輝く月の夜に 第二章

第六話 楽園 前編

 二週間、三週間が過ぎ、瞬く間にあれから一ヶ月が経った。
 夏が終わろうとしている。
 事件は公表を伏せられた。老舗有名出版社の強い要請で、自社の社員が引き起こした誘拐監禁・殺人未遂事件はメディアから覆い隠され、セバスチャンには見舞金──体のいい口止め料──が振り込まれた。表向きはセバスチャンが体調を崩して長期療養中ということにされている。
 セバスチャンがあの部屋で作らされていた『現代文学全集100』のコンペティション用の作品も、実はコンペ自体行なう予定などなく、すべてあの編集者の企みだったのだと知らされて、シエルは暗澹たる気持ちになった。

 まだ彼は眠り続けていた。

「シエル君、おとうさんの……違った! フィアンセさんの身体を拭きますけど」
「邪魔じゃなかったら、僕、手伝います」
「全然、邪魔じゃないですよ。手伝ってくれてありがとうございます!」
 看護師たちともすっかり仲良くなり、シエルはセバスチャンのからだのケアを手伝う。ベッドのリクライニングを倒し、寝間着を脱がして、全身を拭っていく。
──いつ、目が覚めてもいいように。気分よく起きられるように。
 そう思いつつ、肌を拭う。少し肉は落ちたが、均整の取れた綺麗なからだつきは変わらない。
「早く、意識が戻るとよいのにね」
 看護師が同情の声をかける。
「そうですね」
 明るく答えたものの、シエルは覚悟していた。
 このままセバスチャンの意識は戻らず、ずっと植物状態が続くかもしれない。
 それでも。
──それでも、僕はずっとそばにいるから。何年でも何十年でも、僕が朽ち果てるまで、貴方のそばにいるから。
「フィアンセさん、髭は生えない体質なのね。髭剃りしなくてもいいのは、よかったかな?」
 くすくすと看護師は笑って、忙しそうに病室を去る。
 手術の際に剃られてしまった美しい黒髪は、最近になってようやくツンツンと短い芝生のように生えてきた。シエルは滑らかな陶器のような肌にそっと触れた。
 温かい。
 いまにも目を開けて、「シエル」と呼んでくれそうなのに。ほんの少しぬくもりを得た指を離し、ベッドの横に、小さな机と椅子を並べた。
「じゃ、今日は僕、ラテン語の勉強するね」
 そうやって日がな一日、シエルはセバスチャンの傍らで過ごす。
 この先、どれぐらいこの日々が続くのかは、あえて考えないようにして、一日、一日を無事に過ごすことだけに集中した。
──セバスチャンが生きているだけでいい。多くは望まない。
 穏やかな日々が続き、いつか再び、セバスチャンの目が開くことを祈ろう。
 坦々と、淡々と、シエルは過ごす。絶望に絡めとられないように。魔に足元をすくわれないように。できるだけ笑顔で。元気に。

***
 ここは、どこなのだろう。
 生温い闇。
 一歩、歩くごとに、大量の泥に足を取られて、うまく進めない。
 からだを思うままに動かせない。どこか頼りなく、覚束ない。自分が自分でないような、そんな不確かな感覚。

 なぜ、この闇はいつまでも自分を取り巻いているのだ。
 長く深い闇にセバスチャンは倦んでいた。どこまで行っても先がなく、いつまでもたっても同じところを彷徨い続けている。
──私は……死んだのだろうか。
 シエルは、どうしたのだろう。生きているのだろうか。無事なのだろうか。彼らの手から逃れられたのだろうか。

「シエル」
 愛しいひとの名を呼ぶ。

 シエルに会いたい。
 シエルに会いたい。

 行けども行けども終わりない世界に疲れ果て、ついに泥の中に倒れ込んだ。
 もう、これ以上、進めない。
 頬に触れる生暖かい泥が心地よく、このまま休みたいと願う。
 目を閉じた。
 からだがゆっくりと泥の中に沈んでいく。

「セバスチャン? 聞こえる? あのね……」

 闇の中、ふいに、くっきりとシエルの声が響いた。
 シエル?
 どこだ、どこにいる?

