輝く月の夜に 第二章

傍らにはいつも貴方が

番外編①

傍らにはいつも貴方が

 ポンと軽快な音がして、柔らかい女性の声のアナウンスが流れた。
「当機はまもなくダレス国際空港に着陸いたします。シートベルトをお締めください」

 飛行機は苦手だ。
 シエルはテーブルを戻し、ゲーム機をバッグに入れて、シートにもたれかかった。
 どうしても、父と母のことを思い出してしまう。
 2年前、もう一度新婚旅行に行くのよと浮かれていた母と、それにつき合うために忙しい仕事をどうにか片付けた父は、二度目の新婚旅行を満喫し、シエルの誕生日に間に合うよう、テキサスからポートランドの自宅に帰る途中、飛行機事故で亡くなった。
 あまりに突然の出来事に茫然自失したシエルが、親戚に伴われて現地に駆けつけたときにはもう、両親の骨は小さなふたつの箱に入っていて、遺体に対面することも叶わなかった。だからシエルはいつまでも、「ただいま、シエル」とふたりが家に帰ってくる気がしてならず、「ここにはもう住むことはできません」と父の弁護士に言われても、いかにもビジネスマン風の冷淡な男の顔を、ただ見返すことしかできなかった。 
 親戚の家に行っても馴染めず、転校先の学校でもなぜかしらいつも苛められて、両親のいるはずの家に帰りたかった。
 けれど未成年のシエルには行動の自由はない。
 家に帰れない苛立ちばかりが募り、学校をこっそり抜け出しては街を彷徨った。とんだ不良息子を預かったものだとののしられ、別の親戚の家に連れて行かれる。
 そこでもまた同じようなことが起こり、また別の親類へ。
 預けられる先は、どんどん血縁の薄い縁者になり、幾つかの家にたらい回しにされた挙げ句に、とうとうまったく血縁のない、ただ生前の父と親しかっただけというセバスチャン・ミカエリスのマンションに連れて来られたのだった。
 ふぅと小さく息を吐いた。
 マウイへ行くときには全然平気だったのに。
 あのときは、事件のあとで気分が高揚していたのかもしれない。セバスチャンと一緒に旅行できるのが嬉しくて、こんなことを思い出しさえしなかった。
 今日は12月14日。シエルの15歳の誕生日。そして両親の命日でもある。
 そんな日に、飛行機に乗ることになるなんて……。
「シエル……?」
 隣の席から聞き馴染んだ声がした。シエルははっと憂鬱な思いから醒めた。
「大丈夫ですか? さっきから黙ったままで……」
「ごめん、だいじょうぶ」
 と答えた自分の顔はきっと青ざめている。シエルは自覚したが、どうしようもない。あえて笑顔らしいものを作って、恋人を安心させようとした。
 シエルの婚約者であり、保護者でもあるセバスチャンはかすかに笑って、シエルの髪にやさしく触れた。
「無理しないでください。いま、すごーくヘンな顔になってますよ?」
 微笑みを浮かべられて、肩の力がすっと抜けた。
 この恋人には何も隠せやしない。
「うん……とうさまたちのことをね。思い出してた」
「……ええ、そうですね。できれば、この日は避けたかったのですが……」
 本来ならば、年が明けてからドクター・タナカの勤務するワシントン州立病院でセバスチャンの検査をする予定だった。けれど、新年に大きなオペの予定が入って、検査の日程が繰り上がってしまったのだ。
「向こうでのんびりシエルの誕生日を祝えると思ったのに」
 セバスチャンはシエルの髪に鼻をうずめた。甘い、低い声でそう囁かれると、シエルの胸はきゅっと苦しくなる。
 僕だって、そうしたかったさ。
 でも仕方がないよ。なによりセバスチャンのからだのためなんだから。
 心の中で自分に言い聞かせる。
 セバスチャンの健康状態はいいとはいえない。立ちくらみがあるようだし、ときどき目測を誤って、扉や柱の角にぶつかっている。本人は隠しているつもりだから、シエルは気づいても何も言わないでいた。
「検査日が早まったのはいいことだよ。ちゃんと診てもらって、安心して、クリスマスとお正月を祝おう」
 シエルが言えば、セバスチャンも深く頷く。
 そのときだった。
 突然、ガクンと床が抜け落ちるような衝撃に襲われ、機体が大きく上下に揺れた。短い悲鳴がそこここで上がる。きちんと閉まっていなかった荷物入れの蓋が開き、上からお土産の入った袋やバッグが落ちてきた。
「ッシエル、頭を下げて!」
 セバスチャンが素早くシエルの頭を下げさせ、守るようにその上に身をかぶせる。
「大丈夫、乱気流です。よくあることですよ。すぐにおさまります」
 シエルを落ち着かせるようにゆっくりと話す。
 こんなの平気。そうだ、よくあることなんだと思っても、シエルの動悸はおさまらず、視界は黒く閉ざされ、パニック状態に陥っていた。自分の呼吸する音がいやに大きく聞こえる。
 こんなところで死ぬなんてまっぴらだ。結婚式だってまだなのに……。
 機体の揺れはなかなかおさまらず、震えるシエルをセバスチャンはさりげなく、だが力強く抱いた。
「船は常に左側から接岸します」
「え」
「左側」
「なに?」
「飛行機は、船の流れを汲んで造られた乗り物です。だから……」
「セバスチャンてば」
「だからどの機体も、乗客が降りるドアは必ず左側にある」
「…………ねえ、それがなにか?」
 シエルが苛立って聞くと、セバスチャンはにこっと笑った。
「落ち着きましたか?」
「あ」
 セバスチャンが喋っている間、普段の自分に戻っていたことに気づいた。胸の動悸もおさまっている。
「あの、ありがと……」
「いえ」
 背中にセバスチャンの厚い胸の温もりを感じ、次第に呼吸がゆるやかになる。それにつられたように飛行機の揺れも消えていった。
 乱気流を抜けたとの機長のアナウンスに、乗客たちが一斉に大きな息を吐く。
 セバスチャンがからだを離し、シエルの髪の乱れを直した。
「やはり乱気流でしたね」
「う……ん。でも、ちょっと怖かった」
「結構、派手に動きましたから。私も少し怖かったですよ」
「貴方が怖いなんてこと、あるの?」
「なにを言うんです、シエル。私にだって、怖いと思うことはありますよ」
「そうなんだ……」
「人をなんだと思っているのです? 冷血漢じゃないんですから」
 溜め息まじりの言葉に、シエルは思わず笑った。
 ポンと再び軽快な音が鳴り、シートベルト解除のサインが点く。
 セバスチャンとシエルはシートベルトを外し、降りる準備を始めた。

