第九話
餓死寸前だったという。
よろめきながら、地下の隠し部屋から出てきた人間は、囚われた少年たちのひとりだった。セバスチャンはすぐにエディンバラ警察に連絡し、駆けつけた彼らは地下室の壁裏の隠し部屋から、全部で六人の少年たちを救出した。
六人の少年たち。
その数は、シエルがいた頃よりも、二人多かった。
どの少年もガリガリにやせ細っていたが、警察が少年たちの回復を待って事情聴取したところ、それは虐待によるものではなかった。信じられないことだったが、男は子どもたちを大切に扱っていたというのだ。
最初の頃──シエルが監禁されていた頃──、男は小さな檻の中に子どもたちをひとりひとり閉じ込めて、虐待し、性的暴行を加えていた。なかには命を落とす子もいて、そんなとき男は罵りながら遺体を引きずり、子どもたちから見えない作業部屋で、遺体の背中の皮を剥いでいたという。
しかしなにがきっかけとなったのか、男は少しずつ暴力を振るわなくなり、子どもたちにあたたかく接するようになった。やがて子どもたちは男の変化に馴れ、その不器用なやさしさに触れているうちに、『おとうさま』という新たな父親と暮らしているような気持ちにさえなったらしい。特にあとから増えた二人は、それぞれ貧困家庭に生まれ、惨めに道端に座り込んでいるところを男に保護されたため、男のおかげで家庭の暖かさを知ったと感謝していた。
男は子どもらのために、檻を壊して、空間を広くした。天井には小さな格子窓をつけ、外光を取り込めるように工夫していた。そのおかげで少年たちの健康に問題はなく、年齢相応の発育状態だった。広々とした部屋の中には壁に沿って手作りの本棚があり、絵本や図鑑、小説など子どもが喜びそうな本が並んでいた。部屋の隅には大きなテーブルと七脚の椅子があり、食事時にはみんなでテーブルを囲み、男の料理したものを食べたという。
男が壁で部屋を隠したのは、自分の犯罪が露呈することを恐れたわけではなく、人に見つかったら、大切な子どもたちが連れ去られてしまうという恐怖心からだった。だから、手前の部屋をあたかも男ひとりだけが生活しているようにカモフラージュし──シエルとセバスチャンがあざむかれたように──、誰かが踏み込んできても、子どもたちの存在がわからないようにしたのだった。
男は自分がさらった子どもたちと、幸せな家庭を築こうとしていたのだろうか。それが、それぞれの家族から子どもを奪い去った、誘拐殺人犯の身勝手な妄想だとしても。
その男が忽然と消えた。
少年たちは、いつものように男は仕事──彼は少年たちとの生活のために、日雇い労働者となって働いていた──に行ったのだろうと思っていたが、一日経っても帰らず、二日、三日と経つうちに、もしかしたら、男の身に何かあったのかもしれないと不安を募らせた。けれども彼らは部屋から出られず、どうすることもできなかった。男は出かけるときは、必ず隠し部屋に鍵をかけたからだ。
そうして、彼らはシエルとセバスチャンに発見されるまでの三週間、備蓄していた食料を食べ尽くすと、あとは飲まず食わずで、ずっと男の帰りを待っていたという。
「おとうさまはどうしたんだろう……」
子どもたちは、自分のことよりも男の身を案じていた。
警察は地下室をくまなく捜索し、奥の小部屋から粉々にされた大量の骨を発見した。男は子どもの遺体をすべてそこに放り込んで、骨を踏みつけ、砕いたらしい。分析の結果、数十人の子どもの骨ではないかと判断された。骨粉は土に入り混じり、すべてを回収することができないうえ、粉末状になっていては、彼らの身元をあきらかにすることは困難だった。また、殺された子どもから剥いだという「背中の皮」も一枚も見つからなかった。
警察は少年たちの証言からモンタージュ写真を作成し、男の働いていた運送会社をつきとめ、スコットランド及びイングランド全土に指名手配したものの、男の行方はひと月経っても、杳として知れなかった。
***
少年たちが病院に収容されてから、シエルは何度も彼らに会おうとしたが、それは叶わなかった。
彼らの両親がシエルを拒んだからである。
いくら記憶を失っていたからといっても、結果的には自分だけ脱出して、セバスチャンという伴侶を得て、経済的にも恵まれ、地上の楽園・マウイ島で幸せに暮らしている……そんなシエルを彼らは許せなかったのである。シエルは彼らに対して誠実に対話しようと試みたが、その言葉に耳を傾ける者はいなかった。
そして警察の聴取が終わったあと、保護されていた少年たちは、それぞれ家族とともに帰郷していった。
