#4
闇の中、自分の荒い息が淫靡に響き渡る。
「セバ……、セバス、チャン……はっ……ぁ」
「さあ、壁に手をついて。もっと力を抜いてください」
言われるままに、両手を壁について、力を抜こうとした。
「これ以上…っ、ムリだ!」
「もう少し我慢してください。すぐに慣れます」
「あっ、だめだ、で……出………っ」
「起きてください」
絶対零度の声。聞いた瞬間凍りつく。
がばっと跳ね起きると、セバスチャンの冷ややかな瞳が見下ろしていた。
「ひぇえっ!!??」
「寝ぼけているのですか? さっさと起きてください」
上掛けを抱いてベッドの端まで後ずさる僕に、セバスチャンは眉をひそめた。
さっきまでの夢の光景が頭から離れない。
セバスチャンが僕の後ろ、から……っ。立ったまま、壁に手を……。
あああっ、脳内はヤらしい妄想でいっぱいだ!
頭を振って妄想を追い出し、のろのろとベッドから出ようとして……はっとした。
──まずい。
まずい。非常にまずい。ここから出たら、まずい。
じっと動かない僕に、セバスチャンはいらいらとした様子を隠さない。
「昨日から着たままのその薄汚い服やシーツや枕カバーを洗いたいのですが」
「いや、あの……」
もごもご言う僕にとうとう痺れを切らしたのか、セバスチャンはバッと上掛けを取り上げた。
「うわあぁっ!」
思わず股間を押える。
シーンと静かになった。
まるで部屋には誰もいないみたい。
はたはたと夏の風にカーテンがひるがえる。
おそるおそる目を上げると、セバスチャンが顎に手を添えて横を向いている。その肩が微妙に震えていた。
「──なるほど、そういうワケですか」
からだを揺らして、クスクスと笑い出す。
「一体どんな夢を見たのです? 私に抱かれる夢?」
「ッ、」
「いやらしい夢でそんな風になるなんて……貴方も年頃の男の子なのですね」
ニヤニヤしながら肩をすくめて、扉に向かい──なにかに気づいたように足を止めて、振り返った。
「お望みなら、いま抱いて差し上げましょうか。夢の中でするよりも、よっぽど気持ちがいいと思いますが」
ばしっと投げつけた枕をスッとかわすと、チェシャ猫みたいな笑いを残して、セバスチャンは部屋を出ていった。
ああ、本当に嫌な奴っ!
***
シーツやらなにやらを抱えて階段を下りる途中で、玄関のほうから数人の男たちの賑やかな声が聞こえた。
「ありがとうございました」
「いやいや、お安い御用ですゼ。またなにかあったら呼んでくだせえ」
セバスチャンは彼らを見送り、踊り場に立っている僕をちらりと見上げる。持っていた洗濯物に視線を移すと、意味ありげに目を細めた。
──あんの野郎っ!
ぐぐぐと奥歯を噛んで、耐え忍ぶ。洗濯物を洗濯機に放り込んで、急いで居間をのぞくと、昨日の惨状は嘘のように消えていた。
窓には新品のガラスが嵌っている。曇りひとつないガラスが、朝の光をたっぷり吸い込んで輝いている。床に散らばったガラスもゴミも綺麗に片付けられている。写真や壊れた土産物……僕と母の思い出たちは部屋の隅のテーブルにきちんと積み重ねられていた。
すべてセバスチャンが片付けてくれたんだろう。僕がぐっすりと眠っている間に、セバスチャンは家中、掃除をして、職人を呼んで、母が割ったガラスを入れ替えて……。その手際のよさに僕は嫉妬する。
香ばしい匂いの漂ってくるキッチンに入った僕はセバスチャンの姿を見て、小さく息を呑む。さらりと額に落ちる黒い前髪、長い睫毛に縁取られた紅茶色の瞳。いつも着ている黒い麻のシャツ(上から三番目までボタンをはずして)に生成りの麻のエプロン。パリのカフェのギャルソンみたいにイけてる格好。
心の中で呟く。
──憎らしいほど、かっこいいよ。
セバスチャンは昔からずっとそこにいたみたいに慣れた様子で料理をしていた。僕に気づくと、億劫そうに手招きする。
チェックのテーブルクロスの上には、あつあつのスコーンにクロテッドクリーム、庭のハーブのグリーンサラダ。早生のリンゴ。レモンの薄切りを浮かべたアイスティー。
ひさびさの人間らしい食事にごくっと喉が鳴る。母がおかしくなってから、まともなものを食べていなかったから。
「いただきます!」
焼き立てのスコーンを口一杯頬張った。美味い!!
