輝く月の夜に 第二章

「輝く月の夜に」の続章です。恋も仕事も順風満帆なふたりでしたが……。

*シリーズ目次はこちら

第一話 朝

銀灰色の髪がシーツに広がっている。柔らかな肢体がぴったりと身によりそっている。頭をセバスチャンの腕に乗せ、手はゆるやかに胸の辺りに置いて。
 自分のそばで陽だまりの猫のように、くつろいで眠っている。なんの怯えも心配もなく、安心して眠る彼──シエルを見ているだけで、どうしてこんなに幸せなのだろう。
 一緒にいる。ただそれだけで満たされる。
 自分のこれまでの人生が、実はひどく寂しいものだったと教えてくれた少年。
 長い睫毛がかすかに震え、瞼がゆっくりと持ち上がった。現れる蒼と紫の瞳。
 目の前の男に気づき、にこっと微笑みかけた。
「おはよ、セバスチャン」
「おはようございます、シエル」
 照れくさそうな少年の笑顔に、セバスチャンの胸は高鳴る。
 どちらからともなく唇を寄せ、そして……。

 ふたりの朝が始まった───。

***
「今日、なんか予定なかったっけ? セバスチャン」
 慌ただしく愛を交わしたあと、朝のシャワーを浴びたシエルは、ごしごしとバスタオルで髪を拭きながら、キッチンに入って来た。
「シエル、例のインタビューが……」
 セバスチャンは憂鬱そうに皿をテーブルに置く。
 今朝のメニューはハワイアンパンケーキだ。厚めに焼いたパンケーキは端が少し焦げていて、香ばしい匂いを辺りに漂わせていた。ホイップした生クリームに、近くのマルシェで買った新鮮な野摘みの苺をたっぷり乗せ、自家製のフルーツソースをかける。
「うまい!」
 ひと切れ、口に入れたシエルが満足そうに叫んだ。絞りたてのライムのジュースをごくごく飲みながら頬張る。
「ふわふわで、口に入れると、とろけるよ。すごく美味しい。ハワイで習ったの?」
「残念ながら、ハワイは私が行ったことのない場所のひとつです」
「セバスチャンにも、行ったことがないトコロなんてあるんだ」
 クスッと笑いながら、瑞々しい苺を指で摘んで、口の中に放りこんだ。
「こら、シエル。お行儀が悪いですよ」
「指で食べるほうがうまいものがあるって、この間、貴方が教えてくれたんじゃない」
 きらきらと瞳を輝かせて、言い返す。
 まったくシエルときたら。
 セバスチャンは正面に座っている少年にあらためて視線を向けた。
 シエルは変わった。初めてこのマンションに来たときと雲泥の差だ。あのときはこちらの目を見ようともせず、うつむきがちで、ろくに喋らなかった。それがいまはどうだ。見違えるように明るくなり、すっかりセバスチャンに懐いている。

「シエル。髪から水が落ちていますよ」
「あ、悪い」
 肩にかけたバスタオルで乱暴に拭っている。
 やれやれとセバスチャンは席を立って、丁寧に銀灰色の髪をタオルに挟み、水気を取った。
「ちゃんと拭かないと、すぐに乾きません」
「ありがと。ねえ、こんなにゆっくりしてて、大丈夫?」
「大丈夫です。十時からですから、まだ時間はありますよ」
 よかったとシエルは安堵のため息をついて、ちらりとセバスチャンを見上げた。
「……どうしてセバスチャンは、朝、するんだ?」
「なぜ、そんなことを聞くのです?」
「朝、すると、時間がなくなる……」
「間に合うのなら、問題ないのでは?」
「……でも」
「ふふ、シエルは意外とコンサバなのですね」
「だって……」
 ふくれっつらをして、ぷいっと横を向いたシエルの顎をとらえて、上を向かせた。綺麗な二色の瞳と目を合わせる。
「好きだからですよ」
「えっ! 朝、するのが?」
「シエルのことが、です」
 にっこり笑うと、真っ赤になってうつむいた。恥ずかしがるくらいなら、聞かなければいいのにと思うけれど、そこがまたいい。はにかむ顔を見たくて、セバスチャンはさらに言う。
「朝も昼も夜も、シエルとしたいのです」
「~~~~ッ」
「嫌……ですか?」
「……知ってくるくせに」
 恨めしそうに上目遣いに睨んでくる。
「大体、僕に……その、いろいろ……教えたの、貴方でしょ」
 セバスチャンは目を丸くした。
「……おやおや、ファントムハイヴ君はなかなか言うようになりましたね。飲み込みがよすぎる生徒もいかがなものかと?」
「もうっ! この悪徳家庭教師!」
 シエルはジタバタとバスタオルの下で腕を振り回している。
 セバスチャンは笑って、タオル越しにそっとつむじにキスを落とした。

