パブリックスクール二次
『アイスランドの南』 R18
まったく。人が多すぎる
ヨハネスは、前から後ろから急ぎ足で襲いかかるように向かってくる人々を避けるだけで、精一杯だった。耳をイラつかせる意味のないおしゃべり。車の騒音。通行人のほぼ全員が持っている、セルフォンから絶えず鳴り響く電子音。
夕暮れ時のロンドンの、予想以上の喧騒に立ち竦み、思わずたったいま出てきたばかりの建物を見上げた。真四角の白い建物。どこが入口なのかわからない意地の悪いファサード。威圧感ばかり強い、人々をあざ笑うかのような冷たい建築──イングランドで五本の指に入る有名なスクエア・ギャラリーからやっとの思いで逃れてきたけれど、外は外で刺々しいほどの賑やかさに目が眩んだ。
──受賞歴は? 君の作品を買ったギャラリーやコレクターの名前は?
雑踏の中、欲にまみれた声が頭の中でこだまする。
スクエアのダイレクターであるメイソンという男は、ヨハネスがおずおずと差し出した陶芸作品のフォトをろくに見ようともせず、矢継ぎ早に質問した。だが、名も無い新人のヨハネスがメイソンの問いに答えられるはずもなく……呆れ返ったようため息をこぼされ、追い出されるようにしてスクエアを出たのだった。
「ふぅ……」
この街に来て、何十回目かわからないため息。
ヨハネスは故郷アイスランドから三週間前にイングランドにやってきた。目的はギャラリーを回って、自分の作品をアピールし、少しでも展示のチャンスを作るためだ。もっとも作品を売って生計を立てるということも視野には入れているが、それはまだまだ先のことだ。まず作品を見てもらわなければどうしようもない。
ヨーロッパの北の果て、アイスランドという小さな国で、ほんの数回、ささやかな個展しか開いたことのないヨハネスの作品は、当然美術雑誌に載ることもなく、美術関係者の目に留まることもない。だから、こうやって自ら足を運んでロンドンまで売り込みに来たのだが……。
イングランド、特にロンドンのギャラリーはおしなべて居丈高だ。金になるアーティストにはへつらい、媚を売るが、ヨハネスのような新人アーティストにはけんもほろろの対応だった。もちろん、ヨハネスだってそれぐらいはおりこみ済みだったけれども、実際にこの目で、このからだで彼らの冷酷さに直に触れてみれば、やはり来るのではなかったという思いが強くなる。特にここ、ギャラリースクエアではあからさまに蔑視されて、心が挫けた。
「もういい、かな」
大きなファイルに挟んだ作品フォトの四隅の角は、ギャラリーを回るうちにいつのまにか醜く折れて、これ以上ギャラリストに見せても、蔑まれるばかりだろう。
ふと顔を上げれば、ちょうどスクエアギャラリーの真正面に、数年前にできたパルム・ギャラリーがある。今日は休館日にあたり、中の照明は消えている。
しかしたとえ開館していたとしても、いまのヨハネスには訪問する勇気はなかった。ファイルを抱きしめて、パルムの前を通り過ぎ、地下鉄に向かってとぼとぼと歩く。
「そういえば、ここにはレイ・ナカハラがいるんだっけ……」
レイ・ナカハラはアーティストのよき理解者として美術界で一目置かれている存在だ。彼と一度でも一緒に仕事をしたアーティストは彼の魅力にとりつかれ、自分の作品を預けられるのはレイのギャラリーだけだと、こぞってパルムに作品を委託し、所属アーティストになることを願う。
そもそもパルムは、イングランド屈指の大貴族であり、世界的な実業家エドワード・グラームズがオーナーで、その伴侶であるレイ・ナカハラは美術界で確固たる地位を築いている目利きのギャラリスト。そんな神のような二人が君臨するギャラリーだ。スクエアをしのぐ凄いギャラリーが、まだアーティストともいえない自分を相手にするわけがない。
ああ。考えれば考えるほど、どんどん卑屈になっていく。
ロンドンになんて来るんじゃなかった。
早くレイキャビクに帰ろう。
帰ったところで、居どころなどないけれど。
地元の美術館、ギャラリーはどこも相手にしてくれなかった。ヨハネスの民芸品といってもいいほどの素朴なデザインの陶器は、「時代遅れ」と決めつけられ、歯牙にもかけられなかったのである。
──子どもが作ったようなカップだな。
──手触りが悪い。
──洗練されていない。
冷たく言われた言葉を思い出して、大きなため息をついた。
