風は北の国を出ると大西洋を渡り、太平洋に現れ、あたたかい潮に乗り、海を味方につけて、少しずつ大きく育ちながら、洋上に点在する宝石のように美しい島──マウイ島──を目指していく。
第二話
珍しく強い風が出て、ヤシの木が大きくたわんでいる。
海も空も灰色。いつ降り始めてもおかしくない空模様だ。
「シエル、食事にしましょう」
いつのもように呼ばれて、のろのろとリビングルームに行けば、テーブルに少し遅めの朝食が並べられている。中身を覗いて、シエルは心の中でため息をついた。
──今日もまただ。
「セバスチャン、これはなに?」
一番手前の皿を指差した。
入っているのは、なにやら野菜とスパムソーセージを炒めたもの。
問われて、セバスチャンは苦笑いのような曖昧な笑みを弱々しく浮かべる。
「名付けて──『力のない炒め物』です」
「じゃ、これは……?」
その横に並ぶ、トマトと何かをくたくたに煮込んだものを指した。
「『味のはっきりしない煮物』でしょうか」
「ふぅん」
シエルはさらにその隣の、茹でた肉とパイナップルを和えたものに視線を移す。
「こっちは?」
「『着地点のわからない料理ともいえない何か食べるもの』……です」
「セバスチャン」
「はい」
シエルに睨まれて、セバスチャンは小さく身を縮めた。
「この二日間、ずっとこんなメニューなんですけれど」
「すみません……」
フレンチにイタリアン、エスニック……和食以外の料理なら、なんでもござれのセバスチャンが作ったとは思えない、本当に着地点のわからない料理。味はいいとも悪いとも判断できない代物。見た目だって、いつもなら彩り鮮やかな一品を作るのに、色がわからないほど、煮込んだ料理とか……。
ただしタンパク質、繊維質、ビタミンのバランスはとれているようで、そんなところはさすがといってもいいけれど。
シエルはテーブルに頬杖をつき、華奢な指先でトントンと机を叩いた。
「そんなに面白いの?」
「え?」
「その本、毎日読んでるでしょ」
セバスチャンのすぐ脇に置かれた分厚い本を見る。
「……」
図星を指されてセバスチャンはうつむいた。
シエルの言うとおり、このところずっと、あの女流小説家が上梓した猟奇小説を読み耽っているのだ。
「いま何周目?」
「六周目です」
「飽きないの?」
「ええ、まあ」
「家事もそっちのけで」
「……すみません」
「別にいいけど。掃除は僕だってできるし。洗濯だってできるし。なんなら料理だって、僕が作ってもいいよ。ひさしぶりに作ろうか、スシとかオコノミヤキとか」
言えば、セバスチャンはますます小さくなる。
「いえ、それは私が……」
「そんなに面白いなら、僕にも読ませてよ」
本を取ろうと腕を伸ばすと、
「いけません!」
「えっ?」
予期せず飛んできた鋭い声に、思わず身を引く。
「な……?」
見返せば、いつになく真剣なセバスチャンの表情。
「この本は、ダメです」
「どうして……?」
「それは……」
セバスチャンが眉を寄せて、口ごもった。
「それは?」
「———-だからです」
低い声でぼそぼそと呟いた。
「え、なに? 聞こえない」
「……大人向け、だからです」
「大人向け? それって……ヤらしい場面があるってこと?」
好奇心で聞いてみた。
セバスチャンが後ろめたそうな表情を浮かべる。
「ほんの少しですが……」
「ちょっとぐらい、アダルトでも大丈夫だよ。だって──僕たち、結婚してるし、僕、その、いろいろ知ってるし……」
「いいえ、それとこれとは話が別です。残酷な場面も出てきますし……。シエルに読ませたくありません」
「セバスチャン、僕、もう子どもじゃないんだよ」
「それはわかっています。ですが、この本はダメです」
「そんなこと言わないでよ。読みたいんだ」
「──おや、シエルは今そういう気分なのですか? それなら……」
すっとセバスチャンが席を立ち、テーブルを回ってシエルのすぐ脇に来た。
「本など読まなくとも、私がお相手しましょう」
ね……と、人差し指でシエルの顎をすくう。
紅茶色の瞳が赤く変じ、薄い唇が淫靡に近づいてくる。
「い・や・だ!」
