輝く月の夜に

第四話 手紙

セバスチャンの仕事の依頼が前にもまして増えてきた。これまでの赤と黒を使った彼の特色のあるデザインに、紫を帯びた蒼が頻繁に使われるようになり、彼の個性を一層引き立たせているのだ。出版社や広告会社などクライアントの評判は上々。デザインを手がけた雑誌や商品の売上アップの報告がしばしばもたらされるようになった。

 セバスチャンは仕事部屋の隅に陣取っているシエルを見た。空いていたスペースにいつの間にか教科書やノートを持ち込み、セバスチャンが仕事をしているときにはそこで自習するようになっていた。Macintoshを一台、シエルに与え、自由に使わせている。いまはセバスチャンが作った「ラテン語テスト」に取り組んでいるようだ。その真剣な瞳は、蒼と紫。
(仕事にシエルの影響が出ているということですね)
 だが、よい影響ならそれはそれで構わないではないか。

 セバスチャンのMac画面にメール着信のアイコンが現れた。クリックして開く。

『セバスチャン テスト終わったので送ります。時間のあるときに採点してください。今夜の課外授業はなんですか? 「映画鑑賞」? それとも「調理実習」? ところでコーヒー飲む?』

 すぐ後ろにいるのにわざわざメールを送ってくるあたり、奥ゆかしいというべきか、はたまた子どもらしいというべきか。仕事の邪魔をしないよう気を使ったのだろう。セバスチャンはくすりと微笑んで、返信した。

『シエル テストお疲れさまです。すぐに採点します。ちょうど休憩したかったので、コーヒーをいれていただけますか? 今日の課外授業は「星空観察」です。予報では夜はよく晴れるそうですから、バルコニーで天体観測しましょう。』

 返信メールを見たのだろう。クスクスッとシエルは笑い、キッチンへ向かった。
 ここに来た当初は紅茶しか飲まなかったシエルだが、コーヒー好きのセバスチャンにつき合っているうちに、その味を覚え、自分からせがむようになっていた。淹れ方を教えると、自分で豆をひき、ドリップして淹れている。インターネットや教本でおいしい淹れ方を調べて工夫しているようで、いまではシエルの淹れるコーヒーのほうが自分のよりもずっとおいしいとセバスチャンは思う。
「コーヒー、入ったよ」
 キッチンからシエルの声がする。立ち上がって彼のもとに行った。

***

 今夜は新月。予報通りよく晴れて、天体観測にはぴったりの夜だ。火星が赤く輝いている。
「わっ、柄がはっきり見える!」
 望遠鏡をのぞいてシエルは叫んだ。
「シエル、それは『柄』じゃなく…」
「流れ星だ!セバスチャン!」
 見上げると小さな光がすーっと夜空を横切って行く。
「願い事、しなきゃ、早く」
 シエルは目を瞑ってぶつぶつ何事か言っている。それを見て、セバスチャンはただひとつだけ星に願った。
(……いつまでもこの時間が続きますように)
 さあっと冷たい風が吹いた。春といっても夜はまだ冷える。セバスチャンはシエルに声をかけた。
「そろそろ中へ入りましょう」
「もう少し見ていたい」
 部屋に戻って毛布を抱え、まだ空を見ているシエルの肩にかけてやる。
「セバスチャンも。一緒に見よう」
 毛布の片端をめくって、セバスチャンが来るのを待っている。シエルに誘われるまま、ひとつ毛布にふたりでくるまり、座って星を眺めた。
 街の音が遠くに聞こえる。車の音、人々のざわめき、樹々の葉ずれ……。風がシエルの柔らかい銀灰色の髪をなぶる。セバスチャンはその髪に静かに顔を埋めた。シエルの肩がぴくっと震える。背後から自分を守るように抱いている男。その腕、その手、その長い指。シエルはおそるおそるセバスチャンの指に触れた。心臓の鼓動が早くなる。
 ふたりはそれ以上身動きできない。ただそのまま、互いの体温を感じ合っていた……。

***

 出版社から知らせが届いた。
 セバスチャンが装幀した単行本が今年のベストブックデザイン賞を獲得したのだ。その本は新進気鋭の女流小説家の2作目にあたり、赤、黒、蒼の3つの色がシンプルに構成された表紙が印象的だった。書店に並べるとひと際目立つ。スキャンダラスな小説の内容と相まって人気を博し、100万部を越えるベストセラーになっている。今回の本のデザインはセバスチャン自身もかなり気に入っていた。あの蒼が効いている。賞を受けたのはシエルのおかげだと思った。
「すごい! おめでとう、セバスチャン」
「ありがとうございます。来週、出版社が関係者だけのお祝いパーティを開いてくださるそうです。シエルも一緒にどうです?」
「いいの……?」
「もちろん。賞をいただいたのはシエルのおかげです。このブルーは、貴方の蒼い瞳を表現したのですから」
 セバスチャンは本の表紙に流れる蒼い曲線を指差した。赤と黒の世界の中に、流れ星のように走る蒼い光。シエルの頬がほんのり薄ピンクに染まった。
───僕の瞳、僕の蒼がここにある。セバスチャンの世界の中に。
「……行きます」
 シエルはセバスチャンを見上げて言った。セバスチャンはにっこり笑い、パンと軽く手を合わせた。
「では。服を新調するとしましょう」

