エディンバラに吹く風は

第四話

 夕方からぽつり、ぽつりと降り出した雨は次第に激しくなり、夜半過ぎから嵐になった。
 風がごうごうと唸っている。
 まるで多くの人間が一斉に喋っているようだ。
 煩くてかなわない。
 低気圧のせいだろうか。
 妙に頭が重い。
 気分が苛立つ。

 

 タナカの言葉に納得できなかったセバスチャンは、書斎でMacにしがみつくようにして画面に見入っていた。
『記憶 喪失 症例』
 思いつくいくつかの検索ワードを入れてはenterキーを押す。
 だが次第に見えてくる事実は、セバスチャンにとって残酷なものだった。
「これは……」
 過去にいくつか、シエルと似たような症例があった。その中でセバスチャンをもっとも脅かしたのは、失われた記憶が戻った途端に、それまでの記憶が消え失せてしまうということであった。
 たとえば事故のショックで記憶を失った人間が、記憶を取り戻せず、やむ得なくそのままの状態で暮らし、新しい生活にも慣れて、あらたな人生を歩み始める。ところが数年後、何かの拍子で過去を思い出した途端、逆にそれまでの数年間を忘れ去ってしまう……。
 その記事を読んだとき、セバスチャンは足元が瓦解するような恐怖に捕らわれた。
 もしも。もしもシエルの十歳のときの記憶が蘇ったら、この四年間の記憶が消えてしまうのだろうか?
 私と暮らした日々を? 出会い、恋に落ち、愛を育み、ともに困難を乗り越えてきた、そのすべての記憶を?
──けっこん? 僕、けっこんなんてしてないよ。
 幼い口調のシエルの言葉が脳裏に浮かぶ。
 そう思うのも無理はない。十歳の彼は私のことなど知らないし、ましてやこんな年上の男と結婚したことなど信じられないだろう。
 では……シエルが何もかも思い出したら、彼はもう一度、そこから人生をやり直すことになるのだろうか。
 そのとき、私は?
 私もはじめからシエルとの関係を築くことになるのだろうか。
「……無理だ」
 セバスチャンは頭を抱えた。
 シエルが再び自分を愛してくれるという保証はどこにもない。
 共に暮らしても、父親の知り合いとして私を認識し、それこそ親のように慕うだけかもしれない。
 ゾクリと全身が総毛立った。
 なにもかも失うのか。
 これほど愛したひとはいないというのに、そのなにもかもを失ってしまうのか。
 いや、と首を強く振った。これは全部自分の思い込みで、ただの杞憂で、なにも気にすることなどない。 
 ドクターも言っていたではないか。普段どおりにしていろと。
 気持ちをまぎらわそうと、セバスチャンはキッチンに立ち、ミルクを温め始めた。
 いまのシエルはホットミルクしか口にしない。
 新婚旅行のときに買い求めた、クマのイラストが描かれたチェコ製のマグカップに、温めたミルクを注いだ。蜂蜜を添え、椰子の木で編んだシエルのお気に入りのトレイに載せて、寝室へ運ぶ。
 扉の前でしばらく躊躇し……それから思い切ってトントンと軽くノックをした。
「シエル、入りますよ」
 返事はない。
 ひどいときは「来るな!」と扉に枕を投げつけられるから、今夜はまだ具合がいいのだろう。
 セバスチャンの裡にほのかな希望の火が灯った。
 もしかしたらシエルは元に戻ったのかもしれない。
 以前のように、会話できるかもしれない。
 静かに部屋に入り、ベッドサイドのテーブルにコトッとミルクを置いた。
 そろそろと椅子に座り、「シエル」と呼びかける。
「……」
 返事はなかったが、しばらくしてもぞもぞと動く気配があり、シエルが少しだけ顔を出した。
 間近に見る顔は随分とやつれていた。もともと痩せているほうだが、一層小さくなって、頬骨がはっきりわかる。目の下の隈はどす黒く、乾いていた。
 が──いまは怖がってはいないようだ。
 セバスチャンは期待をこめて、「シエル」ともう一度小さく呼んだ。
 呼ばれて、シエルはおそるおそる口を開いた。
「あの……」
「なんでしょう」
「あの、貴方は……誰ですか? ぼくの知ってるひと、ですか?」
「ッ」
 シエルが聞くと、男は瞠目し、それから悲しそうに目を伏せた。
 どうしてそんな顔をするのか、十歳のシエルにはわからなかった。
 自分にホットミルクを持ってきた男が、いつもよりも優しい気がして、つい尋ねてしまったのだ。綺麗な紅茶色の瞳が切なげに揺れている。なんだか申し訳ない気持ちになってうつむいた。男はゆっくりと腕を伸ばして、傍らのホットミルクを手渡してくれたけど、その暖かな手がかすかに震えていることに気がついた。
 形の良い長い指。ホットミルクの入った、可愛いクマのイラスト入りのマグカップ。木で編んだトレイ……。どれも見覚えがある。
 だから、きっと知っているひとだと思ったけれども、まるで思い出せない。
 貴方は誰ですか? ともう一度問いたかったけれど──そしてそれはとても大切なことのように思えたけれども──そのひとの悲しい顔を見たくなくて、口を閉じた。

***

──貴方は……誰ですか? 僕の知ってるひと、ですか?

