カフェを始めた



番外篇

鳩と黒スグリとコケモモ 前編


 セバスチャンがカフェを開いた。

 今度は本当だ。
 カフェの名前は「鳩と黒スグリとコケモモ亭」。
 聞いて、僕は驚いた。
 だってさ、セバスチャンの「鳩」と、僕の家の庭の「黒スグリ」と「コケモモ」。
 なにもかもいっしょくたじゃない?
「あのさ、店の名前なんだけど……」
 言いかけた途端、セバスチャンがじろりと睨んだ。


 セバスチャンがカフェを始めようとしたのは、一昨年の夏のことだ。
 母がセバスチャンがカフェを開いたという噂を聞きつけ、僕に庭の黒スグリとコケモモをもたせて、セバスチャンのもとに送り込んだ。それが僕とセバスチャンの二度目の出会い。
 実際はセバスチャンはまだカフェを開いていなかった。廃墟みたいな建物をカフェに改装している途中で、僕が訪れたときは電気もガスも通っていない状態。コードが不気味にコンクリートの床を這っていたし、天井はむきだしのまま。
 パリでのパティシエ修業で、精神を少し病んでしまった彼は、床から天井、窓……すべてをひとりでリノベーションするつもりのようだった。
 夏の間に僕の周囲にさまざまなことが起こり、母はいま湖水地方の療養所で静かに暮らしている。僕はセバスチャンと……まあ、そういう関係になって、カフェの二階に住んでいる。
 セバスチャンはついこの間まで、だらだらといつまでもカフェの内装にこだわり、ちょっと直してはまたやり直し、またやり直しの繰り返しで、ちっともオープンする様子がなかった。業を煮やした僕が、
「本当は開くのが怖いんだろ」
 と嘲笑ったら、
「なんですって──?」
 端正な顔を般若のようにゆがめて僕を睨みつけ、これまでとは別人のような勢いで猛然と作業を進めて、一週間後、本当にカフェを開いてしまった──。
 以上が僕たちのこれまで。
 さあ、話を現在に戻そう。