***
 ワシントンD.C市内は、クリスマスムードで一杯だ。ショーウインドウは赤や緑のクリスマスカラーで彩られ、あちこちに大きなツリーが飾られている。通りを歩く人々のスピードについていけず、何度もぶつかりそうになり、シエルはぼやいた。
「人が多過ぎするよ」
「島暮らしでしたからね。すっかり、お上りさん気分です」
 クスッと笑って、セバスチャンはシエルの手を引いた。
 ドクター・タナカの勤務するワシントン州立病院は、スミソニアン博物館の並びにある。
 いつ訪れても観光客や地元の人間で混み合う巨大な博物館。長い行列ができた入り口を横目に見ながら、シエルは言った。
「そういえば、僕、スミソニアン、行ったことないや」
「嗚呼、そうですね。こちらにいる間、シエルはあまり街には出ませんでしたから」
 セバスチャンも足早に博物館の前を通り過ぎる。が、ふと立ち止まり、ぼんやりと明かりの灯っている角の三階の窓を指差した。
「あそこは、ホープダイヤの展示室ですよ。あの部屋は人気で、いつもとりわけひどく混雑していますね」
「ホープダイヤ?」
「ええ。蒼いダイヤモンドです。ルイ十四世も持っていたという数奇な運命のダイヤ。別名『呪いのダイヤ』とも」
「蒼いダイヤ……」
「シエルの瞳みたいに。とても綺麗な石です。検査のあとで寄りますか?」
「……ううん、いいや。宝石にはあまり興味ないよ」
 そうですかとセバスチャンは言って、病院の大きなゲートをくぐった。シエルも遅れないように、あとから走るようにして追う。
 ホープダイヤの展示室から漏れる光はどこか禍々しく、シエルはなにかにじっと見つめられているような気がして、落ち着かなかった。

