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パブリックスクール二次



『画廊にて』

   

 今日こそは必ず。

 エドワード・グラームズは、東京丸の内に位置するグラームズ社日本支社の最上階、支社長である自分だけが使えるプライベートフロアのクローゼットルーム──といっても小さな部屋ぐらいの大きさはある─の鏡に映った自分に向かって、言い聞かせた。

 今日こそは必ず、中原礼に会いに行くのだ。

 ここまで来るのに八年。

 レイと最後に別れてから、八年も経ってしまった。

 エドはパブリックスクールの頃を思い出しながら、シャワーを浴びたばかりの素肌に、おろしたての純白のシャツをまとった。

 少年時代、まだ両親に管理され、金も力も自分の自由にできなかった、あの頃。

 貴族、それも四百年以上続く大貴族の次期当主である自分と、エドの祖父と日本人女性との間に産まれた私生児のレイとの恋は、到底叶うものではなかった。

 レイがエドに寄せていた優しく深い愛を知りながら、もしもその愛情に応えれば、貴族の血に執着する両親や親戚たちから、混血児のレイは傷つけられ、ボロボロにされ、下手をしたら、大切な友人ジョナスのように、自殺にまで追い詰められる可能性だってあったのだ。だからエドは、愛するレイのために、レイにわざと冷たく当たり、レイがこれ以上自分を愛さないように、必死で遠ざけなければならなかった。どれほど愛していても、決して愛していると言ってはならなかった。

 けれど、学校を卒業する最後の年、どうにも耐えられなくなって、レイプ同然にレイを抱き、それでもエドを見捨てずに、愛していると言い続けたレイを卒業と同時に日本に送り返して、ふたりは別れたのだった。

──あれは、今生の別れだと思っていた。

 もう二度とレイに会うことはあるまい。貴族の嫡男である自分は、ケンブリッジ大学を卒業したら、グラームズ家が経営する会社に入ってトップの座におさまり、がむしゃらに働いて、生き血に群がる蛭のような親戚たちに金を吸い取られ、彼らに望まれるまま、伯爵家にとって都合のいい、どこかの令嬢と結婚して、子どもをつくり……。

「……ッ」

 ケンブリッジ大学の寄宿舎。ルームメイトが寝静まった深夜、そっと部屋を抜け出て、凍えるような寒さの中、古い校舎の柱に背をもたせかけ、煙草を吸いながらそう考えていたとき、エドの心にぴしりとヒビが入った。鋼の鞭で打たれたような鋭い痛みが胸をえぐる。

 心臓からいまにも血が溢れ出しそうだ。

 ガンガンと頭が割れるように痛い。

 膝の力が抜け、ずるずると崩れ落ちるように、地面にしゃがみ込んだ。

「く……っ」

 息が吸えない。

 過呼吸状態に陥って胸が詰まり、ぎゅっと強く土を掴んだ。

 そのとき突然、頭の中に白銀の矢のような光が走った。

 エドの碧の瞳から、どっと涙が零れる。

──レイのいない人生など、生きる価値はない。

 その言葉は天啓のように、エドの心を捉えた。

 それでも生きなければならないのなら、それはもうエドの魂の死を意味する。

 長い年月を貴族の義務だけを背負って、愛を捨て、心を捨て、死人のように、惨めに生き続けることになるのだ。

「くそったれ……!」

 悪態をつきながら、両膝に手をつき、ぐっと立ち上がった。

 そんな人生などまっぴらだ。

 グラームズ家の四百年の歴史? くそくらえ!

 俺の幸せはどこにある? 俺の生きる希望はどこにある?

「レイしかいない……」

 俺を幸せにしてくれるのは、レイだけだ。

 俺の弱さを愛してくれるのは、レイだけなんだ。

 そのレイを冷たく扱い、卒業と同時に日本に帰し、それで終わりにしようなんて……自分はどれほどバカなのか。

──レイを迎えに行く。

 できるだけ早く。そうだ、一刻も早く大学を卒業し、グラームズ社に入り、成果を出して、社長となり……自分の自由になる金や権力を手に入れ、レイの存在を抹殺しようとする血族たちをねじ伏せられる男になったら……そうしたら、レイを迎えに行く。 

 エドは凍てついた夜空を見上げた。月も星もない冷酷な闇に、そう誓う。

 力をこめて握った手のひらに、深く爪が食い込み、血が滲んでいる。だが、魂の痛みにくらべれば、その痛みなどたいしたことではない。

 自分にはレイが必要だ。

 俺の魂の片割れを取り戻し、必ずこの胸に抱きしめてみせる……。

 その時からエドは猛烈に勉強し、二年飛び級して、最速でケンブリッジを卒業するという目標を成し遂げ、卒業後のギャップイヤーも取らず、すぐに社会に出て、仕事を始めた。 

 オーストラリア、デンマーク、アメリカ、香港の支社長を務め、それぞれの地ですさまじい速さで業績を上げ、そしてようやくここ、グラームズ社日本支社長に就任したのだった。

 エドが日本に来てから、すでに一年以上経っている。レイの勤める会社が、自社のすぐ近くにあることを知っていながら、これまで会いにいかなかったのは──疎ましい親戚どもが突きつけた条件をまだクリアしていなかったからである。だが、それももうまもなく完了する。そのことが確定したとき、エドは自分にレイと会うことを許したのだった。

「さて……」

 鏡の中の顔をあらためて見れば、多少緊張しているのか、顔がこわばっている。これではいけない。レイに見苦しいところは見せたくない、とパン! と頰を両手で叩いて、気合を入れた。 

