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BANANA FISH

『ハロウィン・ナイト』




──ハロウィン・ナイト。

 人々はさまざまに仮装を凝らし、夜のストリートを闊歩している。
 狼男、フランケンシュタイン、ドラキュラ……。
 すべての仮装は、今宵地下から蘇る死者たちの目をくらますためだ。
 ヒトだとわかってしまったら、彼らに地獄にひきずりこまれてしまう。だから人々は、メイクを施し、異界の者の格好を真似て、この日をやり過ごす。もっともいまのハロウィンはただ形だけのもので、こんな由来など知っているものは少ないだろう。

 喚き声や歌で騒がしい行列が大通りからソーホーへと進む中で、普段と同じ格好でいるのは英二ぐらいだった。その姿は人々の目を惹き、ぶしつけな視線にさらされている。けれど当の英二はなんにも感じないようで……というよりも、英二こそ幽霊のように彷徨っていて、行列の中で異彩を放っていた。

 英二から数メートル離れたところでは、英二よりも一回り細身の少年が彼を見失わないように追っていた。
──あぶなっかしい奴だぜ
 今夜はハロウィンの夜。尋常とは違う、いや尋常なんかとは比べものにならないくらい皆浮き足立っている。興奮した心はいつもよりも抑制されず、何か事が起これば、容易く暴力へと移行するのだ。あんな風に心ここにあらずな様子で、ふらふら歩いていれば、いつ誰が故意にぶつかって、喧嘩をふっかけてくるかわかったものじゃない。
 もっとも、そのために自分はいま英二の後をつけているのだけど、とシンは嘆息した。
 山猫、というあだ名の男の代わりに英二を守らなければならない。なんとしても。いついかなるときも。だから自分は決して英二をひとりにはしないし、もしも離れなければならない事態になったときには手下が彼を守る──そう、命にかえても。
 シンにとって、英二は今は亡きアッシュの忘れ形見のような存在だった。
 しかし。
──お前を失ってから、あいつは幽霊のようだぜ
 いっそ、お前が化けてでてくればいいのに、とアッシュに向かって、悪態を吐く。そのとき、シンの前をバカでかいかぼちゃの馬車が横切って、英二の姿が一瞬見えなくなった。
 あ、と思ったときにはもう遅く、さっきまではっきりと見えていた英二の背中は人混みの中に消えていた。

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 英二はすれ違う化け物たちに構わず、ロウアーイーストサイドに向かっていた。ときおり伊部から譲り受けたニコンのカメラを異形の行列に向けたけれども、シャッターを切ることはなかった。
 いつもそうだ。
「また撮ってみたらどうだい」
 やさしい伊部の言葉を無下にはできず、差し出された一眼レフを受け取ったが、英二にはもう写真を撮る気など、さらさらなかった。
 アッシュのいないこの街を。灰色のこの街を撮って一体何になるんだ。
 カメラを抱えるたびに、その思いが胸にこみ上げる。
 けれども、どうしてもひとり部屋にいられずに、街を彷徨うとき、カメラがあるとそれなりに格好がついた。ひとりでふらつけば警戒されるのに、カメラを持って風景をおさめる振りをしていれば、人々は観光客かあるいはアマチュア写真家かと安心し、英二の存在を心に留めることはない。
 今夜もそうだった。
 細い路地の向こうに建つ、シックな佇まいにはまるで似合わないハロウィンの飾りが派手派手しく飾られている骨董屋。手持ち無沙汰にそこにレンズを向けたとき、金髪の青年が中から出て来て、英二は思わず息をのんだ。
 身長は英二よりもかなり高い。
 細くしなやかな身体に、薄手のダンガリーシャツをまとっている。
──まさか。
 慌ててカメラを下げて、目を凝らす。
 金髪の青年は英二に背を向けて、ぐんぐんと歩いていく。軽く手をジーンズの前ポケットにかけて。
 その、見慣れた後ろ姿。
──アッシュ……?
 英二はごくっと唾をのみこんだ。
 青年のあとをつけるようにして早足で歩くと、彼も足を速めて先へ行く。
 ふたりの距離は縮まることがない。
 英二の焦りは募った。
 きっと人違いだ。
 そう思っても気持ちはおさまらない。
 アッシュがこの世にいないことは英二にはわかっていた。けれど、止めたい。前を歩くあの青年の歩みを止めたい。その一心で、英二はつい叫んでしまったのだ。
「──アッシュ、待って!」
 ふと青年の足が止まった。どこか遠いところから声が聞こえたように、小首を軽く傾げる。それからゆっくりと後ろを振り向いた。
 ふわりと絹のような金髪が揺れる。緑の翡翠の瞳。よく整った鼻梁。薄い唇……。
 それはまぎれもなく──アッシュ……アッシュ・リンクス、その人だった。