皆が望むのは、白くつるつるとした、歪みのない陶器なのだ。地元に帰っても、またレイキャビク美術館の近くの小さな土産物屋で一日中店番をして、棚に並べられた展示品のレプリカの後ろに、こっそりと自分の陶器を置いて、誰かが目を留めてくれるのを待っている。そんな日々を送るだけだ。
肩を落として、地下鉄入口の階段を降りようとしたとき。
背後でパッとパルムギャラリーの明かりがついた。
「……っ?」
慌てて振り返る。
先ほどまで暗かったギャラリーに明かりが灯っている。
臨時休館の札は下がったままだが、中に人がいるのがわかる。
目をすがめてよく見れば、黒髪の、まだ少年のようなからだつきの東洋人が、爪先立ちしてオフィスの棚を探っている。
「レイ・ナカハラ……?」
もしかして、あれがギャラリストのレイではなかろうか。
ヨハネスは引き寄せられるようにして、パルムの入口に走った。
***
明かりが灯ったおかげで、大きなガラス張りの窓から、パルムの内部がくっきりと見えた。
元倉庫を改造したとあって、伸び伸びとした空間が広がっている。
その空間はなぜかアイスランドの青い空を思わせて、気づいたときにはもう、ヨハネスはギャラリーの扉を開けていた。
「あの……」
「すみません。今日は休館日なんです」
ヨハネスの姿を見て、黒い髪をさらりと揺らし、申し訳なさそうに小柄な青年が近づいてきた。まるで女性のように華奢な姿。けれどその大きな黒い瞳は、強い意志を湛えている。ギャラリーの照明の加減なのか、ときどきその黒い瞳が琥珀色に変わった。柔らかな雰囲気のその青年が、レイ・ナカハラであるとヨハネスは直感した。
だがそれを本人に訊くのは、あまりにもぶしつけだし、休館日に押しかけた彼のファンのようで恥ずかしい。
だからヨハネスはおとなしく帰ろうとしたのだけれど、その思いとは裏腹に口が勝手に動いていた。
「あの、もしも差し支えなかったら、ギャラリーの中を見学させてもらえませんか……? すぐに帰りますから」
そう言ったのには理由があった。
中に入ってみてわかったことだが、パルムの空気がとても気持ちよいのだ。
健やかで、爽やかで。
騒々しいロンドンの、さらに賑やかなピカデリーサーカスに位置するギャラリーなのに、アイスランドの自然の中にいるように空気が澄んでいる。
ヨハネスはすっと息を吸い込んだ。
欲と金の臭いで淀んでいたスクエアの空気とはまるで異なっている……。
突然、深呼吸を始めたヨハネスの様子を見て、青年は一瞬けげんな表情を浮かべたが、すぐににこやかに笑って、
「どうぞ、ごゆっくり」とヨハネスを自由にしてくれた。
***
ゆったりとギャラリーの中を歩いた。
壁は白く塗られている。床は剥き出しのコンクリートだ。
けれど、その空間は冷たくはない。
暖かく、人を包み込むような優しさを感じる。
そういえば、パルムという言葉には「手のひら」という意味があると聞いたことがある。柔らかく暖かい手のひらに守られた場所……。この空間の雰囲気にぴったりの言葉だ。
──ここに、自分の作品を置けたなら。
ヨハネスの胸に分不相応な望みが宿った。
歩きながら、自分の作品をどう展示しようか思い浮かべる。
まずここに低い棚を置いて。
ティーカップや小皿、水差し、花器、可愛い動物たちの置物を並べる。
自分の素朴な作品は、この暖かい空間にとても合うだろう。
ヨハネスは頭を巡らせて、周囲の壁面を見た。
そうだ。この白い壁には、陶器で作ったオブジェを展示しよう。
入口から奥まで点々と続く、足跡のような小さな陶器のオブジェを貼り付けてみるのはどうだろう。
入った人が、わくわくして足跡を追いかけ、そうするうちに棚に並べた陶器が自然と目に入る。
そんな動線を作る。
それから、コンクリートの床のところどころに、アイスランドの溶岩をモチーフにした黒灰色の大きめのオブジェも置こう。
そうだ、作品と空間を組み合わせたインスタレーションにも挑戦してみたい……。
パルムに自分の作品が並ぶ、夢のような光景が束の間見えたが、ヨハネスは心の中でかぶりを振った。
そんな夢は持っちゃいけない。
そんな夢は持つだけつらい。
マッチ売りの少女がマッチを一本擦って、暗闇に一瞬浮かび上がる儚い夢のような希望は……。
「よかったらこちらにどうぞ」
オルガンのように柔らかい声が自分を呼んだ。