最後に残った少年──隣の檻からいつもシエルを力づけてくれた、茶色の髪、茶色の瞳、頰に少しそばかすの散っていた──だけが、シエルに会えるよう両親を説得し、郷里への列車を待つほんのわずかな間だけ、駅のカフェで話をすることになったのである。
「おとうさまが優しくなったのは、君がいなくなってからだよ」
少年は苺のタルトを食べながら、ぽそりと言った。
「え…?」
「六年前のあの日、君がいつまでも戻らなくて、おとうさまは随分脅えていた。僕を殺す準備をしていたけれども、それよりも君が助けを呼んでくることを怖がっていた。階段の下でずっとぶるぶる震えながら、上を睨んでいたよ。でも結局、おとうさまは僕を殺さなかった。いたぶりもしなかった。ずっと君を待ちながら、なにか考えているようだった」
「……」
「ほら、覚えてる? あの頃、おとうさまは仕事をクビになって、新しい子どもをさらって来られないと嘆いていただろう? だから僕を殺したりして、数を減らしちゃいけないって、思い直したんじゃないかな。それにね……僕は思うんだけど、おとうさまは、自分ひとりになってしまうのが怖かったのかもしれない」
「ひとり?」
「うん。だって、僕らをみんな殺してしまったら、おとうさまのそばには誰もいなくなって、たったひとりになっちゃうでしょ。そのことに気づいて、僕たちを大事にし始めたんだと思うよ」
「そう……」
「部屋、随分綺麗になってたでしょう?」
「うん、前よりもすごく清潔だった。……本がたくさんあったね」
「あれはおとうさまが買ってきてくれたんだよ。おとうさまは文字を読むのは苦手だったけど、僕たちのためにいっぱい買ってきてくれた。図鑑や算数の本や物語や……。部屋は日光が入って明るかったし、君が考えているよりもずっと、僕たちは元気にあの場所で暮らしていたんだよ」
「……」
いくら彼が元気に暮らしていたと語っても、シエルの自責の念は消えなかった。六年間、みんなが家に帰れず、肉親に会えなかったのは変わらない事実なのだ。
少年は皿にフォークを置いた。
「おとうさまが帰って来なくて、部屋から出られなくなって、水も食べ物も尽きてしまったとき、僕らはみな絶望していた。このまま、この場所に閉じ込められたまま、飢え死にするのかって。どんなに叫んでも、壁を叩いても誰も来ない。外には絶対僕らの声は届かないんだとわかって……僕たちは祈っていたんだ。ずっと祈っていたんだ。誰か助けて、僕たちを助けてって……」
その言葉を聞いて、シエルは思い出した。
風が運んできた切ない叫び。ときおり聴こえていたあの声。
あれは彼らのものだったのだろうか……。
「でも、まさか君が助けに来てくれるなんて思わなかった」
僕たちを救い出してくれて、ありがとう、と彼はにこりと微笑んだ。
シエルは激しく首を横に振った。
「そんな……っ。僕……僕は、記憶を失くして、六年間もみんなを放っておいたんだ……! ありがとうだなんて、そんなこと言ってもらえる資格、ないんだよ……」
彼らに、彼らの肉親たちに、責められて当然の行いをしたのに。
なのに。
彼はぶるぶると震えているシエルの手をとって、やさしく握った。
「君が来てくれなかったら、僕たちみんな死んでいたんだ。こうして、いま君と話なんてできなかった。君は約束どおり、戻ってきてくれたんだ。君は……、間に合ったんだよ」
その手のぬくもりは、後悔の念に押しつぶされそうになっているシエルの心を、ゆるやかに少しずつほぐしていく。
「ごめんね、ごめん……ごめんね……」
贖罪の言葉は次第に小さくなり、少年たちは涙をこぼしながら、互いに抱擁しあった。
列車の時刻が近づいてきたらしい。駅のアナウンスがカフェの中にも響いてくる。
ふと見れば、窓の外で、少年の両親が心配そうに店内をのぞいている。
「もう、そろそろ時間みたいだよ」
少年をうながすと、彼はうんとうなずいたものの、うつむいて席を立とうとしない。
シエルは胡乱げに少年を見つめた。
「どうしたの?」
「……ねえ」
少年は真剣な表情でシエルを見上げた。口を開きかけては閉じ、それを何回か繰り返したあと、聞こえるか聞こえないかの小さな声で、
「あのね、言おうかどうか、ずっと悩んでいたんだけれど……」
「なに?」
「おとうさまは、僕らのために働いていたけれど、それほどたくさんは稼げなくてね」
そこで少年は不安そうに唇を噛む。
シエルはゆっくりと腰を下ろした。
彼は何を告げようとしているんだろう。
「それで……食べ物が底をつくと、おとうさまはみんなが寝静まった深夜に、本棚の裏からこっそり『なにか』を取り出していたんだ」
「なにか?」
「うん。その『なにか』を持ち出して、出かけていってね。次の日にたくさんの食べ物や服や本を抱えて戻ってきたんだよ。……僕、思ったんだけど、たぶん、あれは……」