 からだ中に絡みつく泥と格闘しながら、セバスチャンは立ち上がり、再びのろのろと歩き始める。

***
「シエル坊ちゃん」
 声をかけられて振り向くと、後ろ手に組んだ白衣姿のタナカが立っていた。
「まだ、診察時間じゃないですよね、ドクター。どうしたんですか?」
 タナカはにこやかに笑って、背中に隠していたものをシエルの前に差し出した。
「あ」
 老医師の分厚い手のひらの上には、緑の葉をつけた、小さな薔薇の鉢植えがあった。
「すべて燃えてしまったと思ったのですが、ほれ、葉が出て来ましたぞ」
 ほっほっほっと高らかにタナカは笑った。
「土中の根は死んでいなかったのですな。根元から小さな枝が伸びて、育ってますぞ」
「……」
 シエルは一言も言えず、ただその小さな薔薇の木を見つめるばかりだった。知らず知らず、涙が頬を濡らし、慌てて手の甲でごしごしと擦った。
「……よかった」
 呟いて、タナカからそっと鉢を受け取ると、セバスチャンに見せるようにして掲げる。
「セバスチャン? 聞こえる? あのね、ドクターの家の薔薇がまた葉をつけたよ……」

──……が、また葉をつけたよ……

 言葉がうまく聞き取れない。セバスチャンは苛立った。
「シエル、もう一度……」
 瞬間、周囲に薔薇の香りが漂った。
 景色が一変する。
──薔薇だ。白薔薇の庭。
 辺り一面、白い薔薇で埋め尽くされている。その奥に、人影がひとつ。
 後ろ姿だ。
 シエルに似た、ほっそりとした立ち姿の少年。
──シエル?
 少年は、薔薇の庭に立ち、じっと前を見つめている。
 まるで誰かの訪れを待っているかのように。
 気配を察したのか、少年がゆっくりと振り向きかけた──
 刹那、白薔薇の花びらが一斉に空に舞い上がり、同時に薔薇の庭は忽然とかき消え、再び辺りは、闇──。

「セバスチャン? 聞こえる? あのね、ドクターの家の薔薇がまた葉をつけたよ……」

 今度ははっきり聞こえた。近い。セバスチャンは急いで周りを見回す。闇の中に一カ所だけ、亀裂が入ったように、白い光が差している。
 その光に向かって、走り出した。

 走れ、走れ、走れ!
 息が止まるまで走れ──!

 あの光のもとへ辿り着けば、きっとシエルに会える。
 セバスチャンは何度も転び、何度も立ち上がり、ただひたすらに走り続けた。

「シエル坊ちゃん……!」
 タナカが驚いたような声を出し、シエルはタナカの視線の先を追った。
 セバスチャンの伏せた睫毛がかすかに震えている。 
「セバスチャン……? セバスチャン、セバスチャンッ、セバスチャンッッ!!」
 シエルは胸にしがみつき、叫んだ。何度も。何度も。
──起きて。目覚めて。僕を見て。僕を呼んで!
 そうして──。
 漆黒の睫毛はゆっくりと持ち上がり、セバスチャンの紅茶色の瞳が現れた。
「……ん」
「セバスチャンッ!!」
「シ、エ……ル」
 しばらく焦点が定まらなかった視線がシエルの顔に止まった。セバスチャンの瞳はしっかりとシエルを捉え、そして急に眉をひそめて、心配そうな顔になった。まだよく動かない口を懸命に動かす。
「シ……エル、ぶ、じ? けが、ない? だい……じょう、ぶ?」
「くぅッ、ッ、貴方って人は……貴方って……! ばか! セバスチャンのばか!! 僕の心配なんて!! 貴方のほうが大変だったんだよっ! 貴方こそ……! ごめッん……僕のせいでッ」
 シエルは大きく嗚咽し、肩をぶるぶる震わせて、セバスチャンの肩口に顔を埋めた。
「僕……僕は、大丈夫! 怪我なんてしてない。大丈夫だから……!」
 それを聞くと、セバスチャンは安心したように息を吐いた。ゆっくりと腕を持ち上げて、シエルの背に触れる。
「嗚呼……よかっ、た。シエ、ルが、無事で……」
 からだ全体を震わせて泣きじゃくる少年を抱きしめた。