振り返ると、大きな窓の近くのテーブルに、紅茶と茶菓子が用意されている。
芳しいアールグレイの香り。
その香りに誘われて、ふらふらとヨハネスはソファに座った。
そういえば、今日は朝から何も口にしていない。
そう思った瞬間、ぐうぅうとはしたなく腹が鳴った。
「す、すみません」
急いであやまるも、青年はにこっと笑って、
「どうぞ」
と綺麗なガラスの器に盛ったビスケットを勧めた。
がっつかないようにゆっくりと手を伸ばし、一口かじる。
紅茶を口に含んで、ビスケットを流し込んだ。
──うまい。
バターをたっぷり練りこんだ無骨な形のビスケットは、その見かけに反して、繊細な甘さで、アールグレイととても合っていた。イングランドで美味しいものといえば、お茶とビスケットぐらいだと誰かが言ったのを思い出し、心の中でもっともだと大きくうなずく。
紅茶とお菓子の美味しさにつぎからつぎへと手が出てしまい、瞬くうちにガラスの器は空になっていた。
ようやく腹の落ち着いたヨハネスに、青年は静かに名刺を差し出した。
「パルム のギャラリスト、レイ・ナカハラと申します」
──やっぱり。
自分の勘は当たっていたのだ。
ヨハネスは急に緊張して、
「よ、ヨハネス・カルファと言います。すみません、名刺はつくっていなくて……」
レイの名刺を受け取ろうと動いたとき、脇に置いていたファイルが床に落ち、バサバサと音を立てて、作品フォトが派手に散らばってしまった。
「うわっ!」
すぐに屈みこんで拾い出す。が、急げば急ぐほど、手が震えてうまく写真を掴めず、ますます動揺してしまう。
レイも一緒になって拾ってくれ……ふとその手が止まった。
「これは……貴方の作品、でしょうか?」
「あ、はい」
ヨハネスは思わず顔を上げた。
レイは散らばった写真を拾い上げ、テーブルの上に並べた。
一枚、一枚、丹念に見ていく。
ヨハネスの胸がぎゅっと苦しくなった。
また、なにか言われるのだろうか。
──受賞歴は? 君の作品を買ったギャラリーやコレクターの名前は?
さきほど出たばかりのスクエアギャラリーのメイソンの言葉が蘇る。
背筋に冷たい汗が流れていく。
レイが、
「そちらのフォトも見せていただけますか?」
と手を差し出した。
ヨハネスは自分の持っていた数葉の写真を渡す。
レイはまたテーブルに写真を置くと、ゆっくりと一枚、一枚、見つめていった。
ヨハネスは判決を待つような居心地の悪さを感じた。
ああ。やっぱりロンドンになんて来るんじゃなかった。
さっきあのままメトロに乗って、ヒースロー空港へ向かえばよかった。
頭の中は後悔の念でいっぱいで、レイがなにか話しかけたのに気づかなかった。
「……さん……、カルファさん……?」
「あっ、はい?!」
その表情でレイが自分を何度か呼んでいたことがわかり、赤面した。
ああ、もう。俺って本当にどんくさい。
「お伺いしますが、もしかして……こちらの作品の陶土は、花崗岩を素材にされていますか?」
レイの質問は予期せぬものだった。
これまでロンドンのギャラリーで一度も聞かれなかった質問だ。
「ええ、あの、地元には花崗岩がそこら辺にごろごろころがってまして……」
「花崗岩がごろごろ?」
レイが不審そうな声を出したので、慌てて補足する。
「あ、俺の故郷はアイスランドで、火山がやたら多いんです。それで、道端とかに落ちている適当な花崗岩を拾って、砕いて粉にして練って、自分専用の陶土を作っています」
「それは……大変な作業ですね」
レイは感銘を受けたように呟いた。
その瞬間、ヨハネスの胸に温かいものが広がった。
これまで誰にも言われたことがなかった言葉。
ずっと誰かに言って欲しかった言葉。
「陶土をご自身で作られるなんて凄いことです。手をかけて準備した陶土で、作品をお作りになるんですね」
だからでしょうか、とても優しくて、あたたかい印象を受けます、とレイは付け加えた。
ヨハネスはひたすら嬉しかった。
心の中がひたひたと満たされていく。
──この人は自分の作品を理解してくれるかもしれない。
レイ・ナカハラがアーティストの良き理解者だと、噂されている理由がほんの少しわかった気がする。
「デザインも可愛らしくて、ぬくもりがあって。どこかで勉強されたのですか?」
言われて、さっと身を硬くした。