「あれは?」
「──あれは、おとうさまが殺した子の背中の皮だと思うよ」
「え…っ!?」
シエルは思わず大きな声を出してしまった、
「シッ」
少年が慌てて、指を口に当てる。
「まさか、そんな……」
確かにあいつは殺した子どもの背中を剥いでいた。シエルたちからは見えない奥の部屋で作業し、「俺の勲章だ!」とおぞましい雄叫びをあげていた。次は自分の番かと、恐怖でぶるぶると震えたのを覚えている。シエルはかぶりを振って、脳にこびりついた記憶を振り払った。
「なんで、あんなものを……?」
「もしかしたらなんだけど……あれを、売っていたんじゃないかな」
「売る……? 誰に? 買う人なんているの?」
「わからないけど……。最後におとうさまを見たとき、あれをたくさん、大きな袋に詰め込んでた。こっそり覗いていた僕に気がつくと、『これでお前たちに贅沢させてやれるからな。へへ、この地下室ともおさらばだ』ってニヤリと笑ったんだ」
賑やかなカフェの喧騒が、一瞬にして消えた。
人の声も音楽も聞こえない。しんとした時間が流れていく。
少年もシエルも、黙ってお互いを見つめていた。
──これでお前たちに贅沢させてやれるからな。へへ、この地下室ともおさらばだ。
しわがれた男の声がいまにも聞こえてきそうだ。
あれを大量に持って、売りに行って。それからひと月以上、姿を見せない。男は地下室に戻ってこない。
それはなにを意味しているんだろう……。
少年は怯えたような瞳で、じっとシエルを見ている。
彼も同じことを考えているのだと、シエルは直感した。
「あのね……このことは刑事さんたちに話していないんだ」
「そう……」
シエルは彼から目をそらした。
カフェの外をたくさんの人間が忙しなく歩いている。
喧騒がゆっくりと、再び耳に入ってくる。
少年は重苦しい空気をはらうように、ぴょんと立ち上がった。
「僕ね、地元に戻ったら、学校行って、勉強して、友達作って、サッカーチームに入るんだ。いままでの分、取り返さないとね! あ、そうだ。教えて。君はいま、どこの高校に通ってるの? マウイ島の?」
「ええと、僕、学校は、その……」
シエルは口ごもった。
その様子に、
「ああ、そうか。君は、あの人……ミカエリスさんっていったっけ? あの人ともう結婚してるんだもんね。学校なんて行く必要ないよね」
明るく笑うと、
「じゃあ、僕行くね! あの人と幸せにね!」
飛び跳ねるように、両親のもとに走っていった。少年は改札口の前で一度振り返ると、シエルに向かって大きく手を振ったが、彼の両親は一度もシエルを見ることなく、少年を引っ張るようにして、足早に去っていった。
「学校……か」
遠ざかる三人の姿を見送りながら、シエルはぼんやりとひとりごちた。
***
シエルが駅のカフェで少年と話している頃、セバスチャンはエディンバラの街をあてどもなく歩いていた。シエルがひとりだけで、友だちを見送りたいと言ったからである。
シエルの事件は、犯人はいまだ見つからないものの、一応の幕を引いた。少年たちが保護されてからというもの、シエルは彼らの肉親と対話しようと何度も試みたが、理解する者はなく、一方的に責められて終わった。だがシエルはよく耐えた。セバスチャンの手を借りることなく、「これは僕の問題だから」とひとりで彼らと真摯に対峙していた。
その後ろ姿を見るにつけ、セバスチャンの心の中に寂しい風が吹いた。
──シエルが自分を必要としなくなっている。
そんな気がしたのだ。
それに……それに、あの嵐の夜以来、私たちはからだを重ねていない。くちづけもしてない。欲する気持ちがないわけではない。拒まれるのが怖くて、求められないのだ。
最後に触れたとき、シエルが怯えて、この手を払ったのを覚えている。もしかしたら、もう二度と触れさせてもらえないかもしれない、とも思っている。
だが、それもこれも自分が悪いのだ。
もう、自分という人間が信じられない。
自分がどれほど自分本位で、愚かしく、他人の気持ちを思いやれない男なのか、今回の件で身にしみてわかった。シエルが愛想を尽かしても当然なのだ。
彼がセバスチャンの記憶を一時的に失くしてしまったあのとき。
なぜ思えなかったのだろう。
自分のことなど忘れてしまってもいい、思い出すまで何年も待つ、と。
保護者として扱われても構わない、それでも自分の愛は変わらない、と。
彼を愛しているのなら、いくらでも待てたはずだ。
どんなことがあったって、耐えられたはずなのに。
シエルが自分を忘れてしまうと思った瞬間の、あの恐怖。
自分の世界のすべてが瓦解していく不安。
それに抗えず、愛する人をあんな風にひどく扱ってしまった。
「嗚呼……」