「そんなに急いで、どうしたの、オニイチャン」
 その声。どんなにかもう一度聞きたいと願ったことだろう。
──あの日から。
 そうあの日からずっと英二はアッシュを待っていたのだ。

 英二の心はあの日に飛ぶ。


***

 アッシュが刺されたことを知ったのは、空港から都内の伊部のマンションに到着したときだった。
 リリリと電話が鳴って、伊部はスーツケースを部屋の中に乱暴に置き、「誰だろうなぁ」と、首をひねりながら受話器を取った。
 受話器の向こうから、マックス・ロボらしき声が洩れ聞こえてくる。伊部に向かって叫んでいるようだ。

 伊部は硬直したように突っ立ったままで、見ていた英二の胸に黒い霧のように悪い予感が這い上がってくる。
 アッシュになにかあったのだ。
 飛行機に乗る直前、「英二!」とアッシュの声が耳に響いたことを、すぐに思い出した。振り返っても彼はおらず、英二は空耳かと思ったのだけれど。
 もしかして、あれは──。
 受話器を置いた伊部に、英二はかぶせるようにして尋ねた。
「伊部さん、いまの電話は?」
「英ちゃん、落ち着いて聞いて欲しい──アッシュが……刺された」
「えっ」
「傷は急所をはずれているが、出血がひどくて危篤状態だそうだ」
「……っ」
「どうする、英ちゃん」
「ど、どうするって……伊部さん、僕、ニューヨークへ戻ります」
「わかった」

 しかし、あいにくすぐに乗れる便がなく、ふたりがニューヨーク行きの飛行機に乗ったのは、知らせから十時間後だった。アッシュはまだ息をしていると聞いて、英二はほんの少しだけ安心した。
 アッシュはこれまで、数々の危機を乗り越えてきた。瀕死の状態から這い上がって来た男なのだ。
 今回もきっと助かる。そうに決まっている。
 隣の席で伊部が何か呼びかけたように思うけれど、英二の耳にはいまはなにも届かなかった。
 ニューヨーク空港へ着くとシンが蒼白な顔をして待っており、その後ろにはアレックスやコングが、悲痛な顔をして控えていた。そのどれもがアッシュの死を暗示しているようで、英二は苛立った。
──まだ死ぬと決まったわけじゃないだろう。そんな顔をしないでくれ。
 ニューヨークの空は出発したときとは裏腹に、重い灰色の雲で覆われていて、その光景もまた英二の心に重くのしかかり、この悪夢が現実であることをいやがおうでも英二につきつけているようだった。
「英二、英二!」
 英二を迎えたシンが呼んでいる。
「ごめんっ、オレの兄貴が、ラオが……ッッ」
 嗚咽まじりに英二に謝罪する。その瞳には溢れんばかりに涙がたまっている。
「兄貴は、知らなくて……っ。オレとアッシュがもう戦うつもりなんてないことを。命のやりとりをしないことを」
 シンの声が胸に突き刺さるけれど、英二は一刻も早く、アッシュの顔を見たかった。
──「そんなに急いで、どうしたの、オニイチャン」
 きっと、病室に飛び込んだら、アッシュはいつものからかうような調子で声をかけ、それから笑うのだ。 
 英二の瞳を見て、少しだけはにかんだような、それでいて傲慢な顔をして。
 早く。早く。
 アッシュに会わなければ。
 この悪夢は終わらない。
「だめです、いまはお入りになれません!」
 ICUの面会謝絶のプレートが、英二を拒んだ。
 隣の部屋に伊部とシン達と共に押し込まれ、ガラス越しにアッシュの姿を見た。
 からだにたくさんのチューブを取り付けられ、いくつものモニターが彼を囲んでいる。
 ベッドの上のアッシュは、ひどく小さく見えた。
 その姿は儚くて、いまにも消えてしまいそうで、英二は病室のガラス窓にこぶしをあてて、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……大丈夫。きっと助かる」
 伊部が英二の背中に声をかけた。
「ええ、きっとアッシュなら」
 そうだ。
 すべての災いをくぐり抜けて、自分の人生を切り開いてきたあのアッシュが死ぬはずはない──英二は胸の中で何度もそう自分に言い聞かせた。
「英二……」
 とささやくような声が聞こえた、ような気がした。
「アッシュ!」
 英二は駆け出した。
 ひきとめようとする看護師を突き飛ばし、ICUに飛び込み、アッシュの枕元にひざまずいた。
「アッシュ、僕はいるよ。君のそばにいる」
 叫んだとき、透明な吸入器に覆われたアッシュの口元がゆるみ、ほんの少し笑ったようだった。
「アッシュ……」
 大丈夫、アッシュは助かるのだ。
 ほっとしたその瞬間。