ヨハネスは美術学校に通っていない。陶芸家の薫陶を受けたこともない。
極貧の家庭に生まれ育ったヨハネスにはそんな余裕はなかった。
だから独学で始めたのだ。拾った花崗岩を材料にして。
誰かに自分の陶器を使ってもらいたくて、喜んでもらいたくて、その一心で。
でもその履歴がプラスに働いたことはない。いつだって、「へぇ──独学で、ねえ」とうろんな顔で見つめられるだけだ。
心の中でため息をつき、レイに向かって、
「いえ、独学です」
とぼそりと答えた。
次に返ってくるセリフは決まっている。
独学で、ねぇ……だ。
「独学で、」
ほらきた、とヨハネスは身構えた。
「独学でなんて……素晴らしいことです。誰にでもできることじゃない。本当に大変な努力をして、お作りになっているのですね」
レイは心の底から感心しているようだった。
上っ面のものではない、真心のこもった言葉がヨハネスの心に響く。
「いえ、あの、はい、ありがとうございます」
思わず頭を下げた。
その後も、レイはヨハネスの素朴なデザインを褒め、どうやってイメージづくりしているのか、このデザインの背景にあるものはなにか等等、丁寧に作品について質問を重ねた。その問いは核心をついていて──ヨハネスが伝えたかったこと、考えていたことを引き出し、いつのまにかヨハネスは夢中になってレイに熱く語っていた。
語るうちにヨハネスは気づいた。
自分がなぜ陶芸を始めたのか。
作品を誰に届けたいと思っているのか。
ヨハネスの瞼の裏にアイスランドの厳しい自然が浮かんだ。
いつ溶岩が噴出してもおかしくない活火山に囲まれ、ちょっとでも油断すればすぐに凍死するような過酷な環境の国で、地にしがみつくようにして生きている人々に、自分はぬくもりを伝えたかったのだと。レイはそれをヨハネスに思い出せてくれたのだ。
そのことに気づいたとき、ヨハネスは
「あの、もし、もしも、よかったら、次にロンドンに来るときに、作品を持ってきますので、見ていただけませんか?」
と口にしてしまった。
レイは目を丸くしている。
しまった、とヨハネスは後悔した。
褒められて、調子に乗って、つい口が滑ってしまった。
どうしよう。
ああ、台無しだ。
せっかく気持ちよく話を聞いてくれたのに。
休館日に押しかけて、作品写真を見せた上に、さらに実物まで見ろなんて……。なんてずうずうしい奴だと思われたに違いない。
「あ、あの、変なことを言って、すみませんっ!!」
ヨハネスは思い切り頭を下げた。
途端。
目からばちばちっと火花が散り……数秒後に激痛が襲った。
「っ、い、つ、痛っっ!」
「大丈夫ですか?」
レイが慌てて、テーブルの向こうから身を乗り出す。
どうやら、頭を下げたときに、テーブルの角に強くぶつけたらしい。触ると、血は出ていないが、じんじんと痛い。少し腫れてきているようだ。
「いまタオルを持ってきます!」
「いえ、いいです、大丈夫です」
ヨハネスが止めても、レイは走って奥に行き、急いで水で冷やしたタオルを持って戻ってきた。
ぶつけたところにそっと押し当ててくれる。
「痛くありませんか」
「……だいじょう、ぶです」
しばらくタオルをあてていると、だんだんと痛みが鈍くなってきた。タオルをはずして触れば、小さなたんこぶがひとつ、できている。
「もう平気です。すみませんでした。お手数をおかけして」
ヨハネスが謝ると、レイは首を振った。
「いえ、本当に大丈夫ですか? まだ痛むようでしたら、病院にお連れします」
とんでもない! とヨハネスは両手を振った。
それほどのことではない。机に頭をぶつけて、こぶができただけだ。
レイの厚意はありがたかったが、申し訳すぎる。
どこまでもどんくさい自分が本当に嫌になった。
「では……僕はこれで失礼します。あの、休館日にお邪魔してしまって、すみませんでした。ギャラリーの中を見せてくださって、ありがとうございました」
テーブルの上の写真をかき集め、ファイルに挟んだ。今度は落とさないように、しっかりと脇に挟む。
立ち上がり、玄関に向かおうとすると「待ってください」と引き留められた。
「え?」
「作品を見せてくださると先ほどおっしゃいましたね。もしカルファさんがよろしければ、アトリエにお邪魔して、作品を拝見したいのですが」
「は?」
ヨハネスの頭は混乱した。
この人はなにを言っているのだ。
アトリエ?
