カフェを始めた



 #6

 はじめからなにもかもわかっているような愛撫だった。
 泥だらけのシャツをやさしく脱がされたときも、彼のひんやりとした肌に触れたときも、もう何度も抱かれて、互いのからだのどこもすでに知っているような気がした。
 セバスチャンはゆっくりと僕にくちづける。
 彼の唇がほんの少し触れただけでからだは期待に潤み、解けてしまう。首筋から鎖骨、鎖骨から胸へとセバスチャンの舌は僕の感じるところを辿っていく。
「……ぅんっ」
 乳首を軽く吸われて、甘い喘ぎが零れた。羞恥に襲われ、手の甲を噛めば、セバスチャンはそっと僕の手首を掴んで、シーツの海に縫い止める。
「声を聞かせて……」
 胸の先を摘まみ上げられ、捏ねられ、何度も感じやすいところを弄られて、繊細な指の愛撫にそれだけで達してしまいそう。
 僕の先端はきっともう濡れている。
 セバスチャンはベッドの中でも意地悪だ。
 僕の熱はとっくに勃ち上がっているのに、そこにはまったく触れようとせず、腰のあたりや腿の付け根ばかりキスの雨を降らせて、僕が震えていても知らんぷりで、焦れったくて、触れて欲しくて、彼の瞳に訴えるけれど、下から見上げる紅い瞳は薄く笑うばかりで、ちっとも触ってくれない。
「触って欲しい?」
 触って欲しいに決まってる! 僕の腰は待ち切れず、乞い願うように動いてしまう。
「触って欲しい……って言って」
「~~~~ッ」
「言わないと、やめますよ」
 そんな! こんなところでやめられたら、おかしくなる!
「さあ、言って……」
 耳が熱い。たまらなく恥ずかしいのに、からだは揺れて、止められない。
「ッ、ァ……さ、……」
 やっとの思いで口に出せば、セバスチャンはクスリと笑って、顔をずらし、僕を一息に呑み込んだ。
「んッぅ!」
 ずるりと中で舌が動く。いやらしく僕に巻きついては離れ、締めては緩めて、舌は蛇のように僕に絡みつく。ずるり、ずるりと舐められるたびに息が詰まって、苦しくて、ぞくぞくと背筋に悪寒が這い上がってくる。
 突然、ふるり、とからだが揺れた。
「……あッ……やっ、あ、あ────ッッ」
 強い光がからだを突き抜け、張り詰めていた僕の熱が一気にセバスチャンの口の中に迸る。刹那、セバスチャンは僕の後ろ頭を掴んで唇を奪い、口に含んだ白濁を流し込んだ。
「んぅ……ふ」
 白濁をふたりで分け合って、いやらしく舌を絡め合う。頭の芯がどろどろになって、綺麗も汚いもなくて、お互いの汗も唾液も白濁もすべて愛おしかった。
 そうしてセバスチャンが僕の中にやさしく入ってきたときも、僕の髪を梳きながら、腰をゆっくりと動かしたときも、僕の中で達して、そのまままたすぐに僕を貫いたときも、全部がかつてあったことのように感じ、あたたかくて、懐かしいこの交わりに胸がつまった。
 僕たちはいつかの昔、こうして交わったことがある──。

 びぃん、と音が響いた。音叉のようなあの音が空気を震わせ、僕らをどこか遠くへ導いていく。
 音はどこへ僕らを運ぶ?
 八年前、僕が五歳のとき? 
 十三年前、僕が産まれたとき?
 二十六年前、セバスチャンが産まれたとき?
 違う。
 もっと、前だ。もっと、ずっと前に、時は遡って…………

 檻。
 セバスチャン。僕。
 紅い瞳。
 右目。左手。
 絡め合う指。

 フラッシュバックのように、映像が僕たちの前に現れては消える。セバスチャンは僕のからだの中からなにかを掴み出そうとするかのように、強く深く僕を抉る。
 快楽に揺さぶられ、喘ぎながら、海の底に沈んだ小さな宝石を探すように、僕たちは記憶のカケラを見つけだそうとしていた。
 けれど、交われば交わるほど、それは遠くなり、見えなくなっていく……。失われてしまったもの。もう二度と手にできないもの。音叉の音と同時に消えていく過去の残像。涙がとめどなく流れる。どうして泣いているのかまるでわからないけれど、僕は泣きながらセバスチャンに縋って、何度も何度も背をのけぞらせた。



