輝く月の夜に 第二章

過去

第三話 過去

──ひとりで眠るなんて、ひさしぶりだ。
 シエルは自室のベッドに横たわり、明かりに左手をかざした。
 肌身離さず嵌めている婚約指輪。時に蒼く、時に紅く輝く石。
 セバスチャンは、なぜあんなことを言い出したんだろう。
 僕がいまさら、後悔なんてするわけがないのに。
 幼なじみのエリザベスに悲しい想いをさせることになっても、僕は貴方を選んだんだ。
 その気持ちが、揺らぐわけがない。

 セバスチャン。
 美しく端正な容姿を思い浮かべる。
 15歳年上の僕の恋人。婚約者で、保護者。
 いつも僕を気遣って、優しく愛してくれて……。
 なのに。
──「後悔していますか? 私と、婚約したこと」
 どうして、そんなこと?

 翌日。
 昨夜、なかなか寝付けず、いつもよりも数時間遅く起き出したシエルは、セバスチャンがいないことに気がついた。
 ベッドに眠った跡がない。
 仕事部屋も空だ。無人の椅子。積み上げられた資料。モニターはスリープ状態で、スクリーンセーバーが規則正しく動いていた。
 キッチンにも、バスルームにもいない。
 夜の間に出掛けたのだろうか。
 どこへ? クラブ? 友人のところ? 
 ゆうべ、僕が怒ったから?
 あり得ないとシエルはかぶりを振って、仕事部屋に戻り、スケジュールカレンダーを確認する。今日は、出掛ける用事はない。
 メモも残さずに、黙って何処かに出掛けるなんて、セバスチャンらしくない。
 訝しく思いながら、何気なく手元のマウスを動かした。すぅっとスクリーンセーバーが消え、現れたのは……。

『我々の山羊を返せ』

 不気味に浮かび上がるメッセージ。そして輪の中で、二匹の蛇が妖しく絡み合う印──シエルの背に焼き付けられた印と同じマークがそこにあった。
 シエルは椅子の背を両手でつかみ、崩れ落ちそうになるからだを必死で支える。
──4年前の夏休みだ。10歳の僕。
 ぎらつく太陽。人混み。古い街。熱く煮え立った石の道。遠ざかる両親の背中。
 追いつこうと走り始めたとき、ふわっとからだが浮いた。生暖かい何かに包まれる。
 そこからの記憶はない。残されたのは、おぼろげな闇の風景と、引きちぎられるような背中の痛み。
 消えた一ヶ月。
 両親と英国で夏休みを過ごしていたある日、街中で白昼堂々と連れ去られたシエルは、一ヶ月後、ぼろぼろの姿を路上で発見された。監禁中のことは、何一つ覚えていなかった。その後、犯人の情報はなく、事件は未解決のまま幕を閉じ、時だけが流れた。
 からだの奥から、ぞわりと何かが蟲のように這い出してくる。
──思い出したくない。思い出しては、いけない。
 葬られた記憶は、凍りつき、砕け散って欲しかった。浮上させてはならない。
 両腕できつく自分を抱きしめ、カタカタと歪な音を立てて、いまにも開きそうな記憶の箱の蓋を押さえ込む。
「セバスチャン……どこ……?」
 瘧にかかったように震えながら、シエルは不気味に光る画面に見入っていた。

***
「落ち着いて、待っていて下され。すぐに伺いますぞ」
 受話器を置くと、タナカは棚の上の愛妻の遺影に、優しく語りかけた。
「ふたりは、かつての私たち同様、つがいの鳥のように似合いのカップルでしてな。なのに、その片方が巣に戻らないという……。ハニー、この老いぼれにもまだ出番があるようですぞ。どうか、我々を見守ってくだされ」
 常に近くに置いてあるドクター・バッグを手にし、老いた医師はふたりのマンションへと車を走らせた。