セバスチャンはこめかみを押さえた。
シエルにあの夜のことを謝りたいが、そのきっかけがない。
いったいどうしたらよいのだろう……。
「おい、レポートやったか?」
「まだに決まってるだろ。今夜パブでやろうぜ?」
「はは、いいねぇ」
思い悩むセバスチャンの横を、本やノートを抱えた大学生の一群が、賑やかに喋りながら通り過ぎていく。
気づくと、いつのまにかエディンバラ大学医学部歴史博物館の前に来ていた。
「ここは……」
太い石柱が並ぶ堅牢な建物を見上げながら呟いた。
そうだ、ここは。
犯罪者の皮膚で装幀した本が、展示されている博物館だ。
十九世紀のエディンバラを震撼させた、連続殺人事件の犯人の皮膚で作られた本が。
──人間の皮膚で装丁された本。
数年前まで、エディトリアルデザイナーとして第一線で活躍していたセバスチャンにとって、その書物の噂は何度も耳に入っていた。だが当時はさほど興味が持てず、頭の片隅に捨て置いたのだ。
けれどいまは。
見たいという欲望が充満し、胸がはちきれそうだ。
甘美な予感に血が騒ぐ。
セバスチャンはチケットを買い、何かに引っ張り込まれるようにして中に入る。
内部は蛍光灯の明かりが煌々とついた、近代的な研究所のよう風情だった。
オカルトやおどろおどろしい気配など一切ない。病院のように、白くつるりとした空間だ。
清潔なリノニウムの床を歩いていく。
受付で渡されたパンフレットによると、それは別棟の一番奥にあるらしい。
いくつかの角を曲がり、展示室を見つけた。
薄暗い室内の最奥、4面ガラス張りのショーケースの中に、黒い書物が閉じた状態で展示されている。
セバスチャンはガラスに触れそうなぐらい顔を近づけ、まじまじと観察した。
想像していたような毛穴やしわなどない。
獣の皮と同様に、皮職人がなめしたのだろうか。
その光景を想像しようとして、ふとシエルの事件を思い出した。
あの誘拐犯は、殺した子どもの皮を剥いでコレクションしていたという。
だがそれは、あの地下室からは見つからなかった。皮はいまどこにあるのか。そして男はどこへ消えてしまったのか……。
「えっ?」
異様な気配に気づいて、顔を上げれば、ガラスケースの中の書物から青い光が細く漏れ出ている。
マウイに置いてきた、あの呪われた本から放たれる光と同じ青。
魅入られたように立ちすくむ。
ひたひたと押し寄せる魔の力。
地に引きずり込むような青。
シエルの瞳のとは真逆の、醜く、恐ろしい青……
「あのぉ」
ふいに後ろから声をかけられ、ビクッと飛び上がった。振り返ると、観光客らしい若いカップルが、セバスチャンを迷惑そうに睨んでいる。
「嗚呼、すみません」
どうやらケースの前を独占していたらしい。急いで脇に寄った。そのまま、踵を返し、展示室を出る。
背中にべったりと何者かの視線が張りついてくる。なにかにのしかかられたように、肩が重い。
外に出て、ようやくほっとした。
幻影を見るなんて。きっと疲れているのだろう。
まだいくらか、覚束ない心持ちで、ふらふらと博物館を出ると、日が少し傾いている。
腕時計を見て、驚いた。
「いけない」
シエルとエディンバラ城で待ち合わせているのだ。早く行かなければ。遅れてしまう。
タクシーを拾おうと走り出し、ちょうど大通りへの角を曲がったところで、向こうから来た男とぶつかりそうになった。
「ッ、すみません!」
謝ったが、その男は前に立ちふさがったまま、むっつりと黙り込んでいる。
「……?」
よく見れば、男は大きな鳥のようなマスクを被り、薄汚い黒いコートを着ている。そのマスクはエディンバラのガイドブックにたびたび出てくるお馴染みのもので……昔、この街にペストが大流行した頃、ペスト菌が伝染らないように医師たちが被っていたという、あのペストマスクにそっくりだった。
「だんな」
低く掠れた声で呼ばれた。
「え?」
「だんな」
男はもう一度言った。
男の様子にただごとではないものを感じて、セバスチャンは身構えた。
「……なんでしょう?」
用心深く聞き返すと、男はまた黙った。そのまま、微動だにしない。
──なんだというのだ。急いでいるのに、まったく。
焦れて、男の脇をすり抜けようとすると、急にスイッチの入った機械のように、男は動き出し、ふところから茶色くしなびた紙のようなものを取り出した。
「これを、買わないかい」
セバスチャンは、男が無造作に差し出したものに視線を落とした。
紙かと思ったが、どうやら皮のようだ。よく見ると産毛のようなものが、びっしりと生えている。
豚か、それとも羊の……
「ッ!」
ハッとした。
皮の端に、見慣れた印があったのだ。
──シエルの背にあるものと同じ焼印……!