*** 
 検査は思ったよりも長くかかり、病院内のカフェで待っていたシエルは待ちくたびれて、机に突っ伏してうたた寝していた。
「シエル」
 恋人の声でシエルは飛び起きた。
「あ、終わったの?」
「ええ」
 セバスチャンはシエルの顔を見ると、ぷっと笑って、指先でシエルの口元の涎を拭った。
「涎がついてますよ」
「うわっ!」
 手の甲で素早く擦って、シエルは席を立上がった。
「ドクターがお話したいそうです。一緒に行きましょう」 
 診察室でPCに向かっていたタナカは、シエルを見ると懐かしそうに目を細めた。
「お元気ですかな、シエル坊ちゃん」
「だから、ドクター! その『坊ちゃん』はやめてください。僕、もう15歳ですよ」
「おお、そうでしたな。誕生日、おめでとう……ふむ、あまり日焼けしておらんのですな。もっとこんがり焼けているかと思ってましたぞ」
 シエルもセバスチャンも、以前とあまり変わらない。ふたりとも南国・ハワイでふた月近く過ごしているとは思えない肌の白さだ。
 さて、とタナカはあらたまり、電子カルテを見ながらふたりに説明した。詳細な結果はあとからまた知らせるとして、今日わかったことだけでいえば、セバスチャンの状態はまずまずといったところ。それを聞いて、シエルはよかったと胸を撫で下ろした。
 今夏に起きた事件のせいで、セバスチャンのからだは大きなダメージを受けてしまった。一度傷ついた脳は完全には回復せず、まだ投薬が必要で、三ヶ月ごとに検査を受けて欲しい、とドクターは続けた。
 セバスチャンの顔をこっそり窺うと、神妙な顔をしてドクターの話に耳を傾けているように見える。
 けど、たぶん、全然聞いてない。
 シエルは心の中で溜め息を吐いた。彼が妙に無表情なときは、ほとんどなにも聞いていないのだとシエルは最近わかるようになった。
  今日は一体なにに気を取られているのだろう。
 隙のない人だと思っていたけれど、実は全体に隙だらけで、ただそう見えないだけのことなのだ。自分の寝癖にも気づかないで平気で出掛けようとするし、自分の誕生日だって忘れたりする。シエルのことは敏感に察知するくせに、自分のことにさほど興味を持っていないのだ。
 でも、それじゃ困る。もっと自分のことを大事にしてもらわないと。
 ドクターの説明が終わり、あとは今日のディナーの話になった。
「せっかくのシエル坊ちゃんの誕生日会ですからな。腕をふるいますぞ」
「いえ、僕たち、お手伝いするつもりで…… 」
「ほっほっほっ、主賓に手伝わせることなどできませんな。もうちゃんと準備してありますから、おふたりはなにも心配せず、のんびりくつろいでくだされ。では、また夜に」
 タナカは忙しげに椅子から立ち上がり、ふたりを送り出した。

「ねえ」
「なんです、シエル」
「ドクターの話、全然聞いていなかったでしょ?」
「…… …… 」
 気まずそうな顔をして沈黙する恋人の顔を見上げた。
「一応、大丈夫みたいだからいいけど。自分のこと、もうちょっと気にしてくれないと」
「シエルのほうが大切です」
「セバスチャン! 僕は健康なんだからね。貴方のほうが問題なんだよ」
「私はもともと頑丈ですし、あのあと特に悪くなっていませんよ」
「よく、ぶつかってる、家の中で」
 シエルはぼそっと言った。
「え」
「気づいていないと思ってた?」
 セバスチャンは口を噤んで、シエルにスエードのハーフコートを着せ、ボタンを嵌める。
「セバスチャン…… 」
「怖い顔をしないでください、未来の奥さん♪」
「もうっ! 真面目に聞いて。それに、奥さんはセバスチャンのほうだからね!」
「ドクターに話して、ちゃんとそちらの検査もしてもらいましたから」
「え、本当?」
「ええ、貴方に嘘は吐きませんよ」
「知ってる。だけど…… ときどき、ごまかすでしょ」
 セバスチャンは困ったように苦笑いして、まあときどきは…… と口の中で言いながら、シエルの背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「さあ、行きましょう」
「どこへ?」
「夜までまだ時間がありますから…… 少し、つきあってもらえますか?」
 シエルの顔を覗き込む。彼の紅茶色の瞳に見つめられると、いつだってドキドキする。慣れることなんてない。シエルは目を逸らして小さく頷いた。