***
 セバスチャンの回復は順調だった。
 意識が戻ってから一週間すると、ベッドから出て車椅子で動けるようになった。その三日後には、ゆっくりとだが歩けるようになっていた。医師の指示にはおとなしく従い、リハビリも文句を言わずに黙々とこなす。わがままを言わない患者だと医師や看護師たちに人気で、病室はいつも明るかった。
「ドクター、ありがとうございます」
 タナカとシエルから事件のあらましを聞いた日、セバスチャンはあらためて礼を言った。タナカはいやいやと頭を振り、
「もしも貴方を失ってしまったら、シエル坊ちゃんに合わせる顔がありませんからな。正直なところ、後悔しておったのですよ。相手が襲ってくるまで待っていたことで、貴方を救出するのが遅くなってしまった……。あと少し遅かったら、たぶん間に合わなんだ。随分、辛い目に遭わせてしまって、申し訳ありませんでしたな……」
 と、頭を下げた。
「いえ。もう、過ぎたことですから。ドクターとシエルのおかげで、こうして再びこの世に戻って来られましたし」
「え、僕?」
「ええ」
「僕は、なんにも……」
「私を呼んでくれたでしょう?」
「?」
「薔薇が葉をつけたよと……」
「あ……聞こえたの?」
「ええ、はっきりと聞こえました。それで戻って来れたのです」
 不思議そうに首を傾げるシエルに、セバスチャンはそれ以上語らず、ただ微笑み返した。
「ところで、ドクター。現役は引退したはずじゃありませんでしたか……?」
 タナカの白衣姿を、セバスチャンはけげんそうに見る。
「ほっほっほっ。そのはずでしたが、貴方の手術を執刀した腕を買われましてな、ぜひ現場復帰をと強く請われて、第一線に再び返り咲きました。この老いぼれにも、まだまだ使い道があるということですな」
 タナカは誇らしげに胸を張った。
「家内もきっとあちらで喜ばしく思っているでしょう。ほっほっ、まだまだ、元気に働きますぞ! おお、そうだ。シエル坊ちゃん。そんなわけで、これから忙しくなりそうでしてな。和菓子のレッスンはいましばらく待って頂けますかな」
「はい、わかりました」
「では、よろしくお願いしますぞ」
 張り切った背中を見せて、タナカは意気揚々と次の患者のもとへ行く。
「ドクターは前よりも若返ったような感じがしますね」
「そうだね……」
 セバスチャンは笑ったが、シエルの表情はいまひとつ冴えなかった。