地下室に囚われていた子どもたち全員に、焼きつけられていた獣の印。
その印がくっきりと皮に残っている。
「どうして、これを……」
聞き返そうとして、くらりと目眩がした。
墨のように黒い霧が、セバスチャンの周囲に立ち込める。
霧はセバスチャンの全身に沿って薄い膜を作り、彼を外界から遮断する。
マスクの中から、くぐもった声が聞こえた。
「ねえ……。だんなはこれが欲しいんじゃないかい? この皮に用があるんじゃないかい?」
セバスチャンはとっさに否定できなかった。
──今度の本を、人間の皮膚で装幀して欲しいのよ。
女流小説家の声が蘇る。
ひと月以上前に、マウイの自宅で受けた一本の電話。
エディンバラに来るきっかけとなった、あの忌まわしい電話。
セバスチャンは首を振り、女の声を遠ざけた。
「そんなものはいらない」と拒もうとしたが、口の中が乾き、張りついて、声が出ない。
男は蔑すんだように、顎を上げた。
「この皮はね、特別なんだ。めったなことでは、手に入らない。これっきり。もう、この一枚しかないんだ。これがあれば、あんたは永久にビロードのように柔らかく、やさしい闇の中にいられる。こんなクソみたいな世界じゃなく、すべての欲望を解放し、誰にもなににも邪魔されず、あんたの好きなように生きられる世界を手中にできるんだ。この皮はアンタの真の夢を叶えるよ。本当だよ」
男はセバスチャンの目の前に、ぐいっと手を突き出した。
カサカサに乾き、小さく縮んだ皮膚がのっている。そこに浮かぶのは、やはりシエルにつけられたものと同じ印で間違いなかった。愛しい人に焼きつけられた呪わしい焼印。
けれどセバスチャンはいま、その焼印が素晴らしいものに思えた。この皮を手に入れれば、自分の欲を叶えてくれる。人を殺したいときには殺し、略奪も強姦も思いのまま、人々の恐怖の叫びは甘やかに自分を歓ばせるだろう。
そうだ。それこそが自分の真の本性なのだ……。
セバスチャンは催眠術にかけられたように、指を震わせて、腕を伸ばした。そして、男が差し出す皮をぎゅっと掴んだ──。
刹那。
「セバスチャン!」
鈴を振るような清冽な声が闇に響き、慌てて指を離す。同時にチッという舌打ちの音が耳に届いた。
「シエル……?」
黒い霧の向こうからシエルが駆け寄ってくる。そのからだの周囲に、うっすらと金色の光が滲んでいた。
「セバスチャン、なにしてるの。こんなところで」
「いえ、その……、この人が……、えっ?」
目を見開いた。
誰もいない。
ついさきほどまで、目の前にいたのに。
「……?」
明るい日差し。賑やかな街。周囲に黒い霧などカケラもない。
狐につままれたような気持ちで突っ立っていると、
「ねえ、大丈夫……?」
シエルがけげんそうに寄ってきた。
「──ええ、大丈夫です。ちょっと目眩がして、休んでいただけですよ」
「そう、なの?」
無理に笑顔を作れば、シエルは少しほっとしたような顔になった。
「ところで、シエルはどうしてここに? エディンバラ城はまだ随分先のはずですが」
「う…ん。路面電車から貴方を見かけて……なんだろう、貴方の周りが少し薄暗くて、変な感じがして……。急いで飛び降りたんだ」
でも、きっと気のせいだったんだね、とシエルは笑った。
***
エディンバラ城の周囲は、土産物店が乱立し、それぞれに観光客が群がっていた。わいわいと楽しげに店を冷やかす彼らを尻目に、ふたりは古城の中を通り抜け、断崖まで歩く。崖の突端に設置されているフェンスの手前で立ち止まり、海を眺めた。
激しい風が海を煽り、大きくうねった波が岩を打つ。
波はいまにも岩を砕きそうな勢いだ。
そのたびに大きな音がとどろき、地面にはいつくばるようにして咲いている小さな花が揺れた。
セバスチャンがぽつりと聞く。
「……彼と話せたのですか?」
「うん、少しだけね」
シエルは簡単に内容を話したが、少年から聞いたあの話……男が持ち出した皮のことは黙っていた。そのことは、ずっと自分の胸にしまっておくつもりだったのだ。
──海鳴りが聴こえる。
シエルは灰色の空をあおいだ。
重く垂れ込めたスコットランドの空。
海も同様に灰色一色に染められ、マウイ島の青く晴れやかな海とはまるで違う。
