第三話
シエル・ファントムハイヴには秘密がある。
彼の美しく滑らかな背中、処女の雪肌のようなそのきめ細かい肌に刻まれた醜い焼印、二匹の蛇が妖しく絡む忌まわしい徴が、それだ。
その事件は今から六年前、シエルがセバスチャンと出会う三年前に起きた。
避暑のため、両親と英国を訪れていた十歳のある日、ロンドンの街中で忽然とシエルは消えた。
自分たちのすぐ後ろを歩いていると思っていた息子が、いつのまにかいなくなっていることに気づき、両親は半狂乱になって捜したが、シエルの姿はどこにも見つからなかった。すぐにスコットランドヤードが捜査に乗り出したものの、事件は早々に暗礁に乗り上げた。
手がかりが何ひとつなかったからである。
白昼のロンドン、しかも繁華街での出来事だというのに目撃者がいない。
助けを求める声を聞いた者もいない。
親子の関係は良好で、本人の意思による出奔ではない。
何者かにさらわれたとしか思われないのに、いつまで経っても犯人から接触はなく、関係者は途方にくれた。
シエルの両親はロンドン郊外に住む妹夫婦──ミッドフォード家──と共に、血眼になって市中を探索したが、なんの結果も得られなかった。
それから一ヶ月が過ぎた頃。
ガリガリに痩せ、ボロをまとった少年が、テムズ川河畔に倒れていた。背中に酷い火傷を負い、口もきけない有様だったが、年恰好から、捜索中の少年ではと推定された。警察に呼ばれたシエルの両親は一目見るなり、悲鳴を上げて少年を抱きしめた。
すぐに入院させたが、シエルは医師をはじめ、見知らぬ人間が近づくと悲鳴をあげてパニックを引き起こした。鎮静剤を打たなければ、治療ができず、医師たちは手を焼いた。ようやくからだの傷が癒えた頃、心療内科へと移され、PTSDと診断された。誰とも口をきかない状態から、何ヶ月もかかって、ようやく話せるようになったシエルは、しかし行方不明の間のことを全く覚えていなかった。
警察や両親、医師からの質問に答えることができず、睡眠療法、ショック療法など、あらゆる治療を受けさせられ、彼らのあまりに執拗な追及に再び心を病んだ。両親はシエルを有名なセラピストのもとへ連れていったが、やはり記憶は蘇らなかった。セラピストが匙を投げた頃、シエルの両親は無理に思い出させないほうがいいのかもしれない、と考えるようになっていた。
シエルのからだに残された痕から察するに、監禁中に酷い目に遭っていたのは明らかだった。極限まで痩せほそり、背には火傷を負い、性的な虐待を受け……。
そんな記憶は封印してしまったほうがいい。
もしも全てを思い出してしまったら、それはシエルにとって一生のトラウマになるだろう。息子をこんな目に遭わせた犯人は憎いが、それよりも息子の人生を守るほうが大切だ。
今は亡きシエルの両親はそう考え、以来強いてシエルに思い出させようとはしなかった。
しかし現実は彼らが考えたようには運ばなかった。
***
風が招んでいる。
ねえ
起きて
早く
来て
僕たちを
助けて
激しい風が窓をガタガタと揺さぶっている。
セバスチャンとシエルの住む、コロニアル形式の木造の白い家は、キシキシと音を立てながら、激しい風に耐えていた。
海を越えてきた風はシエルの中に眠る記憶を引き出そうと、やっきになって暴れている。
僕たちを
助けて
ねえ
お願い
──誰の声だろう。
──なにから助けてといっているんだろう。
無意識と意識の狭間、人が夢と呼ぶ時間の中で、シエルは風の声を聞いていた。やがて目の前に、薄暗い空間が現れる。
僕が、いる。
十歳の僕だ。
シエルはどこか遠くからその光景を見ていた。
ごつごつとした岩で覆われた空間。
大人一人がやっと立てるような洞窟には、その内部にいくつも小さな洞穴があって、中にそれぞれ子どもたちが押し込められている。穴の入り口には鉄の棒が嵌められ、大きな錠前をつけられていた。
子どもたちは膝を抱き、うずくまっていた。
誰一人しゃべるものはいない。
飢え、痛み、火傷、咳……。
吐瀉物と排泄物の堪え難い匂い。
何かが腐っているような匂い。
みな黙ってうずくまり、震えている。
泣く力さえないのだ。
中にはぴくりとも動かない子もいる。おそらくもう事切れているのだろう。
あの子も、あの子も、さっきからずっと動かない。
たぶん──死んでるんだ。
ぞくっとシエルの背筋に悪寒が走った。
──もうすぐ僕も死ぬのかもしれない。
あんな風に動かなくなって、ただの物みたいになってしまうんだ。
「とうさま、かあさま……」
──怖い。死ぬのは怖いよ……!