言って、シエルはその顔をぐいっと力一杯押しのけた。
「ごまかそうったって、そうはいかないぞ!」
ばしっと拒めば、作戦失敗を悟って、セバスチャンはフンと鼻息を荒くする。
「ダメだといったら、絶対にダメです!!」
「なんだよ、セバスチャンのわからずや!」
「なんです、シエル、そんな口のきき方をして!」
「僕も読む!」
「いけません。第一、シエルはエディンバラへ行きたくないのでしょう? それなら、尚のこと読む必要はありません!」
「う」
「でしょう?」
「ッもう! セバスチャンのケチ!」
バンッとテーブルを両手で叩き、脱兎のごとく走って自室に飛び込んだ。勢いにまかせて、力一杯ドアを閉める。
セバスチャンはシエルの後ろ姿を見遣って、安心したようにほっと小さく息をついた。
「アダルトな場面なんてひとつもないんですがね……。この本は貴方には読ませたくないのです」
禍々しい書物を手にとり、陰りのある声でひとりごちると、料理ともいえないものをそのままにして、憑かれたように、またページを開いた。
****
「変なところ、頭固いんだから、まったく!」
歳とったら絶対頑固ジイサンになるよ! とシエルは悪態をつく。
別にアダルトでも構わないじゃないか。何も知らない子どもじゃない。結婚して、一緒に夜を過ごしているんだから。
ぽやんと浮かんできた昨夜の光景に、かぁっと頰が熱くなった。
「もうっ。大体、僕にあれこれ手ほどきしたの、セバスチャンのくせに!」
照れ隠しに呟く。
でも思い返してみれば、家にアダルト本やDVDやその類いのものは一切ない。書斎の本棚にポーリーヌ・レアージュやタツヒコ・シブサワ、マルキ・ド・サドとかはあるけれど、あれはアダルトというよりも文学だし。
「セバスチャンって意外と潔癖なのかも」
だとすると、ますますあの本が気になる。セバスチャンを虜にするどんなものが、書かれているのだろう。
MacBookを開いて、タイトルを検索窓に打ち込み、電子書籍を探した。
ない。
どうやら紙書籍しかないらしい。
「だよね…」
考えてみればそうだ。装幀にこだわりがある作家なのだから、電子化を許可するはずがない。
ベッドに横になり、だらだらとネットを見ているうちに、とある映画のレビューが目に留まった。
十九世紀にエディンバラで起きた殺人事件を映画化したらしい。
「セバスチャンの言ってたのって、この事件だ」
誰が出ているんだろうとキャストを見ると、007シリーズの常連である俳優が名を連ねている。シエルが好きなコミカルで軽妙な演技をする役者だ。
あらすじをざっと読んで、すぐに配信サイトにログインした。
部屋の備え付けの専用冷蔵庫からジンジャーエールを出して、スクリューキャップを回す。
少しワクワクしながら、再生ボタンを押した。
***
粉雪が舞っている。
みすぼらしい服に身を包んだ人々が、寒さに身を縮めて、市場に集っている。餌を啄ばむ毛羽立った鶏、死んで数日は経っているに違いない薄紫色の豚、さかさまに吊るされた痩せっぽっちのガチョウ、ちっぽけでシワだらけの野菜……それらの品物を少しでも高く売りつけようと商人たちは声を張り、それに負けじと人々はたくましく値切り、日々の糧を求めていた。
やがてカメラはふたりの青年を映し出した。この映画の主人公バークとヘアである。
彼らは巧みな言葉で客を呼び込み、チーズに生えたカビを「万能薬」と称して売っていた。だが、すぐに見物人のひとりに見破られ、怒り襲いかかってきた人々の手を這々の体で逃れた。
「これからどうやって生きていったらいいんだよ」
「まあ、なんとかなるさ」
悲観的なバークと楽観的なヘア。
貧乏のどん底に陥った彼らは、金欲しさのあまり、今度は「死体調達業」に目をつけた。
当時のエディンバラ大学は解剖学の最先端を走っており、最新の解剖学授業を受けようと、ヨーロッパ各地から学生たちが殺到していた。たがために解剖用の死体はいつでも足りない状態で、医学部教授とその助手は死体の入手に常に頭を悩ませていたのである。
