輝く月の夜に 第二章

番外編②

なつのよのゆめ

普段は静謐な雰囲気の漂うハワイ各島の寺院は、夏の週末になると和太鼓や祭り囃子、人々の笑いさざめく声で一斉に賑やかになる。色とりどりな日本の提灯が吊るされた境内には、アロハ姿に混ざって浴衣を着た人たちが楽しそうにそぞろ歩きし、屋台が立ち並ぶ参道の奥には櫓が組まれ、はちまきをした男たちが力強く和太鼓を打つ。その周囲では老若男女が輪になって踊っている。
 『盆ダンス』と呼ばれるこのイベントは、かつての日系移民によってもたらされたもので、いまではハワイの夏の風物詩として有名だ。
 といっても、マウイ島で初めて夏を迎えるセバスチャンとシエルは、そのことを知らなかった。
 ワシントン州立病院からインターネットを使って、セバスチャンの診察をしていたドクター.タナカが、ふと思い出したように話し始めたのだ。PC画面の中のタナカは、少し皺が増えたものの、以前とほとんど変わらず、元気そうだった。
「そういえば、そちらではいまの季節、『盆ダンス』が開かれるようですな」
「盆ダンス、ですか?」
「日本では『盆踊り』といいましてな、お盆の時期に寺や村の広場に櫓を組んで、輪になって踊るのです。ハワイでは日本といささか違う性格のものになっているようですが、なかなか楽しそうですぞ。おふたりで行ってみてはいかがですかな。ほっほっほっ」
「お盆って?」
 シエルが訊いた。
「年に一度、死者が生者のもとを訪れ、数日間を共に過ごす行事ですな。まあ、死者を供養するための儀式といえばよいでしょうか」
「死人が蘇るの? ゾンビみたいに?」
「いやいや、そうではなく、亡くなった人の魂が家族や恋人のもとに戻る、と昔からいわれております。人によっては、死んだはずの人が見えたとか、なにか徴があったとかいう話を聞きますが、残念ながら私は見たことがないので、なんとも……」
 ふたりが興味深げに耳を傾けているのに気づき、タナカは続けた。
「冥界から死者がこちらに来るためには、乗り物が必要でしてな。地域にもよりますが、たとえばナスに箸を刺して、乗り物に見立てたりします」
「ナスの馬車、ってこと?」
「ほっほっほっ。そうですな。そして家の入り口で火を焚きます。死者が途中で迷わないように、帰るべき家はここだと知らせるわけです」
「それから?」
 真剣な面持ちでシエルは訊く。
「死者は三日ほど、家に滞在します。そののち、送り盆といって、死者を帰す儀式を行いますな」
「……帰らないといけないんですか?」
「死者と生者が長く一緒にいては、双方に悪い影響を及ぼしますからな。少しの間だけ一緒にいて、あとはそれぞれの世界に戻るのです」
「…………」
 シエルは黙って俯いた。
 セバスチャンはシエルがなにを考えているのか、わかっていた。おそらくタナカもわかっているのだろう。
 飛行機事故で亡くなった両親のことを思い出しているのだ。
 一度に両親を失ったショックは、並大抵のものではない。事故から三年経ったとはいえ、シエルの心の傷はまだ癒えていないのだ。
「お盆の儀式、やってみますか?」
 軽い調子で話し掛けると、それまでの深刻そうな表情が消えて、いつもの笑顔に戻った。
「うん、やってみたい」
 ふたりはタナカから、さらに詳しくやり方を訊いた。

***
 迎え盆の日。
 今日は一日よく晴れていた。
 真っ赤な太陽が水平線に沈む頃、シエルはズッキーニに割り箸を刺して作った「精霊馬」をふたつ用意し、木のトレイに載せて、海のよく見えるキッチンのテーブルに置いた。
 ふたりで玄関ポーチに出て、皿の上の紙に火を点ける。
 細い煙がゆらゆらと空に上がっていく。
「本当に、来るのかな」
 シエルが空を見上げて、呟く。
「来たら、いいですね」
 セバスチャンはシエルの肩にやさしく手を置いた。