記憶は突然飛ぶ。
バラバラに散ったジグソーパズルのように断片的に浮かぶ風景。
洞窟の奥には暖炉があった。常に薪がくべられ、パチパチと音を立てている。
男はそこから火かき棒のようなものを掴んだ。
よろよろとおぼつかない足取りで、男はシエルに近づいてくる。
オレンジ色に燃えた鉄の棒。
先はさらに溶岩のように真っ赤に煮えたぎっている。
近づく空気がすでに熱い。
いやだ!
神様! 助けて!
うつぶせにされ、四肢を荒縄で拘束されて、逃げることができない。
さるぐつわをかまされた口からは唸るようなくぐもった音しか出ない。
やめて!
やめて、お願い、やめて、やめてっ!!
しかし灼熱の棒は容赦なく近づき……男はシエルの腰をぐっと掴むと、熱い塊を腰に思いきり押し付けた。
じゅぅうっと、肉の焦げる嫌な音。
数秒後に襲ってきた鋭い痛み。
内臓の奥の奥まで突き通る灼熱の痛み。
「わぁああああああっ!!」
声を限りに泣き叫んだ……。
***
「シエルッ! シエル!」
セバスチャンは、うなされ、悲鳴を上げたシエルの肩を掴んだ。
キッチンに入ってくるなり、意識を失って倒れた彼。慌ててベッドに運んだものの、汗まみれになって、悶え苦しんでいる。眉をきつく寄せ、口からは涎を垂らし……。
「シエル!」
何度目かに呼びかけたとき、シエルの瞳がようやく開いた。
が。
「ひぃいっ!」
セバスチャンを見るなり、身を捩って腕を振りほどき、後ろに後ずさった。
「シエル?」
「……寄るなッ」
さらにベッドの端まで後ずさった。ガタガタと震えながら、セバスチャンを見据えている。その瞳に浮かんでいるのは強い恐怖の色。
「シエル、一体どうしたのです?」
尋常でないシエルの様子に、セバスチャンはかがみこみ、視線の高さをシエルと合わせた。
シエルの口から、かぼそい声が漏れる。
「痛いこと、しないで……っ!」
「痛いこと?」
「……お願い」
瞳に涙を浮かべて懇願する。
悪夢でも見たのだろうか。きっとまだ夢の続きにいるのだ。
「痛いことなんてしませんよ。どうしたんです、シエル」
「……?」
シエルが一瞬戸惑った顔をした。
「……────だ、れ?」
「え?」
「誰、なの?」
セバスチャンは絶句した。
「わからないのですか? 私です。セバスチャンです」
「セ、バスチャン……?」
「ええ、そうです。貴方の、セバスチャンですよ」
「あ……セバスチャン、うん、わかる」
その言葉にホッとしたのもつかの間、次の言葉に当惑した。
「だってセバスチャンって僕の犬だもの」
「え?」
「いや違う、貴方は犬じゃない。……僕は貴方に引き取られて、それで……」
随分前のことを話している。シエルが私のもとに来たのは四年も前のことだ。
「ええ、そうですよ。貴方は四年前に私のマンションに来て、それから──去年、私たちは結婚したんですよ」
「けっこん? 違うよ、僕、けっこんなんてしてない。ねえ、パブに行かなきゃ、黒い犬の看板の……急いでるの」
シエルの声が心なしか幼い。その声は次第に小さくなり、俯いてぶつぶつと喋り続けている。
「急がなきゃ、僕……。え、僕? 僕って……? えっと、だれだっけ?」
「シエル、少し横になって」
シエルのほうへ腕を伸ばせば、少年は察して、身を守るように上掛けを寄せた。
「いやだ、触るなっ!」
「シエル、聞いて……」
「やだっ!」
セバスチャンの言葉などまるで耳に入っていない。唇を一文字に結び、キッと睨みつけている。
「シエル……」
セバスチャンにはなにが起きているのかまるでわからなかった。
わかるのは、生涯の伴侶が自分を拒んでいることだけだ。
途方にくれ、立ちすくむセバスチャンをひと睨みすると、シエルはベッドの中に、もぞもぞと入り込んでしまった。
なすすべもなく立ち尽くすセバスチャンに向かって、
「出てけぇ!」
上掛けの中から細い腕を伸ばして、枕を投げつけた。
「……っ」