***
 雨はまだ降り続いている。
 僕はセバスチャンの腕に頭を乗せて、天井を見ていた。母が選んだ惑星の柄。そのこともやがて彼女は忘れてしまうのだろうか。
 セバスチャンがもの問いたげに僕を見つめた。
「母が選んだんだ、あれ」
 天井を指差した。セバスチャンは黙って、惑星たちを眺める。
「なあ、僕はなにを忘れているんだ? 昔、お前になにを言ったんだ……」
「少しは思い出す努力をしたらどうです」
「覚えていないんだから、しかたないだろ」
 やれやれと肩を竦めて、セバスチャンは僕のほうを向いた。
「おまえはぼくのおやつがかりだ! まいにち、ぼくにおやつをつくれ! めいれいだ!」
「えっ?」
「そう命じたのですよ、貴方は」
「……全然、覚えていない」
 そうですかと呟いて、セバスチャンは視線を遠くに向けた。
「──八年前のことです。アンジェリーナと私の父との結婚式の日。あの日は朝からよく晴れて、綺麗な青空が広がっていたのを覚えています。式の後、うちの庭でガーデンパーティが開かれました。私は少し疲れて、退屈で、見るともなしに料理の並べられたテーブルを眺めていたのです。そのうちにテーブルとテーブルの合間を銀髪の頭が見え隠れしているのに気づきました。小さな男の子。セーラーカラーの可愛らしいジャケットを着た私の新しい従兄弟──貴方──が、自分の背よりも高いテーブルに手を伸ばして、皿に取り分けられた御馳走を食べていたのです。
 私は近くに寄って、話しかけました。
『美味しいですか』
 貴方はウン! と大きくうなずいて、ケーキの載った皿を差し出しました。
 思わず口元がほころびました。なぜなら、そのケーキは私がふたりのお祝いにつくったガトーショコラだったからです。
『それは私がつくったのですよ。喜んでもらえてなによりです』
 そう言うと、貴方は目をまんまるに見開いて、ぽかんと口を開けました。
『ほんとうか?』
『ええ』
 大人のように顎に手をやり、何事か考えていた貴方は急に顔を上げ、綺麗な蒼い瞳を輝かせて叫んだのです。
『おまえはぼくのおやつがかりだ! まいにち、ぼくにおやつをつくれ! めいれいだ!』
 そのときの貴方の傲慢な表情。いまも覚えています。誇り高く、威丈高に命令する貴方の姿に胸を鷲掴みされました。その瞬間、音叉のようなあの音が響き、私は恋に落ちてしまったのです──」
 セバスチャンはちらりと僕を見た。
「……おかしいと思いますか?」
「…………少し」
 正直に答えた。苦笑いして、彼は続ける。
「でしょうね。自分でも理解できないのですから。けれど、音は言うのです。『コレ』だと。『コレ』こそがお前に必要なものだ。『コレ』の命令は絶対だ、と。その声に抗うことはできませんでした。だから大学を卒業してすぐ、周囲の反対を押し切って、パリのパティスリーに修業に行ったのです」
「ちょっと待て!」
 慌てて口を挟んだ。
「はい?」
「それがお前がパリに行った理由なのか?」
「ええ」
「ただ僕におやつをつくるためだけに?」
「そうです。貴方にとびきりおいしいおやつをつくるために」
 あまりに些細な理由に驚いた。というよりむしろ呆れた。
「そんなことのために……」
「ええ、そんなことのために約束された未来を捨て、安逸で恵まれた生活を捨て、それまでと全く異なる世界に飛び込んだのです。……ですが、現実は厳しかった。三年間耐えて、一応パティシエと名乗れるようにはなりましたが──いつまでも続くいやがらせには勝てませんでした。人間って案外脆いものなんですね」
 疲れたように、ふうと息を吐いた。
「あとは御存知の通りです。心もからだもボロボロになって、甘いものなど見るのも嫌になって……そう、貴方の言う『負け犬』になって、情けなく英国に戻ってきたのです。そうやって戻ってみれば、落伍者として敬遠され、元の社会に私の居場所などなかった」
 それでひとりでカフェをやろうと思ったのです、と寂しげに笑った。
「ひさしぶりに再会した貴方は私とのことを覚えていないばかりか、つまらない子どもになっていた。五歳の貴方の面影などひとかけらもなく、妙な鎧で自分を守って。これが貴方かと目を覆いたくなりましたよ。まあ、いまは多少、元に戻ったようですが」
 フン、と僕は鼻を鳴らした。
「そんな馬鹿な理由で人生を棒にふるなんて」
「……そういう運命なのでしょう。後悔はしていませんよ」
 セバスチャンは紅茶色の瞳で、あたたかくやさしく、僕を見つめた。