 今夜のメニューは、季節の野菜の天ぷらに、胡麻豆腐と茶蕎麦。ドクターに教えてもらった精進料理だ。
 胡麻豆腐は、胡麻を擂って作る本格的なもの。すりこぎを力一杯回していたシエルは、すぐに汗びっしょりになった。
「すごく、大変だ……」
「替わりましょうか?」
「ううん、僕がやる」
 ひぃひぃぼやきながら、それでもシエルは胡麻を擂り、ラハイナのスーパーで見つけた葛粉と合わせて、煮詰めて固めた。茶蕎麦を茹でて冷やし、天ぷらを揚げ、出来上がった料理を食卓に並べる。
「いただきます!」
 日本式に手を合わせ、さっそく箸をのばす。
 手作りの天つゆで食べる揚げたての天ぷらはサクッと歯触りよく、冷たい蕎麦と相性がいい。シエルの力作の胡麻豆腐をひと口食べるなり、セバスチャンは大きく目を見張った。
「シエルは本当に腕を上げましたね」
「そう?」
「ええ。とても美味しいです」
「なら、よかった!」
 不安そうにセバスチャンの反応を窺っていたシエルは、褒められて得意気にトレイに鎮座している精霊馬を見遣った。
 デザートはセバスチャンが作った水ようかん。浜辺に打ち寄せる波の音を聞きながら、よく冷えた緑茶とツルンとした食感の甘いようかんを味わった。

 夕食を終えて、ベッドに入るまで、シエルは何度も窓ガラスや鏡を見て、自分の横や後ろに両親が映っていないか確認したり、ラップ音のような合図が聞こえはしないか、家のあちこちで耳を澄ませたりと落ち着かなかった。が、結局なにも起こらず、落胆してベッドに潜り込んだ。
 愛を交わさない夜はないのに、この日はふたりともそんな気分になれず、軽くキスをしただけで、手を握って眠りについた。
 翌日も、その翌日も、両親の魂がシエルのもとを訪れたとわかるような出来事はなく、いつもと変わらない三日間が過ぎて、送り盆の日がやって来た。
 ズッキーニの馬車は、水気が抜けてすっかり萎びている。
 それを見て、シエルは呟いた。
「そうだよね。来るわけないよね……」
──もしも、とうさまとかあさまに会えたら、たくさん話したいことがあった。セバスチャンのこと、ドクターのこと、それから……。
「シエル……」
 シエルは滲んだ涙を手でごしごしとこすって、セバスチャンに笑顔を向けた。
「大丈夫。そんなに期待してなかったし」
 玄関ポーチに出て、送り火を焚く。
 寂し気なシエルの背中を見て、セバスチャンは言った。
「こちらから、行きましょうか」
「えっ! 冥界へ?」
「いえいえ、ポートランドへ。私はまだ一度もヴィンセントの墓参りをしていませんし……結婚の報告を兼ねて行く、というのはどうですか」
 シエルがぽっと頬を赤くした。
 結婚式まであと4ヶ月。ハワイ州では十六歳以上であれば、性別を問わず、誰でも法的に結婚が認められる。シエルの十六歳の誕生日を待って、ふたりは入籍する予定なのだ。
──式の前か、それとも後か。いずれにせよ、シエルと一緒に、ポートランドに眠るヴィンセントとレイチェルに会いに行こう。
 セバスチャンは心の中で呟いた。

 いつのまにか送り火は消えていた。
 ふたりがポーチから家に入ろうとした、そのとき。
 パタンと音が聞こえて、はっとして奥を見ると、キッチンのテーブルの上に、確かにふたつ、並んで立っていたはずのズッキーニの馬車が、風もないのにふたつとも倒れていた。
「……え」
「……え」
「もしかして……」
「来ていた、とか?」
「まさか」
 ふたりで顔を見合せる。
 あり得ないと思う気持ちと、来ていたかもしれないと思う気持ちと。
 空を仰ぎ見れば、送り火の煙はとうに消えていて、夕闇が訪れていた。