自分がここにいても、いたずらに彼を刺激するだけだ。
セバスチャンはそう判断し、寝室を出た。
その足でシエルの部屋に向かう。
飲みかけのジンジャーエールがベッドカバーを汚していた。
ベッドの上にはMacBookが開きっぱなしで、放り出されている。
画面ではなにかの動画が再生されていた。
「……?」
しばらく眺めているうちに気がついた。
『バーク&ヘア』だ。
十九世紀のエディンバラで起きた殺人事件を映画化した作品。
シエルはこれを見ていたのか。
セバスチャンは顎に手を添えた。
おそらくあの本に興味を持ち、この映画にたどり着いたのだろう。
しかしそうだとわかったところで、なぜあんな状態になったのか、解決の糸口にはならなかった。
***
怖い。
怖い。
鋭い眼差しが怖い。
彼がセバスチャンだということは知っている。
自分の伴侶だということも。
これまでずっと守られ、愛されてきたことも。
──でも怖い。
まるで赤の他人のように感じてしまう。
大好きだったあの指の感触が、まるでなめくじが這うようで、気持ちが悪かった。
あの心地いい甘い声が悪魔のささやきのようで、ぞっとするほど恐ろしい。
「僕、どうしちゃったんだろう……」
わからない。自分が自分でないような、底知れない不安。 恐怖がじわじわと忍び寄る。
ガタガタと風が外から窓をゆすっている。
ふと、小さな声が聴こえた。
ねえ
早く来て
僕たちを
助けて
──風が招んでいる。
***
ワシントン州立病院の医師や看護師たちは慌ただしく廊下を行き来していた。 秋口に流行の兆しを見せ始めたインフルエンザが市内に蔓延しているのである。幼い子どもから老人まで、待合室は満杯状態。それに加えて入院患者の診療、手術もあり、いつもにもまして院内はバタバタと浮き足立っていた。
「そろそろ本当に引退を考えねばなりませんな」
ドクター・タナカは手術用のキャップとマスクを外すと、院長室へと向かった。請われて現場に復帰したものの、管理職と第一線の医師の両方を兼務するのはむずかしい。この頃、めっきり体力が落ち、老いを実感しているのである。 自室の棚から緑茶を取り出し、伊万里焼の急須に入れてポットのお湯を注ぐ。爽やかな香りを吸い込み、お茶をひとくち飲んで、日本から送ってもらった、とっておきの最中をパクリと口にしたとき。
PCのビデオチャットの通知に気づいた。
慌てて、最中を緑茶で流し込み、口元をティッシュで拭って、アプリを開けば、そこにはマウイ島に暮らす旧友──セバスチャン・ミカエリス──の顔があった。 セバスチャンはもともとタナカのチェス仲間であり、三年前からは彼の伴侶・シエルの主治医的な存在となって、ふたりを見守ってきたのだ。
「おや、ひさしぶりですな。お元気ですか?」
顔をほころばせて訊ねたが、セバスチャンの深刻そうな表情を見て取り、気を引き締める。時候の挨拶などとりとめのない会話を交わしたところで、
「実は……」
とセバスチャンが重い口を開いた。
数日前、突然シエルが意識を失い、目覚めたときから様子がおかしくなったこと。セバスチャンに触られることを極度に恐怖すること。結婚したことを覚えておらず、他人のような態度をとること、ときおり幼い口調でパブ、犬など、脈絡のない単語を口にすること……。
「近づくと、痛いことしないで、と怯えて泣き叫ぶのです。諭そうとしても私から逃げるようにベッドに潜り込んで、ずっと出てきません。一体どうしていいのかわからないのです」
「ふむ……貴方をあれほど慕っているシエル坊ちゃんが……」
タナカは唸った。
ふたりは出会ってすぐに恋に落ち、セバスチャンはシエルが十六歳になるまで──法律上、結婚できる年齢になるまで──四年も待って、昨年やっと結婚したのだ。その間、幼い少年を丁寧に育て、慈しみ、ときには自分の命を危険に晒してまで守り……。その彼を慕い、深く愛しているはずのシエルが豹変した?