そんな大層なものはない。
ちっぽけな家の裏庭の、ちっぽけな自作の窯で焼いているのだ。
そう言うと、レイは、
「それは興味深いですね。カルファさんの手作りの窯もぜひ拝見したいです!」
ぱっと顔を輝かせた。
「はぁ……でも、あの、僕はアイスランドに、住んでいるんですよ……?」
この人は本当にわかっているんだろうか。本当にアイスランドくんだりまで、来る気なんだろうか。こんな名も無い新人のところに……?
「はい、お話を伺っているうちに、アイスランドの自然がヨハネスさんの作品に大きく影響を与えているのだとわかって、すごく行ってみたくなりました。ご迷惑でなければ、ヨハネスさんのお宅に伺わせてください。そしてもしお邪魔でなかったら……作品づくりの様子も拝見させてください」
思いがけない展開にヨハネスは驚き、次の瞬間、飛び上がるほど嬉しくなって、口元がほころぶのを止められなかった。
ぜひ! と返事をし、住所を書いたところで、入口の扉がバン! と勢いよく開いた。
「レイ」
少し低めの甘い声。
おそるおそる振り向くと、そこには──長身で堂々たる体躯、輝くばかりの金髪に鋭い緑の瞳、映画俳優でさえかなわない美貌の持ち主──ヨーロッパの北の果て、アイスランドに暮らすヨハネスでさえ、メディアにしばしば登場するその顔を知っている──エドワード・グラームズ、その人だった。
「エド!」
レイは少し頰を赤らめて、グラームズのそばに走り寄る。
「レイ、walk! 紳士はいかなるときも走らない」
そうグラームズにたしなめられて、レイは「はい」と答えて、小さく肩を竦める。
「資料は見つかったのか?」
「……あ、それはまだなんだけど」
困ったような顔をして、グラームズを見上げると、
「カルファさん、こちらはパルムのオーナーのエドワード・グラームズ。エド、あちらはヨハネス・カルファさん。アイスランドの陶芸家さんです」
グラームズは、ヨハネスに向かってすっと手を差し出した。
「エドワード・グラームズです。よろしく」
「はははは、はは、は、い」
ヨハネスは震える手でグラームズの手に触れた。刹那、ぐっと力をこめて握り返され、緑の瞳が鋭い光を放った。
「うちは今日は休館日なのだが、レイになにか用が?」
「エド……。そんな言い方はないでしょ。カルファさんはパルムの中を見学されて、作品のフォトを見せてくださったんだよ。とても温もりのある素晴らしい作品なんだよ。今度、アイスランドのアトリエにお邪魔するんだ」
「──……なんだって?」
エドワード・グラームズの眉間に大きなシワが寄った。
レイはそれを気にする様子もなく、
「だから、カルファさんの陶器を拝見しに、アイスランドに行くんだ」
「俺も行く」
「エド!」
グラームズは、ヨハネスをぐっと睨んだ。
「私も貴方の作品を拝見したい」
作品のフォトも見ていないのに、来る気満々の大貴族にヨハネスは怯えた。
「伺っても?」
圧がすごい。
ヨハネスは恐怖におののきながら答えた。
「は、はい、ぜひ……ぜひ、おふたりで、いらしてください」
それを聞くと、グラームズは眉間のしわをやわらげた。
「もう、エドったら。カルファさんが怯えている」
「怯えていない。お前がそう思っているだけだ」
「本当に一緒に行くの?」
「もちろん」
「会社は大丈夫なの?」
「どうにかする。エドワード・グラームズにできないことはない。そんなことはよく知ってるだろ?」
はぁ……とレイは大きく息を吐き、
「すみません、カルファさん、オーナーも同行します。よろしくお願いします」
と、ぺこりと頭を下げた。
それからしばらくして、ヨハネスはパルムを辞した。
それはエドワード公が「いつまでいるんだ。さっさと帰れ」的な険しい顔で見つめていたからではない。