ヤシの木を揺らす優しいあたたかい風はここにはない。
冷たく厳しい自然が広がっているのみ。
ふと目をあげると、重苦しい黒灰色の厚い雲の切れ目から、金色の太陽の光が零れ出ている。
それはみるみるうちに、光の柱となり、何本も放射状に広がって、海へ向かって降りそそぐ。
「セバスチャン、あれ……」
思わず指差した。
「嗚呼、天使の梯子、ですね」
セバスチャンが眩しそうに目を細めて答えた。
「天使の梯子?」
「ええ、光芒とも呼ばれていますが。厚い雲の合間からあんな風に……何本もの梯子のように太陽の光が地上へと下りると、天使が降りてくると言い伝えられているのです。──天使の梯子を見た人は、しあわせになれるそうですよ」
「しあわせ……」
空と雲のあわいから、何本もの光の梯子が伸び、海面に届く。光は海に注ぎ、ゆらゆらと波間に揺れている。シエルとセバスチャンは、みじろぎもせず空と海と光が為す壮大な光景を眺めていた。
シエルは知らず知らず来し方を思い返していた。
幼い頃、しあわせに満ちていた、かあさまととうさまとの暮らし。
十歳の時に誘拐され、残酷な目に遭い、その間の記憶を失ってしまった。
十二歳の誕生日に、かあさまととうさまが飛行機事故に遭い、あっという間に逝ってしまった。
それから……十三歳でセバスチャンと出会い、温かく愛に溢れた日々が始まった。
そして、六年という歳月を男に囚われ、地下室で過ごしていた少年たち……
思い起こせば、たくさんの喜びに入り混じって、やり場のない怒りや、深い悲しみが胸にわく。
いつのまにか、シエルは涙していた。
頰をたくさんの涙が流れていく。
「シエル……」
泣き濡れたシエルの顔を見て、セバスチャンは腕を伸ばした。
再び拒まれることを覚悟して。それでも傍で涙をこぼす愛しい人の心を慰めたくて。
人差し指で、そっとシエルの目の端の涙をぬぐった。
「ッ……、みんな、助かって、よかった……っ。無事に、家に帰れてよかった……」
うっ、うっ、とシエルの口から嗚咽が漏れる。
セバスチャンの胸にしがみつくと、シエルは堰を切ったように泣き出した。子どものようにしゃくりあげ、これまでずっと堪えていた胸の内を、心の奥に押し込めていた怒りや悲しみや苦しみをセバスチャンにぶつけた。
セバスチャンはシエルの背中を繰り返し、繰り返し、やさしく撫でる。
あたたかいからだを抱きしめ、その悲しみ、苦しみを癒すように、やさしく、やわらかく……。
夕暮れが近づいても、天の光はオーロラのように、まだ空と海の間をたゆたっていた。少し落ち着いたシエルは、ふうと大きくため息をついて、セバスチャンの胸にからだをあずけた。
「──天使はなかなか降りてきませんね」
セバスチャンが呟くと、シエルはぷっと吹き出した。
「なんです、シエル」
「だって……真面目な顔して言うんだもん。天使なんているわけないよ」
「……シエルがそう思っているだけで、本当は天使も悪魔も、存在しているのかもしれませんよ」
わざと軽い調子で言ったが、セバスチャンはこのとき本当にそう思っていた。
天使も。悪魔も。
この世に存在しているのかもしれない──。
「まさか。セバスチャン、なに言ってるの」
シエルが涙の跡のついた顔をほころばせ、小さく笑い声をたてた途端、それをたしなめるように突風が吹きつけた。
「わっ!」
断崖の上で大きくよろめいたシエルを、セバスチャンは慌てて抱きとめた。
波の音が、ざざんとさらに大きくなる。
セバスチャンは胸にわだかまっているあの夜のことを、いま謝ろうと思った。
「シエル、あの」
だが、口を開いた途端、シエルに遮られる。
「痛みわけ、だよ」
「痛みわけ……?」
咄嗟のことにセバスチャンの頭がついていかない。
「あの嵐の夜のことだよ」
「……っ」
セバスチャンは息をのんだ。
「一時的とはいえ、僕はこの世で一番愛している貴方のことを忘れてしまった。貴方はそんな僕を失いたくなくて、無理やり抱いて、繋ぎとめようとした。……そう、でしょ?」
「ええ」
「だから、痛みわけ。お互いさまってことだよ!」
「シエル……」
それでいいのですか? そんな言葉で私を赦してくれると?
