カフェを始めた



鳩と黒スグリとコケモモ 後編


 ぱたん……ぱたん……
 遠くから聞こえてくる。
 ぱたん、ぱたん……
 不規則に鳴り続けるそれは──なんの音?


 すうっと意識が浮上して、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
 しぃん、としている。
 家の中、まるでエアポケットに入ったみたい。
 無音状態。
 あ、と気づいた。
「今日からカフェは休みにしたんだっけ……」
 毎朝聞こえてた賑やかな厨房の音。
 オーブンの唸る音。
 セバスチャンの足音。
 カチャカチャと金属の触れ合う音。
 いつもの音はなんにも聞こえなくて。
 ただ……ぱたん、ぱたん。
 静けさの向こうから、馴染みのない音がかすかに聞こえてくる。
「おい、セバスチャン、変な音が……」
 隣で眠っているはずの恋人に腕を伸ばすと、そこは冷たいシーツが広がっているだけ。姿はない。
 また吐いているのかと、素足のままベッドを降りて、小走りに洗面所に向かった。
「セバスチャン?」
 いない。
 ざわざわと胸騒ぎがして、急いで階段を駆け下りる。
──ぱたん……
「……?」
 またあの音だ。妙に心を苛立たせる不規則な音。
 さっきよりも近い気がして、足を止めて耳をそばだてた。
 うん、音は外から聞こえてくるね。
 足音を忍ばせ、おそるおそる扉を開ければ…………音の正体は扉にかけられたメッセージボードだった。『しばらくの間、休業します』と書かれたコルクのボードが風にあおられ、ゆらゆらと頼りなく扉に当たってる。
「なんだ……」
 幽霊みたり枯れ尾花、だね。おどおどしたりして馬鹿みたい。
 僕はほっと胸を撫で下ろし、扉をゆっくりと閉めた。
 振り返れば、がらんとした室内に、手作りの椅子やテーブルがもの寂しげに佇んでいる。アメーバみたいな不定形窓も心なしかくすんで見える。
「始まったばかりだったのにな……」
 セバスチャンがなにもかも全部自分の手で作って、やっとできあがったカフェなのに。
 いまは以前の廃墟みたいに静かで空虚。
 いや、前よりももっと寂しい。
 スイーツの甘い香りや紅茶の香ばしい匂い、マダムたちのお喋りや香水の匂いが恋しかった。
──それにしても。
 ぐるりとあたりを見回した。
 セバスチャンの気配がない。なさ過ぎる。
 僕の恋人はいったいどこに隠れているんだろう。
 今日はどんなに嫌がられても、病院へ引きずっていかなきゃ。
「セバスチャン! どこだ」
 厨房を横切ろうとして、大きな影が目に入った。
「ッ」
 セバスチャンが作業台の前で棒立ちになっている。
 痩せこけたそのシルエットは、まるでカラスのよう。
 仕事用の黒いシャツを着て、ギャルソンエプロンをいつものようにきつく締めて、まるでこれから仕込みに取りかかるような格好で、セバスチャンは立っていた。
「おい、休んでなきゃだめだろう」
 セバスチャンは黙りこくったまま、僕のほうを一瞥だにせず、台から目を離さない。
「セバスチャン?」
 無言。
 やれやれと肩を竦め、目を凝らして台の上をよく見れば、そこにはなにもない。ステンレスのボウルもなければ、ホイッパーもない。卵や粉も。セバスチャンはなにも置いていない作業台をじっと見つめている。
「……お前、なにしてるんだ」
 おい、と一歩、踏み込んだ瞬間。
 ビリッと電気のようなものがからだを走った。
 張り詰めた空気が彼の周囲をバリアのように覆っている。そのバリアに触れれば、すべてが壊れ、セバスチャンも壊れて、粉々に散って……。
 背筋がぞくりとわなないた。
 これ以上、話しかけてはいけない。
 いまの彼に触れてはいけない。
 本能が僕に警告する。
 じりじりと後ずさりして、僕は彼の前から遠ざかる。
 結局、その日は夜までセバスチャンはその場所を離れず、ずっと作業台を見つめていた。