 純白のシャツに、黒に近い深緑のシルクのネクタイを締める。自分に最も似合う濃紺のチョークストライプのスーツを選び、袖を通した。ロレックスの時計を手首に嵌め、少し後ろに下がって、鏡の中の自分の姿をチェックする。

 額に落ちた金の髪を、軽く指先で払った。

 エドワード・グラームズ。

 金髪碧眼、白皙の美貌。スポーツで鍛えあげたたくましい体躯を極上のスーツで包んでいる。

 大貴族の次期当主にして、まもなく巨大企業グラームズ社の王座につこうとする男にふさわしい姿だ。

「これでよし」

 エドはドレッサーから小さなクリスタルの瓶を取り上げると、蓋をあけた。上品なシトラスの香りが鼻をかすめる。パブリックスクール時代によく使っていたコロンだ。日本人のレイが強い香りを好まないことは、よく覚えていた。だからエドはコロンをほんのわずか指につけ、首筋に薄くのばした。レイが近づいたときに、仄かに香る程度に。レイは覚えているだろうか、この香りを……。

 小さく息を吸って、ロレックスに視線を落とす。

 もうすぐ昼だ。そろそろ行かなくては。

 いつもこの時間、レイの勤める美術出版社の一階にある小さなギャラリーでは、受付のアルバイトの娘がランチに出かける。その間、たびたびレイが彼女に代わり、ギャラリーを訪れる外国人の応対をしていることは、事前に秘書に調べさせて知っていた。

 バーバリーのトレンチコートを羽織って、プライベートフロアを出る。

 一階下の秘書室で作業していた第一秘書のロードリーが、めかしこんだエドの姿をちらりと見たが、特に表情を変えることなく、

「二時までにはお戻りください。私が代理を務められるのは、それぐらいが限界です」 

「わかってる」

 エドは足早に部屋を出ようとして、背後からまた秘書に声をかけられた。

「エド」

「なんだ」

 一刻も早く行きたいのに、とイラついて振り返ると、あろうことかこの秘書は、

「キマってますよ」

 グッと親指を立てた。常日頃、上品で冷静な秘書のすることとは思われない仕草に、一瞬あっけにとられたが、すぐ我に返り、

「行ってくる」

 不機嫌に言い置いて、今度こそ本当にオフィスを後にした。

***

 一階のガラス張りのギャラリーには誰もいない。

 中に入れば、すぐに社員が気づいて、きっと英語の堪能なレイを呼んでくれるだろう。

 レイは外国人客のために紅茶を用意して、上階から降りてくるだろう。

 それからティーセットをテーブルに置いて、絵を見ているエドに声をかけるはずだ。

「Hello May I help you?」

 ゆっくりと振り返った自分は……自分は、なんて喋ればいいんだ??

 十分にシミュレーションしたはずなのに、エドは急に不安に襲われた。

──久しぶりだな。

──こんなところで会うなんて思わなかった。

──元気にしていたか。

 

 どれもわざとらしい気がするし、レイがどういう反応をするのか想像したら、空恐ろしくなってきた。もしもレイがすっかり自分のことを忘れていたらどうしよう。最悪、「どちら様ですか?」なんて、聞かれたら。

 そうしたら、そうしたら、俺は…………。

 足が竦んで動けない。

 いっそこのまま会わずに引き返そうか。

 もしも俺のことを覚えていたとしても、八年前に別れた相手だ。

 今更のこのこ現れて、いったい何の用だと迷惑そうに眉をひそめられるだけだろう。

 エドは突っ立ったまま、しばらくの間、動けなかった。

 だが。

──レイに会いたい。

 心の中に激情が押し寄せてくる。

 ひと目だけでもいいのだ。たとえ自分のことを忘れていたって構わない。

 ただ、会いたいのだ。あの姿をこの目で見たいのだ。

 激しい想いが、強い熱情がエドを動かした。

 勇気を振り絞って、ギャラリーの扉を押す。

 ゆっくりと中に入り、展示されている絵画の前に立った。

 もっとも絵なんぞ、てんで頭に入ってこない。頭の中はこれから来るはずの、レイのことでいっぱいだ。

 パーテーションの後ろから顔を出した社員がエドの姿を認め、慌てて上階に行った。

 しばらくしてエレベーターが到着する音が聞こえる。

 背中がひくりとわなないた。

 緊張で口の中がカラカラに乾く。

 カチャカチャと食器が触れ合う音がし、その音に混ざって、聞き慣れた小さな足音が聞こえた。

──レイだ……!

 振り返らないように必死で自分を抑え、絵を鑑賞しているフリをする。

 カタリと音がして、レイが茶器をテーブルに置いたのがわかった。

 パーテーションを回った気配がして……

「hello may I…………ッ!?」

 オルガンのようなあの優しく懐かしい声が耳に届いた途端、我慢できず、振り返ってしまった。

「……っ」

 レイが、そこにいた。

 恋い焦がれたレイが、いる。

 棒を呑み込んだように立ち竦んで、エドを見つめている。

 走り出して抱きしめたい衝動をこらえた。

 レイは、八年前とほぼ変わらない。

 柔らかいからだつき、華奢な手首、細い腰……全身にまだ少し、少年らしさが残っている。

 エドを見て、大きく見開いている黒い瞳も、漆黒の絹のような髪も、真珠のような白い肌も……すべて記憶のままにそこに在る。

 そして自分の気のせいでなければ、今レイの頰にうっすらと赤みが差している。

「……レイか?」

 やっとの思いで絞り出した声は間抜けなほど掠れていたが、レイの黒い瞳にみるみるうちに涙の膜がかかり、自分を忘れていなかったこと、再会を喜んでくれていることがわかり……胸の奥から熱いものがこみ上げて、もうそれ以上、何も言えなかった。

fin