に目を背け、耳を塞いでも、僕のからだは、僕の心は、あの出来事を決して忘れはしない。ことあるごとに僕に思い出させようとするだろう。僕があの事件に対峙して、乗り越えない限り……」
 からだにいつまでも残るおぞましい痛み。
 だれも助けてくれないと悟ったときの絶望。
 その記憶が僕を追いかけて離さない。
 シエルは大きく息を吸った。
「たとえ貴方が止めても──僕は行くよ。僕が閉じ込められていたあの街へ。そして彼らを地下から助けだすんだ。……たとえ、たとえ、みんなが骨になっていたとしても」
 手のひらをぎゅっと握りしめ、声をふり絞った。
「僕は……みんなに約束したんだ。必ず戻ってくるって……っ」
 蒼と紫の宝石のように煌めく二色の瞳は、遠く海の彼方を見据えていた。
 待ち受ける運命に抗うかのように。あるいは何かに復讐するかのように、瞳を絶望に昏く染め、唇を白くなるほどきつく一文字に結んでいる。強い決意を秘めたその姿は凄絶なほど美しく、凛々しい。
 セバスチャンはかつてその姿を見たような気がした。
 思い出せないほどの昔……遥か昔にどこかで……。
「セバスチャン、貴方が僕を心配して、僕を守ろうとしているのは知ってる。いつもそうやって貴方は外界から僕を守ってくれた。でも──今回は僕自身が解決しなくてはならない問題なんだ。だから……」

 貴方が反対しても、僕は行くよ。

 その言葉は氷の刃のように鋭く、深く、セバスチャンの胸を抉った。
 苦いものがじわじわと胸に広がっていく。
 なんというむごいことを口にしてしまったのだろう。
 シエルを守りたいがゆえに、もしかしたらひたすら助けを待っているかもしれない子たちに、一片の情けもかけなかったのだ。
 セバスチャンは唇を噛み、空港へと急いだ。
 
 

***
 やはりエディンバラ警察は動かなかった。
 セバスチャンがトランジットの合間に連絡して、詳細を説明したが、事実かどうかわからない案件に人手を割く余裕はない、依頼には応じられないとのそっけない返事だった。逆になにかわかったら知らせてくれと言われる始末だった。
 結局自分たちだけで地下の家を探すことになり、いまふたりはエディンバラ大学横の広場に立っていた。
 十九世紀に、小説家アーサー・コナン・ドイルも籍を置いた由緒ある名門大学。当時その医学部は世界の最先端を走っており、それゆえに死体解剖に必要な遺体を、素性もわからない人間から購入していたのだ。シエルが見た映画は、その実際の事件を元にしたものだったのである。
「この辺り、でしょうか?」
 映画では、シエルの見覚えのある路地はこの広場の近くだったらしい。
「うん、そのはずなんだけど……」
 しかし広場周辺にはそんな路地はなかった。困惑した様子のシエルに、
「映画は、架空の場所とリアルの風景を混ぜて編集することがありますから……」
 見渡せば、街のあちこちに観光客がいた。ときおり吹く強風に流されそうになりながら、スコッチの袋を下げた人々が談笑しながら歩いている。中世の街並をそのまま今に残したエディンバラ旧市街は、世界遺産として有名な観光地だった。ふたりは市街地図を確認しながら、観光客の間を行きつ戻りつしながら進んでいく。
 不意にシエルが叫んだ。
「セバスチャン、あれ……!」
 シエルの指差す方向に、屋根から吊り下げられた看板が、強い風にあおられているのが見えた。
 目を凝らせば、『黒犬亭』とかすれた文字で描かれている。
 走り寄ると、真っ赤なペンキで悪戯描きされたドアに木の板が何枚か打ち付けてあった。どうやら随分前に閉店してしまったらしい。煤けた窓からぼんやりと店内が見える。
「間違いない、このパブだよ」
「……そうですか」
 心の中でため息をついた。
 パブも地下室も、全部シエルの悪い夢であればいい、と祈るような気持ちでいたのだ。
 だが、実際にパブが見つかっては、シエルの言っていたことは、事実だと思わざるを得ない。
 ではこれから起こる出来事は……。
 それを考えると一層胸が重くなる。
 いや、とセバスチャンは気持ちを奮い立たせた。
 私が彼を守るのだ。
 どんなに嵐が吹き荒れようとも、彼を守るのは私の──私の宿命なのだから。
「セバスチャン? なにしてるの、急ごう」
 シエルがもどかしそうに待っている。
「嗚呼、すみません」
 黒犬亭の前の大きな通りをふたりで足早に渡った。
 シエルの話では交通量の多い道だったというが、いまは閑散として人も車もまばらだ。そう、六年も経てば街は変わる。
「簡単に渡れる……」
 シエルは呟いた。
 あのとき、こんな風に道を渡れたら。そうしたら……そうしたら……
 パブのおじさんやおまわりさんを連れて、みんなを解放できたかもしれないのに。
 言葉にならないたくさんの想いが胸にこみあげ、みるみるうちに瞳に涙がたまる。
──立ち止まっている場合じゃない。早く行かなければ。
 心を奮い立たせ、坂道を走り下りる。