 セバスチャンは毎朝厨房に入っては、一日中立っているようになった。
 僕が起きると、もう寝袋は空になっていて(彼はベッドで眠らなくなり、僕と出会った頃みたいに自分の寝袋を使っていた)、いつのまにか厨房にいる。きっちりと仕事着を着て、エプロンを締めて。
 作業台の前に立ち、ときおり手を台に乗せているけれど、その手がなにかを作ることはない。
 さすがに放っておけず、夕方になると、セバスチャンを無理に椅子に座らせ、温めた缶詰のスープと、解凍して軽くトーストしたパンを出した。
 けれど彼はほとんど食べない。「食べろ」と僕がきつく言って、ようやく自動人形のようにぎこちなく手を伸ばし、ほんの少しだけ口の中に押し込んでいる。
 毎日、毎日、その繰り返し。亡霊のように同じ行動を繰り返している。
 もう彼はうなされない、吐きもしない。
 ひと言も口を聞かず、厨房に立ち続けていた。
 からかうように笑っていた紅茶色の瞳は、いま暗く沈んでいる。長い睫毛は伏せられ、ときおり悲しげに揺れていた。甘い言葉をささやいていた唇はきつく結ばれ、あの心地よい声を聞かせてくれない。
 医者に行こうと促すと、からだを硬直させ、全身で拒絶する。
 苦しい。
 悲しい。
 苦しい。
 悲しい。
 セバスチャンの無言の声が胸を刺す。
 日に日に大きくなる悲痛な叫びに耐えかねて、気づくと僕は彼の腕を掴んでいた。
「セバスチャン、ここを出よう」



***
 ありったけのパンやジャムやクラッカーに紅茶、それから寝袋や着替えなんかを大きな鞄のなかに突っ込んで、僕はセバスチャンの手を握りしめ、追われるようにして、カフェを出た。僕の掌の中の手は以前よりもやせ衰えて、一回り小さくなっている。
 僕はセバスチャンの手を引いて、ぐんぐんと歩いた。
 まるで後ろからなにか恐ろしいものが迫ってくるみたいに。振り返ったら最後、見えない怪物に呑み込まれてしまいそうな気がして、背中を強ばらせながら、とにかく目標に向かって歩き続ける。
 目指すは僕の家。
 母が入院し、僕がセバスチャンのカフェに越してきてから、ほとんど戻ったことのない僕の実家。
 カフェから歩いてたった十五分の道のりを、僕は必死になって歩いた。

 
 到着。
 玄関の鍵を開け、セバスチャンを引っ張って、逃げ込むように中に入った。
 途端、光の中に細かな粒子が舞う。
 家の中にはうっすらと埃が積もっていた。
 家具は白い布をかけられて、美術館の彫刻みたいにひっそりと佇んでいる。ひとつ、ひとつ、布を取れば、僕と母が住んでいたままの姿が現れた。
 布をはずしたソファにセバスチャンを座らせた。
 日除けのカーテンを開け、ガタガタと音をたてながら大きな窓を開けて、空気を入れ替える。
 庭は雑草生え放題、生い茂る緑がうるさいくらい。片隅には黒スグリとコケモモがすっかり野生化して、元気に育ってる。その隣には若葉をつけた林檎の木。
 ああ、この下で長椅子に寝転んで、よく読書したっけ。
 ひさしぶりの実家は懐かしい思い出に満ちていて、僕のからだを柔らかくほぐしてくれる。
 春の陽射しがぽかぽかと暖かい。
 ウーンと大きく伸びをして、ぽすんとセバスチャンの隣に座った。
「お腹、空いてない?」
 沈黙。まっすぐ前を見つめて、セバスチャンは答えない。
 まあ、いいや。
 とりあえず、あの呪われた厨房から脱出できたんだから、まずはそれでよしとしよう。
 僕は持ってきた食料をキッチンのテーブルの上に置く。
 ガスも電気ももう通っていないから、納戸からごそごそと小学生の夏休みに使ったきりのキャンプ道具を出してきて、ペットボトルの水を沸かす。
 熱い紅茶をコトリと彼の前に置いた。
「飲めば」
 セバスチャンは素直に紅茶を口にした。すべて飲み干したあと、彼はゆるく目を瞑って、それから緊張の糸が切れたようにずるずるとソファに横たわり──小さな子どものようにコトンと眠りに落ちてしまった。