***
 送り盆を済ませたふたりは、いよいよハワイ名物『盆ダンス』に行くことになった。
 ふたりの家からもっとも近い会場は、ラハイナ本願寺。
 シエルも乗り気で、今夜を楽しみにしていたのだったが──

「さあ、着替えましょう。シエル」
「……行かない」
「え?」
「人が多いし、うるさいし、きっと疲れる……。ここから見ているだけでいいよ」
 本願寺のすぐ近くのホテルに部屋を取ったものの、六階の窓から見える祭りの光景に、早くもシエルはげんなりしていた。
「やれやれ、シエルは腰が重いのですね。行けば、よいこともあるのに……」
「いいことって?」
「んー、ワタアメとか、たこ焼きとか、珍しい日本の駄菓子が食べられますし、シエルがやりたがっていた金魚すくいもありますし、和太鼓をドンドコドンドコ……」
「もうっ。子どもじゃない!」
 口を尖らせて、かぶりを振る。
 セバスチャンは肩を竦めて、ため息をついた。
「では──浴衣だけでも着てみませんか?」
 用意した浴衣を見せた。パリッと糊が効いた水色の涼しげな綿の生地に、小さな柄が散っている。
 月の兎だ。まあるい月の中で、兎がぴょこんと餅つきをしている。
 シエルの顔が明るく弾けた。
「かわいい……」
「ね。着てみますか?」
「うん!」
 突然、子どもらしい表情になったシエルを見て、思わず口元がほころぶ。
 初めての和装にとまどうシエルに、てきぱきと着せ付けて、色鮮やかな山吹色の帯をきゅっと締めた。
 銀の髪に意外と和服は似合う。小柄だけれども、すらりとした着物姿にセバスチャンは満足気に頷いた。 
「はい。できました」
 ポンと帯を叩くと、シエルは急いでバスルームに向かった。鏡で全身を見たいのだろう。
「さて、私も着替えましょう」
 シエルのいない合間に、自分の浴衣をぱぱっと身に着けた。
「あ」
 戻って来たシエルが部屋の入り口で足を止めた。
「どうです?」
 裾から大きく紫菖蒲が染め上げられた黒のしじら織りの浴衣。銀の糸で龍の刺繍を施した濃紺の帯。渋いコーディネートだが、黒髪で色白のセバスチャンにはとてもよく似合っている。粋な姿に、シエルは唸った。
「うう」
「なんです?」
「ちょっと、格好よすぎない? それで外に出たら、また女の子たちが…」
 むうとふくれっつらをする。
 可愛らしくふくらんだ頬を、セバスチャンは人差し指でちょんとつついた。
「外になんて行きませんよ。だって、シエルは出掛けたくないんでしょう?」
「う、ん」
「ルームサービスでなにか注文して、ここからのんびり祭り見物しましょう」
 うちわを手にして、バルコニーに行きかける。シエルは慌ててセバスチャンの袖を掴んだ。
「でもさ、せっかく、浴衣、着たんだから…」
「着たんだから?」
「ちょっとだけ、行っても……あぁあっ! 罠だ! 僕を罠にかけたな!! セバスチャン!」
 クスクスと笑って、セバスチャンは悔しがるシエルを促した。
「行きましょう。早くしないと、終わってしまいますよ」

***
 夜店ですくった金魚を水を張ったホテルの洗面器に放し、猫のお面と、射的で当てたカキ氷器の箱をテーブルに置いた。馴れない草履で歩き疲れたシエルは着替えもせず、ベッドに突っ伏して、くったりしている。
「シエル、シャワーを浴びてから、休みましょう」
「うん……」
「シエル」
「あとで……いま眠い……」
 こういうときは、本当に子どものようだと思う。
 ベッドに片手をついて、横たわったシエルを見下ろす。
 水色の浴衣の襟元からのぞく彼の素肌がいつもよりも艶かしく見える。眠っているはずのシエルの唇から零れる息が甘く感じられるのは、自分の錯覚だろうか。
 指が、勝手に動いた。
 八つ口から手を入れて、シエルの肌に触れる。
 意識のない彼にこんなことをしていけないと思いながらも、セバスチャンは自分を抑えられなかった。
 立上がって、濃紺の帯をしゅるる……と解く。足元に蟠る銀龍を欲望に翳った瞳で見つめ、浴衣を肩から滑り落とした。
「シエル……」
「…………ぅん」