 十歳のシエルが走る。
 十六歳のシエルが走る。
 二人の姿は重なって、共に坂道を駆け降りていく。

 廃墟のような建物の間の小さな橋をくぐり抜けた。いまはベランダに洗濯物はひとつもなく、どうやら誰も住んでいないらしい。やがてクレマチスの茂みが見えた。
──猫は……?
 駆け寄って茂みをのぞくと、みすぼらしく枯れかかった木々の合間に、空き缶やビニールが投げ込まれていた。猫はおろか生き物の気配はない。かつて閉じ込められた場所に近づくにつれ、ひしひしと感じる年月の重み。六年、という歳月は思っていたよりも長い。
──みんなあの場所にまだいるんだろうか。生きているだろうか。どうか、生きていて欲しい…!
 記憶を失い、六年も助けに来られなかった自分はどんなに責められてもいい。
 でもどうか、命だけは、命だけは……!
 ぎゅっと握ったこぶしに、ぽたぽたと大粒の涙が落ちた。
「シエル?」
「っ、大丈夫だから!」
 ぐいっと腕で涙を拭うと、シエルはクレマチスの茂みから離れ、左に折れた。
──ここだ……。
 目の前に伸びるくねくねと蛇のように曲がった路地。
 両脇には陰気な建物。
 じめじめとしてカビ臭い小道。
 覚えている。
 道の先はあたかも黒い霧に囲まれているように、くすんでよく見えない。
 まるで瘴気が路地の奥から漏れ出ているようだ。
 路地を前にして、シエルの足はぴたりと止まってしまった。両足が地面に張り付いてしまったように動かない。
 からだがガクガクと震え出す。背中の焼印が、燃えるように熱い。
「シエル? 大丈夫ですか」
 セバスチャンが呼びかけた。
 シエルはゆっくりと振り返る。眉をきつく寄せ、いまにも泣き出しそうな顔をして。
「怖いんだ……」
「シエル」
「怖い。あいつがいるんじゃないかと思うと、怖い……」
 シエルの脳裏にあの残酷な日々が鮮烈に浮かんだ。
 動物園のような地下室の匂い、血の匂い、男の怒鳴り声、暖炉の炎……
「私が行きましょう。貴方はここで待っていてください」
 先に行こうとするセバスチャンの腕をシエルは掴んだ。
 強くかぶりを振る。
──だめだ、行かなきゃ。僕が行かなきゃならないんだ。
「いや、行く。僕が行くよ」
 動け、僕の足!
 行くんだ!
 シエルはぐっと顎を上げると、一歩、一歩、地面を踏みしめて、前へと進んだ。

***

 路地の先に建つ、いまにも崩れ落ちそうな古い物置小屋。
──あの頃のままだ。
 呪わしい場所。使いに出され、いつも恐怖しながら戻ってきた場所。
「う…ぐっ」
 こみあがる怯えと吐き気。
「シエル……」
 歩み寄るセバスチャンを目で制し、口元を押さえながら、おそるおそる一歩足を踏み入れた。
 みしりと木の床が軋んで、びくっと震えた。
──あいつが出てくるかもしれない。
 シエルの首筋につぅっと冷や汗が流れた。
 からだをわななかせながら膝をつき、音を立てないように、土埃に隠された入口を探す。
 ふと指に硬いものが触れた。冷たい金属の感触。
「セバスチャン……」
 シエルのかすれた声に呼ばれて、セバスチャンがそっと近づく。
 地下への入口だ。
 蓋の表面には赤錆が出て、ところどころ腐食している。
 入口の周囲には足跡がいくつか残っていて、つい最近まで出入りがあったようだ。
 蓋には錠前が取り付けられ、施錠されてはいるが、触れてみれば意外に緩く、セバスチャンが掴んだだけで、鍵は簡単に外れてしまった。
 シエルとセバスチャンは顔を見合わせた。
 シエルの顔が緊張に引き攣っている。
「開けますよ」
「……うん」
 セバスチャンはぐっと蓋の縁に手をかけた。
 かすかに埃が舞う。
 キシキシと厭な音を立てながら、蓋がゆっくりと開いた。