 夜がきて、僕はキャンドルに火を灯した。
 夜風がさわさわと庭の葉を揺らしている。
 小さな星がきらきらと儚い光を放っていた。

 セバスチャンは穏やかに眠っている。



***
 朝。
 眩しい太陽に目を細め、寝袋から這い出すと、ソファで眠っていたはずのセバスチャンはいなかった。
 ひぇえ、カフェに戻っちゃったのか。
 またあの作業台の前に立っているのか。
 慌てて家の中を探せば、彼は庭にいて、色の褪せた長椅子に腰掛け、ぼんやりと空を眺めていた。
「おはよう、セバスチャン」
 朝の挨拶。
 無言。
 でも良い事がひとつ。
 彼は僕のほうを向いて、目を合わせた。
 その瞳に少し光が戻っている。
 物置の奥から古い木箱をずるずると引き出して、即席のガーデンテーブルにし、クラッカーとスープの入ったマグカップを並べた。緑の葉の間から、日光が宝石みたいに零れ落ちて、テーブルを明るく照らす。
 セバスチャンがふいに口を開いた。
「なぜ、私はここにいるのです」
 実に五日ぶり。
 五日ぶりにセバスチャンの声を聞いた。
「なぜって、僕が連れて来たから」
「なぜ?」
「なぜって……お前、覚えていないのか?」
 セバスチャンは小さく頷いた。
 どうやらこの五日間の記憶はまったく消えているらしい。
「お前は毎日厨房の作業台の前から動かなくて、病院にも連れて行けなくて、お前の姿を見ているうちに、なんだかいたたまれなくなっちゃって……それでここに連れて来たんだ」
「ここはどこです」
「僕の家だ。おい……それも忘れちゃったのか?」
 嗚呼、とセバスチャンは腑に落ちたように声を出した。
「マドレーヌに、紅茶」
「……っ!」
 二年前、母が入院したときに、セバスチャンは僕の面倒を見るためにこの家に来て、その頃、僕は夏休みの愉しみにプルーストを読んでいて、それを知ったセバスチャンがプルーストといえばマドレーヌに紅茶だと、おやつに作ってくれたんだ。
 でもそいつは塩のたっぷり入った紅茶と塩味のきついマドレーヌで、僕はぶはぁっと吐き出して、それを見て彼は楽しそうに笑って……。
 そのことを思い出してか、セバスチャンの目元が少しやわらいだ。
「あのときはよくもやってくれたな!」
「それほどのことでもないでしょう」
 と涼しい顔。
 あれ、顔色がいくらかよくなっている。
 きっと外の空気に触れたからだ。
 ほら、人間はたったそれだけで元気になるのさ。
「笑ってないで、食べろ」
「缶詰のスープなんて嫌いです」
「そんなこといったって、僕に料理なんてできるわけないだろ」
「私のそばにいたのですから、少しはできてもいいんじゃないですか?」
「修業してるわけじゃないんだから、お前の手元を見て覚えるなんて、僕には不可能だ」
 突然ガチャンと音を立てて、セバスチャンの手からスプーンが落ちた。
 やつれた顔がロウのように白くなった。
 彼はゆらり、と大きくからだを傾けて立ち上がると、幽霊のようにふらふらと家の中に入ってしまった。
「……?」
 どうして急に?
 さっきまで明るく笑っていたのに。憎まれ口さえ叩いていたのに。
 慌ててあとを追うと、セバスチャンはソファに座って、顔を両手で覆っていた。その背中がカタカタと瘧にかかったように震えている。
「……すべて、忘れてしまいたい」
「えっ?」
「すべて忘れて、自由になりたいのです」
 忘れてしまいたい?
 一体なにを?
 なにを忘れてしまいたいのだろう。
 なにから自由になりたいのだろう。
 すぅっと少し冷たい風が吹いて、庭の片隅の黒スグリとコケモモの葉を揺らした。
 セバスチャンはからだを起こし、庭を見渡した。
「以前、貴方と八年ぶりに会ったとき──貴方はあの黒スグリとコケモモの実を持ってきてくれましたが、あのときの私はジャムひとつ作れなかった……」
──ジャムなんてもう作りません。作り方さえ忘れました。
 二年前のセバスチャンの言葉を思い出した。
 乱暴に果物の入った籠を置き、怒ったように言い放ったその言葉。
「それって、作り方を忘れたんじゃなくて……?」
「ええ。本当は、甘いものは一切作れなくなっていたのです」
 それどころか、とセバスチャンは続けた。
「甘い匂いを嗅ぐだけで吐き気が起こり、悪夢のようなパリの記憶が蘇ってきたのです」
 膝においた手をぎゅっと握りしめた。



