悪魔の旋律

悪魔の旋律

……その晩のクラシックコンサートには、町のごく一部の名士たちとその妻が招かれていた。もう何十年も使われていなかった小さなコンサートホールは、今宵煌びやかな光に溢れ、招待された人々はまるで新品のように手入れされた綺麗なビロードの椅子に腰を下ろし、期待に満ちた眼差しで緞帳を見つめた。

 開演のブザーが鳴り、そろそろと緞帳が上がると、漆黒の闇の中にひとりの男が佇んでいる。
 客席は水を打ったように静まり返った。
 上品な燕尾服を身にまとい、純白のタイとシャツにウェストコート、脇からチラリと見える白のサスペンダーがどこか隠微な気配を漂わせている。
 人々はごくりと喉を動かした。
 その男は──酷く美しかった。
 顔は白く、人形のように造りものめいている。薄い唇は酷薄に結ばれて、赤にも見える紅茶色の瞳は鋭い氷の刃のように、自分たちを見据えている。人々は息をのみ、本能的に底知れない恐怖を感じ、身を固くした。
 しかし、男が紅茶色の目を細め、やわらかく優しく微笑むと、人々はたちまち彼の笑顔に魅了され、ほっと息を吐いて、からだの力を抜いたのだった。
 男は一礼すると、オーケストラのほうに向き、すっとタクトをあげた。

 静かに音楽が流れ始めた。

***
 人々は誰一人知らなかったが、実はその夜の指揮者は一匹の悪魔だった。
 悪魔の振るタクトから紡ぎ出される旋律は、人々の心の奥底をこすり、古い記憶を蘇らせた。

 昔、隣の家の娘と密かに関係していた男は、音楽を聴いているうちに急にそのことを思い出し、後ろめたさに俯いて、横にいる愛しい妻の顔をそっとうかがった。
 その後ろに座っている女は、自分の娘が誰とも知れない男の子どもを孕んだことを知り、無理やり子どもを堕胎させ、家の花壇の下にこっそりと遺体を埋めた。娘は嘆き悲しみ、自死したが、女はその理由を決して夫には話さず、誰にも打ち明けず、胸に重い石を抱えたまま、何十年も過ごしていた。舞台から鳴り響く美しい旋律に、孫を殺し、娘を自殺に追い込んだ悲しみを呼び覚まされ、突然自分の罪の重さにおののいた。

 そんな風に聴衆のすべてが、かつて自分の犯した罪を思い出し、悔い、過去の記憶に苛まれた。
 かと思えば、楽団の奏でる繊細なメロディは甘く切ない恋の思い出をも蘇らせた。
 女の汗ばんだ太ももに顔をうずめたときの匂い、男のかさついた太い指が中に入ってきたときの熱い感触。場内に淫靡な空気が充満し、人々は次々と蘇る淫らな記憶に欲情する。
 そうかと思えば、理不尽な目に遭わされた記憶が蘇り、激しい憤怒にかられたり、或は困難にくじけそうになったとき、助けの手をのばされ、人の優しさに感激した自分を思い出したりもした。
 まるで天上におわす神のように、悪魔の旋律は聴衆の心を操ったが……ただひとつ、神と異なるのは、そのメロディを聴いた者には例外なく不幸が訪れることだった。

 コンサートが終わり、人々は夢心地で会場をあとにする。
 頭の中には、まだあの美しい旋律が流れている。
 からだには、まだ甘い興奮の余韻が残っている。
 今夜はいい夢を見られそうだと、誰も彼もがメロディを口ずさみながら帰宅する。
 けれど翌朝になっても、音楽は鳴り続けている。それは他の者には聴こえない。コンサートに行った者だけが聴こえる悪魔の旋律だ。
 毎日毎日、頭の中で延々と続く同じ曲に耐えられず、酒を飲み、麻薬に溺れ、苦しみから逃れようとしたが無駄だった。医者に行っても相手にされず、それでも訴え続けた一部の者たちは高い塀に囲まれた病院に閉じ込められた。
 病院送りを免れた者たちは、身を苛む苦痛を理解されない絶望に打ちひしがれ、それはやがて怒りに変わり、激昂して手当たり次第に人を殺し始めた。
 そして──
 その悲鳴の続く間、わずかに音楽が止むことを知った。
 彼らは町の人々を殺し始めた。
 赤子も病人も容赦なく殺した。
 人間だけではなく猫も犬も鳥も殺した。
 ナイフでざくざくと切り裂き。
 分厚い鉄の棍棒で何度も殴り。
 鋭く尖った石の塊で押しつぶし。
 頭の中に流れる音楽を止めるために、ほんの一瞬の静けさが欲しいゆえに、彼らは町中を恐怖に陥れた。そして殺す人間がいなくなると、今度はお互いを殺し合った。

 最後にひとりの男が残った。
 けれど、町には彼以外、生きとし生けるものはいない。
 彼を救う悲鳴はもうどこからも聴こえない。
 この頭の中に響き続ける音楽からは、絶対に逃れられない。

 呆然と立ち尽くす男の足元に、どこからかコロコロと、一本の指揮棒がころがってきた。
 男はそれを拾い上げると、しばらくの間眺め……それから思い切り自分の耳に突き通した。

fin