***

 静かだ。

 なんの物音もしない。
 薄く、匂いが漂ってくる。
 なんだろう。
 シエルの話していたような動物園の匂いではない。

 セバスチャンは内部を覗きこみ、なんの気配もないことを確認すると、ゆっくりと土の階段を降り始めた。
 シエルもあとから続く。
 
 誰もいない。
 しん、と静まり返っている。
 だが人は住んでいるようだった。
 部屋全体にログハウスのような板壁が張ってあり、綺麗に整えられている。
 この部屋はキッチンを兼ねた居間なのだろうか。壁にぶら下がった鍋に、調理器具。
 丸椅子がひとつ。食器棚のような古めかしい棚が角に置かれている。
 ゴミひとつなく、清潔だ。
「え……?」
 シエルは戸惑った。
 こんな風じゃなかった。もっと汚れて、家畜小屋みたいで。土間にはいつもスコッチの空き瓶がころがっていて。
 暖炉があって、いつも暑くて……
──え?
「暖炉がない……?」
 あったはずの空間には、ただ板壁が広がっている。
 なにより驚いたのは、シエルたちがひとりひとり閉じ込められていた、檻の部屋がないことだ。
 そこは暖炉のある部屋からつながっていて、中に廊下のような道があり、その両側に洞で作った檻があった。
 だけど、この狭い空間にそんな場所などない。
 檻がない、なんて……。
 なぜ……?
 僕の勘違いなんだろうか。
「もしかしたら、シエルの監禁されていた場所はここではないのかもしれませんね」
 困惑した様子のシエルに、セバスチャンは言った。
「そんなはずないよ! 黒犬亭も大通りもクレマチスもあった! 場所は合っているんだ。でも、中が全然違う…」
「別の住人に替わっている可能性もあります」
「え……じゃあ、みんなはどこに?」
「……もしかしたら」
 犯人と共に去ってしまったのでは、とセバスチャンが呟くように言う。
「そんな……」
「とにかくシエル、いったんここは引き上げて……」
 いいかけて、ふいにセバスチャンは口を閉じた。

 コツッ

 小さな音が聞こえた…ような気がした。
 小石の当たるような音。
「なに……?」
 シエルも耳を澄ます。
「なんでしょう……」
 ふたりで耳をそばだてた。
 カリカリと壁を引っ掻くような音もする。
 音はあきらかに板壁の向こうから聞こえてくる。
「鼠、でしょうか?」
 かすかな呻きが耳に届いた。
「違う……鼠じゃない」
 シエルは壁に耳を押し当てた。
 確かに聞こえる。
「………け…て。だ…………」
 苦しげな声。
──この向こうに、誰か、いる……!
 セバスチャンとシエルは弾かれたように動いた。
 すばやく板壁に両手を這わせ、入口を探す。
「セバスチャン、ここだ!」
 シエルが指し示した暗がりをよく見れば、板壁の隅に大人の背丈ほどの長方形の窪みがある。
 隠し扉だ。
 しかし把手や指を入れる隙間がない。左右に動かそうとしても微動だにしない。
 屈み込んで調べれば、隅に小さな穴があって、鍵を差し込むようになっていた。
「鍵がいる…。どうしよう……」
 青ざめたシエルに、セバスチャンは安心させるようにいった。
「シエル。ちょっと下がっていてください」
「え?」
 セバスチャンはシエルを部屋の奥に押しやると、軽く助走をつけて、ドンッ!と扉に体当たりした。
「──ッ」
「無理だよ、セバスチャン!」
 セバスチャンは答えない。
 もう一度、大きく反動をつけて、扉にからだを打ち付ける。
 びくともしない。
 だが、三回、四回、五回──
 セバスチャンが渾身の力で扉にからだをぶつけるたびに、少しずつ木にヒビが入り、何回めかのとき、突然バリバリと大きな音を立てて、扉ごと板壁は割れた。
 あたりに飛び散る木片と埃。
 鼻をつく異臭。
 腕で木屑と土埃を払いながら、セバスチャンとシエルは中に入った。
 
 舞い上がる埃の幕の向こう、人影がこちらに向かってくる。
 ゆらゆらと、まるで幽鬼のように。
 セバスチャンはシエルを自分の背後にかばい、腰を落として、身構えた。
 土埃がだんだんとおさまり、人の姿が見えてくる。

「……────」

 その人影はしゃがれた声で何事か呟くと、ふらり、とよろめいて、崩れ落ちるように地面に倒れ伏した──。

to be continued…