***
 凱旋門からオペラ座に向かう大通りに面した有名パティスリー。
 華やかなエントランスとは対照的に、従業員の入り口は店の裏側の狭い路地の奥にある。日は射さず、雨の日はいつまでもじとじとと湿っている憂鬱な路地。
 厨房に入れば、異国から来た人間を見る冷たい目に晒される。その人間が自分たちよりも五つも年上で高学歴、上流階級出身。しかも物覚えはよく、一度言われたことはすぐに呑み込んで即座にやってのける──いま思えば、憎まれて当然だった。
 熱く焼けたボウルをわざと差し出され、皮膚が焼けても離すことはできず、火傷を負った指で作業し続けた。偶然を装ってナイフで腕を切られ、あたりに血が飛べば「汚すな」と殴られる。
 悪意に満ちた厨房。
 レシピはまるで教えてもらえなかった。
 乞えば、見て覚えるのが当たり前だ、頭がいいんだからできるだろうと嘲笑われ、仕事の合間に必死で先輩の手元を見ていると、なにを見ていると掴みかかられ……。
 やれと命じられたことを完璧にやっても叱られ、やらなければなぜやらないとまた叱責され、次第に何が正しくて、なにが悪いのかわからなくなった。
 理不尽な暴力はからだを痛めつけただけではない。少しずつ心を蝕んだ。
 夜、まったく眠れなくなった。目を瞑ると、彼らの顔が浮かんできて、恐怖が募って起きてしまう。
 朝が来るのが怖い。
 また殴られるのでは、酷い目に遭わされるのではと怯え、竦んだ。大の大人がなんてざまだと無理やり自分を鼓舞しても、恐怖心は消えなかった。
 それでも、英国にいる少年のことを想って、彼においしいお菓子を作ってあげたくて、ひたすら耐えに耐えているうちに、甘い匂いで吐くようになった。チョコレートの匂いを嗅ぐだけで吐く。バニラの匂い、ケーキの匂いで吐いてしまう。スイーツの香りが拷問のように自分を苛んだ。
 職場はますます地獄のようになり、不眠は続き、ものを食べられなくなり……。どうにかパティシエまで登りつめたものの、やまない暴力にある日ポキンと心が折れて、からだが動かなくなって……。