***
 消灯時間。
 室内の灯りは消され、窓から差し込む月明かりだけがほの白く病室を照らしていた。
 ゲストベッドに横たわっていたシエルはのそっと起き上がり、自分のベッドの端に座った。
「眠れないのですか?」
 シエルはううんと呟き、胸につかえていたことを、訥々と話し始めた。
「セバスチャン、ごめん……」
「え?」
「あの事件は……全部、僕のせいだ。あの雑誌の表紙モデルなんてやらなければ、貴方がこんな目に遭わされることはなかったんだ。ドクターの薔薇だって……」
 セバスチャンはシエルの深い苦悩を見て取った。
「シエル、そんな風に考えないでください。あの編集者はチャンスがあれば、いつだって私に襲いかかって来たでしょう。たまたまそういうタイミングになってしまっただけです。罰すべきは彼らであって、シエルではない。だから、自分を責めないでください」
「けど……だけど……僕にこんな印があるから……」
「それを利用した彼らが悪いのですよ。シエルだって、あのアシスタントカメラマンに随分酷い目に遭わされたのでしょう? ひとりで、よくがんばりましたね。そばにいてあげられなくて、ごめんなさい……」
 強く首を横に振り、シエルは身を振り絞るように叫んだ。
「……でも、でもっ、僕は……ッ、穢れて……」
「!」
「僕は、穢れて、いるんだよね?」
──貴方みたいな綺麗な子がする奉仕って、ひとつしかないですよね? そのからだで、何人を気持ちよくさせたんですか
──彼は紳士なんですね、穢れきった貴方を優しく抱くなんて。
──お前は穢れた悪魔だっ!
 彼らの声がシエルの脳裏に次々と蘇る。
「……シエル」
 昏い瞳がセバスチャンを捉えた。まばたきもせず、じっとセバスチャンを見つめている。
「この焼印を付けられたときに……穢されたんだ……ね?」
 耐え切れず、セバスチャンはシエルを遮ろうとした。
「そんなこと……そんなことは……!」
 だが、言葉を続けられない。それを見て、シエルは自嘲気味に笑った。
「やっぱりそうなんだな。誰も僕に言わなかった。かあさまもとうさまも、叔母さまも……そして貴方も。貴方はいつから知っていたの? 僕のからだが無垢でないことを、いつ、誰から訊いた?」
 まっすぐな瞳が自分を射抜く。隠してはいけないとセバスチャンは悟った。
「婚約したときに、ミッドフォード夫人と電話で少し話をしました。そのとき、彼女が話してくれたのです」
「なんて言ってた?」
「……」
「セバスチャン!! 僕自身のことだよ! どうして誰も僕に教えてくれない? 僕が……僕だけが、自分のことを知らないなんて! 僕には知る必要があるんだよ!」
 セバスチャンは小さく溜め息を吐き、静かに告げた。
「4年前、貴方が保護されたとき、拘束の跡と火傷の他に……内部に酷い裂傷があり、検査の結果、おそらく監禁の間中、ずっと性的暴行を受けていたと」
「……!」
「シエル」
 差し伸べた手は乱暴に振り払われた。
「触るなっ!」
「シエル」
「そうだ、僕は穢れているんだ。僕は、きっと、何度も犯されて、誰かをたっぷり楽しませたんだ……ッッ」
「シエル、落ち着いて……」
「僕は落ち着いている! 僕は子どもじゃない! 僕は……僕は……ッッ」
 あああああッという絶叫が、病室に響き渡った。
 小さな影が床に踞り、震えている。自らの傷の瘡蓋を自ら剥ぎ取って、血まみれになって、のたうち回っている。
 セバスチャンはベッドを降りて、暗闇に踞る影に声をかけた。
「シエル……」
 再び差し伸べた手は、再び拒絶される。う、う、と呻くように泣き続ける小さな人影に、胸が痛んだ。
「シエル」
 三たび差し伸べた手は、三たび拒絶される。セバスチャンはあきらめない。
「シエル」
「……触らないでっ!」
 何度も拒絶され、何度も手を差し伸べる。何度振り払われても、手を差し伸べる。
「シエル、愛しています」
「……嘘だっ」
「嘘ではありません」
「愛しているわけがないだろう? こんな汚い僕を! どうしてそんなことが言えるんだ」
「愛しているからです」
「うそだっ!!」
「貴方に嘘は吐かないと、以前、約束しました。それはいまも変わりません」
「うそだっ、うそだっ、うそだっ!!」
 差し伸べられた手を肩で振り払い、シエルは立上がって叫んだ。
「同情だろ? はっ! ただの同情だ! 僕を憐れんで、一緒にいるだけだろう? からだを弄ばれて、両親を失って、親戚にも疎まれて、そんな孤児をかわいそうに思ってるだけなんだろう!!」
 すうっとセバスチャンの気配が変わった。怒りを押し殺した冷たい声が落ちる。
「本気で、言っているのですか?」
 聞いたこともないような低い声に、シエルは一瞬怯んだ。
「え……?」
「本気で、そう言っているのかと訊いているのです。私が貴方に同情しているだけだ、と……?」
「ッ、そうだよ!」