 チャイナタウンは世界中に存在する。この街も例外ではない。朱色に空色、金、白、極彩色の門を抜けると、中国語表記のスターバックス、ダンキンドーナツ、コンビニエンスストアが現れる。くねくねと迷宮のように曲がる路地を通り、アジア風の怪しげな店が立ち並ぶ一角に出た。
『貴方にぴったりな服を仕立てますーニナ・ホプキンスの店』。
 セバスチャンはシエルを連れて店に入った。マネキンが所狭しと並べられ、さまざまな色の布地、糸、レース、ボタン、奥に大きな作業机とミシン。髪を高く結い上げた若い女性が作業の手を止め、客を迎えに出てきた。
「あら、Mr.石頭。お待ちしておりましたわ。……ああッ!!」
 最後の叫びはシエルに向かって放たれたものだった。そう、ニナ・ホプキンスは、女の子と15歳未満の少年にしか興味のない人物だったのである。
「なんて!! 素敵! 理想的ですわ! 素晴らしい! Mr.石頭にこんな可愛らしい隠し子がいたなんて!!」
「隠し子ではありません。電話でお話したでしょう? 誤解を受けるようなことは言わないでいただきたいものですね」
「ふん。どちらにせよ素敵なお子さんには違いないですわ。では、早速採寸いたしましょう。さあ、服を脱いで!」
 ニナの言葉にシエルはさっと青ざめた。
(背中の焼印……)
 無意識に背中に手を回す。その様子を見たセバスチャンは、さりげなくニナに言った。
「採寸はTシャツの上からでも良いでしょう?お願いするのはスーツですし、脱ぐ必要はないのでは」
「……わかりましたわ。とても残念ですけれども。ではその上から採寸いたしましょう」
 不承不承ニナは採寸を始める。シエルはほぅっと息を吐いた。

 シエル・ファントムハイヴの背中には、二匹の蛇が絡み合う、忌まわしい焼き印があった。
 それは今から3年前のこと。毎年、両親と共に夏をイギリスで過ごしていた彼は何者かに誘拐され、監禁された。その期間、約1ヶ月。解放されたときには、シエルの背中には赤く焼けただれた醜い印が残され、彼は監禁中の記憶を失っていた。身代金など犯人からの要求はまったくなく、なにが目的だったのかわからないまま事件は迷宮入りとなり、シエルの心とからだに大きな傷を残して、すべては終わったのだった。

「……さあ、OKですわ。次はMr.石頭、どうぞ」
 セバスチャンは着ていたシャツをするっと脱ぎ、上半身裸でニナの前に立った。
「!!!!!」
 シエルの頬に血がのぼり、耳まで真っ赤になっていく。セバスチャンは鏡越しにシエルの変化に気づいた。
「シエル? どうしました?」
「う、あ、僕……外で待ってる」
 言うや否や、表に飛び出してしまった。
(セバスチャンの、はだか……)
 シエルはほてった頬を手の甲で冷やした。綺麗だった。目を瞑ると、浮かんでくる。細身なのに、意外と厚みのある胸。引き締まった腰。その下の……。首を激しく横に振って、たったいま目にしたばかりの光景を振り払う。
(おかしいぞ、僕は)
 けれど振り払っても振り払っても、シエルの脳裏からその姿は消えなかった。

***

 帰りに市場に寄って買い物を済ませ、マンションの郵便受けをのぞく。セバスチャンは来ていた郵便物の束を取り出して、6階に向かうエレベーターの中でぱらぱらと確認した。ダイレクトメールの中に一通見慣れない手紙があった。古風な書体でセバスチャン・ミカエリス様とある。裏を返すと、差出人の住所はイギリスだった。

『拝啓 

 突然、このような手紙をお送りする失礼をお許し下さい。
 私は、フランシス・ミッドフォードと申しまして、亡きヴィンセント・ファントムハイヴの妹でございます。貴方様が、ヴィンセントと生前親しくしておられました縁で、甥のシエル・ファントムハイヴを引き取ってくださり、誠に感謝しております。
 実はヴィンセント夫妻が亡くなりましたとき、私は甥を引き取りたかったのでございます。しかしながら長男のエドワードの反対が強く、断念いたしました。と申しますのは、エドワードは妹のエリザベスを大変溺愛しておりまして、子どもの口約束とはいえ、エリザベスが『許嫁』と慕うシエルが家に来る事をかたくなに拒んだのでございます。
 ところがエドワードがこの秋、全寮制寄宿学校に入学することとなり、当家ではもはやシエルを引き取ることに反対する者がいないどころか、自分の留守をシエルに守って欲しいと逆にエドワードからせがまれる次第で、ぜひシエル・ファントムハイヴを当家に引き取らせていただきたいのです。
 血のつながりのない、他人の貴方様がシエルを温かく育ててくださっていることは存じております。これまでの貴方様のご苦労、ご負担を慮りますと、なにを今更勝手な事をとお思いになるかもしれません。お怒りを頂戴してもいたしかたのないことと思っておりますが、もしもご一考願えるのでありましたら、ご検討いただけませんでしょうか?
 エリザベスはシエルが来ることをとても楽しみにしております。

敬具

フランシス・ミッドフォード』

 手紙には、白いレースで縁取られたピンクの小さな封筒が同封されていて、宛名にシエルの名前、差出人にエリザベス・ミッドフォードと記してあった。セバスチャンはミッドフォード夫人の手紙を一読すると、エリザベスからの封筒と一緒にシエルに渡した。キッチンの椅子に座って、シエルは読んでいる。買い物袋から品物を取り出し、冷蔵庫におさめながら、セバスチャンはシエルの様子を見守っていた。手紙を読み終えたとき、シエルは複雑な顔をして、セバスチャンを見た。
「どうします?」
「……すぐには決められない」
「そうですね。まだ時間はありますし、ゆっくり考えましょう」
 シエルは考え込みながらバルコニーに出て行く。その後姿が次第に小さくなる。
 セバスチャンはキッチンのテーブルの脇に立って、シエルをずっと見つめていた。

to be continued…