そう訊こうとしたけれど、シエルの明るい笑顔に迎えられて、なにもいえなくなってしまった。
「だから、もうそんな顔しないでよ。早く家に帰ろう」
──家に帰ろう。
その言葉がどんなにセバスチャンを救ったか、シエルには想像もつかなかっただろう。
セバスチャンは小さくうなずいて、シエルの肩を抱いた。
天使の梯子はいつのまにか薄らぎ、消えて、紫がかった夕暮れの光に染まった海に背を向け、断崖を離れた。
***
数日後。
セバスチャンとシエルを乗せた飛行機が、エディンバラ空港を飛び立ったその夜。
キープアウトの黄色いロープが周囲に張り巡らされた、あの古い小屋の上に満月がかかった。
月の光は、封鎖された地下への蓋の隙間からやすやすと中へ忍び込み、手前の部屋を伝って、奥の小部屋にたどりつく。
警察が回収しきれなかった──土に混じった子どもたちの骨の粉が、銀の光を受けてキラキラと輝いた。
骨の粉は磁石に吸い寄せられる砂鉄さながら、光の落ちた場所に集まり、やがて一本の糸のようによじり合わさって、上へ伸びていく。天井のわずかな隙間を抜け、外に出ると、月に向かってまっすぐに昇っていった。
ねえ
早く来て
僕たちを
助けて
遠く、エディンバラからマウイまで、シエルとセバスチャンを呼んだひそやかな声。
風が運んできた彼ら──数十人の亡くなった子ら──の声は、もう聴こえない。
子どもたちの魂を導くように、月はますます明るく輝き、その光を受けて、銀の糸は儚くきらめき、天上へと消えていった。
epilogue
ジリリリッと、目覚まし時計が何度目かのベルを鳴らした。
ベッドの中から伸びた細い手が時計を掴む。
「えええッ? うわっ、まずい! セバスチャン! なんで起こしてくれなかったの?!」
跳ね起きたシエルが、キッチンにいるセバスチャンに向かって怒鳴る。
セバスチャンは涼しい顔で応じた。
「何度も起こしましたよ。シエルは最近夜更かしが過ぎるのでは?」
「なっ……!? だって、ゆうべはセバスチャンが……ッ」
「私が?」
「そうだよっ、セバスチャンが急にあんなことし始めるから…!」
「あんなこと?」
「もうぅおっ、わかっているくせに!」
くすっとセバスチャンは笑い、真っ赤になって、あたふた着替えているシエルのシャツの襟を直してやった。
「おや、ここ。シエル、こんなところに、キスの痕がついてますよ」
鎖骨の上に触れる。
「ええええっ」
シエルは慌てて、洗面所に飛び込んだ。襟をひろげて、確認する。
そこにピンクのキスの痕なんてない。
「セバスチャン!! 嘘つかないでよ! なんなんのいったい!」
「からかうと、苺みたいに真っ赤になるシエルが、可愛くてたまらないんですよ」
「~~~~ッ」
なにそれ、小学生なの、わけわかんないよ、ねえ、教科書どこだっけ、携帯どこ……
手当たり次第にトートバッグにつっこみ、家を飛び出そうとするシエルに、
「トーストぐらい食べていきなさい」
こんがりと焼けたトーストを、小さな口に押し込んだ。ついでに鼻の頭に、ちゅっとキスをする。
「んが、ふが、じゃあ、行ってきます!」
「はい、いってらっしゃい」
シエルはパンを頬張りながら、セバスチャンに手を振って、マウンテンバイクにまたがり、門を出ていく。
「やれやれ」
腰に両手を当て、セバスチャンは大きく首を回した。
エディンバラから戻ってすぐに、シエルは思い詰めた表情で、学校へ行きたいと言い出した。
反対されると思って、ずっと相談できなかったらしい。トートバッグに入ったたくさんのパンフレットを、ずらりと机に並べられ、フリースクールや塾や……それぞれの学習施設の特徴を説明された。
セバスチャンは反対しなかった。
ほとんどの教科は自分が教えられるとしても、家にいては人との交流はできない。シエルが外の人間と触れ合いたがっていることは理解できたし、彼が成長してきた今、無理に止めようとしても無駄だと悟ったのだ。
マウイのフリースクールに通い始めて、シエルは生き生きとした表情を見せるようになった。新しい環境、新しい友だち、それらがきっとよい影響を与えているのだろう。成長していくシエルを見て、以前なら、自分のもとを離れるのではないかと不安に駆られただろうが、いまのセバスチャンは、自分でも不思議なほど穏やかにそれを受け入れていた。エディンバラに関する一連の出来事が、そうさせたのだろうか……。
キッチンに戻り、食器を洗う。さて、と夕食の仕込みを始めたとき、携帯が震えた。
着信を見て、どきりとする。
ソファに腰を下ろし、電話に出た。
「もしもし……」
「エディンバラはどうだった?」
