夢のはじまり[新刊サンプル]

===以下サンプルです===

 風を切って、ぐいぐいとクロスバイクのペダルを漕ぐ。
 ラハイナまであと三キロ。
 シエルは足にぐっと力を入れ、スピードを上げた。

 今朝、うっかりお気に入りのコーヒー豆を切らしてしまった。家には紅茶もあるし、ドクター・タナカが送ってくれた日本茶だってある。豆が切れたからといって、すぐに買いに行く必要はないけれど、一日でも切らすのは嫌だった。
 だって、セバスチャンがシエルの淹れるコーヒーを毎日楽しみにしているから。
 ラハイナまで車を出そうかとセバスチャンは言ってくれたけど、今日、彼はあまり体調がよくない。
 一昨年に起こった事件のせいで、セバスチャンの脳は傷つき、大きなダメージを負ってしまった。あのときは意識不明が続いて、もう二度と目を開けないのでは……と怖かった。
 いまは随分よくなって車の運転もできるようになったけれど、完治はしない、だましだましやっていくしかないとドクター・タナカから言われている。
 今朝は目覚めたときから目眩がするらしく、起き上がってしばらくじっとしていた。シエルを気遣ってか、なにも言わないけれど、彼の体調ぐらい察することができる。
──具合が悪いって、はっきり言ってくれればいいのに。
 十五歳の年の差というのが、こういうときにうらめしい。
 年のわりにはしっかりしているほうだと自分では思うけれど、セバスチャンから見れば、きっとまだまだ子ども。頼るなんてとてもできないのだろう。
 そう思われたって仕方がない。
 実際、知識も経験もセバスチャンは自分よりも数段上だ。聞けば、なんでも答えてくれて(本人は『なんでも』ではありませんよと笑うけれど)、スポーツ万能、頭だっていい、美的感覚だって鋭いし──これは欲目でもなんでもない。彼のセンスはデザイナーとしてのキャリアが証明している──いまは引退状態だけど。
──セバスチャンと同じ歳になったとき、彼のようになっているんだろうか。
 ふとシエルは不安になる。
 シエルにとってなんでもできるセバスチャンは、ある意味、理想で自分の目標でもある。けれどその場所に辿り着けるかと自分に問えば、答えはまだ否だ。
 特に得意なものはないし、勉強だってセバスチャンに教えてもらうだけで、自分の学力がどのぐらいなのかまったくわからない。和食づくりは趣味の範疇、スポーツはどちらかといえば苦手だ。
「差があり過ぎるよ……」
 自分とセバスチャンの間に立ちふさがる距離。十五歳の差はどうしたって縮まらない。いますぐ追いつくのは無理だろうけど、少しでも彼にふさわしい男になりたい……。