 ピ────────……という電子音が聞こえた。



***
 「そんなに急いで、どうしたの、オニイチャン」
  英二はハッと我に返った。
 目の前にはからかうような表情でこちらを見ている青年がいる。それはまぎれもなく……
──本当にアッシュなのか。
 アッシュは三年前に死んだはずだ。なら、なら、いまこの前にいるひとは……?
「アッシュ……?」
「ん?」
「君は、アッシュ、なの?」
「他の何に見えるんだ?」
 急に不機嫌になられて、英二は慌てた。
「いや、えっと、だって……」
「だって?」
「君は……」
 英二は突然口を噤んだ。
 だめだ。
 その続きは言ってはいけない。
 あの日のことが悪夢で、いまが現実だ。そうだ──アッシュが死んだのは夢だったんだ。
 自分に強く言い聞かせる。
「ううん、なんでもない」
「おかしな奴」
 アッシュは苦笑し、
「じゃあ、行くか」
 と英二の肩をぽんと叩いた。英二はアッシュがどこへ行くか、まるで見当がつかなかった。だがそんなことはどうでもよかった。今、あれほど願ったアッシュの傍にいる。いられる。それだけが大切だった。
 彼が何者であろうと、そんなことは構わなかった。



「どこ行ったんだよ、英二……」
 シンは途方にくれていた。
 ほんの一瞬、目を離しただけなのに、英二は忽然と姿を消してしまったのだ。すぐにチャイニーズマフィアの仲間を呼んで、辺り一帯を探させたものの、ハロウィンの猛烈な人混みの中で、小さな東洋人を探すのは至難の業だ。結局誰も英二を見つけられず、シンは唇を噛み締めた。



