カフェを始めた



#5

「どなた……?」
 と聞いた母は、けれどすぐに僕を思い出した。
「あら、シエル。学校はどうしたの?」
「夏休みだよ」
 答えると、母は「そうだったわね」と微笑む。
「私、どうしてここにいるのかしら」
「ちょっと具合が悪くなったんだよ。覚えてないの」
 母はまた笑って、そうだったの、シエルに心配かけてごめんねとすまなそうに言った。それから急に思い出したように顔をしかめた。
「早く庭の黒スグリを摘まなきゃ。そうそう、コケモモも! 鳥が食べてしまうわ」
 黒スグリもコケモモも、もう枯れているよ。
「僕が採っておくから、気にしないで。ゆっくり休んで」
 そうね、と母はうなずいて目を瞑り、僕がもう帰るねと小さく言うと、母は目を開けて、他人に挨拶するように、
「今日はありがとうございました」
 と軽く頭を下げた。
 彼女はまた僕のことがわからなくなったのだ。

 アン叔母さんの話によれば、母の脳は年齢よりも老いてしまって、いま八十歳ぐらいなのだそうだ。これから少しずつ周りの事がわからなくなっていくらしい。数字がわからなくなって計算ができなくなり、時間の感覚がなくなって、そして次第に周囲の人間のことも、自分のこともわからなくなっていく……。
──母の脳は魔法のザルなんかじゃなかった。病んだ脳だったんだ。
「でもそれって、一時的なものなんでしょう? 薬とか手術とかで、治るんだよねノノ?」
 そうであって欲しいと僕は願った。このまま、少しずつ母が僕のことを忘れていくなんて信じられなかった。
「アン叔母さん?」
 黙りこくっているアン叔母さんのからだを揺さぶった。叔母さんは、僕から目を逸らして、唇をきゅっと結んでいる。綺麗に口紅を塗った唇から出た言葉は、僕を打ちのめした。
「シエル。ごめんね。いまの医学では治せないのよ。進行を遅くすることができるくらいなの」
──今ノ医学デハ治セナイ
 ちっともわからない。
 治せないってどういうこと? 今の医学ではって? じゃあ、あと何年か待ったら治せるの?
 もしもすべて忘れてしまったら、もう二度と記憶は蘇らないの?
 僕を産んで、ひとりで育ててくれたことも?
 僕と一緒に行ったポルトガルの旅行のことも? 毎朝作ってくれたスープのことも? くだらない映画を見て笑いあったことも? 本当に全部忘れてしまうの? なにもかも忘れてしまった母は、それからどうなるの?
 もうなにがなんだかわからない。頭に浮かぶさまざまな疑問、不安のかけら。僕はそれをアン叔母さんにぶつけることができない。だって僕は優秀な子どもで、動揺したりしないし、感情的になったりしないし、僕はいつも落ち着いて、冷静で……

 雨が、降り始めた。



***
 シュッ、シュッと、規則正しくワイパーが動いている。
 夕方から降り出した雨が道路や街路樹を濡らしていた。頬杖をついて、僕は他の車のバックライトやウィンカーをぼんやり眺めてる。
 僕とセバスチャン、家に帰る途中。
 セバスチャンはずっと黙っている。母のことはセバスチャンも知ってる、らしい。でもなにも言わない。言う事なんてないって感じで、黙って仏頂面をしている。
 僕たちふたりの上をおなじみの沈黙の天使が通るけれど、ふたりとも今日は天使をまるっきり無視している。
 車内に聞こえるのはワイパーの音だけ。
 シュッ、シュッ。まるで雨のメトロノーム。
 規則正しく。シュッ、シュッ。
 規則正しい音は、次第に僕を苛つかせた。
 どうして、僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。母の脳が八十歳? なんだよ、それ。なんでだよ。どうして僕がこんな目に……くそ、堂々巡りだ。
 隣の男はなぜ黙っている。大人だろ。大人は傷ついた子どもをやさしく慰めるものだろう。そうだろう? こいつには人間らしい血が通っていないのか? いつだって僕をからかって、僕に意地の悪いことばかりして……。
「着きましたよ」
 思いやりのひとかけらもない、冷ややかな声が到着を告げた。
 僕はのろのろと車を降りる。セバスチャンは降りない。
「今日はカフェで寝ます。クソガキのおもりはもうたくさんですから」
「おもり……?」
 おもりってなんだよ。
 急激に僕の腹の中は沸き立つ。
 お前なんてなんにもしてやしないじゃないか!
 でも僕は口には出さない。いつもの僕をいつも通り演じる。
「そうですか。じゃあ、おやすみなさい……」
 氷のように冷たい雨が顔に当たるけれど、もういいや。なんだっていいや。疲れちゃった。とぼとぼと玄関に向かって歩いていく。
 突然、背後からガッと肩を掴まれ、無理矢理振り向かされた。
「ひとりにするなと言えばいい」
「……え?」
「ひとりにしないでくれと。母親が自分を忘れてしまいそうで、不安だと。悲しいと。なぜくだらない我慢などしているのです」
 僕は言い返す。
「我慢なんかしていません! 第一、泣いてもなにも解決できませんし、母が病気になってしまったのは仕方のないことですし……」
「貴方のことをおかあさんがすべて忘れてしまっても、仕方がないと? 悲しくともなんともないと? 薄情な人なのですね、貴方は」
「だってどうしようもないじゃないですか。僕にはどうにも……」
「その胸くそ悪い話し方はやめてくださいと言ったでしょう」
 セバスチャンは肩を掴む手に力を込めた。
「痛い! 放せッ」
「ねえ、泣きたいのでしょう? わめきたいのでしょう? なぜそうしないのです? 以前の貴方はそうではなかった、もっと傲慢でわがままで……」
「うるさい、うるさい、うるさいっ!!」
 溶岩みたいな熱い怒りが腹の底からこみ上げて、僕は叫んだ。
「なんで、いつも同じことばかり言うんだよ! 以前の僕って、一体なんだよ! お前のことなんか知らないよ。なにが覚えていますか、だ! なんにも覚えていないよ。子どもの頃のことなんて全部忘れた!」
 セバスチャンは一瞬怯み、それから悲しさと悔しさと複雑に入り混じった表情を浮かべた。
「ええ、そうでしょうとも──貴方のおかあさんのように、すべて忘れてしまったんですよね? はは、さすが親子ですね、貴方も脳がイカレているんじゃないんですか。ははは」
 嘲笑うセバスチャンに本気で怒りを感じた。
「この野郎っ!」
 全身に力を込めて、セバスチャンにぶつかった。さすがのセバスチャンも突然の僕の行動は読めなかったらしい。
「くっ……」
 避け切れずに、僕の攻撃をまともに喰らってよろけ、自分の車に背中をぶつけた。けれど即座に態勢を整えたセバスチャンは僕の顔を殴りつけ、僕はぬかるみに倒れた。でももう許さなかった。僕だけならともかく母をも愚弄するこの男が許せなかった。
 僕は立ち上がり、何度も何度もセバスチャンに殴りかかった。そして同じだけ殴り返された。ふたりで取っ組み合って、泥まみれになって、視界がぼやけ、口の中がしょっぱくて生暖かいものでいっぱいになっても、僕はセバスチャンにむしゃぶりついて、殴り続け──最後に見えたのは彼の靴。ぐちゃぐちゃの泥の中に顔を突っ込んで、僕は意識を失った。