 からだがカタカタと震えている。
 どうやって部屋まで戻ってきたのか覚えていない。
 シエルが私のことを忘れるなど、絶対にない。
 そう思っていたはずなのに。
 セバスチャンは自分に強く言い聞かせた。
 シエルは一時的に混乱しているだけだ。絶望することなどひとつもない。
 そう思っても、からだの震えは止まらない。
 キッチンの棚の奥に忘れられたように置いてあったスコッチを取り出した。カチャカチャと瓶をぶつけながら、グラスに注ぎ、立ったまま氷も入れず、ストレートでぐいっと飲み干す。
 カッと喉が灼けるのにも構わず、続けざまにもう一杯、もう一杯……と喉に流し込んだ。
 痛いほど熱い塊が喉を通っていく。同時に頭の芯が痺れ、シエルのこともなにもかも放り出したくなってくる。
「もう、たくさんだ……」
 セバスチャンはさらにグラスに酒をそそぎ、一息に呷った。
 スコッチの瓶は瞬く間に空になり、空き瓶を乱暴に床に捨てると、新たな瓶を棚から出して、封をちぎる。
 グラスに注ぐのも億劫で、直接瓶に口をつけた。ごくりごくりと熱く苦い液体が喉を落ちていく。
 ふぅ、と一息ついて、崩れ落ちるようにソファに座った。
 ふと、目の端に放り出していたあの本が入った。
 そうだ。
 すべてはあの本のせいだ。
 あの本が届いてから、何もかもおかしくなった。
 まるで呪わしいエディンバラの物語が、私たちの生活を脅かしているようだ。
 セバスチャンはよろりと立ち上がり、本を投げ捨てようと腕を伸ばした。
 瞬間。
「ッ!」
 キーンと強い耳鳴りがして、思わず耳を塞いだ。
 本が燐光のような蒼い光を淡く放っている。
 ごくりと唾をのんだ。
──本が……光っている? 
 いや、とセバスチャンは目を瞑った。目の錯覚だ。アルコールが見せる幻だ。あれはただの本に過ぎない。描かれているのは過去の殺人事件を模した、欲望のままに人々を殺めた男の話だ。本能に従って、殺戮を繰り返し、皮膚を剥がし、その行為に快感を得て、飢えた心を満たし……。
──快感を得て、飢えた心を満たし……。
 ハッとした。
「そうだ……!」
 なぜ気づかなかったのだろう。
 私もそうすればいいのだ。
 本に描かれた男のように、欲望に従ってシエルを抱けばいい。
──そうだ。抱いてしまえ。そうすれば、あの子の悪夢はやみ、お前のもとに還る。
 自分の耳に囁く者がいる。
 大体あそこにいるのはシエルであって、シエルではない。
 十六歳のシエルが、十歳のシエルに侵食されているのだ。
 ほら、またあの子の叫びが聞こえる。
 それが本当の叫び声なのか、それとも耳にこびりついた叫びの残滓なのか。セバスチャンにはもうよくわからなかった。
 ただ、止めなければと思う。
 早く、やめさせなければ。
 あの子が壊れてしまう。
 止めるんだ!
 セバスチャンは魔の声に突き動かされて、幽鬼のようにふらりと立ち上がった。その途端、ぐらりと大きくよろめいて、テーブルの角にからだをぶつける。酔いはセバスチャンが思っているよりも深く、全身に回っていた。
 一歩、一歩、壁をつたいながら歩く。
 嗚呼。頭が痛い。
 前がよく見えない。
 のろのろと重い足取りで、セバスチャンは再び寝室へと向かった。
 ぎしりと扉を薄く開けると、暑いのかシエルは上掛けをはだけて寝入っている。
 ナイティの裾から太ももがうっすらと白く浮かび上がっていた。
──けっこん? 僕、けっこんなんてしてないよ。
 シエルの言葉が再び頭をよぎる。
 いいえ。貴方は私の伴侶。私たちは永遠の愛を誓ったはずです。
 シエルの痩せた手をとって、左手の薬指に嵌められたプラチナの指輪にキスを贈る。
──指輪に刻まれた聖なるマイレの葉が、ふたりを永遠に繋いでいるのです。
 セバスチャンはシエルの首筋に鼻をつけた。
 慣れ親しんだ彼の匂いがほのかに立ち上る。
 数えきれないほど抱いた彼の匂い。
「シエル……」
 セバスチャンの気配に少年がゆっくりと瞼を持ち上げる。
 その首筋に、舌を這わせた。
「ッ……や、だっ」
 びくっとからだを震わせて、少年が叫ぶ。
──いま叫んだのは十六歳のシエルか、それとも十歳のシエルか。
「やめろっ、出て行け!」
 拒否の叫びに、セバスチャンのこめかみがピクッと動いた。
 怒りに似た感情が、腹の中でどす黒く渦を巻く。
「いいえ、やめません」