 僕は震え上った。
 セバスチャンがパリでさんざんな目に遭ったことは、僕なりにわかっているつもりでいたけれど、現実はそんな生やさしいものじゃなかった。彼の口からじかに聞くその内容は想像以上にすさまじかった。
「すっかり病んで帰国して、負け犬と呼ばれても、落伍者と誹られても、それでも自分の作った小さな場所があれば、きっと大丈夫だと、生きていけると思ったのに……」
 悔しそうに呟く。
「貴方と暮らすようになって、すっかり治ったと思ったのですが……カフェを開いた途端にぶり返すとはね」
 セバスチャンが毎朝作っていた六種類のスイーツ。チョコとキャラメルとフルーツの奏でる甘い甘いハーモニー……。
 それがパリの悪夢を喚び起こし、セバスチャンを追い詰めたんだ。
 セバスチャンは震えながら僕の背に腕を回すと、肩口に顔を埋めた。呪いのような記憶から逃れたい、自由になりたいのですと弱々しい声で何度も訴える。
「セバスチャン……」
 どうしたらいいんだろう。
 僕になにができる?
 いったいなにができるというんだろう。
 セバスチャンの苦しみを僕はどうにもできない。
 その記憶を消すことも、呪縛から解放することもできない。
 ただ彼の細くなったからだを抱きしめるしかなかった。


 再びセバスチャンは不眠に陥って、不安定な夜が続いた。
 眠れないときはいっそ起きていようと僕は提案し、埃のかぶったボードゲームを部屋から出してきて、勝負を持ちかけた。
 ほんの少しでも彼を辛い記憶から遠ざけたかったんだ。
「どうだっ!」
 僕はゲームと名のつくものなら、誰にも負ける気はしない。
 オセロにチェス、人生ゲームにダイヤモンドゲーム。それからポーカーやブリッジ。
 なにをやっても勝ち続け、ドヤ顔で胸を張れば、いつの間にかゲームに集中し始めたセバスチャンは、チッと舌打ちをして、小声でクソガキと吐き捨てた。
 毒舌復活! 良い兆候だ!
 僕は心の中でガッツポーズを決める。


 この家はもう電気もガスも止められていて、不便極まりない。
 けれど僕たちは、世界から隔絶された無人島にいることにして(実際はふたりでスーパーに行ったり、小さな頃から僕を見知っている近所の人と話をしたりした)、朝は日の出とともに起き、庭に出てバードウォッチング。
 僕は飛び交う鳥たちを指差し、断定する。
「あれは、ヒヨドリ、えっと、あれも……ヒヨドリ、あれも、だな」
「…………」
 セバスチャンにジト目で見られたって平気さ。
 昼間はソファと庭の長椅子にそれぞれ寝転んで、読書タイム。
「ドクター・ドリトル、ウィニー・ザ・プー、ピーターラビット……お子様、ですね」
「ッ、るさい!」
 馬鹿にしたように僕の本を覗くセバスチャンを尻目に、僕は堂々と世界的に有名な童話を読む。ふん、なんと言われたってかまうものか。好きなものは好きなんだ。
 そして夜はキャンドルを灯して、ゲーム三昧。
 まるで子どもの頃に戻ったように、僕らは好きなことだけをして、日々を過ごした。
 やがてセバスチャンは眠れるようになり、少しずつ元気を取り戻した。気まぐれに紅茶を淹れてくれたり(彼の淹れる紅茶はティーバッグでもおいしい)、簡単なサラダやスープを作ってくれることもあった。
「どうぞ」
「ん」
 差し出された温かい紅茶を飲みながら、僕は思う。
 セバスチャンの傷は簡単には癒えないだろう。
 これから先もこんなことが何度も起こるのだろう。
 でも、もしもできるのなら。
 セバスチャンがパリで経験したなにもかも──辛かったこと、悔しかったこと、悲しかったこと──西風がすべてを包んで、遠くへ持ち去ってくれればいい。