***
 セバスチャンに誘われて、訪れたのはナショナルモール近くのインテリアショップだった。
「なんか欲しいものがあるの?」
「いえ、ちょっと見たいなと思って」
 セバスチャンの顔を仰ぎ見ると、いつもよりも楽しそうで、シエルはそれだけで自分の心が浮き立ってくるのがわかった。
 重いガラスの扉を押すと、想像したよりも広い空間が現れた。
 硬質な大理石の床。店のスタッフは奥のほうから、軽くセバスチャンに頭を下げた。特に接客にやってくる様子もない。
「売る気、ないのかな?」
 思わずシエルが呟くと、セバスチャンは眉を下げてクスツと笑った。いえいえ、売る気は満々のはずですよと小さな声で答えて、シエルを手招きする。
 なにやら未来風の不思議な形の椅子があるかと思えば、籐の素朴な椅子、アジアの工芸品のような家具もある。奥に行くに従い、店内の照明がおとされ、薄暗く、ミステリアスな雰囲気を醸し出している。一段高くなっているところが特に暗い。
 セバスチャンに手を差し伸べられて、一歩、段を上がると、そこには一脚のソファが置かれていた。
 薔薇が浮いている…… ?
 シエルは目を疑った。床から五十cmほどの空間に、赤い薔薇がいくつも浮いているように見えたからだ。まばたきして、もう一度ゆっくりと見る。
 浮いていると思った薔薇は、そうではなく、透明なアクリルの中に閉じ込められていた。椅子は、分厚く透き通ったアクリルで形作られていて、全体に薔薇の花びらが埋め込まれているのだ。もちろん薔薇が本物の植物であるはずはない。精巧な造りものの花びらだった。
「日本のインテリアデザイナーがつくったものです。あまりに人工的なので──初めて見たときは拒絶したくなりました。ですが、長く見ていると、逆に惹き込まれて…… 」
「…… 綺麗だ。すごく」
 シエルが呟くと、セバスチャンも頷いた。
「そう…… 美しいのです。この作品は」
 青い照明の中に浮かぶ透明な独り掛け用のソファ。ソファの形に切り取られた空間に薔薇がたゆたっている。
「買うの?」
 だから僕を連れてきたのかな、とシエルは思った。だが、セバスチャンは小さく首を横に振る。
「いいえ。ときどき、見たくなるのです。家に置きたいとは思いません。この椅子が本当にこの世に存在しているのかどうか、確かめたくなるといえばいいでしょうか。前はよくここに来て、見せてもらっていたんですよ──デザインの研究、と称して」
 クスッとセバスチャンは笑って、ふたりからずっと離れたところで、行儀良く様子を見守っているスタッフを見た。
「ああ、そうなんだ。あの人たちはセバスチャンがデザイナーだって知っているんだね」
「ええ。そして私が結構な上客なのも御存知ですよ」
「上客…… ?」
「おや、シエル。気づかなかったのですか。あそこにあるマレンコのソファも、ほら、あのカッシーナのテーブルも、うちにあるでしょう?」
 薄暗い照明の中、シエルが目を凝らすと、セバスチャンのマンションにある家具たちがそこここに展示されていた。駆け寄って、眺め回し、ふと気づいてプライスカードを手に取った。
「…… うわ。なにこれ。こんな高級品に囲まれていたわけ、僕?」
「そうです。どちらかといえば、最高級の家具たちです」
 セバスチャンがやや誇らしげに背を伸ばすと、シエルは呆れたように溜め息を吐いた。
「そういうことはもっと早く言ってよ。僕、結構、乱暴に乗っかったりしてた」
「いいんですよ、それで。家具だって、特別扱いされたいなんて思っていませんから」
「そうなの?」
「ええ…… ただ、あれは違います」
 セバスチャンが後ろを振り返って、いま見て来たばかりの透明な薔薇のソファに目を遣った。
「あの椅子は────」
 言いかけて、口を閉じた。シエルが問いたげな顔を向けても、セバスチャンは微笑むばかりでなにも言わず、スタッフに目で挨拶をし、店を後にした。