 深い眠りに落ちる間際、セバスチャンがなにか訊ねたような気がした。半ば眠りながら「うん」と頷いたのを覚えている。一瞬、セバスチャンのからだが強く香って、まだ汗を落としていないのだと頭の片隅でぼんやり思った。
 彼の手のひらがひどく熱い。
 からだを軽く持ち上げられて、帯を解かれた。
 浴衣の前を大きくひろげられる。
 起きようとしたものの、睡魔には勝てず、シエルは眠っているのか、起きているのかよくわからない曖昧な意識の中、セバスチャンの指が自分のからだを開いていくのを感じていた。
「ぁ……」
「そのまま、眠っていて……」
 囁くようなセバスチャンの声が聴こえた。
 指で蕩かされたからだの中に、彼の昂った熱がひそやかに入ってくる。シエルの唇から喘ぎのような、かすれた音が漏れた。
 夢とうつつの狭間で、ひとつだけ確かなのは、自分の中に穿たれた彼の熱。
 硬く、重いその形がはっきりと感じ取れる。
 腰をゆっくりと前後に動かされ、昂りを穿たれるたびに、とろりと流れ出る快感がシエルの髪や、唇、首筋……下肢まで甘く浸した。眠りに支配されながら、こうやって彼にされるがまま、抱かれているのは嫌ではなかった。起こさないようにごく静かに自分を抱く恋人の気遣いと、眠っている自分を抱かずにはいられない彼の欲望の激しさが愛おしかった。
 上からのしかかる彼の熱い吐息が、頬に触れる。大きな手が自分の額の髪をかきあげ、頬に、耳に、唇に、幾度となくキスを落とされて、気持ちがいいと、彼を愛していると、伝えたいのに、眠りの膜にくるまれた自分の声は声にならず、もどかしかった。
 絶頂が近づいたのか、一層熱く重くなった彼の昂りにシエルのからだも反応して、ともに頂点を目指していく。
「……っ」
 セバスチャンがひと際強くシエルを抱きしめ、穿たれた昂りが熱を放ったとき、同時にシエルも淡く達した。
 終わったあともセバスチャンはシエルを抱きしめたまま、愛撫を続け、そしてまたシエルの中に入り……。
 ゆるやかに動き、ゆるやかに達し、穏やかな快感がやさしくからだを満たし──ゆるゆると流れる甘い時間に、ふたりはいつまでも揺蕩っていた。

***
 朝。
 月の兎の浴衣はくしゃくしゃになって足元に追いやられ、帯は蛇のようにシーツと絡み合っている。
 隣で寝息を立てているセバスチャンを起こさないように、忍び足でバスルームに行き、髪とからだをわしゃわしゃと洗った。
 ホテルのバスローブを羽織って、さっぱりした気分で戻ると、ベッドにからだを横たえたまま、セバスチャンが困ったような顔をして、シエルを見上げた。
「おはよ、セバスチャン」
「…………」
「どうしたの?」
 具合でも悪いのだろうか。シエルが近づくと、セバスチャンは大きくため息をついて、シーツに顔を伏せた。
「セバスチャン?」
「……すみませんでした」
 くぐもった声で言う。意外な言葉にシエルは戸惑った。
「え、なに?」
「ゆうべは……ごめんなさい」
 昨夜のことを謝っているのだとわかった。
「私としたことが……。ほんとうに、ごめんなさい……」
 消え入りそうな小さな声。
──僕は嫌だと言わなかった。うん、と頷いたのに。
 シエルの返事はあまりに儚くて、セバスチャンの耳には届かなかったのだろうか。
 セバスチャンはよろよろと立ち上がり、
「貴方に……嗚呼、なんてことを……」
 額を押さえて、ぶつぶつ呟きながら、バスルームに向かう。
 その姿をいたずらっぽく見送って、シエルは思った。

 彼がバスルームから出てきたら、抱きついて「気持ちよかった」と言おう。
 それから──「愛してる」とも。
 そのときのセバスチャンの顔を想像して、シエルはくすりと笑った。

fin

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