「あのさ、店の名前なんだけど……」
 じろりとセバスチャンが僕を睨む。
「私のやりたいように、やります」
 はい、わかりました。
 ものわかりのいい僕は無駄に争ったりしない。
 ここは一応、敵……いや恋人に花をもたせよう。
 さて、この「鳩と黒ス……」ああ、もう長過ぎる。ただのカフェでいいや。
 セバスチャンのカフェは、モーニングもランチもやらない、珈琲も出さない、アルコールもなし、あるのは紅茶とスイーツのみという頑固なカフェだ。
 紅茶はセバスチャンが厳選したものを四種類だけ。自家製スイーツは季節に合わせて常に六種類。
 と簡単に言うけれど、たったひとりで、スイーツ六種類の仕込みは結構大変だ。
 セバスチャンは早朝、枕元の鳩の「グルッポー」という声で目覚め、手早くシャワーを浴びると、キュッとギャルソンエプロンの紐を締めて、一日分のスイーツを仕込む。
 黙々と手を動かすセバスチャン。粉と砂糖を計量し、卵を割りほぐし、ミルクとバターを用意し、オーブンをあたため……。
 あまりに忙しそうなので、なにか手伝おうかと申し出たけれど、自分のペースでやりたいから結構ですときっぱり断られた。
「貴方は適当な時間に起きて、掃除でもしてください」
 ふんと鼻を鳴らされて、僕は心の中で病み気味の恋人にチッと舌打ちをする。
 セバスチャンから遅れること一時間、僕はよろよろとベッドを離れる。セバスチャンが用意してくれたクロックムッシュとか、バターたっぷりのクロワッサンにカフェオレというパリ風朝ご飯を食べると、登校前にカフェの掃除をする。
 やってみると結構これが大変で。
 流木で作った手作りの椅子やら、うねうねとした形のアメーバみたいに不定形な窓。掃除しづらいことこのうえない。
 でも食べ物を扱う場所なのだから、清潔に、塵ひとつないように……と心を込めて掃除する。
 しゃっしゃっしゃっ。
 しゃっしゃっしゃっ。
 アメーバ窓を開け放った室内に、シュロの箒の音が小気味よく響く。
「お」
 一筋の朝日が窓から射し込んで、不思議な形の椅子とテーブルを照らした。シュールな影が床に伸びてく。
 うん。なかなかにアートな雰囲気。
 床は松の木でできていて、色は黒みがかった茶色。
 セバスチャンは何日もかけて、この床を張ったと話していた。一日中腰を曲げて、材木を並べて釘を打ち、ワックスを塗り……。
 その話を聞けば、おのずと掃除をする手にも力が入る。
 が。
「あまり力を入れて掃かないでください。傷がつきます」
 冷ややかなセバスチャンの声が飛んでくる。
「……おいっ」
 せっかく掃除してやってるのに。それはないだろう。
 口を尖らせた僕の鼻先をいい香りがかすめた。
「あ」
 ノスタルジックな香り──。
 バターとバニラが奏でる甘い甘いハーモニー。キャラメルやショコラの濃厚な香りに、フルーツをコトコトと煮る甘酸っぱい匂い。
 セバスチャンが厨房の奥から、ちょいちょいと僕を手招きする。
 紅茶色の瞳が楽しそうに笑っている。
 誘われるまま厨房に入ると、彼はぐいっと僕を引き寄せて、掬いとったチョコレートクリームを、僕の口の中に押し込んだ。
「……んっ」
 チョコレートでコーティングされた甘い指が僕の唇の輪郭をなぞっていく──。
 ぶるり、とからだが震えて、セバスチャンの胸にしがみつけば、チョコの絡みついた指で口の中を執拗に愛撫する。歯列を撫で、上顎を何度も擦って……。
「キスして欲しい?」
 コクコクと頷くと、焦らすようにゆっくりと唇を近づけてくる。待ち切れずに首に腕を回せば、彼はくすくすと笑って──それからいきなり獣のように、激しく吐息を奪った。
「ンッ!」
 僕の後ろ頭を押え、深く深く舌を潜り込ませる。
 くちゅくちゅと洩れるいやらしい音に、僕の頭は溶けたキャラメルみたいに熱くとろけそう。
 彼の指が背骨をゆるやかに辿りながら降りて、それからまた首筋までゆるゆるとのぼってくる。
 舌を絡め合いながら、何度もそれを繰り返されて、ぞくぞくと寒気に似た感覚が爪先から背筋を駆け上っていく。
「あ……っ」
 首を軽くのけぞらせた僕の耳元で、セバスチャンは低く囁いた。
「──続きは、また夜にでも」
「~~~~ッ」
 ニヤリと笑うと、僕のからだを乱暴に押しやって、彼はさっさと作業台に戻り、再び仕込みに集中した。
 もう僕のことなんて、完全に忘れたみたいに。
 まったく。
 僕の恋人は本当に意地が悪い。
 人のからだに火をつけておいて、これだ。
 長い足を蹴ろうとすれば、澄ました顔でひょいと避ける。
 ほんとに憎ったらしい奴!
 火照った頬に手の甲をあてて冷ましながら、するすると魔法のように出来上がっていくお菓子を見つめた。
 セバスチャンの形のよい指から生み出されるスイーツは本当に繊細で、色鮮やかで、美しい宝石みたい。つやつやと輝くザッハトルテ、苺の赤が眩しいフレジェ、キャラメル色に焦げ目をつけた林檎のパイ、旬のフルーツが山盛り乗ったタルト・オ・フレーズ、エトセトラ、エトセトラ。
 セバスチャンがふっと顔を上げた。
「学校はいいんですか? 遅刻しますよ」
 気がつけば、遅刻ぎりぎり。やばい。
「行ってくる!」
 鞄を掴み、カフェを飛び出した。



***
 西からあたたかい風が吹いてくる。
 かの有名な女家庭教師が鞄を片手に傘をさし、ふわりふわりと西風に乗って帰っていく……。
 なんてね。
 メアリー・ポピンズと入れ替わるようにやってきたのは、イースター休暇!
 待ちに待った春休みだ。
 今日から三週間、僕は毎日セバスチャンの店を手伝うのだ。
 用意は万端。セバスチャンとお揃いの麻の黒いシャツに、ギャルソンエプロン。
 いかにも仕事のできそうなこの姿。
 しかし……。
 果たして僕がカフェのスタッフなんかできるのか。
 実際のところ、非常に不安だったといっても過言ではない。
 どちらかといえば、本を読むのが好きなインドア人間で、どちらかといえば、ひ弱なほう。
 けれど、いざやってみると、カフェの仕事は結構楽しかった。
 僕の恋人が紅茶を淹れるエレガントな動作も好きだし、「いらっしゃいませ」という甘い声も大好きだ(言っておくけれど、店では彼はまるで別人みたいにノーブルで優しい)。
 おっと、恋人にばかり気をとられちゃいけない。
 僕の仕事は主に接客係。愛想良く笑って(それは僕の得意とするところ)、セバスチャンとマダムたちの間を往復する。
「あら、かわいい坊やね」
「貴方は……ミカエリスさんの弟?」
 いえ、従兄弟です(血は繋がっていないけれど)、学校が休みなので手伝っているんです等々、にこやかに答えて、僕はオーダーを取り、出来上がったものをトレーに載せて、しずしずとマダムたちに運んでいく。
 そう。セバスチャンのかたくなすぎるカフェは、次第に地域に受け入れられて、いまでは午前十時の開店と同時に着飾ったマダムたちがわんさか押しかけてくるようになった。小さな店はたちまち満席。大繁盛。彼女たちはスイーツはもちろんだけれど、とびきりイケメンなセバスチャンに会えるのも楽しみにしているんだ。
 カウンターに立つセバスチャンが少しでも視線を送ると、頬を赤らめて、たっぷり口紅を塗った口から「きゃぅ♡」とか「ミカちゃん♡」とか女学生みたいに喜んでいる。やれやれ。
 マダムたちが香水の匂いを残して帰ったあとは、稀にひとりかふたり、カフェに迷い込んでくるけれど、たいていは日暮れと同時にカフェは閉店。
 後片付けをしたら、簡単な夕食を食べて、風呂に浸かって(なんと風呂もセバスチャンの手作りさ!)、それから……。
 まあ、あとはご想像にまかせるよ。



