輝く月の夜に 第二章

第六話 楽園 後編

「銀剣草はシエルの髪の色に似ていましたね」
「そう……?」
「あの植物は一生に一度だけ、花を咲かせるそうですよ」
「……う、ん」
「シエル? 眠いのですか?」
「だっ……て、夜中に、起こされた……から」
 帰りのバスに揺られて、眠くなったふたりは、ホテルに着くまで熟睡し、部屋に戻ってから、またさらに眠った。
 夕食の時間にセバスチャンは目を覚ましたが、シエルはまだよく眠っていたので、ベッドを離れ、一階のコンシェルジュのところへ出掛けた。十分ほどして、部屋に戻ると、シエルが真っ青になって震えている。
「シエル? どうしました?」
「だ……め、黙って、行かないで……」
 あ、とセバスチャンは気づいた。私としたことが、この子をひとりにしてしまうなんて。心の中で己を叱り、シエルのそばにゆっくりと近づく。
「シエル、ごめんなさい」
「また、貴方がいなくなったか……と」
 恐怖に瞳をわななかせて訴えた。
「怖がらせて、ごめんなさい」
 震えがおさまるまで、シエルの背を撫で続けた。
「レストランに行きますか?」
「ううん……」
「では、ルームサービスを取りましょう」
 食欲のなさそうなシエルのために軽いサンドイッチを頼み、ベッドに腰掛けて、シエルの顔を覗いた。まだ顔色が戻らない。
「明日はどうしましょうか」
「うん……」
「島の奥の渓谷に行きますか?」
「少し、ゆっくりしたい……人が多くて、疲れた」
「そうですね……」
 セバスチャンは考えていたことをシエルに提案した。
「よかったら、明日は家を見に行きませんか?」
「家?」
「ええ、私たちが暮らす家」
「!」
「ホテル暮らしは、そろそろ飽きました。シエルがよければ、小さな家を買って、そちらに移ろうと思うのです」
「だって、そんな、お金……」
「私たちは一応、富豪ですよ? 別荘のひとつやふたつ、持っていなくてどうします? それにカジノでたっぷり稼いだでしょう?」
 そうだった! とシエルの表情がほぐれた。

 翌朝、コンシェルジェに聞いた街の不動産屋へ行き、いくつかの物件を見て回った。
 街からそう遠くないところに、自然のままの森を背後に持つ白いコロニアル風の小さな家があって、セバスチャンは不思議に心を動かされた。家の裏手へ回ると広い庭がある。庭にはなにも植えられていなかったが、きっとそう遠くない将来、自分たちはここに白薔薇を植えるのだろうと予感した。
──生と死の間を彷徨っていたあのとき──。束の間、幻視したあの白薔薇の庭。
 シエルはプライベートビーチが付いているのが気に入ったらしい。セバスチャンはその場で購入を決意した。
「うわ、本当に買っちゃうなんて……! すごいよ」
「自分でも信じられません……。ねえ、シエル。私は結構、この島が気に入ってしまったようなのですが……」
「うん、僕も、ここ好きだ」
「では日程を延ばして、もう少し滞在しましょうか」
「うん!」
 ラハイナで必要なものを買い揃え、ホテルから白い家に移った。

 そして──。
 ふたりはそのままマウイ島に居着いてしまった。
 家にもすっかり慣れ、使い心地のよいキッチンで、セバスチャンは自慢の料理の腕を振るい、シエルは地元で見つけた美味しいハワイコナコーヒーを淹れ、ふたりだけの時間を過ごしている。時折、電話でワシントンD.C.のドクター・タナカと連絡を取り、体調に異常がないかどうか報告した。
「ミカエリス君、手術は成功したとはいえ、以前とまったく同じというわけにはいきませんぞ。この先、後遺症が出てくる可能性がないとは言えない。何かあれば、この爺が全力を尽くしますが、くれぐれも無理だけはしなさるな」
「ええ、ドクター。わかっています。これからはのんびり暮らすように心がけます。年が明けたら、シエルを連れてそちらに検査に伺います」
「そうしてくだされ。それから、例の話はどうなりましたかな」
「今夜、話してみます。喜んでくれたらいいのですが」
 セバスチャンは庭でハーブを摘んでいるシエルの様子を窺った。

 島に来てから、魚のメニューが増えた。
 今日の夕食は、セバスチャンが釣った黒鯛をシエルがさばいてカルパッチョに仕立て、自家製パスタと庭のハーブ野菜のサラダ、デザートは手作りのティラミス。食後は、濃いミルクティーを淹れた。シエルは砂糖を2個、カップに落とす。
「シエル。ドクターからお話があったのですが……」
「うん、なに?」
「貴方の背中の焼印は、手術で消すことができるそうです」
「……!」
「焼印を削り、そこに内腿の皮膚を移植するのだそうです。引き攣れは多少残るかもしれませんが、ほとんどわからなくなるだろうと話していました」
「……」
「どうします? 貴方のしたいようで構いません」
 シエルは、じっとテーブルを見つめている。やがて、決意したようにセバスチャンを見返した。
「いい」
「え?」
「消さなくていいよ。セバスチャン」
 消して、と言われると思っていた。聞くなり、喜ぶと思っていた。あれほど忌み嫌っている印なのに……。
「理由を、話してくれますか?」
「……うまく言えないけど、この印が、この焼印だけが、僕と犯人をつなぐものだと思う。犯人を探し出したいわけでも、復讐したいわけでもないんだ。焼印を利用されて、今回みたいな事件が起きるのも嫌だ。だけど、手術で消すというのは……ちょっと違う気がする」
 その呪いのような痕を身に刻んだまま、生きようというのか。
──本当にこの子は強い。いや──強くなったのだ。
「わかりました。シエルがそう言うのなら、そうしましょう。気が変わったら、いつでも言ってください」
「うん。心配してくれて、ありがと」