***
「わ、寒いっ!」
 夕暮れが近づいて、一気に気温が下がった。北極から近づいている寒気団の影響か、今日は格段に冷える。シエルはハーフコートのボタンを首まで止め、ポケットに手を突っ込んだ。ふわっと首元が急に暖かくなり、見上げると、セバスチャンが自分のマフラーをはずして、シエルにくるくると巻きつけている。
「いいよ。セバスチャンが寒くなる」
「大丈夫。寒さには強いですから」
 黒いコートの衿を立てて、セバスチャンはシエルの肩を抱き、歩き始めた。
「ねえ、他のソファとあれはどう違うの…… ?」
 シエルはさきほどセバスチャンが言いかけていたことが気になっていた。
「嗚呼…… 」
 と答えたきり、セバスチャンはまた押し黙って、冬の街を歩いていく。それ以上訊くこともできず、シエルもセバスチャンに歩調を合わせた。
 通りをいくつか曲がって進むうちに、リンカーン記念館の前を通り、ポトマック河の畔に出た。
 河を通る風はさらに冷たい。口の中まで凍りそうだ。
 マフラーを鼻先まで上げて、シエルはセバスチャンに寄り添った。
「あれは──弔いのソファです」
「弔い…… ?」
 思いがけないセバスチャンの言葉にとまどう。あの美しいソファが弔い──?
「墓標、といってもいいかもしれない。あの椅子を作った作家は、あれを発表してしばらくして亡くなりました。彼は愛した薔薇を透明なソファに閉じ込め、彼の命と共に葬ったのでしょう──永遠に」
 蝶の標本のように、薔薇を分厚いアクリル板に永久に閉じ込め、その残酷な仕打ちをひとつの美にまで昇華したソファ。作られた数は、作家の享年と同じ五十六脚のみ。
「貴方が私のもとに来た頃、あの店に何度か通いました。気づけば、あの透明なソファを見つめていた。あの頃、私たちはまだこういう関係ではなくて、でもすでに貴方に惹かれていて…… 。貴方を閉じ込めたいと、いつも思っていました。あのソファのように、貴方を──裸にして透明なアクリルに封じ込め、誰にも触られないように、私だけが貴方を見られるようにしたい、と」
 セバスチャンはシエルのほうを見ずに一気に話した。それから、少し瞳を揺らした。
「醜いでしょう? 私のことを嫌いになりますか?」
 シエルはゆっくりと首を振った。
「なぜ? 僕のことをそれほど愛しているのに? なぜ、嫌いになる?」
 嫌いになるわけないじゃないかと、セバスチャンの胸に頭をあずけた。
「貴方は僕を全然わかってない。僕は…… 貴方が望むのなら──何をされたって構わない」
 セバスチャンが息を呑んだ。
「……シエル。そんなことを言わないでください。私は貴方が思っているよりも…… ずっと酷い男なのですよ」
 知ってるよと言って、シエルは足を止め、いきなり河岸の手すりの上に登り始めた。セバスチャンが咄嗟に制止しようとしたが間に合わず、シエルは幅の狭い手すりの上に危なっかしく立って、河を見下ろす。
「シエル、危ないから…… 」
「貴方が望むなら、この凍りついた河に飛び込んだっていい。そうしたら、僕の死体は水中で凍って、あの薔薇みたいになるね」
「…… ッ」
「貴方は岸に立って、ずっと僕を眺め続けるんだ。もう永久に誰のものにもならない、僕を。貴方だけの僕を」
 手を伸ばそうとしても伸ばせず、硬直したように立ち竦んでいるセバスチャンをシエルは見つめた。河から氷の粒の混ざった冷たい風が吹き付ける。緊迫した空気がふたりを包んだ。
「……なんてね!」
 おどけた口調で言うと、手すりの上からピョンと飛んで、セバスチャンの胸に飛び込んだ。 張り詰めた空気が一気に解け、街の喧噪が再び彼らの耳に入ってくる。
「こら、シエル。一瞬、本気にしましたよ」
 シエルを抱きとめたセバスチャンはほっとしたように言った。
「僕はいつだって、本気だよ」
 シエルは二色の瞳を強く瞬かせる。
「私は、いまは──カチンカチンに凍ったシエルより、血の通っている温かいシエルのほうが好きです」
 囁いて、セバスチャンはシエルの冷えきった頬に唇をつけた。

*** 
 夜。
 ドクター・タナカの家の窓は、室内の暖気で白く曇っていた。
 夏の事件で焼き払われたタナカの家の庭の薔薇は、いまは覆いをかけられて、生き残った根を寒さから守っている。
 タナカが用意したバースディパーティのメニューは「すき焼き」で、シエルは大喜びだった。
「うわあ、初めてだよ、すき焼きパーティなんて!」
 歓声をあげて、テーブルの上の具材を眺めた。セバスチャンも、もの珍しそうに鍋を覗き込む。
 タナカは手慣れた手つきで、すき焼き鍋に牛脂を塗り、肉を焼き始めた。肉に焦げ目をつけ、割下をかけ回す。醤油と肉の香ばしい匂いが辺りに満ち、食欲をそそった。旬の野菜を入れ、軽く煮て火を通すと、生卵を溶いた器をふたりに渡し、タナカは食べ方を説明する。
「用意さえしておけば、手早くできますからな。ほっほっほっ。手の込んだものでなくて、申し訳ない」
「ううん、凄く美味しいよ!」
 溶き卵に、具材を浸けて食べること自体、シエルとセバスチャンには初めてのこと。ふたりは愉快そうにあつあつの肉を頬張った。
「ミカエリス君は、我が家にはよく来たのに、食事はほとんどしませんでしたな」
「そうですね。ドクターの奥様に嫌われていましたから」
 シエルは驚いた。
「貴方が嫌われるなんて…… 。なんで?」
「以前、ミカエリス君は職場の人間たちから嫌がらせをされて──よく、怪我をしましてな。手負いの獣のように、私の治療を求めて、夜中にここにやって来たのです。家内は普段はものに動じない人間なのですが、深夜に訪れたミカエリス君を見て、悲鳴を上げた…… 」
「悲鳴?」
 シエルが聞き返すと、セバスチャンがドクターの言葉を引き取った。
「奥様が悲鳴を上げられたのは、私の目に気づいたからですよ。ほら、ときどき紅くなるでしょう? 喧嘩の直後で、興奮していて、紅くなっていたのだと思います。それでドクターの奥様は怯えてしまったのですよ」
「そうなの?」
 タナカは、鍋に残った具をふたりに取り分けてやりながら答えた。
「家内もミカエリス君同様、東ヨーロッパの出身でしてな。フランスとルーマニアの国境近くの村、ワラキア公だの、魔の伝説が古くから染み込んでいる土地に育ちました。だからというわけでもあるまいが、ときおり迷信にとらわれたことを申しましたよ。
 あの地方には、魔物の血を受け継いだ人間が産まれるという言い伝えがあって、紅い瞳がその証だと。魔物の瞳と目が合ったら最後、魅入られて、操られてしまうと怖れて、訪れたミカエリス君に近寄ろうとはしませんでした。いや、家内自身も、そんなのは迷信だとわかっていたと思いますな。だが、やはり生まれ育ったときからすり込まれた恐怖というのは、簡単に手放すことはできなかった」
「魔物の瞳…… ?」
 シエルは思わずセバスチャンを見た。
「それで、貴方は平気だったの?」
「しかたありませんよ。瞳のことは小さな頃から言われていましたし──私の黒い髪だって嫌う人はいましたからね。いちいち気にしているようでは、この国で暮らせません」
 セバスチャンは肩を竦めた。その様子は本当に全く気にしていないように見える。
 自分だったら、きっとへこむな──シエルは思った。
「貴方は、魔物なんかじゃないよ」
 憮然として呟く。セバスチャンもタナカもシエルを見て、微笑んだ。
「ええ、魔物などではありません。ごく普通の、ありきたりの、人間です。夏には危うく殺されるところでしたしね」
 セバスチャンの言葉に三人は顔を見合せて笑い、それでその話は終わった。