 気がつくとラハイナの入り口まで来ていた。自転車を降りて、引きながら街に入る。
 ラハイナは小さな街だ。
 一年中、人が溢れているから人口が多いような錯覚を覚えるけれど、観光客がほとんどで、実際の住人はあまり多くはない。前に住んでいたワシントンDCのような大都市と違い、しばらくいれば、誰がどこの人間なのか、すぐにわかるようになる。
 逆にいえば新住民はとても目立つ。
 シエルとセバスチャンもはじめのうちは好奇な目で見られていたが、次第に街に溶け込んで、いまではすれ違えば気軽に挨拶し合うし、馴染みの店もできた。
 何度か通った路地を曲がると、すぐにコーヒー豆を煎るいい匂いに気づく。香ばしい匂い。
 店の前には大きな麻袋が看板代わりに置かれている。ヤシで編んだ屋根の下に自転車を置くと、木の階段を駆け上がって、その店に入った。
「こんにちは」
「やあ、シエル君」
 褐色に日に焼けた、人懐っこそうな顔の店主は四十代ぐらい。仕事をリタイアして、マウイに来て、この店を始めた、と店主のプロフィールをシエルは勝手に想像している。
 店主はシエルの後から誰も来ないのを見て、軽く首を傾げた。
「今日はひとり? ミカエリスさんは家?」
「ええ、僕だけです」
 いつもはセバスチャンと一緒に豆を買い、店の片隅に無造作に置かれている椅子に座って、店主おすすめのコーヒーを飲む。
 自家焙煎のコーヒー豆専門店なのだが、人懐っこい店主は客が望めば、その場でコーヒーを淹れてくれるのだ。
「飲んでいくかい?」
「はい」
 シエルはにこっと頷いて、コーヒーができるのを待つ。
 今日はまだ店内に客はいない。
 ゆったりと店の中を見渡した。
 普段はテーブルに着くとすぐに、ふたりでおしゃべりを始めてしまうから、店内をじっくりと観察したことがなかった。
 壁に沿った大きな棚に、百個はあるだろうか、ぎっしりと豆が詰まった大きな瓶が並べられている。エチオピア、コロンビア、ブラジル……それぞれに産地のラベルが貼ってある。
──知らない豆が結構あるんだ。
 コーヒーの香りに混ざって、甘い匂いが鼻先に漂ってきた。テーブルの上に置かれたカップを見て、シエルは思わず歓声を上げる。
「わあ!」
 コーヒーカップの縁から溢れそうなぐらい、こんもりと盛られたクリームに、ココアが振られている。
「上のクリームを、ひと口食べてみてよ」
 店主に勧められて、添えられたスプーンでクリームを大きくすくい、口に入れた。
 かすかに酸味がある。
──生クリームだけじゃない。ココアと生クリームと、もうひとつ……
「これ……チーズ、入ってますか?」
「当たり! マスカルポーネチーズと生クリームを一緒に泡立てて、シロップを入れた」
「すごくおいしいです。オリジナルですか?」
「昔からあるレシピだよ。『カフェ ティラミス』って呼ばれてる」
 確かにティラミスみたいだ。
 ほのかに甘酸っぱいチーズクリームの部分をたいらげて、甘いクリームが溶け込んだコーヒーを飲む。
「家でもそういうの作って飲んでみたら? レシピ、教えてあげよっか?」
「……あ、はい!」
 と返事をしたものの、たぶん家では作らないだろう。セバスチャンが甘いコーヒーを好きではないから。
 店主はシエルの様子をじっと見つめていたが、思い切ったように言った。
「なあ……君らがいつも買っていく豆って、ミカエリスさんの好み?」
「ええ」
「そっか。違っていたら悪いけど……君、本当はコーヒー苦手なんじゃない?」
「えっ?」
「もしかして、彼に合わせているだけなんじゃない?」
「……ッ」
 予想もしなかったことを指摘されて、シエルは息を呑んだ。
「君がコーヒー好きだとしても、たぶん飲みたいのはブラックじゃなくて、キャラメルマキアートとかショコラチーノとか、甘いアレンジコーヒーのほうなんだと思うよ。甘いもの、好きだろう?」
「好きは好きですけど……。でも、コーヒーはいつもブラックで……」
 シエルの言葉を店主は遮った。
「ねえ、いまそれ、すごくおいしそうに飲んでるの気づいてる?無理して、背伸びして、年上の彼に合わせなくてもいいんだよ。もっと自分の感覚を大事にしたほうが……」
「あの……僕、用事を思い出して……ごちそうさまでした!
失礼します」
 代金を叩きつけるようにテーブルの上に置くと、返事も聞かずにシエルは店を飛び出した。
 どきどきと心臓が鳴っている。
──違う。
 僕は、僕の意志でコーヒーが好きなんだし、セバスチャンに合わせているわけじゃない。
 額に滲んだ汗を手の甲で拭った。自転車を引きながら、小道を早足で歩く。
 でも、コーヒーの味を知ったのはセバスチャンが飲んでいたからで、最初のうちは好奇心からで、それから味が好きになって、それからセバスチャンが僕と一緒にコーヒーを飲むとき、ちょっと嬉しそうな顔をして、その顔が僕は大好きで……。
「それって……セバスチャンに合わせてるってこと……?」
 そういえばセバスチャンのところに来る前は、はちみつを入れたミルクティーが好きだった。家での食後はいつもそれ。おやつのときもミルクティーで。
「いつからミルクティー、飲まなくなったんだろう」
 のろのろと自転車を引き、街をあとにしようとして、はっと気づいた。
「コーヒー豆、買っていかなきゃ」
 慌てて、自転車を百八十度回転させ、いま来た道を戻る。
 さっきの店には戻りたくなくて、日系スーパーで豆を買い、来た時とは打って変わって、沈んだ気持ちでクロスバイクに跨がった。