***
 今夜は満月。
 満天の星と共に、綺麗な月が空に輝いている。
 プライベートビーチに、大きなビーチマットを敷いて並んで横たわり、ふたりは星空を眺めていた。北半球では見られない星座が空を飾っている。
「あれが、南十字星?」
「んー、ごめんなさい。南半球の星座は、詳しくないのです」
「たぶん、あのひし型に光っているのが、南十字星で、あっちは……きっと、こぐま座だ」
 隣に寝そべっていたシエルは、もぞもぞとセバスチャンのからだの上に乗った。
「重くない?」
「大丈夫です」
「僕、貴方の意識がなかった間、看護師さんと一緒に貴方のからだを毎日拭いたんだよ」
「そう、なのですか?」
「うん、全部脱がせて、湿った布で肌をこすって、それから……」
「いや、シエル、もうそれ以上は……。よくわかりましたから」
 恥ずかしい予感しかしないその先の発言をセバスチャンはどうにか食い止めた。
「そう? 僕、貴方が年を取ったら、ケアする自信あるのに」
「…………私が年を取ったら、ですか」
「そうだよ。だって、絶対、僕より先におじいちゃまになるでしょう。15歳も上なんだから」
「ええ、まあ……」
 釈然としない様子のセバスチャンを気にせずに、シエルは続ける。
「僕が16歳になったら、貴方は……」
「31歳」
「おじさんだ!」
「失礼な。シエル、31歳はまだまだ青年です。若いんですよ!」
「じゃあ、僕が20歳になったら?」
「私は、35歳。まだ、若いです」
「僕が25歳」
「私は40歳」
「僕が35歳」
「私は……50歳」
「そろそろ、おじさん?」
 シエルが上目遣いに見る。
「こら。まだまだです!」
「僕が45歳」
「私は60歳」
「僕が55歳」
「私は……嗚呼、70歳。いつの間にか、老いました」
「おじさん時代はなくて、一足飛びにおじいちゃまだね! じゃ、僕が65歳」
「私は80歳……きっと私はこの辺で貴方とお別れですよ」
「だめだ、先に逝っちゃ、だめ!」
「そんなこと言っても……」
「僕が75歳」
「私は90歳。シエル、そろそろ無理です。お別れを覚悟しなければね」
「だめだよ。まだ大丈夫。僕が95歳」
「……私は……110歳。シエルだって、もう……」
「いやだ。貴方と別れるなんて……」
 さっきまで冗談まじりに笑っていたのに、はらはらと涙をこぼしている。セバスチャンはシエルの後ろ髪を撫でた。
「仕方がないでしょう。死は誰にだって平等に訪れるのだから」
「だめだ。貴方は死なない。絶対、死なないよ」
 ひっくひっくとしゃくり上げている。
 セバスチャンは夜空を見上げた。あの星々も、あの月も、いつか必ず終わりを迎える。生きとし生けるものはやがてすべて消えるのだ。
 だが──
「わかりました、シエル。私は死んでも貴方のそばを離れません」
「……?」
「たとえこの身が滅びても、貴方のそばを離れない。だから、私が先に逝っても、悲しまないでください。私は、きっと……貴方のすぐ近くにいますから」
「ほんとう……?」
「ええ。だから、泣かないで……」
──この島に棲むという太古の精霊たちは奇跡を起こしてくれるだろうか──愛しいひとのために。
 セバスチャンはシエルをあやすようにして抱きしめる。シエルは顔を上げ、セバスチャンの瞳を覗き込んだ。
「僕たち、ずっと、一緒?」
「ええ、ずっと、一緒です」
「死んでも?」
「ええ。死んでも……一緒です」
 シエルは少し安心したようだった。ふっと軽く息を吐いて、セバスチャンの胸に頬をすり寄せる。

 波が砂浜に打ち寄せる。
 時が経ち、夜が満ちてくる。

 セバスチャンは静かにシエルを砂浜に横たえた。蒼と紫の大きな瞳がじっと見つめる。
「貴方を抱きたい」
「……ここで?」
「嫌、ですか……?」
 シエルは瞳をゆっくりと閉じ、小さな声で応えた。
「いいよ……」
 その額に、ひとつ、キスを捧げ、セバスチャンは愛撫し始めた。
 やがてふたつのシルエットは重なっては離れ、揺れて揺れて、大きくうねり、そのうねりは止まることなく、寄せては返す波のごとく、果てしなく続いた。
 煌めく星々と、蒼く輝く月に見守られ、ふたりは何度も絶頂に達する。砂を散らし、汗を散らし、命をきらめかせ……。

 沖のほうで、クジラが水飛沫を上げて、大きく跳ね、ふたりの幸福な未来を約束した。

FIN