 見上げれば、空はただ青く、ほがらかだった。



***
 イースター休暇は終わりかけていた。
 ほとんど回復したセバスチャンと僕は、カフェに戻ることに決め、庭の長椅子や箱テーブルを物置にしまって、家の掃除をしてから家具を白い布で覆い、玄関の鍵をしっかりとかけた。
 カフェに向かって歩き始めて──僕は急に足を止めた。
「どうしたのです」
「……本当に大丈夫なのか?」
「?」
「戻って、大丈夫なのか? ずっとここにいてもいいんだぞ。学校はここからでも通えるし……」
「たぶん、大丈夫です」
 彼は少し自信なさそうに目を伏せた。
「無理しなくていいんだ、セバスチャン」
「ですが、私のカフェをいつまでも放っておくわけにはいきません」
 それに、とセバスチャンは黒髪をさらりと落として、悪戯っぽく僕の顔を覗き込んだ。
「私がまただめになったら、貴方が救ってくれるのでしょう?」
「えっ?」
「今度のように、助け出してくれるのでしょう?」
「べ、別に助けてなんか」
「いえ、助けていただきましたよ。……ありがとうございました」
「ッ」
 初めて聞く感謝の言葉に動揺する。
 セバスチャンは本当に狡い。
 いつもは絶対に見せない無邪気な顔をするから、僕の胸はどきどきと高鳴ってしまう。
 彼は小さく笑って、僕の前髪を払い、額にちゅっとキスをした。
「さあ、早く帰りましょう──ひさしぶりに貴方を抱きたい」
「なっ、な、なに言ってるんだ!」
「期待しているくせに」
 セバスチャンは喉をのけぞらせて、声を立てずに笑った。



***
「ん……」
 カフェの二階。
 床にはシャツや靴下や下着が、足跡のように点々と脱ぎ捨てられている。
 汗に濡れたシーツの上。
 裸のまま、僕たちは抱き合っていた。
 終わったあとの心地よい気怠さに身をまかせ、足を絡ませ、互いの背に腕を回して。
 ときどき、啄むようにキスをして。
 今日のセバスチャンはやさしい。
 髪を撫でられ、ゆるゆると子猫のように耳を弄ばれて、くすぐったくて変な気分。
「セバスチャン……」
 名を呼べば、彼はキスで応えてくれる。
 額に落ちた僕の髪を撫で上げて、瞼にひとつ、頬にひとつ、唇にひとつ。
 僕はいきなり強く彼に抱きついた。
 セバスチャンが面食らったように目を見開く。
「どうしたのです」
「うん……」
「うん、じゃわかりませんよ」
「……怖かったんだ」
 呟くと、セバスチャンはけげんな顔をする。
「すごく、怖かった。お前がどこかに行ってしまいそうで」
 黙って厨房に立ち尽くすセバスチャンの姿。
 それは笑いながら、部屋中のガラスを割っていた、壊れた僕の母の姿と重なっていた。
 あの時感じた恐怖。
 あのまま放っておいたら、母みたいに手の届かないところへ行ってしまう気がして。
 僕を置き去りにして、自分だけの世界に閉じこもってしまう気がして。
 セバスチャンは困ったように眉をひそめた。
「私はどこにも行きませんよ──たとえ貴方に嫌がられてもね」
 長い指先で僕の顎をすくって、唇を重ねる。そのキスはとてもあたたかくて、あまやかで、僕の心にすうっと溶けていく。
 首筋をそろりと撫でられた。
「んっ……」
 熱を帯びた声が僕を誘う。
「もう一度……」
「え?」
 どぎまぎしながら視線を上げれば、セバスチャンの紅茶色の瞳が欲情している。紅く光る瞳が僕を見つめている。
「ちょ、待てっ、さっきしたばかり……!」
 唇をぬるりと舐められた。
「ひぁっ」
 変な声が喉の奥から洩れる。
 ぎしっとベッドが軋んで、セバスチャンがのしかかった。
「いいでしょう?」
 いやいやいや。全然よくない。
 いくらなんでもさっきしたばかりで、そんなにすぐにできないよ!
 なのに。
 欲望を孕んだ視線に射抜かれれば、頭の中はぼうっとして、くたりとからだの力は抜け落ちる。
 全身に舌を這わされた。
「やっ……ぁ……」
 胸の突端も下肢も足の爪先も、セバスチャンの濡れた舌に執拗に舐められて、熱く疼いてたまらない。
 ぶるり、と大きくからだが揺れた。
「……ッァア!」
「もうイってしまったんですか? いやらしい子」
「ちが……っ」
 足をぐっと割り開かれて、昂った塊を沈められた。
 浅くゆるく中を擦られて、ぞくぞくと寒気に似た感覚が這い上がってくる。
 口の端からつぅうと生暖かい涎が零れ落ちた。
「も……っと」
 胸にすがりながらはしたなく乞えば、セバスチャンは薄く笑って、僕の太腿を掴んで持ち上げる。
「あ…ッ」
 やさしく深く貫かれ、揺さぶられて、ガクガクとからだは勝手に震え出す。頭の芯はとろりと蕩け、身も心もなにもかも彼が与える快楽に溺れていく。
「セ…バ、スチャン」
 腕を伸ばせば、彼は僕の手を取って、しっかりと握りしめてくれる。
「私はここにいますから」
「う、ん」
 全身に感じる彼のぬくもり。
 指を絡ませ合いながら、舌を搦ませ合いながら、愛し合って、キスを交わして……やがてふたりとも達して、汗みずくになって、ひとつのからだに融け合っていく──。
 開け放した窓から、春の風が舞い込んで、僕たちの素肌をふわりと撫でていった。