***
 約束の時刻。
 編集者、ライター、カメラマン、その助手が「売れっ子デザイナーの仕事場訪問」取材に訪れた。
 仕事場である自宅マンションの一室で、セバスチャンの生い立ちから、渡米のいきさつ、デザイナーになったきっかけや苦労したエピソード等等、容赦なく質問攻めにする。あらかじめ覚悟していたこととはいえ、自分のことばかり、長時間、話し続けるのはさすがに辛い。
 心身ともにくたくたになった頃、豆の挽く音が聞こえ、ほどなくしてコーヒーのいい薫りが流れて来た。
 開け放ったドアから、シエルがちょこんと顔を覗かせる。
「あの……よかったら、こっちでコーヒーをどうぞ」
 決して愛想のよい物言いではないが、精一杯、感じよくしようとしている。セバスチャンは下を向いてこっそり笑いを噛み殺した。察したシエルが軽くしかめつらをしてみせる。
「こちらはミカエリスさんの……?」
 リビングのソファに腰を下ろし、手作りのプチフールを遠慮なくつまみながら、人の良さそうな中年の編集者が訊ねた。
「嗚呼、彼は婚約者です」
 セバスチャンの返事に、編集者は破顔し、膝を叩いた。
「おお! そうでした! いや失礼しました。婚約されたときは、我が社の若い子たちがみな嘆いていましたよ。いやあ、これは将来が楽しみな美人さんですね」
 褒められて頬をうっすら赤く染めたシエルを、編集者はじっと見つめる。
 しばし、なごやかな雑談が続き、もうそろそろと皆が席を立ちかけたとき、壁に掛けられた一枚の額に編集者が目を留めた。額縁に収められているのは、ニナの仕立てた十九世紀ヴィクトリア朝風の衣装をまとう、セバスチャンとシエルの写真である。
「これは……?」
「婚約の記念に撮影したものです。これが、なにか?」
 話はここで思わぬ方向へ動いた。
「モデル……ですか?」
「ええ」
「シエルを?」
「実は次号の特集が『英国ヴィクトリア朝時代の夢』というものでして。表紙を飾るモデルさんを探していたところなんです」
「モデルならエージェントに……」
「ポートフォリオをいくつか見たんですが、ピンと来ないんですよ。表紙なので、インパクトのあるモデルさんにお願いしたいんです。あ、もちろんギャランティはお支払いします。通常のモデルさんと同じ料金で……」
「俺も、この彼、いいなと思ってた」
 会話に耳をそばだてていたカメラマンが、身を乗り出した。
「君、独特の雰囲気を持ってるよ。綺麗なんだけど、それだけじゃない。ちょっと影があって……おっとっと」
 急に曇ったシエルの表情に気づいて、慌てて口をつぐむ。
「どうぞ、続けてください」
 セバスチャンに穏やかに促されて、カメラマンは再び口を開いた。
「人に媚びない強さみたいなものを感じる。いま、君みたいな雰囲気の子は珍しいよ」
 だが、人見知りが激しいシエルが、うん、とうなずくわけはない。セバスチャンは断りの言葉を考え始めていた。
 ところが。
 案に反して、シエルはあっさりと引き受けてしまった。
 喜んだ編集者はあたふたとスケジュール帳を取り出し、カメラマンと打ち合わせながら、撮影日を決めた。社に戻ったらすぐに契約書をお送りしますから、サインをして送り返してくださいと念を押し、嬉々として一行は帰っていく。
「よかったのですか? 断ってもまったく構わなかったのですよ」
 心配げに聞くセバスチャンに、
「やる。やってみる」
 と、シエルはあっけらかんと答えた。そこに迷いはない。ふとセバスチャンは思いついて聞いてみた。
「シエル、もしかして、お小遣いが足りないのですか?」
「そんなことない。十分もらっているよ。やりたいからやる。それだけだ」
 一体どういう風の吹き回しなのだろう。セバスチャンは不思議に思ったが、反対する理由はない。シエルにまかせるしかなかった。

