第四話 監禁
白く、どこまでも白く、吸い込まれていくようだ──。
見ているのが天井の蛍光灯だと気づくまで、しばらくかかった。
なぜ、床に寝ているのだろう。徹夜仕事の末に、こんな格好で眠ってしまったのだろうか。
ゆっくりとからだを起こした。
「つぅッッ!」
頭が割れるように痛い。視界がにじむ。
息を詰めてじっと動かずにいると、次第にあたりがはっきりと見えてきた。
慣れ親しんだ4台のMac、机、その横に積んだ資料類。手がけた書籍が本棚に並んでいる。トロフィーも。
「……?」
──……位置がおかしい。
トロフィーが外に出ている。いつもは扉付の棚に収納しているはずだ。ずきずきと響くように痛む頭を押さえながら、立上がってトロフィーを片付けようとした。
そのとき。
「気がつきましたか? 乱暴なことをして、すみません」
振り返ると、編集者が心配そうにこちらを窺っている。
どうして彼がここに? 状況がまるで把握できない。思考がうまくまとまらず、セバスチャンは困惑した。
「ここは、私の部屋……?」
「ああ! そう言っていただけてよかったですよ。入念に準備した甲斐がありました。そうです、ここは貴方の仕事部屋です。まさにそうなんですよ」
それならば、シエルの机もあるはずだ。だが見回しても、それはない。第一、空間が小さ過ぎる。そして、あのトロフィーの場所……。
メール。電話。待ち伏せ。拉致。
深夜の出来事がフラッシュバックのように蘇った。
──違う。ここは私の部屋ではない。よくできたレプリカだ。
「そっくりですね」
「おんなじに造るの、苦労したんですよ! でも、ほら! この間、取材でお邪魔したでしょう。いやあ、やっぱり実物を見ると違いますね。おかげで、本物ソックリに仕上げることができました。あ、ちょっと狭いのは、許して下さいよ」
中年の編集者は仕事のときと変わらない、いつも通りの親切な物言いで喋っている。
いつもなら──そう、いつもなら──、なんら異常ではない。普段の彼だ。
だが、いまの状況下では。
「これは一体……どういう趣向なのです?」
その問いに、編集者は嬉しそうに破顔した。
中央のテーブルに傍らの椅子を引き寄せて座り、打ち合わせをするようにセバスチャンに向き合う。
「『現代文学全集100』のデザインを、ここで考えていただきたいのです」
「自宅で、すでに取り掛かっていましたが……」
「それじゃあ、ダメなんですよ、ミカエリスさん!」
編集者は悔しそうに眉を寄せた。
「貴方の家には、あの悪魔がいるじゃないですか」
「悪魔……?」
「それとも山羊、かな。どっちだっていいです。シエル・ファントムハイヴですよ。あの子は貴方にとって悪魔同然です。貴方の才能をすっかり奪ってしまったんですからね。あの子と暮らすようになって、貴方のデザインは変わってしまった。以前は黒と赤の、無駄のないスタイリッシュな世界だったのに、去年あたりからあのおかしな『蒼』が入ってきて、美しさが損なわれてしまったんですよ。なのに、世間はどうしてでしょうねえ。『蒼』の入った貴方のデザインに、賞など与えて……。あの悪魔をいい気にさせてしまった」
編集者の嘆きは深いらしく、大袈裟に溜め息をついた。
「彼は悪魔などではありません。私の大切な婚約者ですよ」
「その『大切な』が問題なんですよ。貴方は前の貴方で、完璧だった。完璧に美しい世界を表現していたんです。それなのに、余計な存在が入り込んで、貴方の世界は壊されてしまった……」
「壊されてなどいません。むしろ、私は彼に助けられて……」
バンッ!! と編集者は思い切り机を叩いた。熱に浮かされたように、一息にまくし立てる。
「貴方はわかっていないんですよ! あいつから離れて、ここで貴方の、貴方本来の美しい世界を再び生み出して欲しいんです。よく見てください。貴方が初期に手がけたPR誌やペーパーバック、ギャラリーのフライヤーだってあるんです。すごいでしょう? 私は貴方のデザインを追いかけて、集めて……本当に貴方のファンなんですよ。今度の『現代文学全集100』は、貴方の代表作になるはずだ。ここでじっくりと練り上げてください。もうコンペは間近なんですから」
この頭のイかれた男になにを言っても無駄だ。セバスチャンは口をつぐみ、ここから出る方法を考え始めた。こいつをいますぐ殴り倒して、外に出よう。セバスチャンが一歩動くと、編集者は椅子から飛び降り、行く手を塞いだ。
「ここから出たら、マンションにいるあの子の命は保証しませんよ。『我々』があの子を監視していますから」
「……ッ! シエルには手を出さないでください」
「貴方が私の言うことを聞いてくれさえすれば、なにもしませんよ。さあ、ミカエリスさん、仕事をお願いします。貴方はここで、『現代文学全集100』の装幀を完成させるんです」