***
「うぅ…………ぅ」
 深夜、うめき声で目が覚めた。
「セバスチャン?」
 ベッドサイドのランプをつけると、薄闇の中でセバスチャンが苦しげに顔をしかめている。
 額には大粒の汗が浮かんでいた。
「おい、大丈夫か?」
 肩をゆすると、彼はハッと目を開け、がばっと跳ね起きた。
「──……ッ」
 胸を押さえて、荒く息を吐いている。
 僕に気づくと、うっとうしそうに髪をかきあげた。
「なぜ、起きているのです」
「起きているんじゃなくて、起こされたんだ、お前に」
 大分うなされていたぞと言えば、そうですかと呟き、
「──大丈夫ですから、さっさと寝てください」
 と冷たく返す。
「心配したのに、その言い草はないだろう」
「それはどうも」
 とりつくしまもない。
 まったく。可愛げのない男だ。
 なにか言い返してやろうと思ったけれど、彼の肩がかすかに震えているように見えて、言葉を呑み込んだ。
「具合が悪かったら、いつでも起こせよ」
 それだけ言って、僕はベッドに潜り込む。
 うめき声はそのあと何度か聞こえたように思うけれど、はっきりしない。

 翌朝、セバスチャンの顔色は悪かった。
 大丈夫かと尋ねても、唇を結んでうなずくだけ。
 心なしか紅茶色の瞳が不安定に揺れている。
──どうしたんだろう
 訊きたかったけれど、とてもそんな雰囲気じゃなくて、言葉は喉に張りついたまま。
 セバスチャンがうなされたのは一日だけではなかった。
 次の夜もまた次の夜も、やがて毎晩のようにうなされるようになり、ほとんど眠れてないようだった。
 でも、うなされているだけなら、まだよかったんだ。
「……う、……グッ」
 セバスチャンは次第に吐くようになった。
 夜中に何度も洗面所に駆け込んで、吐いている。
 見兼ねた僕が、
「医者に行ったほうがいいんじゃないのか」
 と苦しそうに痙攣している彼の背中に触れた瞬間、毛を逆立てた猫のように、バシッと手を振り払われた。
「お願いですから、放っておいてください」
「ッ」
──お願いですから
 彼がそんな風に言ったのは初めてだった。
 いつも傲岸不遜で、弱味などほとんど見せたことがないのに……。
「わかった……」
 僕は静かにうなずいて、振り払われた手をそっと握りしめた。


 セバスチャンの状態は日に日に悪くなっていく。
 夜だけでなく、起きてからも頻繁に吐いているし、食欲がないようで、スープ以外ほとんど口にしない。
 店ではいつものようにスイーツをつくり、平気な顔をして、一日中働いているけれど、本当は立っているのもやっとのようだった。
 セバスチャンの体調の悪さは、やがて店にも影を落とし始めた。
「あら」
「……ねえ」
 マダムたちのひそひそ声が店のそこかしこから聞こえる。賑やかなお喋りは少なくなり、沈黙が続く事もざらではなかった。
「ごちそうさま」
「また来るわね」
 彼女たちはさりげなく会計を済ませて、いつもどおりに店を出て行く。
 けれど、テーブルの上には半分以上残されたケーキと、ほとんど口をつけていない紅茶があった。
 セバスチャンは黙って、僕が下げた食器を見つめ、ふぅと小さくため息を吐くと、中身を乱暴に流しに捨てた。
 彼女たちはスイーツの味や店の雰囲気が変わってきたことを敏感に感じ取っている。彼らは表立って言わなかったけれど、少しずつ、潮が引くように店から遠のき始めた──。

「休みます」
 ある朝、いきなりセバスチャンは言った。
「えっ?」
「これ以上、レベルを落とせない。こんな体調ではろくなものが作れません。しばらく休業します」
「あ、うん、そのほうがいい……」
 一緒に病院に行こう、と続けた僕の言葉には答えず、セバスチャンは店の扉にメッセージボードをかけると、二階にあがってしまった。

『しばらくの間休業します 鳩と黒スグリとコケモモ亭』

 こんなわけで、カフェ開店二ヶ月にして休業。
 残念だ。