***
 タナカに車でマンションまで送り届けてもらい、暖房のよく効いた車を降りると、暗闇の中、はらはらと白いものが舞い落ちてくる。
「雪だ!」
 シエルは叫んで、空を見上げながらくるくると走り回った。冷たいかけらが、頬に、手のひらに、落ちてくる。
「今夜は冷え込みそうですな。風邪などひかぬよう、暖かくしてくだされ」
 では少し早いですが、よいお年を、とタナカはふたりに挨拶して、車を出した。
 コツコツと夜の歩道にふたりの足音が響く。シエルは雪に気を取られ、顔を伏せて考え事をしているセバスチャンに気づかなかった。

 部屋に入ってよく見ると、確かに家の家具は、あのインテリアショップにあったデザイナーものの家具だった。
「ふー、本当にあそこの家具たちなんだ」
「そうですよ。よく使うものは、良いものを選びたいでしょう?」
 皮の感触を楽しむように、セバスチャンはソファの背を撫でている。
「そうだ、ねえ、コーヒー飲む?」
「ええ」
 シエルはマウイの家から持って来たお気に入りのハワイコナコーヒーを取り出し、豆を挽いて、二人分のコーヒーを淹れた。淹れたてのコーヒーの入ったマグを手にして、キッチンの椅子に座る。
 マグを受け取ったセバスチャンが意を決したように、ジャケットの内ポケットに手を入れ、取り出した小さなものをテーブルに置いた。
「シエル…… 。あの、誕生日のプレゼントです」
「え? 向こうで、もう貰ったよ。クロスバイク」
 マウイの家を発つ前に、一日早いバースディプレゼントとして、シエルが欲しがっていたクロスバイクを買ってもらったのだ。
「だから、いいよ」
「いえ、できたら…… 受け取ってください──ふたつ、あるんです。どちらか選んでもらえますか?」
 見れば、テーブルの上にはよく似た箱が並んでいる。どちらも綺麗な包装紙で包まれ、色違いの上品なサテンのリボンをかけられていた。
「なんで、ふたつ?」
「内緒です」
 くすりとセバスチャンは笑って、シエルを促した。
「さあ、選んで」
 シエルはふたつの箱を交互に見て、それから紫色のリボンのかかったほうを選んだ。
「じゃ、こっち」
「開けてください」
 言われるままにしゅるりとリボンを解き、包み紙を丁寧に剥がして、箱を開けた。
「あ」
 中には、小さな深紅のルビーのピアスがあった。
「…… ピアス?」
「そうです」
 欲しいって言った覚えないんだけどな、とシエルは首を捻った。セバスチャンはそれを見て、思い切ったように言った。
「私のために」
「?」
「私が望むなら、なにをされても構わないと、今日、貴方は言いましたね。お願いしようかどうしようか、ずっと迷っていたのですが、それを聞いて踏ん切りがついたのです。シエル、私のために…… これをつけてもらえませんか」
 どきりとシエルの心臓が大きく打った。
「貴方が私のものだと、私だけのものだという徴(しるし)をつけて欲しいのです」
 真剣な眼差しがシエルを射る。
「これを、僕につけろと……?」
 紅いピアスを見つめ、とまどいながら言うと、セバスチャンは長い睫毛を伏せて、ふっと弱々しく笑った。
「いえ──すみません、やっぱり結構です。忘れてください」
 箱を取り上げようとする。その大きな手をシエルは押さえた。
「待って…… 。いいよ」
 セバスチャンの喉がかすかに上下に動いた。
「…… …… 本当に?」
「うん。いいよ。でも、僕、耳にホール開いてないから、いますぐは無理だけど」
「シエルがよければ、私が開けます」
「!」
「嫌、ですか?」
「いい、けど…… 」
 セバスチャンは立上がると、冷蔵庫に向かい、ステンレスのバットを取り出した。躊躇いがちに支度をするセバスチャンの様子を眺めながら、そういえば彼が自分のために何かをシエルに頼んだことは、これまで一度もなかったと思う。
 バットの中にはピアッシング用のニードルや脱脂綿が並んでいる。セバスチャンはしばらくそれを見つめていたが、小さく息を吐いて黒髪を横に振った。
「やっぱり、やめましょう」
「えっ?」
「貴方に対して、あまりにも執着が強過ぎますね。ごめんなさい、シエル。趣味の悪い冗談ということで…… 」
「セバスチャン! 僕はいいと言ったんだ。どうしてそれを信じない?」
 セバスチャンは驚いたようにシエルを見返す。シエルは続けた。
「昼間、言った通りだよ……貴方が望むことなら、なにをされたって構わない。遠慮なんかするな。僕は──貴方のものなんだから」
 そして、貴方は僕のものなんだと心の中で呟く。
「…… 本当に、いいのですか」
 セバスチャンの問いに、シエルは強く頷いた。
 辺りがすっと薄暗くなり、夜が急に深くなったような気がした。