 音は、もう聴こえない。



***
 カタタン カタタン
  カタタン カタタン
 湖水地方には有名なウサギがいるよ。
 蒼いジャケットを着たウサギ。
 ビアトリクス・ポターのピーターラビットだ──。


 列車はリズミカルな音を繰り返して、湖水地方に向かっていた。ゆるやかに続く山岳地帯。鬱陶しいほど濃い緑。窓を少しだけ開けた。湿った空気と草の匂いが入ってくる

 母が湖水地方の療養所に入ってから、一年が経とうとしていた。僕は週末に列車でここを訪れる。山に囲まれた大きな湖の畔の小さな療養所。湖面はいつも静かで、鏡のように空を映している。
 母の記憶はもうかなり失われてしまって、いまでは僕のことはすっかりわからなくなってしまった。最初、僕は一生懸命「僕だよ、シエルだよ」と母に自分を認めさせようとしたけれど、それは母の心を乱すばかりで、混乱して泣き出す彼女を見るうちに、少しずつ諦めるようになった。母に無理に思い出させる必要はない。母といる時間を大切にしよう。そう思うにしたがって、母も落ち着きを取り戻し、笑顔を見せることが多くなった。彼女は僕を療養所のボランティアだと思い込んでいる。
 母は僕の顔を見て「シエル」とは呼ばない。「また来てくれてありがとう」と礼を言う。それは結構堪えるけれど、「ボランティアの男の子」のことをちゃんと覚えていて、毎週僕が来るのを楽しみにしている。それだけでも充分。だよね?
 母の前に座った。僕はこの頃、彼女に本を読む。彼女が物語をとても喜ぶからだ。「嵐が丘」「ジェーン・エア」「若草物語」「メアリーポピンズ」……。少女時代の母が読んだであろう古典的な小説や童話を、療養所の図書室から借りてきて、長い午後、母の傍に腰掛けて朗読する。小さなベッドと小さな机、小さなストーブのあるシンプルな部屋で。

「今日は、なんの本を読みましょうか?」
「これを読んでもらえるかしら?」
 珍しく母が自分で借りてきたらしい。差し出された分厚い本を見て、僕ははっとした。
 それは『失われた時を求めて』だった。僕が去年の夏休みに読破するって、母に見せた本で──もしかしたら、もしかしたら、母は……。
 ごくっと唾をのみ込んだ。
「僕のこと、覚えてる?」
 母は小首を傾げた。
「ええ、もちろん。毎週来てくれるボランティアさんでしょう? 名前は……ごめんなさいね。名前を覚えるのは苦手なの」
 そうさ、覚えているわけはないよ。母の脳からすっかり僕の記憶は消えてしまったのだから。
「シエルがね、その本を読んでいたのよ」
「えっ?」
「息子がいるのよ。シエルっていってね、シエルが夏休みに学校から借りてきたの。休み中に読むんだって、張り切っていたのよ」
「……」
「そういえば、シエルを最近見ないわ。ああ、いまの時間は学校だわ。なにを言っているのかしら、私。シエル、夕方には帰ってくるから、会ってやってね。いい子なのよ」
 いま目の前にいるのが、シエルだよ。貴女の子どもなんだよ。
 喉まで出かかっているけれど、僕は言えない。それは母をまた混乱させるだけだから。
「……じゃあ、読みますね」
「ええ、お願いするわ」
 僕は色の褪せた表紙を開き、読み始めた──。


 その日以来、母は「シエル」のことをときどき話すようになった。「シエル」が初めてハイハイした日のこと。海水浴で怖がって水に浸かろうとしなかったこと。ポルトガル旅行へ行ったこと。黒い陶器の鶏を買うのに散々迷って、二人で口喧嘩したこと……。
 自分のことなのに、母の目を通して語られる僕の姿は新鮮で、まるで知らない子の話を聞いているようだった。
 母は僕を忘れたわけじゃない。僕の思い出は彼女のどこかに、刻まれている。そう思ったとき、ふいに胸がいっぱいになって、涙が滲んだ。