言うだけ言ってそそくさと帰り支度を始めた男に、セバスチャンは気にかかっていたことを尋ねた。
「『我々』とは一体なんなのです……? 貴方はシエルとどういう……」
「すみません、私、そろそろ、社に戻らなくちゃなりません。その話は長くなりますんで、今度また。ミカエリスさん、くれぐれも『蒼』は使わないでくださいね。『蒼』は!」
中年の編集者は人の良い笑みを浮かべ、せわしなく立ち去った。
ひとり残されたセバスチャンは、自分の置かれた状況について考えを巡らす。
──やるしかないだろう。できるだけ早く完成させればいいのだ、彼の気に入るような作品を。そうすれば、シエルも私も彼らの手から解放される。
***
警察の動きは鈍かった。二日経ってもなんの連絡もなく、いたずらに焦燥感ばかりが募る。
苛立つシエルとは対照的に、タナカはドクター・バッグから、寝袋や着替え、ゲーム類、本数冊、料理道具、食材など、手品のように次々と取り出し、リビングルームの片隅に自分のスペースを作って、のんびりくつろいで過ごしている。
いらいらと落ち着かない様子のシエルをなだめすかしながら、ゲームを楽しみ、それに飽きれば、持参した粉を練って、ほうとうなど作った。シエルはじりじりと焦る気持ちを抑え、タナカにつきあっていたが、事態のあまりの進展のなさにしびれを切らして、ついに玄関に向かった。
「どちらへ行かれるのですかな?」
「どこって……セバスチャンの友達のところとか、店とか……! 行方を知らないか、尋ねてみます。ただ家にいても、セバスチャンは見つからない!」
「いま動くのは得策ではありませんぞ。メールを寄越した相手は、貴方が目的のようです。下手に動けば、相手の思うつぼ。いまは時を待ちましょう」
「でも……!」
「待つのも、作戦のうちですぞ」
タナカはぴしりと言い放った。
「……え?」
「こうして動かずに待っておれば、必ず向こうはなんらかの行動を起こすはず。そのときにこそ、一気呵成に動いて、叩く。ミカエリス君のことは気がかりですが、彼はちょっとやそっとでは音を上げないでしょう。ここはひとつ、腹を括って、待ちなされ」
年長者の思いも寄らぬ強い言葉に気圧されて、シエルはぽすんと椅子に座った。タナカはバッグからダイヤモンドゲームを取り出すと、カラフルなボードを机に広げる。
「では、今度はこれでひと勝負と行きま……」
タナカのスマートフォンが鳴り出し、ふたりははっとして顔を見合せた。
***
暑い。
この「独房」には空調がない。太陽が昇ると同時に室温は上がり始め、日中はおそらく40度近くになっているだろう。
すでに二晩、ここで過ごした。
窓はなく、出口は一カ所だけ。灰色の頑丈な鉄の扉にはしっかりと錠がかけられている。外の音は一切せず、静かだ。地下なのか地上なのかも判然としない。
ベッドはなく、ふたつの椅子を並べて仮眠をとった。徹夜仕事に慣れているとはいえ、さすがに疲労が溜まる。
暑さと寝不足と、そして頭痛。とりわけ絶え間なく襲ってくる頭痛に、セバスチャンは苦しめられていた。頭に手を触れると、殴られたときの腫れはもう引いたようで、出血も止まっている。だが痛みは時間が経つにつれ、ますます強くなる。
編集者はあれ以来、来ない。
用意されたペットボトルの水と非常食用の固いビスケットで空腹をしのぎ、作業を続けた。
汗がキーボードに滴り落ちてくる。
「シエル、アイスコーヒーをつくってもらえませんか? 暑くて……」
くるりと椅子を回して、自分の後ろにいる少年を振り返った。
だが、そこにはシエルの姿などなく、中央のテーブル越しに灰色のドアが見えるだけ。
ふうと長く息を吐いた。
──やりきれない。
何度こうして、声をかけただろうか。
なまじ、自分の部屋に似ているだけに、幻惑される。
「本当に、趣味が悪いですね」
よろよろと立上がって、小さな洗面所で乱暴に顔を洗う。肌がべたついて不快で堪らず、いっそからだもと、着っぱなしのシャツを脱ぎ、水で絞ってそれで汗をぬぐった。
薄汚れた鏡の中に、やつれた男の顔が映っている。
「シエル……」
小さく呼ぶ。
こんなに長く離れたことはなかった。
きっと心配しているだろう。早く戻って、安心させてやらなくては。
嗚呼、家に帰りたい──。
帰って、あの柔らかいからだを抱きしめて、くちづけたい。
抱き合って、清潔なベッドでゆっくり眠りたい。
セバスチャンの呟きは四方を囲む狭い壁に跳ね返って、むなしく落ちた。
暑さで朦朧としているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
室温が下がって来たのを感じ、夜の訪れを知った。ガチャガチャと派手な鍵音を立てて、扉が開く。