早く家に帰って、作品づくりに没頭したかったからだ。
あのレイ・ナカハラを喜ばすような作品を作りたかった。
可愛らしい、コマドリみたいだった。
ぺこりと頭を下げる仕草。
オルガンのように優しい声。
あの人となら、きっといい仕事ができる。
一時間前の落ち込みが嘘のように消え、ヨハネスのからだに力がみなぎった。
──さあ、やるぞ。
地下鉄の階段をステップを踏むように、軽やかに降りた。
明るい気持ちで改札を通り抜けながら、それにしても、とヨハネスは思った。
あのふたりは本当に素敵なカップルだ。
以前、聞いたところによると、レイ・ナカハラはもとは庶民の出。結婚に際して、大貴族エドワード公とは身分がつり合わないと随分周囲から反対されたらしい。
けれど自分を前にして、ふたりはごく自然にあの場にいて、ごく自然に会話をしていた。
気負うことなく、互いに相手を信頼している様子で。
「あ、でもエドワード公は、結構ヤキモチ焼きかも」
思い返せば、ヨハネスがいる間、エドワード・グラームズは絶対にレイ・ナカハラのそばを離れなかったのだ。さりげなくレイの腰に手を添え、「レイは俺のものだ」と無言で主張していた。
あんなヤキモチ焼きの夫を持って、レイさんは苦労しているかも。
ヨハネスはクスリと笑って、ヒースロー空港行きのメトロに飛び乗った。
*おまけ*
ヨハネスをにこやかに見送って、レイは隣に立つエドを見上げた。
不機嫌な顔をしている。
そしてそれを隠そうともしていない。
「エド……」
「あいつはなんなんだ。いつここに来た。いったい何を話していたんだ」
詰問されて、レイは思わず笑ってしまった。
「なにがおかしい」
「ううん……相変わらずだなって思って」
レイが返すと、エドはムッとして、ぷいと横を向いてしまった。
「話していたのは一時間ぐらいだよ。僕がギャラリーの明かりをつけたら、入って来て、見学させてくれって……」
「レイ、お前……っ、お前は、男なら誰でも入れるのか?」
「エド、なに言ってるの。ここはギャラリーだよ。人が来れば、扉を開けるのは当たり前でしょ」
「だが、休館日だ。開ける必要はなかったはずだ。それともあれか、お前はああいう男が好みなのか。あんな……あんな、どんくさい山男みたいな奴が……」
「エド、言い過ぎだよ」
「大体、この間、変態芸術家に襲われかけたばかりだろう? ロードリーがいなかったら本当に危なかったんだ。いつになったらわかるんだ。お前が、お前が、どれだけ男をそそるのか。少しは自覚してくれ」
はっきりと言われて、レイの頰は赤くなった。
「──エドはいつもそういうけれど、僕はそんなに魅力的じゃないよ。単にパルムのギャラリストだから、アーティストが集まってくるだけでしょ」
ああ、もう、とエドはこめかみをもんだ。
レイの額に自分の額をこつんとつけると、
「頼む、レイ。ここにひとりでいるときに、男を入れないでくれ。せめて、ウィンチェスターの軽薄ダイレクターか、頑固でコミュ障なアーティストがいるときにしてくれ……」
軽薄ダイレクターはヒュー・ブライトで、コミュ障アーティストはデミアン・ヘッジスのことだろう。そのふたりのどちらかがいるときじゃないと、ギャラリーに人を入れるななんて無理だと、エドだってわかっているはず。それでも、必死に訴える様子に、レイは可愛いとさえ感じてしまう。
「わかった、エド。できるだけそうする」
そう答えると、エドは不承不承といった態で額を離してくれた。
「あっ、そうだ!」
レイは不意に用件を思い出し、
「エド、ちょっと手伝ってくれる?」
とエドのたくましい腕を掴んだ。
ぐいぐいとオフィスの棚の前に連れていき、
「資料があの上にあるみたいなんだけど、僕じゃ手が届かなくて……。代わりに取ってくれない?」