 アッシュと英二は、路地の向こうを通るハロウィンの仮装行列を眺めながら、歩いていた。タイムズスクエアの裏道を通って、チャイナタウンのほうへと向かう。
 いつもなら、ここらあたりは浮浪者やら薬の売人やらラリった若者やらでいっぱいのはずだ。なのに、今は誰ひとりおらず、荒れ果てた建物群の谷間に、アッシュと自分だけがいた。
 ぽかりと空に浮かんだ月は蒼く冴えて、ちょうど頭上に差し掛かっている。
「誰もいないね……」
 英二はぽつんと呟く。
「──怖いか?」
 アッシュが尋ねる。それは何回となく英二が聞いた言葉だった。その答えは決まっている。
「まさか」
 怖いはずがない。
 どんなにひどい戦闘の場でも、君といれば僕は怖くなかった。
 君が人を殺しても、僕に見えるのは心の中で血を流している君だ。
 僕のために傷ついていた君。
 そんな君が怖いはずがない。
 チャイナタウンの裏路地に着いた。ここにはつらい思い出がある。
──ショーター。
 アッシュは大丈夫なんだろうか。
「ショーターのことは、もう大丈夫だから」
 まるで英二の心を読んだかのように、アッシュは言った。
──もう、大丈夫だから
 悟ったようなアッシュの言葉に、英二は少しほっとする。
 シンの話も出た。
 今、シンはアッシュの仲間たちも含めて、「街のダニ」のボスとして君臨し、最近はビジネス方面の頭角を現していることを話すと、
「は、あのシンがビジネスね」
 愉快そうにアッシュは笑う。
 明るい笑い声が夜に消えて、ふと沈黙が訪れた。
 本当に話したかったのはこんなことじゃない。
 もう一度、アッシュに会えたら、僕は────
「腹が減った」
「え」
「お前、腹空かないか? なんか食いたい」
「なんかって……」
「納豆以外なら、なんでもいいぜ、オニイチャン」
「オーケー、じゃあ、パンプキンパイなんてどう?」
「さいてーだな」
 ぶー、ぶー、と中指を突き立てて、アッシュは大声で笑う。
 角のジェシーの店に行き、サラダやキッシュ、パイやビールなんかをどんどん注文する。
 不思議なことにハロウィンの骸骨帽子を頭にのせた店主のジェシーは、アッシュを見ても驚いた様子はない。彼女はアッシュの死を知っているはずなのに。
 ごく普通に、アッシュにハローと言い、注文に応えて惣菜を包んでいる。だから、英二は「やはりアッシュは本当に帰ってきたんだ」と自然に思えて、自分の疑惑を都合よく忘れようとした。

 暖かい店を出れば、外は意外と冷えていた。
「……寒いな」
 見ると、アッシュはシャツ一枚で、なんで英二はそれに気づかなかったんだろうと、自分のうかつさを責めた。急いでジャケットを脱いで、アッシュの肩にかけてやる
「それじゃ、お前が寒くなる」
「いいよ」
 アッシュは少し困ったような顔をして、それからおもむろに英二に近づくと肩を抱き、ジャケットの半分が英二の肩にもかかるようにした。
「さんきゅ」
「別に」
 そっけなく言う彼の頬が少し赤い。
「顔、赤くなってるよ」
「っるさい!」
 はははと英二は笑って、アッシュに一層くっついた。
 懐かしいアッシュの匂いがする。彼の身体は──温かかった。


***

 ふたりが辿り着いたのは、ロウアーイーストサイドのなじみ深いあのアパートだった。周囲にはハロウィンの喧騒がまるで聞こえず、湖の底のように静かだ。
 かつん、かつんと二人分の足音が空気を震わせる。冬が近いことを思わせる夜気だった。
 アッシュは先程から黙ったままで、けれど怒っているというふうではなく、かろやかに階段を上って行く。英二も遅れないように少しばかり急ぐと、アッシュは「悪い、もっとゆっくり行こう」と英二を気遣った。
「さあ、食べるか」
 買って来たものを、落書きだらけのテーブルに広げる。
 幸いなことに電気も水道もまだ通っていた。
 食器も少し残っていて、英二はそれをざっと洗い、ビールをグラスに注いだ。
 乾杯をして、グラスに入ったビールを飲み干す。
 英二は向かいに座っているアッシュを見つめた。
 変わらない。
 三年前とまったく変わらない。
 金色の髪。翡翠の緑の瞳。
 ゴルティネや多くの男たちを惑わせ、不幸を呼び寄せた世にも類い稀な美貌。
「そんなに見られると顔に穴があく」
「えへへ」
 と英二は頭をかき、いまにもパイにかぶりつこうとしているアッシュに向かって、カメラを構えた。
「こんなところ、撮るのかよ」
「だめかな」
「別に……構わないぜ」
 アッシュはわざと大きく口を開けて、パイを頬張ってみせる。
 英二はシャッターを切った。
 ジェシーの惣菜はどれもうまく、少し言葉を交わしては、ビールを飲み、パイやキッシュを口にいれ、シャッターを切り……。英二はアッシュのそばにいて、満ち足りた気持ちだった。アッシュは生きている。そのことに英二は安堵する。ずっとふたりで話していたい。なのに、英二は次第に眠くなってきて、うとうとと身体が揺れてしまう。