 セバスチャンは立上がったかと思うと、シエルの背をひっつかんで、病室の壁に乱暴に押しつけた。
「ツ! な……にする、セバスチャン! 痛いっ」
「ええ、痛いです。とても痛いですよ。貴方にそんなふうに思われていたなんて……」
 セバスチャンの瞳が深い哀しみと怒りに満ちている。
「だって、そう……なんだろ? 結局、同情で……ッッ!?」
 シエルの両手首を掴み、壁に押しつけたまま、セバスチャンは唇を塞いだ。
「……や、だっ!」
 セバスチャンは無言で、再び離れた唇に唇を押し当てる。
「んっっ!! ン、や、!」
 首を乱暴に横に振って、キスから逃れようとする少年の唇を追いかけて、さらにくちづける。
「……や、だ」
「いいえ」
「やだ!」
「いいえ!」
「いやだ、やめろっ!」
「いいえ、やめません」
 逃げる唇を追い、捕まえ、再びキスをする。何度逃げられても、何度も追いかけてキスをする。
──シエルが受け入れるまで。シエルが理解するまで。
 セバスチャンは無言でキスを続ける。
 シエルの頬を涙がこぼれ落ちる。
「い……や、だ、セバ……スチャン、な……ぜ? こん……な……」
「貴方が私を愛しているからです」
「え……ッ?」
「貴方が私を欲しているからです」
「ちが……、なにを言ってるの?」
「貴方が私を愛して、求めているのです。違いますか? シエル?」
「わ、かん……ないよ、意味が……」
 シエルの手首からようやく力が抜けていく。セバスチャンはさらにシエルを壁に押しつけて、キスを続けた。
「……ん、あぁ……は」
 次第にキスは深く、あまやかにシエルの口内を犯し始める。背筋を駆け上がる悪寒に震え、耐えた。
「ず……るいよ、こん、な……っ」
「こんな?」
「こんな、キス、ずるい……」
 ふ、とセバスチャンは笑って、さらに唇を犯す。からだに力が入らず、シエルはずるずると床に崩れ落ちそうになる。そのからだをセバスチャンは無理矢理引っ張り上げて、壁に押しつけ、また唇を深く合わせる。
 歯列を、舌でぬぐった。
「……ぁ」
 潤んだ二色の瞳が、なにかを訴えるようにセバスチャンを見つめる。
「シエル。貴方が私を愛し、求めているのです」
 セバスチャンはもう一度言った。
「そして、私はそれ以上に貴方を愛し、求めている……いっそ殺したいほどに」
 シエルが瞠目した。
「愛する人を殺して、自分だけのものにしたい──あの編集者と私は同じなのです。貴方の一挙手一投足に揺れ、不安になり、嫉妬に身を妬き、醜く焦がれ、その恐ろしく深い業のような執着を持て余しているのです。あの編集者が私に対して持っていた想いと、同じような想いを私もまた抱えているのです」
 セバスチャンはシエルを抱き上げると、自分のベッドに下ろした。共にベッドに乗り上げ、シエルのナイティのボタンをはずしていく。
「それが──同情ですって? ばかな。シエル、だから貴方はまだ子どもだというのです。これは同情などという生易しい感情ではありません」
 同情ごときで、あの部屋の気違いじみた暑さに、痛みに、絶望に、耐えられるはずがないだろう。なぜそれがわからない。
 怖れおののく二色の瞳から目をそらし、唇に舌を這わせた。その感触に少年が震えたのを見て取ると、頬にキスし、耳に舌を差し込む。
「あッ……う」
 小刻みにシエルのからだが震え始め、その震えは途切れることなく続く。耳朶を舌で丁寧に舐め、ずるり、ずるりと首筋から鎖骨まで何度も往復した。震えがさらに大きくなる。
「貴方にすべてを教えたわけではない……。貴方の知らない夜も、まだあるのですよ」
 少年の両手首を掴んで頭上に上げた。ボタンのはずされたナイティが持ち上がり、あらわになった胸の突起を舌で軽くころがす。
「や……っ!」
「このからだが穢れていると? あり得ない。穢れなど、ひとかけらもあるはずがない。私が貴方を隅々まで慈しんでいるのですから」
「セ……バスチャン……」
「からだも心も、貴方のすべては私のもの。他の誰にも、なににも、穢されることなどないのです」
 ギシッと、ベッドが軋んだ。
「貴方への気持ちが、同情などではないとわかるまで……抱いてあげましょう。シエル」
 セバスチャンの唇はシエルの胸を食み、噛み、下へ這って、へその回りを丹念に舐める。シエルの腰が自然に浮き、足が開き始める。
「そう……貴方は、私を求めている。シエル、貴方は私が必要なのですよ」
 そうだ。誰よりもセバスチャンを欲しているのは、この僕だ。だからこそ、確かめたくて、同情ではないと言って欲しくて、あんなことを……。
──ずるいのは、僕のほうだ。
 シエルは、片腕で顔を覆って、歯を食いしばった。こらえても涙は流れ落ちていく。
 セバスチャンはシエルの腕を取りのけ、頬の涙を舐めて拭った。泣き濡れた少年の顔をやさしく見下ろす。
「愛しています。シエル。これまでも。これからも。ずっと。」