 ***
 夜更けのキッチンに、金属の擦れる音が響く。
 ふたりとも、黙りこくったまま、一言も発しなかった。
 セバスチャンの指がシエルの耳に触れる。途端にシエルの胸の鼓動が早くなり、耳に血が集まってくる。
 耳が熱い──。
 セバスチャンは冷凍庫の氷で、シエルの耳をよく冷やし、ニードルを手に取った。ニードルの先を耳たぶに当てて場所を決め、ひと息にぷつっと刺す。刺したところからゆっくりとニードルを入れて、穴を拡張する。
 血はほとんど出なかった。もう片方も同様にし、両方の耳にホールを開けると、セバスチャンは消毒を済ませたピアスをシエルの耳につけた。
 黒に近い紅い石は、色白の肌によく映えて美しい。手鏡で見せられ、シエルは指先で真新しいピアスにそっと触れてみた。
「痛い、ですか?」
「…… なんか、じんじんする」
「今晩は少し熱が出るかもしれません。あまり辛いようなら、病院へ…… 」
「いい、大丈夫」
「でも」
「いいんだ、本当に。セバスチャン、そんなに心配しないで」
 俯いて道具を片付け始めたセバスチャンに、シエルは小さな声で尋ねた。
「ねえ…… こういうこと、他の誰かにもした?」
「え?」
「他の誰かの耳にも、ホールを開けて、ピアスをつけたことがある?」
 セバスチャンは意外そうに目を見開いた。
「ありません」
「ほんとに?」
「ええ。他の誰にも──こんな気持ちを抱いたことはありません。貴方だけ、です」
 なぜそんな質問を? と逆にシエルに訊ねた。
「だって、貴方は遊んでたって聞くし、ピアスホールを開けるのも慣れた感じだったし」
「嗚呼、遊んでいた時期があったのは本当です。そうですね、結構、派手に遊びました。ピアスホールを開けるのに慣れた風だったのは…… 昔、自分の耳に開けたことがあるから」
「貴方が?」
「ええ」
「嘘だ」
「嘘ではありません。シエルと同じぐらいの年の頃だったでしょうか。開けてみたくて。結構似合っていたんですけどね」
 と笑う。
「もう、また自分でそんなこと言って」
 眉をひそめる一方で、きっと似合ってたんだろうなとシエルは想像する。
「こちらへ来て、忙しくしているうちにピアスホールは塞がってしまって…… いつのまにかピアスのことは忘れていました」
 つけたばかりのシエルのピアスの縁から血が滲んでいる。気づいたセバスチャンは唇を近づけ、舌でシエルの耳に垂れた血を拭い取った。右の耳、そして左の耳も。
「…… ん」
 シエルの肩がぴくっと震え、小さな手がセバスチャンの腕を掴む。
「痛い…… ?」
「違う──熱いんだ」
 シエルのかすれた声に喚ばれたように、セバスチャンはシエルを胸に引き寄せ、ゆっくりと抱きしめた。