「おいおい、そこで寝るなよ。ベッドに行けよ」
「君も一緒に」
 寝ぼけたように呟いて、英二ははっとした。
 しまった。
 いま凄いことを言ってしまった……。
「いや、あの、その、」
 英二が慌てて否定しようとすると、アッシュは
「いいぜ」
 と答えて、すたすたとベッドへ向かった。
「へ……?」
 英二は一瞬ぽかんとし──それから、つんのめるようにしてアッシュの後を追った。


 氷のように冷たいベッドにふたりで潜り込む。
 ぶるぶると震える英二に、
「しょうがねえなあ」
 とアッシュは小さく笑い、横になると、背後から抱きしめる形で、英二の背中に身体をつけ、腕を前に回した。
「これなら暖かいだろ」
 耳元にアッシュの息がかかって、くすぐったい。
「くすぐったいよ」
 言えば、アッシュはわざとふうっと大きく息をかけ、
「どうだ、くすぐったいか」
 と、いたずらっぽく聞いてくる。
 くすくすと英二は笑い──それからくるっと身体を回して、アッシュと向かい合う格好になる。
 アッシュの翡翠の瞳を見つめれば、アッシュも英二の黒い瞳を見つめ返す。
──ずっと、この緑色の瞳に見つめられたかった。
 突然、英二の胸に悲しみが湧き上がり、みるみるうちに涙が溢れる。
「英二……?」
「なんでも、なんでもないんだ、アッシュ」
 アッシュは困ったように眉を寄せ……それから舌でそっと英二の涙をぬぐった。
「アッシュ……」
「泣くなよ」
 こくん、こくんとうなずいても、涙はあとからあとから溢れてくる。
 再会が嬉しい。声が懐かしい。君が愛おしくてたまらない。
 英二はアッシュの身体に腕を回し、強く抱きしめる。
「おいおい、オニイチャン。随分強すぎるハグだぜ?」
 苦笑しながら、アッシュも英二を抱きしめる。
 ふたりは顔をゆっくりと近づけ、鼻先をこすりあい……そして互いの唇にキスをした。
 軽く触れ合うようなキスだった。すぐに唇を離して、額と額をくっつける。目を合わせると、ふたりとも照れくさそうに笑った。

「英二……」
「ん、なに」
「こんなこと言うと、お前は怒るかもしれないけれど」
 アッシュが目を伏せてつぶやくように言った。その耳がうっすらと紅い。
「お前と、したい」
「えっ」
「俺は……ずっと、お前としたかった」
「……」
「こんな俺とじゃ……嫌か」
 男たちに蹂躙され続けた俺と。穢された俺と。
 英二は激しく首を横に振った。
「嫌じゃない! 僕も、君と、」
 最後の言葉は、キスに奪われた。激しく、強く、舌を吸いあげられ、英二は一瞬、窒息しそうになる。
「……っ」
 髪に指を入れられ、頭をぐっと寄せられる。アッシュの熱い舌に舌を搦めとられ、英二の背中にゾクゾクと寒気のようなものが走った。
「アッ……シュ」
 つぶやく余地などありはしない。
 すぐにまたアッシュに唇を捉えられ、歯列を優しく舐められる。
「ん……んっ」
 鼻腔からこぼれる甘い吐息に、英二は死ぬほど恥ずかしくなった。自分がこんな声を出すなんて、信じられない。けれど、その羞恥すら、アッシュのキスは消し去ってしまう。深く、甘く、激しく、口中を侵されて。 英二は、思わずぎゅっとアッシュの肩にすがった。
「英二」
 耳元でアッシュが自分の名を呼ぶ。
 その甘やかな声に、全身が震えた……。