***
「どうですか?」
「まあまあだな」
 僕の厳しい声にセバスチャンは苦笑する。

 セバスチャンはいまカフェ再開に向けて、リハビリ中だ。
 以前のようにスイーツを作るのはまだ無理だから、キッシュやミートパイ、スコーンやサンドイッチという軽食メニューを研究している。
 そう、頑なカフェはランチをやることになったんだ。
 もちろん、そう仕向けたのはこの僕さ。
 頑固なセバスチャンを説得するには時間がかかったけれど、パティシエだって、総菜パイやらなにやら、フランス語でトレトゥールとかいうの? そんなデリ的メニューを作るじゃない。カフェに出したっていいんじゃない?
 最初、セバスチャンは渋い顔をしていたけれど、なにかを思いついたのか、ぱっと明るい顔つきになった。
「そうですね。ケーク・サ・レとか、デリ・シフォンとか……。それなら喜んでもらえるかもしれません」
 パティシエの顔になって考えてる。
 セバスチャンの作るもののことだ。
 デリメニューだって、きっとおいしいに決まってる!
 店を再開したら、たちまちマダムたちがやってきて、今度はおいしいランチに舌鼓を打つに違いない。


 一ヶ月後の日曜日。
 朝日がアメーバ窓から射して、フロアを照らす。
 綺麗に掃除をした店内に、不思議な形の椅子やらテーブルやらのシュールな影が床に伸びてく。
「仕込みは終わった?」
「もちろんです」
 ケーキの入っていたガラスケースには、六種類のサラダが並んでいる。その上の大皿にはキッシュにパイ、野菜のフリットに、たっぷりとグレービーソースがかかったローストビーフ。
「本日のランチメニューは?」
「ビーフパイに、ターキーのサンドイッチ、ほうれん草とアンチョビのキッシュの盛り合わせ。旬の野菜の温サラダに、ビーツのスープですよ」
「……体調は?」
「良いに決まっているでしょう?」
 セバスチャンはきりっと黒麻のシャツを着て、ギャルソンエプロンをキメている。
 顔色はよく、声にも張りがある。
 僕はにっこりと微笑んだ。
 窓から覗くと、店の前には再開の噂を聞いたマダムたちがちらほらと見えている。
「もう来てるよ」
「そうですね」
 僕たちは顔を見合わせて、力強くうなずいた。
 ぎしりと音を立てて、僕はゆっくりと扉を開ける。


 さあ、またカフェを始めよう。

                           fin