 唇を合わせると、強く舌を吸い、もがくシエルの手を肩につかまらせた。やがて唇を離し、人差し指と中指の二本を涎まみれのシエルの口内に押し込む。
「んっぐ!」
「よく舐めて、濡らしてください」
 ぐいぐいと口内を指で蹂躙し、涙ぐむシエルを見遣った。
「ひさしぶりだから──痛いかもしれません。でも、我慢して。今夜は、いつもの私はいないと思ってください、シエル。いまは貴方を思い切り抱きたい」
「……ッ!」
「嫌だと言っても、やめません」
 こくっとシエルの喉が鳴った。恐怖に似た甘い感情が、つま先から這い上がり、からだ全体を支配する。これほどまでに自分を欲する男の視線に、心を持っていかれる。
 セバスチャンは充分に濡らした中指を、シエルの後ろにあてがって、まだ狭いそこを押し広げるようにゆっくりと挿入した。
「ん────ッッ!」
「力を入れないで」
 肩にしがみついたまま、シエルは全身の力を抜くように息を吐いた。
「痛い……?」
 かぶりを振った。瞬間、ぐるりと中を一周され、頭の中に光が弾け飛ぶ。
「あゥッ……!」
「気持ちがいいでしょう?」
 息が止まる。セバスチャンの指は一カ所を探り当てると、執拗にそこばかり、責め立て始めた。痺れるような強烈な刺激に目が眩む。
「や、めて、オ……カシくなる……」
「狂ってしまえばいい」
「や、だ……ぁ」
「理性など、捨ててしまえばよいのです。シエル、いま、この瞬間は」
 指は二本に増やされて、シエルの奥を拡張するように動かされる。いつの間にか、足を上げ、大きく開き、セバスチャンを受け入れる格好になっていることにシエルは気づいた。急に羞恥に襲われて、足を閉じる。
「シエル、恥ずかしがらないで」
 セバスチャンは唇に軽くキスを落とすと、下半身にまで舌を這わせ、すでに勃ち上がっていたシエル自身をひと息に舐め上げた。
「あああッ!」
「そう、もっと啼いて。もっと叫んで」
 指を入れたまま、シエルのそれを軽く食み、裏も表もじっくりと舐め、先端に舌を差し入れて、ひくひくと腰を浮かせて白濁をまき散らすまで、執拗に愛撫した。何度も達して、力の抜けたシエルの後ろに、指をさらにもう一本入れる。
「指を三本も呑み込まされるのは、初めてですね、シエル」
「んふ……ッ、は、あ……ッッ」
 胎内に差し込まれた指が複数の箇所を探り当て、しつこく擦り、酷く甘い官能を引き出していく。からだが蕩けて、頭の中のなにもかもが蕩けて、気持ちがいいことしか考えられない。
「私が欲しいでしょう?」
「はッ……あ、あ、セ……バ、ス……」
「欲しいと、言って、シエル」
「……んぅ」
「言って」
「ゥ……欲、し……いッ」
 指を一気に引き抜かれた。くたくたとベッドに沈む足の付け根を掴まれ、腰ごと持ち上げられて、ずっしりと重量感を持った熱を中に押し込まれる。
「ッ」
 溶けるほどに熱いシエルの内部がセバスチャンを包む。無数の肉襞が貪欲に絡みつく。セバスチャンは一気に貫きたい気持ちをかろうじて抑え、快楽に身をよじる少年を眺めながら、ゆっくりと、少しずつ、奥へ奥へと侵入を進めた。
「とても熱いですよ、シエルの中」
「ン……あ、あッ! 」
 浅く抜き差しを繰り返しながら、顔の横で痙攣するように動いている小さな足を舐めた。
「やだ! そんな……とこ……!」
「なぜです? ここも性感帯のひとつですよ……。感じるでしょう?」
 指の一本一本をやさしく口に含んで、舐め上げる。
「ひぁ……っ!」
「ね、ここだけでもイけるでしょう?」
 ふー、ふー、と息を荒げ、大きな瞳に涙を滲ませて、シエルはセバスチャンに懇願した。
「も……っと、奥……に……」
 強請られて、全身の血が沸騰する。
 セバスチャンはシエルの両膝裏を掴んで、さらに足を高く持ち上げると、一気に深く、最奥まで貫いた。そのまま、抜けるぎりぎりまで引き、またすぐに最奥を目指す。
 ギシッ、ギシッとベッドが悲鳴を上げた。構わずセバスチャンは、幾度も幾度もシエルを貫き、白濁を流し込み、そのまま抜きもせず、さらに交わり続けた。ぬめぬめと光る後孔はいやらしい音を立てて、ふたりの快楽を受け入れていく。
「あ……あ……」
 さっきまでセバスチャンを罵っていた唇は、もはや、愛の叫びしか紡げない。ガクガクと震え、涙を流してただ快楽に瞳を蕩かせたシエルの姿にまた欲情し、煽られ、セバスチャンは繰り返し、繰り返し、シエルを貫いた。
 うつ伏せにし、後ろから覆い被さり、野生の獣さながらに哮る。身をよじり、恐ろしい快楽の波から逃れようと必死に前へにじり寄る少年の両腕を後ろにねじり上げ、上半身を立たせた。膝だけで立つ不安定な姿勢をとらされて、苦しげに息を吐く少年のからだの前に腕を回し、支えながら乳首をつまみ上げ、叫び、喘ぐ彼の首筋を噛み、全身全霊を傾けて貫き、律動し続ける。
 月が窓から見えなくなり、やがて、夜が白々と明け始めるまでふたりの交わりは終わらなかった──。