「痛いこと、と言うのですな?」
「ええ」
痛み、と聞いてすぐにタナカの頭に浮かんだのは、シエルの背の焼印だ。
あまりに悲惨な火傷痕に、タナカは以前、内腿の皮膚を移植して、目立たなくさせようと提案したことがあった。当のシエルがそれを断ったから、いまも彼の背には醜い印が残っているが、あそこまでくっきりと焼き付けるには、相当な高温で、しかも思い切り強く肌に押し付けなければならない。その痛みは想像するのもためらわれるほどだ。
「──ひょっとすると、過去の記憶と関連しているのやもしれませんな」
「過去の記憶?」
「ミカエリスくんも知っておるように、シエル坊ちゃんの記憶には空白の部分がありますな。彼が十歳のときに監禁された記憶。本人も思い出せないほど強く封印されたあのときの記憶は、消えたわけではなく、潜在意識の中にずっと在ったに違いない。何かの拍子に浮上する可能性は常にあった、と考えてよろしいでしょう」
セバスチャンは釈然としない顔つきで、タナカを見つめている。
構わずにタナカは続けた。
「今回の事態は何かが引き金となって、当時の断片的な記憶が表にあらわれてきたように思いますぞ。彼になにがあったのか、ご存知ですかな」
「引き金ですか……。そうですね、意識を失う直前に、映画を見ていたようでした」
「映画?」
「ええ、ノートパソコンで動画配信サイトにログインしています。『バーク&ヘア』という映画なのですが……」
「ああ、知っておりますぞ。エディンバラの古い殺人事件を扱ったものでしたか。とりわけ刺激的でもなかったような……。ふむ、それがきっかけ……エディンバラ……?」
タナカは首をひねった。
「いずれにしても、いまは現在と過去の記憶が混濁して、一時的な記憶喪失に陥っておるのでしょう。この状態がいつまでも続くとは思えぬから……、近いうちにシエル坊ちゃんが六年前の記憶を取り戻す可能性が非常に高い」
言うと、セバスチャンの顔が一層曇った。眉間に深い皺が刻まれる。
「ですが、ドクター、その記憶は……。シエルにとって、辛いものであるはずです。いまの彼がそれに耐えられるでしょうか」
もしかするとシエルの繊細な心が壊れてしまうのではないか、と美しい顔を陰らせる。
「ふむ……」
タナカは逡巡した。
自分が彼らのもとに行って、直接診てやれればいいのだが、いま病院を離れることはできない。
となると……。
「ではカウアイ島にある診療所を紹介しましょう。私の後輩がやっておるところで、併設のメンタルクリニックはなかなかよいと評判ですぞ」
「いえ、それが医者と聞くだけで、激しく拒否するのです。パニック状態といってもいいぐらいで」
「医者をいやがる?」
「ええ。一度病院へ行こうと促したら、ものすごい剣幕で拒まれました。とても連れていけるような状態ではありません」
それに、とセバスチャンは付け加えた。
「シエルは以前も病院へ行くのを拒んだ時がありました。それでドクターをお呼びしたことがあります」
「ああ、そうでしたな。なるほどそれもまた過去のトラウマと関係しているのやもしれん。私が直接そちらに行かれればよいのですが、あいにくいまはここを離れるわけには……」
「ええ、わかっています。できれば、このまま私のほうで様子を見たいのですが、どう思われますか?」
「そうですな……」
見知らぬ医者に診せるより、誰よりも彼を知る人間に任せたほうがいいだろう。
タナカは心を決めた。
「ここはひとつミカエリスくんに頼みましょう。心配でしょうが、あまり落ち込まずに、できるだけいつもどおりに接してくだされ。なにかあったらいつでも遠慮なく連絡するように」
タナカの言葉にセバスチャンは深くうなずいた。
***
「……あり得ない」
タナカとの通話を終え、信じられない気持ちで呟いた。
十歳のときの記憶が浮上している?
そのせいで、私のことがわからなくなっている?
そんなことがあろうはずがない。
これまでの四年間、共に暮らし、肌を合わせ、愛し、慈しみあって生きてきたのに。
しかし、まるで赤の他人を見つめるようなあの瞳。そこには恐怖の色さえ浮かんでいた。
そんな瞳でシエルに見られたことなど一度もなかったのに。
セバスチャンの胸にひたひたと不安が押し寄せてくる。
ちらりと扉の隙間から寝室をのぞけば、ベッドの上の巨大なロールパンのような塊は全く動いていない。
「シエル」
と呼び掛けたくとも、あの瞳で拒まれるかもしれないと思うと、身が竦んで動けない。
あんな他人を見るような視線で……。
セバスチャンはぎゅっと強く拳を握った。
いますぐ彼を抱きしめたい。
優しくこの胸に抱いて、髪を梳き、肌を愛撫して……。
そうしたら、きっといつものシエルに戻って、『セバスチャン』と、あの明るく澄んだ声で自分を呼んでくれるに違いない。
「なにを勝手な……」
彼が過去と葛藤しているときに、情欲を抱くなんて最低だ。
「シエル……」
両手に顔を埋め、愛しいひとの名をもう一度紡いだ。
to be continued..