***
「……ウゥ」
 ヒヤッと冷たいものが額に当てられて、意識を取り戻した。リビングルームのソファの上。起き上がろうとしてもからだが動かない。頭がガンガンする。全身が痛い。妙に重い瞼をこじ開けると、腫れ上がった顔のセバスチャンが僕を見下ろしていた。
「なかなか、やりますね」
 ぽそり、とセバスチャンは呟くと、傍らの椅子に力なく座る。
 よく見れば、セバスチャンの顔は腫れてるだけじゃなくて、傷だらけで唇も切れてて、いつもの端正な顔がだいなし。黒麻のシャツは泥だらけでよれよれ。ボタンがいくつか飛んで、大きくはだけている。そこからのぞく素肌も傷だらけ。
「まったく。ガキだと思って油断したら、とんだ目に遭いました」
「お前のせいだ」
「ええ」
「お前が酷いことを言うから」
「ええ」
「ええ、って、わかってるなら謝れよ!」
「いいえ」
「おいっ」
「謝るのは貴方のほうです」
「なんでっ? なんで僕がお前に謝らなきゃならないんだっ!」
 セバスチャンはじっと僕を見つめた。
「なぜなら、覚えていないからです。私に命じたことを」
 セバスチャンはいきなり僕の右の瞼に、自分の左手を押し付けた。
「な……っ」
──あ
 びぃんと音叉がからだの奥で響く。
 びぃ────ん
 その残響が僕たちを包み、またあの疼きがやってくる。
「ほら、貴方も感じるのでしょう?」
「?」
「この音を。音叉のような、この音を」
 セバスチャンは囁くように言うと、僕に顔を寄せて耳を軽くかじった。たったそれだけで電流が走ったように、僕のからだはびくんと跳ねる。
「んっ……ぅ」
 セバスチャンの唇は頬を這って、僕の唇を捕まえる。唇を開かせると、あたたかい舌が忍び込んで、甘く僕の舌に絡みつく。四肢の力はたちまち抜けて、なにもかもセバスチャンにゆだねてしまう。
 音叉は──ずっと鳴り続けている。
「この音が始まると、貴方のこと以外なにも考えられなくなる。貴方が欲しくてたまらない。からだだけではない。貴方の中の『なにか』を手にしたくてしかたがない。ねえ、これはなんですか? なにかの呪いですか? なぜ私は貴方に惹きつけられるのです? なぜ貴方は私の人生を狂わせたのです? 将来を嘱望されていた私がなぜパリであんな目に遭わなくてはならなかったのです。八年前、たった五歳の子に魂を……ええ、それこそ本当に魂を奪われなくてはならなかったのです?」
 そんな問いには答えられなかった。
 なぜセバスチャンと僕が共鳴するのか。音叉が鳴ると、なぜ欲情してしまうのか。わからない。わからないけれど……からだが求めてる。セバスチャンを求めてる。
 僕たちはまたキスを交わし、そしてまたキスを交わした。
 セバスチャンの紅茶色の瞳が深く濃くなり、その奥から赤い光が覗く。
「私にはわからない。どうして自分が自分でないものに支配されているのか……」
 でもいまは……とセバスチャンは呟いた。
「いまは抗いたくない。もう、我慢できない」
 そう言って、僕のシャツを引きちぎり、胸に唇を這わせた。
「やめろ…っ!」
「いやです」
 吐息まじりの甘い声でセバスチャンは否と答えると、僕を抱き上げ、階段を上った。



to be continued…