 病室の中は嵐が通過したかのように、凄まじく荒れていた。汗と涎と白濁にまみれた皺だらけのシーツや枕が床に落ちている。花瓶が割れ、花があちこちに散乱していた。
 剥き出しになったマットレスの上で、セバスチャンはシエルを背後から抱きしめていた。
「セバ……スチャン」
「ん……なんです。シエル」
「まだ、入って……るよ」
「ええ、このままで」
「え?」
「このままで、眠りましょう。貴方の中に入れたまま」
「……!」
「嫌だと言っても、聞きません……いまは」
 シエルの耳をやさしく齧った。
「そして起きたら、また、貴方を抱きます。貴方が私を信じるまで。この想いが同情ではなく、愛なのだとわかるまで、貴方を抱きます……何度……でも……」
 そう言ってセバスチャンは静かに目を閉じた。やがて規則正しい寝息が聞こえてくる。
 シエルの胸にひたひたとなにかが満ちてきた。
 心の傷が癒え、ささくれ、荒れ、ねじくれていた気持ちが遠くへ消え去っていく。
 胸の奥から熱いものがこみ上げて、シエルは声を忍ばせて、啜り泣いた。

「あひゃ? えええっ、やだ、どうしよう……?」
 驚く声にセバスチャンがハッと目を開くと、朝の検温に来た看護師が顔を真っ赤にして立っている。
「嗚呼、おはようざござ……ツッッ!! うあっ!!」
 素っ裸でシエルを抱きしめたまま、すっかり眠りこけていたのだ。慌てて、からだを隠そうとしたが、シーツも上掛けもベッドの下で、手を伸ばしても届かない。
「あの……すみません……」
 セバスチャンが申し訳なさそうに言うと、看護師は顔を背けながら、床のシーツを拾い、ふわっとふたりのからだに投げかけた。
「いえ、おふたりはご夫婦なんですから、いけないことはないのです。ええ、いけないことはないのですが、体温を計らせてくださいっ!」
 腕を伸ばして、体温計を差し出した。まだ夫婦じゃないんですけどね、とセバスチャンは内心笑いながら、体温計を受け取り、脇に挟む。
 看護師は手にしたボードに朝の体温を書き込み、
「も、もうすぐ、朝食の配膳が来ますから、あのっ! そそそそれまでに、なんとかしてください。じゃ失礼します!」
 と、一気に捲し立てて、「きゃあああ~ きゃあああ~」と叫びながら、部屋を飛び出していった。
 シエルはまだ眠っている。
 セバスチャンは小さなからだをゲストベッドに移して、上掛けでからだをくるんでやった。