 ミカエリス君とも長いつきあいになる。
 もう何年前になるだろうか。馴染みのレストランの一室を借り切って行なわれていたチェスの交流会に、ふらりと長身をかがめるようにして入って来た。
 しばらく見学していると思ったら、空いた隅の席に座り、一人チェスを始めた。その姿が、どことなく寂しげで、ちょうど一戦終わったばかりのタナカは「よろしければ、私とどうですかな」と声をかけたのだ。
 初めて見た時は、とっつきにくそうな男だと思ったが、話してみるとその印象が誤りであったことが知れた。話し上手で、聞き上手。話題も豊富で、タナカは愉快なひとときを過ごすことができた。一方で、二十代の男にしては随分練れている、人知れず苦労をしてきたのだろうかと、その裏を知りたくなった。
「お若いのに、随分上手でおられる。どなたかに指南を受けたのですかな?」
 尋ねれば、男は言おうか言うまいか少し悩んだふうをみせ、それからにっこりと笑った。
「……いえ、独学です。ひとりの時間が長かったものですから」
 いま思えば、そのとき、かすかな訛りがあった気がする。ヨーロッパの東のほう。実は何カ国語にも長けていることを知ったのはのちの話で、このときは渡米したばかりで、仕事を探していることなどをチェスをしながら語った。やりたい仕事があるのかと訊くと、本が好きなのでデザイン関係の職につきたいと、少し恥ずかしそうに答えた。
 本来、タナカはあまり社交的なたちではない。どちらかといえば、少数の決まった友人たちと、決まった夕べを過ごすのが好きだった。だが、この男──セバスチャン・ミカエリスと名乗った──の存在は妙にタナカの心を惹き、以来、月に一度、ないしは二度、チェスの交流会で話すようになり、やがて夕食をともにするまで、さほど時間はかからなかった。
 そういえば──。
 彼が小さなデザイン事務所の助手のそのまた助手という、ささやかな仕事についた時期だったろう。血だらけで、タナカとの約束の場に現れ、驚いた。喧嘩に巻き込まれたと言葉少なに説明したが、どうやら仕事先で同僚たちの妬みを買っていたらしい。酒の席を言い訳にして、したたかに痛めつけられたのだ。
「こちらに隙があったからいけないのです。穏便にやり過ごせるよう、努力します」
 相手を責めるよりは、とにかく、隠れるように、目立たないように振る舞いたがっていた。それでも嫌がらせは止まず、よく深夜に扉を叩かれ、治療をしたものだと懐かしく思い出す。
 いつ頃からか、どうしても目立ってしまう外見を逆手に取って、そつなく振る舞う術を身に付け、そのあたりから、タナカとは次第に疎遠になっていった。
 風の噂では、街のクラブやバーに繰り出し、派手に遊んでいたと聞く。そうやって、上手に日々の憂さを晴らせるのであれば、それはそれでまたよいとタナカは思っていた。日常の澱を溜めすぎれば、やがて倦み、腐り、自分をダメにしてしまう。あの男は、あの男なりに世を渡る、よすがのようなものを体得したのだろう。
 そんな彼が、忽然と姿を消した。随分と『らしく』ないことだ。やはり、あの少年が関わっているのだろうか。二色の瞳を持ち、背に残酷な痕を負った少年──。

***
 扉を開けたシエルは、ろくにものも食べていないのか、やつれている。招き入れたタナカに、すまなそうに頭を下げた。
「すみません、僕、ドクター以外に相談できる人がいなくて……」
「気にせずともよろしい。ゆっくり、話を聞かせてくださいますかな」
「……はい」
 セバスチャンが、黙っていなくなったこと。シエルの背にあるものと同じ焼印の画像が、メールで送られていたこと。セバスチャンから連絡はなく、スマートフォンにもつながらないこと。
 事情を聞いたタナカは、すぐに警察関係者の知人に連絡を取った。シエルの背の焼印についても簡単に説明し、画像を転送する。
「さて」とタナカは姿勢を正した。
「坊ちゃんの焼印のことを知っている人間は、どれぐらいおりますかな」
「ドクターとセバスチャンと……英国にいる親戚ぐらい。あとは誰も……」
 言いかけて、シエルははっとした。
「他にも?」
「先月、雑誌の撮影をしました……」
 あの場にいたのは、ニナとスタッフたち。出版社の人たち。スポンサーや大勢の関係者。
「脇で着替えたから、見ようと思えば、たぶん、誰でも見ることができたと思います」
「なるほど。一応、そのことも警察に伝えておきましょう。それから、最近、彼に変わったことはありませんでしたかな?」
「変わったこと?」
「ええ、なんでも。気づいたことでよろしいですぞ」
 シエルは言いにくそうに下を向いた。
「あの、ゆうべ、ちょっと喧嘩をした……」
「おや、珍しい、あなた方が諍いとは」
「うん……僕の載った雑誌を、英国の叔母が見て電話をくれたんだけれど、彼女の娘が僕の前の婚約者で……。電話のあとで、セバスチャンは自分と婚約したことを後悔しているかって……」
「ほほう」
「そんなこと、これまで一度も聞かれたことなくて、僕、つい怒っちゃった……」
「どれ、その雑誌とやらを、見せて頂けませんかな」
 シエルはキッチンのテーブルにそのままになっていた雑誌をタナカに渡した。
「これはこれは……シエル坊ちゃん。なんとまあ、凛々しい。いつもの貴方とはまったく違う。同一人物とは思えませんな」
「そう? プロのカメラマンさんが撮ったからかな」
 得たりとばかりにタナカは笑った。
「彼が婚約のことなど言い出したのは、これのせいですな。ほっほっほっ」
「え?」
 ひとり納得してうなずくタナカに、シエルは焦れったそうに訊いた。
「ドクター、どういうことですか?」
「ほっほっ、妬いたのですよ、彼は。貴方を撮影したカメラマンに。さぞかし悔しかったのでしょうな。目に入れても痛くないほど可愛がっていた宝を、横取りされた気分だったのでしょう。いやはや、年上の男には気をつけたほうがいい。悋気に当てられて、坊ちゃんはお気の毒ですな」
「妬いた……の?」
「そう。できるなら貴方を閉じ込めて、二度と他の男の目に触れさせたくないと思ったに違いない。ほっほっ、用心しなされ」
 一気にシエルの頬が熱くなる。
「しかし……それほどに大事な貴方を置いて、どこに行ってしまったのか。非常に心配ですな」
 タナカの気遣わしげな表情に、シエルの心は急速に萎んだ。
 愛する人が、不意にいなくなる──。
 両親を飛行機事故で失ったシエルにとって、突然の不在は、死のイメージと直結してしまう。
「ドクター……。セバスチャン、は……」
 震え声に気づいたタナカは、しっかりとシエルの手を握りしめた。
「いやいや、彼は稀にみる幸運な男ですぞ。なにがあっても、必ずや貴方のもとに帰って来ます。貴方がた二人は、つがいなのですから」
 タナカは穏やかにシエルに語りかけた。この小動物のような愛らしい子どもを、いまは彼に代わって守らねばなるまいと強く胸に誓いながら。