***
 その夜のセバスチャンの愛撫は、いつもと違い、ねっとりとして湿度を孕んだものだった。
 腿の付け根、みぞおちや背骨、うなじ、手のひらや足の指の間まで、全身を舐め尽くされ、そのどれもが甘い官能を喚び起こし、シエルは啼いた。汗にまみれたシエルの全身はいつの間にかセバスチャンの唾液にまみれ、自分の皮膚が自分のものでないような錯覚に陥り、助けを求めるようにしてセバスチャンの背中にきつく爪を立てた。
 シエルが喘ぐたびに、セバスチャンのそれは硬く深くシエルの胎内に埋め込まれ、少しでも動かされると、到底耐えられないような快感がシエルを襲い、叫びながら、何度も涙をこぼした。まるで今夜は別の男に抱かれているようで、蛇のように絡みつく舌の愛撫に、甘い恐怖と脊髄が痺れるような快感を覚えて、シエルは震え続けた。
 あまりに強烈な快楽から逃れたくて、シーツの上をもがき、這うように動いても、セバスチャンは決してシエルを離さず、いつかの夜よりももっと深く、濃く、愛されたような気がする。
 大きく足を割り開かれ、M字型に開脚されて、なにもかも──本当に余すことなく、なにもかも──彼に暴かれ、曝け出され、強い羞恥に、存在することさえいたたまれなくなるのに、一旦、彼の舌が自分を舐め始めれば、たちまち熱く蕩けて、理性もなにもかも崩れ出し、おかしくなりそうな自分を止めることもできず、もっと壊して、もっと奪って、とうわごとのように繰り返し強請り、シエルはセバスチャンによって快楽の白い海の中に引きずり込まれていた。
「ふ、あ…… あ、あ────ッッ」
 四肢を震わせて叫べば、シエル、シエルと彼が自分の名を呼ぶ声が聞こえ、これが夢ではなく、現実で、これほど甘い熱で抱かれたことはなかったと頭の隅で思う。
「シエル、ひとりでそんなにイかないで…… 」
「…… ぅ?」
 見下ろせば、自分の腹や彼の腰が白く汚れていて、恥ずかしさに身の竦む思いがした。
「一緒に…… ね?」
 セバスチャンの瞳が紅く変じている。欲望の証。愛の証。紅いルビーの瞳。
 コクコクとシエルが頷くと、背中を持ち上げられ、繋がったまま正面から向き合った。
「え、や…… だ」
 身をよじって、離れようとするとひときわ強く抱きしめられ、深く貫かれる。
「んっ……ぅ、あぁ!」
 下から突き上げるように動かされ、たまらずにのけぞって叫べば、彼の瞳は一層紅く光り、後ろ頭を掴まれて、唇を塞がれる。
 ときにゆるく、ときに強く動かされて、からだを駆け抜ける激しい官能にもはや抗えず、ただただセバスチャンに身をまかせた。
 時折、彼がつけたばかりのピアスの辺りを舐め、その痛みと血の匂いはシエルを興奮させた。痛みが快感につながることを知らなかったし、その痛みこそ、彼が自分に与えたもので、本来なら痛みなど忌むべきものなのに、なぜかそれはまた新たな性の扉を開き、シエルを未知の世界にいざなった。心もからだも魂すらも、シエルの持っているなにもかもがセバスチャンのものになっていくことが、なおさら彼を愛おしく思わせて、しがみつくようにして彼の黒髪をかき抱いた──。 

 朝、起きると、外は一面、白銀の世界だった。
 マンションのバルコニーに数十センチの雪が積もっている。
 ガラス窓に触れれば、指がそのままくっついてしまうような冷たさにシエルは身震いした。
「嗚呼、積もりましたね」
 あとから起き出して来たセバスチャンがシエルの背中にキスをする。
「この分だと、帰りの飛行機は欠航でしょう──雪が溶けるまで、貴方を抱いていられる」
「~~~~ッ」
 真っ赤になったシエルの頬から耳にセバスチャンは唇を這わせ、満ち足りた表情で自分がつけたピアスにくちづけると、静かにシエルを床に倒し、ふたりは再び夢の時間へと戻っていく。

 ワシントンD.C.に二十年ぶりに降り積もった大雪は、朝日を浴びて眩しく輝き、やがて端のほうからゆっくりと溶け始めた。



FIN