 ぐいっと片手でシエルの両手首を掴み、乱暴にシーツに縫い止めると、ナイティを力まかせに破った。
 ビリビリッと布の裂かれる音が、暗闇の寝室に響き渡る。
 やめろ! と少年が激しくかぶりを振って叫ぶけれど、それはセバスチャンの欲望を煽ぐだけだった。あらわになったからだは、哀れなほど痩せ細り、あばらが薄く浮いている。
「こんなに痩せて……」
 忌まわしい彼の過去よ。
 彼をこんなに痛めつけていったい何になるのだ。
 思い出す必要などない。封印など解かずともよいのだ。
「や、めて……」
「大丈夫、痛くしませんよ」
「いや……ッ!」
 首筋を這う舌は鎖骨を辿って、空気に震え、縮こまっている乳首を舐める。繰り返し舐めれば、そこは快楽を拾っていやらしく立ち上がり、薄紅色に染まり始めた。
「嗚呼……。貴方のからだは私を覚えているようですよ」
 そのことにセバスチャンは少しだけ安堵する。
 快楽の一つ一つをこの少年に教え、新しい性の扉を開いていったのは、この私だ。
 彼を育て、愛の歓びを覚えさせ……。
──そうだ、この子はお前のものだ。急げ。早く抱かないと、記憶が塗り替えられてしまうぞ。
 魔の声がセバスチャンをあせらせる。いつもなら強い理性で抑制できるはずなのに、魔に唆され、膨れ上がった欲望が、身を喰いつくしていく。すさまじい独占欲がふつふつと胸に沸いた。
「ねえ、シエル。シエルはこうされるのが好きでしょう?」
 低く甘く耳元でささやく。セバスチャンはシエルが悦ぶところを知り尽くしていた。
 軽く乳首を甘噛みすれば、びくんと大きくからだが跳ねる。片側の乳首も同じように丹念に舐め、乳首を口のなかでやさしくころがした。
「……や……っ、あ、あ、」
 抗いの色は次第に弱まり、シエルのからだの力が抜けていく。
 そう。それでいい。
「さあ、もっと感じて。シエル……」
 小さくわなないているシエルのそれに指を伸ばし、先端をそっと撫で回す。淡い蜜がにじみ出て指を濡らした。
「っ」
 あたたかく濡れた指の感触に、これまで幾度となく愛を交わした夜が蘇り、セバスチャンの胸に切ない思いが湧き上がった。
「セ、……バ……」
 名を呼ばれたような気がして、顔を上げた。
 少年が潤んだ瞳で見下ろしている。
「シエル……」
 きっといまのシエルは、いつものシエルだ。
 指の愛撫を続けながら、薄桜色の唇に唇を寄せた。
 唇を重ね、舌を挿れる。歯列を舐め、怯える舌を搦めとり……
 しかし──。
「ツゥッ!」
 鋭い痛みが突然襲った。
 ばっと反射でからだを離せば、口内にみるみる鉄錆のような味が広がる。
「……?」
 からだの下から、シエルの蒼白な顔がセバスチャンを睨みつけている。
 ぎゅっときつく結ばれた唇の端に滲んでいるのは──赤い血。
 ズキズキと脈打つ痛みに、舌を噛まれたことを悟り、セバスチャンは愕然とし……同時に逆上した。
 手の甲で唇の血を丁寧にぬぐうと、
「それほど私が厭わしいですか」
 冷えた声で言い捨て、スラックスのベルトをしゅっと抜いた。
 抗うシエルのからだを両膝で挟んで押さえ、黒い革のベルトで、少年の両腕と上半身をひとまとめに拘束する。
──彼にこんなことをしてはいけない。
 わずかに残った自制心がセバスチャンをとどめようとするけれど、魔の声はそれを軽々と凌いでしまう。
──我慢するのは、いい加減にやめろ。彼の骨を折って鳥籠に閉じ込めたいと思ったことがあったろう? 美しい透明のアクリルの椅子に封じ込めたいと願ったことがあったろう? お前の理性がお前の真の望みを押し殺したから、彼をこんな目に遭わせてしまったのだ。さあ、お前の飢えを満たせ。お前が抱けば、彼は元に戻る。きっとお前のもとに還る。
 魔はセバスチャンの心の隙間に忍び込み、囁き続ける。
 からだの自由を奪われて、恐慌に陥ったシエルが、
「やめろっ!」
 と叫んでも、魔に捕らわれたセバスチャンには届かない。
 シエルの足首を掴み、足をぐっとM字に大きく開いた。腿の間に顔を埋める。
「ッア、ァ……ッ!」
 シエルの背が大きくしなる。
 なまあたたかい舌がなめくじのように腿の付け根を這っている。
 気持ちが悪くてたまらない。
 そう思っているのに、からだは男のなすがままに反応して、次第に甘くとろけてくる。
 ぞわぞわと足の先から熱い塊がせり上がる。