***
 さかのぼること、18時間前──。
 セバスチャンは謝るきっかけを失い、シエルの部屋の前をうろうろと行ったり来たりした挙げ句、気を紛らわせようと、間近に迫ったコンペの作品づくりに取りかかっていた。今回の作品は、自分の特色である黒と赤を使わず、いっそ蒼一色にしてみようか。アクセントに金の細いラインを入れて……。
 軽快な音を立てて、Macがメールの着信を知らせた。
──『我々の山羊を返せ』
 現れた不穏なメッセージに息を呑む。
 直後にセバスチャンのスマートフォンが振動し始めた。
「もしもし……?」
「話がしたい。我々の山羊について」
「山羊?」
「シエル・ファントムハイヴだよ。彼を我々に返してもらいたい」
「なにを仰っているのです?」
「とぼけなくてもいい。彼の背には、我々が付けた『獣の印』があるはずだ。随分、探したんだよ……素晴らしい山羊だったのに、逃げ出してしまった」
 セバスチャンのからだの奥で、強い怒りの炎が燃え上がった。
 シエルの背の焼印……!
 どんなにかあの子はあれを忌み嫌い、人に見られることを怖れているだろう。
 ちょっとした着替えのときでさえ、顔色を曇らせる。その都度、自分のからだの瑕疵を、そうなった出来事を思い知らされ、恐怖に震えているのだ。
「シエルのことでしたら、そちらに渡しませんよ。彼と私は、将来を約束しているのですから」
「知っている。だが、話を聞いたら、君は考えを変えるかもしれない。彼は、君にふさわしくない。穢れた子どもだ」
「……!」
「自分の耳で聞きたくはないかね、彼がどんな山羊だったのか。それとも、本人に直に言って聞かせたほうがいいかね?」
「私が伺いましょう」
「では……」
 相手が指定した場所は、よく知っている近所のバーで、セバスチャンは拍子抜けした。そこならば、バーテンとも顔見知りだ。人目もあるし、安全だろう。
 シエルが眠っているのを確認して、セバスチャンは部屋を抜け出た。
 相手の要求は本当にシエルなのか、あるいは金か。いずれにせよ、夜明けまでに話をつけて、シエルに感づかれないうちに帰ろうと、エレベーターの中でセバスチャンは考えていた。
 しかしエントランスに降りて、人気のない深夜の歩道に出た途端──。
「ミカエリスさん、こっち、こっちですよ!」
 聞き慣れた声が自分を呼ぶ。見れば、あの中年の編集者がいつもの人の良い笑みを浮かべて、歩道に寄せた車の中から手を振っている。
「あの……いや、こんばんは。ちょっと急いでおりますので、また、今度……」
 適当な挨拶をして、急いで通り過ぎようとした。
「いえいえ、山羊のことですよ、山羊の話!」
「え……?」
「さあ、乗ってください。相談しましょうよ。いろいろと、ね?」
 事情が飲み込めないまま、促されて車に乗る。
「なぜ、貴方がそのことを……? さっきの電話は……」
 音もなく、首筋にひやりとしたものが押し当てられた。後部席から声がする。
「動かないで──動いたら、もう二度とあの子に会えないよ」
 素早く目隠しをされ、手首を拘束される。
 ガツッと頭に強い衝撃が走り、
「やっと、つかまえた…………セバスチャン・ミカエリス!」
 その声を最後に、意識を失った。

 闇に閉ざされる。

 to be continued….