***
 遠い昔、日本からこの街に贈られた数千本の桜の木は、いまでは大きく育ち、河沿いの道に濃い緑の影を落としている。
 河を見下ろす形でホテルとビジネスセンターを合わせた巨大なコンベンションセンターがそびえ、その裏手に古い町工場をリノベーションした撮影用のスタジオがいくつか立ち並んでいた。
 カシャッ! カシャッカシャッ、カシャッ!
 途切れなく聞こえるシャッターの音。ざわざわと絶えず人の声が溢れ、スタジオ内は一種異様な熱気に満ちていた。
 生まれて初めて撮影現場に入ったシエルは面食らっていた。
「こっちを向いて……やっぱり、いい雰囲気持ってるよ、君。今度は左を向いて、オーケー! 次、下を見て、顎を引いて!」
 カメラマンに言われた通り、反射的に動く。ストロボのフラッシュが強くて目が眩む。自分がどう見えているかわからない。撮られながら、不安な気持ちが少しずつ大きくなり、やはりセバスチャンについてきてもらえばよかったとシエルは下唇を噛んだ。
「ハイッ、オッケー! 次の衣装、お願いします!」
 カメラマンの威勢のよい怒鳴り声に、「少々、お待ちください」「水がこちらに」「ライト、一度消しまーす。コードに気をつけてください」と次々にスタッフの返事が飛び交う。
「シエルさん、こちらにいらしてください」
 目が眩んで足元が覚束ないシエルを気遣って、アシスタントカメラマンが手を差し伸べた。その手を握ってホリゾントから離れ、渡された濡れタオルで首筋を拭う。スタジオは冷房できつく冷やされてはいたが、ライトに照らされていると汗が滲んだ。
「初めてだと、疲れますよね」
「そうですね。こんなに人がいるとは思っていなかった……」
 シエルがこぼした本音に、アシスタントカメラマンは小さく笑った。
「現場を見学したいっていうスポンサーは多いんですよ。シエルさんは凄い美少年だから、撮影が終わったら、きっと皆さんからサインをねだられますよ」
「いや、もう、それは……」
「お待たせっ!」
 手を振って尻込みするシエルの耳に、ニナの張り切った声が飛び込んで来た。セバスチャンとシエルの写真を見た編集者がニナのデザインした服をいたく気に入り、今回の表紙の衣装スタイリストとして、特別に指名されたのだ。
「さあ、次の衣装ですわっ。さっさと汗を拭いて、着替えましょう。Mr.石頭がいないなんて、絶好の機会ですわ!」
「僕、ひとりで着替えられますから」
 鼻息荒く、シエルの服を脱がそうとするニナをかろうじて躱しながら、シエルは早口で言った。
「アラ、私では恥ずかしいの? それなら、そこの貴方!」
 と、そばにいたアシスタントカメラマンに叫ぶ。
「シエル君の着替え、手伝っていただけます? ひとりだと、時間がかかってしまいますの」
 有無をいわせず彼に衣装を渡し、ばばばとふたりの周囲に即席のつい立てを立て回す。シエルはやむなく、できるだけ背中の焼印が人目に触れないよう、衣装を身に着けた。

***
「ふぅ……」
 半日かけた撮影が無事終わり、迎えに来たセバスチャンの車の中で、シエルは大きく伸びをした。
「お疲れさまでした、シエル」
「ほんとに、疲れた……」
 精も根も尽き果てたといった様子で、ぽすっとセバスチャンの肩に顔を埋める。慰めるようにセバスチャンは銀灰色の髪を指先で梳いた。
「意外と大変だったでしょう? 私がいなくて大丈夫だったのですか」
「ニナやスタッフさんたちが手伝ってくれたから……。でも撮影があんなにきついものだと思わなかった。もう、二度とやらない」
「おやおや、もうギブアップですか?」
「もういいよ、一度で充分だよ」
 それを聞いて、セバスチャンは残念そうに言った。
「シエルが撮影されている様子、少しだけでも見たかったですよ」
「うん……でも、仕事があったでしょう?」
「半日ぐらい、都合をつけられたのに……。ひとりで行くと言うから」
 と、銀灰色の髪に鼻先を埋める。
「……だって」
「だって?」
「貴方に見られてたら、僕……」
「?」
「きっと上がってしまう……いま、だって」
 掠れた声で囁き、シエルは顔を伏せてセバスチャンの首に腕を回した。ぴたりと合わさった胸から、ドキドキと速い鼓動が伝わってくる。
「シエル……」
 セバスチャンは優しく背を抱きしめると、シエルのシャツのボタンを素早く外し、首筋から鎖骨までゆっくりと辿るように舐めた。
「セ、セバスチャンッ、だめだよ、ここじゃ」
「ん……我慢できません」
 制止を無視して、助手席のシートを倒し、愛撫を続けようとするセバスチャンの顔をぐっと押しのける。
「だめだってば! スタジオからいつ人が出てくるか……」
 はっとしてセバスチャンは我に返った。
「嗚呼、ごめんなさい……そうですね、続きは帰ってからにしましょう」
「違う! 家に帰ったら、まず、晩ご飯。それから……」
「それから?」
 クスクスとセバスチャンは笑って、先を促した。シエルが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「もぉう~~~ッ」
 ふたりの楽しげな笑い声が車内に響く。
 撮影スタジオの駐車場を出て、セバスチャンの車が市内のマンションに向かって走り出した。ふたりを乗せた車が夕暮れの街に消えていく。

 その車の赤いテールランプを、いつまでもずっと見送っている人影があった。

to be continued….