偶然にもヘアの女房の経営する下宿で、家賃を滞納していた男が突然死し、バークとヘアはさっそくその死体を医学部に持ち込んだ。新鮮な死体を目にした教授は大喜び。大金をせしめたふたりは、それからも死体探しに精を出す。だが新鮮な死体がそうそうころがっているはずがない。
ならば……と彼らは考えた。
「死体がなければ、作ればいい」
こうして、エディンバラを震撼させた連続殺人事件の幕が上がったのである……。
映画はときおり残酷な場面があるものの、想像していたよりも恐ろしくはない。どちらかといえばコメディタッチの映画だ。
シエルはジンジャーエールを飲みながら、画面に見入っていた。
カメラは舐めるように人々の集う広場を通り抜け、旧市街を映していく。
画面に大写しになっているのはエディンバラ大学だ。
黒く煤けた古い建物。コの字型の建物に囲まれた特徴のある中庭を映して、やがて細い路地に入り込んだ。
「えっ……?」
シエルは思わずガバッと跳ね起きた。スクリューキャップがころころとベッドカバーをころがっていく。
──ここ……。
見覚えがある。
前に行ったことがあっただろうか。
頭の奥の記憶を探る。
両親が生きていた頃、毎年、夏に英国を訪れてはいたけれど、スコットランドに来た覚えはない。セバスチャンとだって行ったことはない。
怪訝に思いながら、画面に集中する。
次に出てきた風景にはっと息をのんだ。
くねくねと蛇のように曲がる路地。両脇に陰気な煉瓦造りの建物がそびえている。
昼でも薄暗くじめじめとした場所。カビ臭い匂いが一気に鼻腔に充満する。
夜の。
オレンジ色の。
アーク灯が。
不気味にゆらめく。
欠けた古いレンガの道。
誰かの。
からだの饐えた匂い。
火。
脳内を駆け抜けるフラッシュバック。
ぞわぞわと悪寒が全身を支配する。
「……ここは」
そうだ。この路地を曲がるとクレマチスの茂みがあって、そこからこっそりと黒猫が顔を覗かせていた。それからまっすぐ行くと賑やかなパブがあって、パブの看板が黒い犬の絵で……。
パブの看板?
僕、どうしてそんなことを知っているんだろう?
「ッ!」
頭がずきずきと痛み出す。
これ以上思い出してはいけない、とシエルの内なる声が強く警告する。
だが映像に触発され、一度開き始めた記憶の扉はもう止めることはできない。
──おじちゃんの作ったパイを食べるかい。
──おや、坊主。今夜は盛り上がっちゃって大変だよ!
明るく屈託のない男の声が、脳裏にこだまする。
ざわざわと喧騒で埋めつくされた店。
タバコの煙と、エールの香り。
バターたっぷりのパイの味。
臓物入りの豚くさいブラッドソーセージ。
カウンターにたむろするハンチングを被った男たち──
パブなんて行ったこともない。
なのに、その風景が鮮明に蘇る。
シエルはふらふらとよろめきながら、立ち上がった。
画面の中では、バークが相棒と一緒に、死体の入った大樽をころがしている。やがてふたりの手を離れた樽は、ガス灯に照らされた旧市街の坂道をごろんごろんと大きく跳ねながら転げ落ちていく。
その坂道。
「ここも、知ってる……」
その先には確か、いつも洗濯ものがたくさん干してある建物と建物の間に小さな橋があって、そこをくぐると……。
シエルは呆然とした。
「なに、これ……」
なんの記憶? なんの思い出?
知らない。エディンバラなんて行ったこともない。
なのに、なんでこの街を知ってるんだ?
嘔吐しそうになって、シエルは画面から逃れるように自室の扉を開けた。
リビングの向こうから、蜘蛛の糸のように薄い陽光が差し込んでいる。救いの糸を掴むように光を追い、肩で扉を押して、床にころがりこんだ。
「ッ、シエル?」
セバスチャンが本を置いて、慌てて駆け寄ってきた。
「どうしました?」
かがみこみ、床に倒れたシエルに手を差し伸べる。
「……セ、バス……」
シエルの指がセバスチャンの手を掴みかけて──それからガクッと首を逸らした。
「シエル!? 大丈夫ですか!」
セバスチャンの声が遠くなる。
ああ、そうだ。
僕は……あの場所を、確かに知って………………
──さあ、坊や。お前にも獣の印をつけてあげようねえ。
低く囁くような声が記憶の底から浮上して、意識が途絶えた。
to be continued….