 目覚めたとき、傍らにアッシュはいなかった。
「アッシュ?」
 慌てて英二は起き上がる。
「まだ寝てろよ、オニイチャン」
 いつもの声が聞こえて、安心した。
 見れば、アッシュは窓枠に片膝を立てて座っていて、街を眺めていた。
 もうすぐ夜が明けるのだろう。
 濃紺と紫と茜が入り混じり、その下から薄く金の光が漏れている。 
 生まれたばかりの朝日を浴びるアッシュは、神々しいほど美しかった。
「ねえ」
「ん?」
「写真、撮ってもいい?」
「は? またか?」
「いや、今、急に撮りたくなって……」
 いやならいいよと、英二は慌てて手を振った。
 アッシュは少し考えていたが、
「……いいぜ」
 とうなずき、英二は急いで、ソファに置きっ放しだったカメラを取りにいった。
 なぜだろう。
 急がなくてはならない気がしていた。
「じゃ、撮るよ」
 アッシュは軽くうなずいて、静かに目を閉じた。
 綺麗だった。
 瞑想しているような、あるいは眠っているような彼の横顔に吸い寄せられ、夢中でシャッターを切った。
 何枚か連写して、ふうと息をついたとき。
「おい、もういいのか」
 アッシュが目を瞑ったまま、怒ったように口を尖らせた。
「あ、ごめん、いいよ」
 英二はカメラを置くと、アッシュの横に立ち、次第に明るくなるマンハッタンの街を見つめる。
「夜明けと、陽が沈むときだけだな、この街がちったあマシに見えるのは」
 アッシュはぼそっと呟き、小さな声で英二に
「……」
 と言った。
「え?」
 聞き返すと、アッシュは軽く笑いながら、「じゃあな」と手を振って──それから英二の目の前がすとん、と暗くなり……英二は意識を手放した。

***

「おい、英二! おいってば」
──誰かが僕を呼んでいる。
「英二ッ!」
 からだを大きく揺さぶられて、英二は瞼を上げた。
「あ……シ、ン?」
「おい、大丈夫か?」
 シンが心配そうに、英二の顔をのぞいている。
「一晩中探したんだぜ! まさかと思ってここに来てみれば、お前倒れて動かねーし、ドキドキした」
「アッシュは?」
 英二の問いかけに、シンは一瞬身を固くした。
「えっ?」
「ねえ、アッシュはどこ?」
「英二、何言ってる……?」
「シン、アッシュがここにいただろう? 夕べ、一緒にいたんだよ。ほら、そこで一緒に夕飯食べて……」
 指差して、英二は目をみはった。
 テーブルの上にはなにもなかったのだ。
 ジェシーの店で買った惣菜やパンの残り、ビールの瓶やグラスが……全部ない。
 英二はきつねにつままれたような気持ちで、立ちすくんだ。
「そんな……」
「英二」
 シンは英二の肩を揺する。
「しっかりしろ、アッシュは、もう、三年前に……」
「言うな!」
 英二は叫んだ。
 言ってしまったら、昨夜の出来事は夢になってしまう。
 夢じゃない。あれは夢なんかじゃない。
 三年前に起こったことが悪夢で、昨夜のことが真実だ。
 だって、僕は夕べアッシュと街で再会して、ふたりで一緒に買い物をして、それから僕らは。
「アッシュは死んでない。アッシュは生きてる。僕と一緒にいたんだから。だから……!」
 英二は怒鳴るようにシンに訴える。
 けれど。

──じゃあな。

 朝日を背にしたアッシュの姿が脳裏に蘇る。
「っ」
 そのときのアッシュの笑顔が、英二がICUで見た笑顔と同じ──本当にやすらいで幸せそうに微笑んでいたあの笑み──だったと英二は気づいた。

 同時に昨夜のなにもかもが、幻だったのだと悟り、英二はしばらく身動きできなかった。やがて、自分の手の甲に、ぽたり、と熱いものが落ちてくる。涙は静かに流れ、英二の心の奥底にマグマのようにどろどろと渦巻いていたやり場のない怒り、悲しみを少しずつ溶かしていく。
 アッシュがもうこの世にはいないことを、もう戻っては来ないことが、今ようやく英二の心に落ちたのだ。
「……アッシュ」

