カフェを始めた

  
エピローグ

「また明日なー」
「次は勝つからな! 覚えておけよ~シエル」
「わかった、覚悟しとく」
 校門で親しげに肩を叩き合いながら、みんなと別れた。
 最近、僕はみんなと仲がいい。木陰で読書をするよりも、仲間たちとクリケットをする時間が長くなった。僕を呼ぶ名も、ファントムハイヴ君からファントムハイヴ、シエルに変わり、ソーマとかチャールズとか、ファーストネームで彼らと気楽に呼び合うようになった。
 なぜかはわからない。
 彼らは一様に僕の雰囲気が変わったと言う。ひょっとしたら、彼らの周りに張り巡らされていた見えないロープは、僕が自分で自分の周りに張っていたのかもしれない。彼らとの距離が縮まったのは、セバスチャンの言うところの『妙な鎧』が、いつのまにか僕から消え去ったからかもしれない。


 そして──。
 いま、僕が帰る家はセバスチャンの未完成カフェだ。
 そう、あの秘密基地みたいな部屋にふたりで住んでいるのさ(鳩も一緒だ、グルッポー!)。
 カフェはまだ全然出来上がっていなくて、セバスチャンは浜辺に打ち寄せられた流木を何日もかけて集めてきて、それで椅子をつくろうとしたり(もちろん失敗した)、窓を自分で開けようとして壁にヒビを入れて参ってたり。セバスチャンのサグラダファミリアカフェは完成にはほど遠い。
 でも僕はそれでいいと思ってる。
 だって他にお客さんがいたら、のんびりとセバスチャンの淹れた紅茶を味わえないから。
「ただいま!」
「おかえりなさい」
 僕が帰ってくると、セバスチャンは作業の手を休めて、おやつの用意をする。
「試合どうでした。勝ちました?」
「当たり前だ」
 彼は朗らかに笑う。そうそう、変わったといえば、セバスチャンも変わった。以前よりもずっと明るくなって、甘いお菓子も少しずつ作るようになったんだ。
「今日のおやつはなんだ?」
「貴方の好きなガトーショコラです」
「ふん。好きだなんて、言った覚えはない」
「好きなくせに」
「~~~~ッ」
 意地の悪いところは相変わらずだ。十三歳年上の病んでるっぽい恋人に心の中で悪態を吐く。
 香り高い紅茶をひと口飲み、ガトーショコラを口にする。
 ふっと胸の中がざわめいた。
「……?」
 紅茶とお菓子──。
 そのふたつが喚び起こしたイメージは鮮明で、僕の心の奥をひどくかき乱した。なにかが僕の脳をカリカリと引っ掻いて、浮上しようと足掻いている。からだの奥底に眠っているなにか。紅茶とお菓子が喚ぶ、懐かしいなにか……
「どうしました?」
「……いや、なんでもない」
 ゆっくりと首を振る。
 セバスチャンはおもむろに、ガトーショコラをひと切れ自分の口に入れると、カウンター越しに僕の顎を指ですくった。
「な……っ?」
 強引に唇を奪われて、甘い塊を中に押し込まれる。後ろ頭を押えられ、ねぶるように舌と舌をねっとりと絡み合わされ……。
 ケーキのひとかけらも残さないように、執拗に奥まで擦られる。
「ん……ぁ…」
 ようやく顔を離すと、セバスチャンは僕の濡れた唇を、指先で軽くなぞった。
「ほら、好きでしょう?」
「べっ、別に」
「少しは素直になったらどうです?」
「ッ……るさい!」
 彼は爽やかに笑って、もう一度くちづける。
 長い指で僕の髪を梳き、頬を柔らかく撫でて……。
 僕とセバスチャンだけの時間は続く。

 カフェはまだ始まらない。

                           fin