「いやあ、お待たせしました。ミカエリスさん。や、ここ暑いですね。すっかり放っておいてすみません。こちらもいろいろありましてね。どうですか、進み具合は……?」
荷物を抱えて、賑やかに喋りながら入って来た編集者は、上半身裸のセバスチャンに気づいて、慌てて目を逸らした。
「もう出来ています」
セバスチャンが不機嫌に答えると、編集者は足早に中央の机を回り込み、モニターを覗き込んだ。
「さすが、ミカエリスさんですね! お願いした通り、以前の貴方のデザインだ。ありがとうございます!」
マウスを動かしながら、しきりにうなずいている。セバスチャンは本棚の角に干しておいたシャツを身に纏った。
「では、ここから解放していただけるのですね」
「そんなに急がないでくださいよ。せっかくなんですから、お祝いしませんか! ちょっと乾杯したら、すぐにシエル君に会わせてあげますから。ほんの少しだけ、つき合って下さい。ほら、お腹が空いておられるだろうと思って、いろいろみつくろって来たんですよ、お口に合うかなあ」
ワイン、パン、チーズ、果物に加えて、綺麗にラッピングされたフォションの総菜など、不器用な手つきでテーブルに並べる。その様子を腹立たしく見下ろしながら、
「シエルは無事なのでしょうか?」
と、セバスチャンは尋ねた。
「ええ、ええ、おじいさんのような方が、おうちにおられるようですよ。あれはどなたなんでしょうねえ……」
ドクター・タナカが来ているのだ。それならば、まず安心だとセバスチャンはほっと息をついた。
編集者はデュラレックスのグラスにワインを注ぎ、セバスチャンに差し出した。ここで断って彼の機嫌を損じたら、これまでの努力が水の泡だ。おとなしくグラスを受け取って、一口飲む。よく冷えた辛口のワインが気持ちよく喉を通った。空になったグラスにすぐにまたワインを注がれ、続けざまに何杯か飲んだ。
「こんな誘拐じみた真似をなさらなくとも、はじめからそうオーダーしてくだされば、よかったじゃありませんか」
「『蒼』を使わないでくれって? あの時点で私がそう言ったら、貴方は聞いてくれましたかね? たぶん歯牙にも掛けなかったんじゃないですか。こんな平凡な編集者の言うことなんて」
そうかもしれない。コンペの応募作品は自分の好きにやりたいと思ったろう。早くもアルコールで麻痺し始めた頭で、セバスチャンはぼんやりと考えた。
「それに……長年の夢だったんですよ。貴方をこの部屋に迎えるのが」
編集者の瞳がうっとりと翳った。
「夢?」
セバスチャンのグラスにワインを注ぎ終えると、編集者は蛇のような目つきでじっとりとセバスチャンを見つめた。
「ぬばたまの夜に輝く月のように美しい──セバスチャン・ミカエリス。私は貴方を手に入れたかったんですよ」
***
電話は、タナカの自宅近くの消防署からだった。
家から激しく出火しているとの連絡に、タナカは顔色を変え、取る物も取り敢えず我が家に戻った。
ひとりになったシエルは、人気のないリビングルームで何度も考えたことをもう一度反芻する。
──『我々の山羊を返せ』
かつて僕を誘拐した犯人が、再び僕を狙っているのだろうか。
けど、僕目当てなら、どうしてセバスチャンが消えたままなんだ。
どうして、僕に接触して来ない?
わからない。
何かがおかしいような……。
考えに詰まり、顔を上げると、壁に掛けられたふたりの記念写真が目に入った。
ニナの仕立てたクラシックな服を着て、笑顔でこちらを見返している。
どこか誇らしげで、幸せそうな自分たち。
遥か遠い昔のことのようだ。
まさかこんな日が来るなんて、予想もしなかった。
セバスチャンが、いなくなる、なんて……。
今頃どうしているのだろう。どこにいるのだろう。
無事なのだろうか。辛い目に遭っていないだろうか。
想像するだけで不安で恐ろしく、胸の潰れるような思いがする。
──会いたい。
せめて声だけでも聞きたい。セバスチャンの声を、聞きたい。
無事ならば連絡して。貴方の声を聞かせて──。
インターホンが来訪者を告げた。
「はい」
シエルが出ると、粒子の荒いモニターに写った相手は笑顔を見せる。
「シエルさん。こんばんは。夜分にすみません。ミカエリスさんから頼まれたものがありまして、届けに来ました」
「セバスチャンから……? わかりました。いま開けます」
オートロック解除のボタンを押す。
キャップを目深に被り、大きなファイルを抱えて、マンションのエレベーターに乗り込んだ男は、目指す6階のボタンを押した。
指先に付着していた黒い煤に気づいて、ふっと軽く吹き飛ばす。
「よく燃える薔薇だったな……」
大きく口元を上げて、不敵な笑みを浮かべると、ゆっくりと壁に背を預けた。
to be continued…..