頼めば、エドはまかせろと嬉しそうにうなずき、片手を伸ばして、あっという間にファイルを取ってくれた。
「ほら」
「ありがとう!」
これがないと、再来年のデミアンのスケジュールを立てられないんだよね、とファイルの中を覗きこむ。
と。
突然、長い指がレイの顎をすくった。
「え……?」
エドの唇が近づいてくる。甘い吐息が、かすかに頰に触れた。
レイは慌てた。
「エド、ま、待って、外から見えちゃう」
「見えなければいいのか?」
エドがにやりとする。
「そ、そうじゃなくて……」
レイに顔を近づけたまま、エドは手元のリモコンを操作した。静かに明かりがフェイドアウトする。
「これでどうだ?」
「だ、だめだよ。入口の鍵が開いてるもの」
「もう締めてある」
「えっ?」
「さっきあいつを送り出すときに、鍵をかけたんだ」
レイはまったく気づかなかった。
──なんて早業なんだろう……。
「……キスしてもいいか?」
レイの返事を待たず、エドは唇を重ねた。すぐに温かい舌が潜り込んでくる。
「ん……ぅっ」
レイの後ろ頭を大きな手で支え、エドは顔の角度を変えて、深くキスをする。レイの舌を優しく捉え、絡めては吸って、甘く噛み……。
口の端からつぅっと唾液が溢れた。下腹部がきゅっと切なくなる。
「レイ……」
エドはレイを棚に押しつけて、スーツの上着を脱がせた。シルクのタイをゆるめて抜き、ベストのボタンも外し始める。
レイの血の気が引いた。
「ま、待って、待って、エド。まさか、ここでするの……?」
「なにか問題が?」
「だって、外から丸見えだよ?」
ガラス張りの窓の外はピカデリーサーカスの広場だ。とっくに陽は落ち、きらきらと輝くネオンの光に、そぞろ歩く人々の姿が黒いシルエットになって見える。喧騒に満ちた夜の街の風景が、すぐ目の前に広がっている。
「中は真っ暗だ。外からは見えない」
エドが言い切った。レイのベストをはだけ、シャツのボタンをひとつずつはずしていく。
「でも……だ、め、こん、なところ、で……。んン、あ……ッ」
シャツをすっかりはだけられ、エドの熱い舌が乳首を舐めた。そのままじゅるっと強く吸われて、レイの背中がふるりと震える。甘く切ない感覚が下腹部からのぼってくる。
「やっ……エ、ド」
エドは答えず、愛撫を続けた。乳首を優しく噛み、親指と薬指でくにくにと押しつぶす。
「あ…、あ、っ」
執拗に乳首を愛撫され、乳首から下腹部まで一本に繋がってしまったような快感がレイを貫く。小ぶりな性器が淡く勃ち始め、下着の布にあたって一層快感を拾ってしまう。
「レイは乳首だけで感じているのか?」
エドが意地悪く聞く。レイのズボンのベルトをはずし、下着の中に手を入れる。エドの指が後ろの窪みに触れて、反射的にきゅっと中が収縮した。エドに仕込まれた甘い快楽を、からだはすぐに思い出して、勝手に動き出してしまう。恥ずかしくて、いたたまれない。
「感じて、なんか……」
首を横に振る。エドは薄く笑うと、後孔にそっと指を挿れた。
「っ……あ、ぁっ」
背が弓なりにしなる。後孔ははしたなく動いて、エドの指をもっと奥に誘い込もうとしている。エドは指を二本に増やし、内襞を優しく撫で回すと、中でゆっくりと開いた。
「もう、こんなに柔らかくなってる……。わかるか、レイ?」
真っ赤になって、こくこくとうなずく。からだの奥がじんじん痺れて、つま先から熱い塊がぞわぞわと這い上がってくる。途端、指で軽く前立腺を擦られた。
「あっ……ンんっ、エ、ド、」
ドライで達することを覚えさせられたレイのからだは、ほんのわずかな刺激でもイッてしまう。ぶるぶると震えて、エドの胸にすがった。
「指だけでイッたのか? 本当に淫乱なからだだ」
「ちが、……、エドが……」
「俺が?」