──いやだ、怖い。
         
──ううん、好き。

 気持ちがいい。ぞくぞくするぐらい気持ちがいい。
 甘い熱がからだ中を支配して、からだがひたすら快楽を貪る器官になってしまったようで、ただ気持ちがいい。
 指で触られるだけで全身がぶるぶると震えてしまう。
 乳首の先が熱くてたまらない。
 足の間のそれを舐めて欲しい。口に含んで欲しい。
 快楽に乱れ始めたシエルの痴態に、セバスチャンの欲望はさらに募っていく。
 勃ちあがりかけているそれを口に含んで、やさしく舌をまきつかせた。
「あ……っ」
 身をよじりながら喘ぐと、
「嗚呼、いやらしい」
 クスッとセバスチャンは悪魔のように笑った。
 ほら、見るがいい。
 彼は悦んでいる。私に抱かれて悦んでいる。
──そうだ。もっと彼を愛してやれ。存分に可愛がればいい。
「…んぅ……んっ」
「気持ちがいいでしょう?」
 シエルの柔らかな内腿を手のひらでじっくりと撫でさすりながら、セバスチャンはこれまでシエルにしたことのない執拗な舌の愛撫を続けた。小刻みに震えるシエルのからだをなだめるように押さえながら、舌をさらに後ろへ這わせていく。
「あ……ぅっ」
 シエルの背がぴくんと跳ねた。
 下腹部の奥がじんじんと痺れてる。足の裏が熱くてたまらない。
 もっと、舐めて。もっと、して。
 もっと、もっと……。
「欲しいのですか?」
 ねだるように動くシエルの腰を高く持ち上げると、セバスチャンは焦らしながらゆっくりと熱を押し入れた。じわじと抜き差しを繰り返し、蛇のように快感を引き延ばしながら。
「あ、あ……アぁッ」
 焦らさられる快感にシエルは慣れていない。緩やかに腰を動かされるたびに、桜色の唇から、花びらのように甘い喘ぎが溢れ、溢れるたびにセバスチャンの熱は重く、大きく、重量を増していく。
──嗚呼、たまらない。
 抱いて、抱いて、抱きつくしたい。
 過去に壊されるぐらいなら、私が壊してやる。
──そうだ、壊せ。お前のものだ。理性の箍など外してしまえ!
 悪魔的な衝動に駆られ、セバスチャンは一気に深く、シエルの奥まで貫いた。
「んッ、ンっ!」
 驚き、からだを引くシエルの腰を掴み、奥までひと息に挿れると、すぐに入り口まで引いた。熱く潤んだ肉襞がきつく絡みつき、引き攣って、貫くたびに頭の奥が爛れ、快感を煽られて、なにもかもどうでもよくなっていく。
「ン、い、やあ、ぁ……っ」
 蒼と紫の二色の瞳から涙をこぼして、激しい快楽から逃げようとする少年のなんと愛おしいことか。
 黒革のベルトに拘束されて、身を震わせる少年のなんと美しいことか。
 彼は私のもの。私だけのもの。
 シエルの唇から涎がだらだらと流れ、眉間にシワを寄せ、薄く汗を浮かべて官能に顔をゆがませるさまは、恐ろしく被虐の美にまみれて、セバスチャンのからだを痛いほど熱くさせる。
 セバスチャンがつちかってきた強靭な理性の鎧を、魔はとうとう打ち破り、破滅の淵へ追いやっていく。
「ああ、とても気持ちがいい……。シエルも感じるのでしょう?」
 紅く変じた瞳が狂気に輝く。
 汗にまみれたセバスチャンの背中の向こうで、禍々しいあの本が蒼い燐光をさらに妖しく煌めかせていた。

to be continued…