***
 退院の日が訪れた。
 看護師からたくさんの花束をもらい、ドクター・タナカはじめ、世話になった医師に挨拶をして、セバスチャンとシエルはタクシーに乗り込む。
 車中から眺める街はもう秋だ。街路樹の葉はすっかり色づき、抜けるような青い空が広がっていた。
──闇は遠ざかったのだ。
 あの夏。暑さと痛みに苦しめられた夏。闇に堕ちた人間たちに苦しめられた夏は、ついに終わったのだ。

 マンションに荷物を運び入れ、窓を開いて、こもった空気を入れ替えた。
 二ヶ月ぶりに我が家に戻り、懐かしいキッチンのテーブルを手のひらで撫でた。ふと、壁のへこみが目に入る。
「ああ、それ、ドクターだよ」
 セバスチャンの視線に気づいたシエルが言った。
「えっ?」
「ドクターがね、あいつを……あのアシスタントカメラマンを投げ飛ばしたときに、できた傷」
「そうですか……」
「僕は、ほとんどなにもできなかった。ただ、怯えるばかりで。ただ、貴方を心配するばかりで。ドクターがいなかったら、僕も、貴方も、たぶん……」
「……ええ、そうですね」
 シエルはキッチンに入って、お湯を沸かし始めた。冷凍しておいたお気に入りの豆を取り出し、手回しのミルにざらりと入れ、ゆっくりと豆を挽く。サーバーに挽いた豆を入れて、熱湯で抽出する。
 セバスチャンは一連の動作を眺めていた。やがてコーヒーのよい薫りが辺りに漂い始める。
「随分ひさしぶりです、コーヒーの薫り」
「そうだね」
「あの部屋に閉じ込められていたときを思い出します」
「?」
「シエルの淹れたコーヒーを飲みたいと、何度も思いました。冷たくて美味しいアイスコーヒーをつくってと、実際に言ったりしましたよ」
 自分の部屋にそっくりなあの悪夢のような部屋で、何度も絶望した。
「もう、貴方に会えないかもしれないと思っていました」
「……うん」
「生きて貴方に会う日はもう訪れないのだ、と……。でも、それは違った。こうして、また貴方を眺めていられる」
「……うん」
「また貴方を愛することができる」
「……うん」
 シエルは出来上がったコーヒーを揃いのカップに注ぎ、セバスチャンに手渡した。
「セバスチャン」
「なんでしょう」
「ありがとう」
「……?」
「本当のことを言ってくれて、ありがとう。誰も僕に教えてくれなかったことを、きちんと話してくれてありがとう」
 シエルはしっかりとセバスチャンを見つめ、自分から唇を寄せて、くちづけた。
 セバスチャンが驚く間もなく、シエルは、ようやく少し伸びてきた黒髪を掴んで、さらに激しくキスをする。
「ッ、シエル?」
「愛してる」
「え?」
「二度は、言わないよ」
 シエルは風のようにセバスチャンの前を離れると、向かいの席にちょこんと座り、淹れたてのコーヒーを口にした。
「ん──、うまいっ!」
 たった今、起きたことと、目の前の無邪気なシエルが結びつかない。混乱するセバスチャンを見て、シエルはくすりと笑った。
「あの、シエル。ひとつ、気になっていたことがあるのですが」
「なに?」
「なぜ、シエルはモデルをOKしたのです? 貴方には珍しいことだと思ったのですが……」
「う。いや、そのことはもういいよ」
「よくありません。教えてください」
「だって……あんまり、恥ずかしいから……」
「恥ずかしい……? お願いです。聞かせてください」
「怒らない?」
「怒ったりしません。誓います」
 真顔で宣誓の手を挙げるセバスチャンを見て、シエルはあきらめたように肩をすくめた。
「じゃあ……」
 頬を赤く染めて、セバスチャンにごにょごにょと耳打ちした──。