いきなり問われた。
電話の主はあの女流小説家、セバスチャンにエディンバラへ行けといった赤い髪の女──アンジェリーナ・ダレス──だった。
「元気だった? 貴方も……貴方の伴侶も?」
「ええ、おかげさまで元気ですよ」
セバスチャンは動揺を悟られぬよう、平静を保った。
「あら、そうなの。それはよかったわ。ところで、あの本とは仲良くしていて?」
彼女がいうあの本──二ヶ月前、マウイの自宅に送られてきた、禍々しい青い光を放つ本は、エディンバラから帰ってきたとき、家のどこにもなかった。
まるで最初から存在していなかったかのように、姿を消していたのだ。
「アンジェリーナ。貴女は、とんでもない本を世に出したものですね。あんなに恐ろしいものを……」
「それがわかるということは、ミカエリス、貴方も闇を背負っているのね……。あの本は、誰にでもあの青い光を見せるわけじゃないわ。もともと、その人間が持っていたもの──人並み外れた憎しみ、恨み、嫉妬、悲しみ……、その負の感情をただ増幅するだけなのよ。貴方の心の中にあったその感情を、顕在化しただけなのよ」
「……」
「それで、ミカエリス。私の本の装幀は受けてもらえるのかしら? 向こうで人間の皮膚は手に入れたの?」
「まさか」
セバスチャンは吐き捨てた。
「あんなもので、装幀はできません」
ふふと女は笑った。
「……貴方もあれを見たのね? ペストマスクを被った男に、呼び止められたんでしょう?」
「なぜ……、それを……?」
声がかすれた。
「そして、これを買わないかって、しなびた皮を勧められたんでしょう? その皮には……確か焼印がついていたわね。なんの焼印か、私にはわからなかったけれど……。ミカエリス、貴方はあれを買ったの?」
セバスチャンの脳裏に鮮烈にあのときの光景が浮かび上がった。
得体のしれない男の手から、あの皮を受け取ろうとした時。
シエルがセバスチャンを呼ぶ寸前。
自分は確かに、黒い霧の中に深淵を見たのだった。
足元に広がる禍々しい暗闇。
大地がぱっくりとふたつに割れ、渓谷のように切り立った地面の奥に、真っ暗な空間が続いている。
この世界に開いた地獄の入口。
黄泉の国への階段のように、暗闇の底へ続く深い裂け目。
それはコラプサーのように強い引力で、セバスチャンを捉えようとしていたのだ。
セバスチャンはその光景を心の奥にしっかりとしまいこみ、小さく息を吸った。
「私は──買いませんでした」
言うと、彼女は幾分がっかりしたようだった。
「そうなの。私はね……」
突然、携帯にガガガと激しく雑音が入った。
「なんですって?」
「…わ、たしは、…ったのよ」
「えっ?」
「あの皮を…………にしたの」
途切れ途切れの言葉は、意味をなさない。
「アンジェリーナ、すみません、聞き取れないのです」
ジジーッと音がしたあと、しばらく間をおいて、唐突に回線がつながった。
「ミカエリス。貴方が闇に堕ちないのは、あの子のおかげなのね……。きっと、あの子が……、貴方を守っているのね。……私には……そんな人はいな……」
再び、ガガッと雑音が通話の邪魔をする。
「……は、も、消え、る……。二、度と……ないわ」
「えっ? 聞こえません。もう一度……」
セバスチャンが携帯を強く握りしめたとき。
突然、聞いたことのない声がくっきりと耳に届いた。
「貴方に祝福を。セバスチャン・ミカエリス」
プツッと音がして、通話が切れた。
セバスチャンは携帯を持ったまま、呆然として立ちすくむ。
なんだ?
いまの言葉はいったいなんだ?
──貴方に祝福を。セバスチャン・ミカエリス。
なぜ彼女はあんなことを言った?
いや、違う。彼女ではない。
妙にはっきりと耳に響いた声は男でも女でもなく。
「……」
あれはいったい誰だというのだ。
心が次第に揺らいでくる。大地が静かに震え始める。
私は。
私は。
私という存在は…………本当は暗闇に潜む……悪……
──セバスチャン!
シエルのほがらかな声が脳裏に蘇った。
「嗚呼……」
大きく息を吐いた。
ゆるゆるとからだのこわばりが解けていく。
嗚呼、そうだ。
大丈夫。
シエルがいれば、私は大丈夫なのだ。
もう決して、深淵を覗き見たりはしない。
黒い霧は私を追ってはこない。
この世界に踏みとどまり、シエルと共に生きていくのだ。
自分にそう言い聞かせ、砂浜に出た。
日差しが痛いほど眩しい。空気がどこまでも澄んでいる。
手を翳し、陽光を遮りながら、海を見た。
青く、白く、穏やかに波打っている。
──夏はもうそこだ。
セバスチャンはまばゆい光に包まれて、心地よい風に身をまかせた。
fin