<中略>

 シエルの様子がおかしい。
 朝、調子が悪いことを伝えなかったからだろうか。珍しく激した様子で詰め寄られた。
──なんで、具合が悪いこと、隠したりする?
 隠したわけではないのだが……。
 実際、体調はそれほど悪くない。ときどき目眩がすることは了解済みだ。ドクター・タナカも問題ないと診断している。余計な気遣いをさせたくないと思っただけなのだが、それが裏目に出てしまったか。
──それだけではないような気がする。
 セバスチャンが近くに寄ると、伏し目がちに逃げるようにして部屋を出ていってしまう。
 飛行機事故で両親を亡くしたシエルを引き取り、共に暮らすようになって、三年半が経つ。半年前にようやく入籍したものの、セバスチャンにとって十五歳下の少年の気持ちははかりがたい。なにもかもわかっているような気がするけれど、ときにまったく掴めなくなる。
 シエルの後ろ姿を見遣った。
 出会った頃よりも背は高くなり、手足はすんなりと伸びて、伸び盛りのしなやかな骨格が美しい。まだ少年らしさを残してはいるが、着実に大人へと変わりつつある。彼の心だって、きっと大きく成長しているのだろう。そう思ったとき、セバスチャンの胸に焦りのようなものが生まれた。
「ラハイナでなにかあったのでしょうか……」
 ふと不安がよぎる。
 シエルに聞きたかったが、聞けば、彼がするりとどこかへ飛び去ってしまう気がして、口に出すことはできなかった。

*・*・*

 三日後。
 ガレージから、先月買ったばかりのブルーのオープンカーを出し、浮かない顔のシエルを誘って、セバスチャンはドライブに出掛けた。
「どこへ行くの?」
「着いてからのお楽しみです」
「ふぅん……」
 相変わらず元気のない声。
 あの日からずっとこんな調子だ。らしくないシエルの様子に、セバスチャンは内心、ため息を吐いた。
「からだは大丈夫?」
「ええ。ここ二、三日、かなりいいんですよ」
 セバスチャンの返事を聞くと、シエルは安心したように、ぽすっとシートに背をあずけた。
 陽射しが眩しい。
 サングラスを胸ポケットから取り出し、ハンドルを握ったまま片手でかける。横からシエルの視線を感じた。
「なんです、シエル?」
「んー、早く、免許取りたいなって」
 セバスチャンは小さく笑った。
「運転したいのですか?」
「っていうか、貴方が運転しなくて済むように」
 山沿いのゆるやかなカーブを曲がった。
 視界から海が消えて、鬱蒼と繁る緑の山々が近づいてくる。神々が宿るという聖なる山だ。
 セバスチャンは言った。
「シエル。私のことをそれほど気にしなくてよいのですよ。ドクターも心配ないと言ってましたし。もしも本当に悪くなったら、すぐにシエルに伝えますから」
 長生きして、少しでも長くシエルと一緒にいたいですからね、と笑う。
「だからあまり気にせずに、自分の好きなことをしてください」
 シエルは返事ができなかった。
 風景に目を遣るふりをして、セバスチャンから顔をそらす。
 好きなこと……。
 僕の好きなことって……なんだろう。

 答えを、見いだせない。

===サンプルは以上です===