 朝の光がアパートの中に差し込んでくる。
 綺麗な金色の光。
 きらきらと輝く光。
 金色の髪。
 翡翠の瞳。
 あの瞳にはもう二度と会えない。
 もう二度と。




 それから二ヶ月後。
 ニューヨークに最初の雪が降り始めた。
 厳しい冬がやってきたのだ。 
 人々がコートの襟を立てて足早に歩き、路上にはホームレスが寒さにかじかみ、やがて動かなくなる、長く辛い冬が。
 英二はふと、凍えた街を撮りたくなり、部屋の隅に放り出していたカメラを手にした。
 うっすらとかぶった埃を手で払い、窓から外を撮影する。
 だが、妙にシャッター音が軽く、そこで初めて、フィルムが終わっていることに気がついた。そういえば、あのハロウィンの夜からカメラに触れていない。あの夜、アッシュを撮って以来……。
 英二はカメラ後部のフタを開け、フィルムを取り出した。
 暗室代わりにしている浴室で、現像液に浸す。
 ピンセットでゆるゆると印画紙を液の中で泳がせ、浮かび上がる画像に目を凝らした。
 あの夜、アパートで撮ったのは、アッシュが豆腐サラダを食べているところ、ビールを飲んでいるところ、頬杖をついて英二を見つめる姿、ソファにごろんと横たわる様子──それらをフィルムに収めたはずだった。
 だが──。
 印画紙に写っているのは、人のいないキッチン、食器などないテーブル、誰も座っていない古ぼけたソファ。ほぼ予想していたとはいえ、あの夜のことは幻だったと、あらためてつきつけられたようで、英二の胸は苦しくなった。
 最後の一枚をピンセットで動かしたとき。
 英二の瞳が、なにかを捉えた。

 アパートの大きな窓。ジーンズを履いた足が見える。窓枠に軽く片足を乗せて、座っている。膝にゆるやかに置かれた形の良い手。細身のしなやかな上半身、肩に触れる金髪、そして……
「アッシュ……?」
 そこには、うつむき加減に顔を下に向け、目を瞑っている彼──アッシュ──の姿が焼き付けられていた。
「……そんな」
 目にしているものが信じられなかった。
 あの晩、自分が体験したことはすべて夢だったはずだ。
 アッシュはもうこの世にはおらず、ハロウィンの夜に見たすべては、自分の想いが見せた幻だったのだと。
 けれど、これは。
 しっかりと印画紙に焼き付いている、眠っているような、なにかを祈っているようなアッシュの姿。
 金髪が軽く目にかかっていて、頬に影を落としている。
 その睫毛の長さ。少し微笑みかけた口元。
「アッシュ」
 と声をかけたら、「ん?」と今にもこちらを向いてくれそうな表情。
 身体が震えて、印画紙を持つピンセットが震えてたまらない。
「アッシュ、君って奴、は……」
 もう言葉は出なかった。
 あの夜の奇蹟。アッシュが遺していってくれた一枚の写真を見つめ、英二は茫然と立ち尽くしていた。

***

「なあ、これ、いつ、撮った写真なんだ?」
 英二の初個展が開催される、その前日のことだ。
 一番奥に飾られた『夜明け』と題された写真の前で、シンはけげんそうに英二に訊いた。なじみ深いあのアパートの部屋で、アッシュが窓枠に腰掛けて、軽く目を瞑っている。 そんな写真をシンは見たことがなかった。
「……いつだったかな。もう、忘れた」
 英二の答えにシンは軽く顔をしかめた。
「お前が忘れるわけないだろ」
 英二は聞こえないふりをして、大きく引き伸ばされた写真を仰いだ。

──アッシュが僕に遺してくれたもの。

 あれ以来、英二は再び写真を撮るようになっていた。それまでのおざなりな態度ではなく、真剣に。
 日々、ニューヨークのそこかしこを撮った。マンハッタンもチャイナタウンもソーホーも。ニューヨークのすべてをフィルムにおさめようとしているかのように、英二は精力的に撮影していた。
 英二はいつか、ファインダーの向こうにアッシュが現れるような気がしてならないのだ。

──その日が来るまで、僕は撮り続ける。

 ニューヨークの光も闇も。
 君の愛した街のすべてを。
 アッシュ。
 アスラン。
 夜明けの名を持つ君を愛してる。
 君を──待っている。