目を細めて、エドは片手で乳首を淡く摘んだ。その刺激にさえも、ピクピクと腰が揺れてしまう。乳首を弄びながら、三本に増やした指でレイのもっとも感じるところを執拗に擦る。
「俺がどうした? レイ?」
「……エ、エドが、こんな…からだに、した、くせに……」
目尻に涙を浮かべて、喘ぎ喘ぎ訴えると、いきなり床に押し倒された。
「レイ……お前は──本当に男をそそることばかり覚えて……っ」
ずるりと指が抜かれ、かちゃかちゃとベルトのはずれる音がして、熱く硬いエドのそれが太ももに触れた。その熱に、レイの喉がこくっと鳴る。ズボンも下着も剥ぎとられ、両足を抱え上げられ、その体勢でじわじわと熱を埋め込まれた。
「んんっ、あ、ぁ……っ」
ガラス一枚隔てた外には、多くの人々が歩いている。
悟られてはいけないと、声を押さえたくても、エドにからだを揺すぶられたら、我慢なんてできない。
奥をとん、と軽く突かれて、じぃんと腰が痺れた。
「あ……っ」
瞬間、頭の中が白くなり、つま先がぎゅっと強く丸まって、腰がぶるっと震える。
「またイったのか? レイはドライでイくのが上手だな」
エドが喉の奥で楽しそうに笑う。けれど、その声は上ずっていて、レイにはエドの限界が近いことがわかった。レイは羞恥に耐えて、自ら腰を動かし始めた。緩やかに、前後に。エドが気持ちよくなるように。
「……ッ、レイ」
悪い、我慢がきかないとエドは呟いて、腰を引き、一気にレイを貫く。
「あっ、ン、ぁ、あ──ッ」
雷に打たれたような痺れが背筋を駆け上がる。快楽の波にさらわれないようにエドの首にしがみつく。からだの底から甘い疼きがこみあげて、止めようとしてもからだは勝手にガクガクと震えてしまう。エドは腰を揺らしながら、レイの手を取って、指を絡め、「レイ、レイ」と耳元で呼んでくれる。その声は甘やかでどこまでも優しく、レイの下半身はぐずぐずになって、いまにも溶けてしまいそうだ。耳に息を吹き込まれ、熱い舌で耳朶をねぶられる。
「……──ッ」
頰に触れるエドの息が荒い。中を擦るエドのそれがますます大きく硬く熱を帯びていく。その形を意識した途端、ぎゅっと内部が締まった。
「お前な……」
切羽詰まったエドの声。いっそう激しく抜き差しされ、硬く熱いエドの性器にいやらしく中を掻き回されて、レイは頂点に達するとそのまま落ちることなく、ずっとイカされ続けてしまう。
「だめ、っ、あ、あッ、エド、気持ち、いい…よぉ……っ」
「ッ、俺もだ、レイ……」
中でエドの性器がずくりと膨らんで──レイががくがくと全身を震わせ、目の奥がちかちか瞬いて、なにもかもわからなくなったとき──エドも同時に達して、レイの中に熱を放った……。
***
息を荒げて、エドがレイの上に倒れこむ。
その顔は深い満足と優しさに満ちていて、レイの心は愛しさでいっぱいになる。
汗で濡れたエドの金色の髪を、指に絡めた。
「エド……、本当にアイスランドに行く気なの?」
「もちろん」
「オーナーとして?」
「それもある」
「……他は?」
「ダーリン、それを俺に言わせるのか?」
エドは困ったように眉を寄せた。それから小さな息をひとつ吐くと、耳元に唇を寄せ、
「──……いつでもお前のそばにいたいからだ」
甘やかにささやかれ、頰に優しいキスを落とされた。
fin
*あとがき*
パルム ギャラリーが出来てから、三年~五年後のお話です。
身分、権力、財力の差に悩んでいたレイとエドでしたが、ふたりがそれを乗り越えて、誰が見ても素敵なカップルになっていたらいいなあと思って、書きました。レイはアシスタントからギャラリストへ昇進しています(ハリーはどうなったかな?)
ギャラリー内えっちはどうなの??と思いながらも、やっぱり愛のシーンは必要だよね!と、流れで書いてみました。ぬるい目で見てくださると嬉しいです。