「あの、いろいろありが……」
「朝食が終わったら、私のカフェに行きます」
「え」
「貴方をひとりにするなとアンジェリーナに言われています。別に手伝わなくて結構ですので、一緒にカフェに来てください」
セバスチャンは食器を片付けて、洗い上がった洗濯物を干すと(そのとき奴はまた僕を見てニヤニヤした)、早く支度をしろと僕を追い立てた。
***
セバスチャンは妙に急いで歩いている。そんなに急がなくてもいいのに、と後ろでため息をつく僕。
彼の歩幅と、僕の歩幅じゃだいぶ違う。すたすたと歩くセバスチャン。ぱたぱたと小走りの僕。
もう少しゆっくり歩いて欲しいけれど、そんな気はないみたい。僕はいつまでもセバスチャンの後ろ。走るようにしてついてく。鞄の中にはプルーストと、セバスチャンが作った薄切りキュウリとハムのサンドウィッチ。
セバスチャンの未完成のカフェに来たのはひさしぶりだ。僕が母のことで時間を取られているうちに、リノベーションは着々と進んでいた。床は松の木が張られ、濃いキャラメル色の塗料で仕上げられて、ピカピカにワックスをかけられている。ところどころダクトが剥き出しだった天井も、同じように木が張られて、吊り下げられたアンティークなガラス製のペンダントライトとよく合ってる。
「お店の改装、全部、貴方がやるつもりなんですか?」
僕の質問は聞こえなかった、らしい。セバスチャンはすたすたと部屋を横切り、カウンターの奥の扉に姿を消してしまった。
キャラメル色の扉は長身のセバスチャンが背をかがめてやっと通れるぐらいの大きさ。
それはアリス・イン・ワンダーランドに出てくる扉みたいに神秘的。入るなり、真っ逆さまに落ちて──なんてね。
ぎぃっとおそるおそる扉を押すと、扉の向うは不思議の国ではなくて、螺旋階段だった。僕が上を窺っていると、セバスチャンの不機嫌そうな顔がひょいと現れた。
「なにをしているんです?」
「なにをしているのかな……って思って」
僕が言うと、セバスチャンは少し考えるそぶりをして、それから指でちょいちょいと僕を誘った。
「わあ!」
秘密基地みたいだ!
カフェの二階は天井裏を無理矢理、部屋にしたような空間で、それにしては大きなベッドと(セバスチャンサイズだから当然だ)、古ぼけたクローゼット、小さな本棚がある。家具はそれだけ。壁に写真はひとつもないし、僕の家と違ってすっきりしている。モノのない暮らし、って感じ?
すん、と鼻を動かした。家と違う匂いがする。知らない洗剤と知らないシャンプーと……それからセバスチャンの匂い?
そうと意識した瞬間、僕の心臓はドキドキと脈打つ。
──…………グルッポー
あ。
鳩。
僕はきょろきょろと辺りを見回す。
小さな窓がほんの少し上に押し上げられていて、後から取り付けたであろう板が外に伸びている。板の上には鉢がふたつ。それと、鳩!
鳩は板の上で、餌を食べている。きっと隣の鉢は水だ。驚かさないようにゆっくり、そっと近づくと、鳩は小首を傾げて僕を見、それから朝食に戻った。
灰色の羽に少しだけ紫と緑の羽。食べながら、グルグルと喉を鳴らしている。セバスチャンは螺旋階段の手すりにもたれて、鳩を見ていた。
「飼っているんですか?」
「いえ……餌をやっているだけです」
ふっと何かが頭をよぎった。
確か、セバスチャンは昨夜寝袋の中でこう呟いてなかった?
──鳩もいませんし。
もう一度セバスチャンのベッドを見直した。脇の台に小さな籠が置かれ、中にふかふかのキルトが敷かれている。
もしかすると──。
頭にピンと閃いた。
「あの……鳩と一緒に寝てるんですか?」
「っ」
動揺した。ビンゴだ!
一矢報いた僕はこっそりガッツポーズを決める。ほら、僕にだって反撃のチャンスはあるのさ。
「夜はその、外は冷えますから」
ぼそりと呟き、セバスチャンは逃げるようにして狭い螺旋階段を下りていく。
下から、
「もう下りてください」
ときつい口調で言われて、僕は鳩に別れを告げる。
「またね」
鳩が答える。
「グルッポー」
***
こんな風に始まったセバスチャンとの同居生活は、しかし前途多難なものだった。
==その1.プルースト事件==
僕がプルーストの「失われた時を求めて」を読んでいることを知ると、セバスチャンは鼻でせせらわらい、ガキに一体プルーストのなにがわかるのかと嘲るように言った。頭に来た僕は、もう50ページも読んでいること、なかなかにおもしろいこと、僕のような優秀な子どもにはプルーストがよく似合うことなどをこと細かく丁寧な口調で説明した。
「優秀、ね」
セバスチャンはため息まじりに呟いた。
そうです。僕は優秀なんです。
「では、その変な敬語はやめてください。年上には敬語で懐柔などと思っているのでしょうが、反吐が出ます」
プルースト事件は別名「<年上には敬語>作戦失敗事件」ともいう。
==その2.マドレーヌ事件==
「失われた時を求めて」には紅茶とマドレーヌがつきものだ(といってもそれしか知らないけれど)。それは世の常識。当然知っていたセバスチャンはある朝、コトッとケーキ皿を僕の前に置いた。焼き立てのマドレーヌ!! バターの香りゆたかな!! そしてなんと横には素晴らしい香りのディンブラティーまで差し出された!
「いただきます!」
セバスチャンって意外と親切なんだと思ったのも束の間、僕の心は深い闇に堕ちた。
「……ッ、く、ぶはああああっ!」
盛大にマドレーヌを吹き出す。慌てて飲んだ紅茶はさらに僕を攻撃し、咀嚼したマドレーヌと紅茶が混じり合ったよくわからないものを口から吐き出した。
「汚いですよ」
「き、たな……って、しょっぱい! 塩が、入ってる! 塩っ!!」
塩マドレーヌに、塩紅茶! こんなもの口にしたことない!
クククとセバスチャンは大きく喉をのけぞらせて笑う。
「だって、プルーストにはマドレーヌでしょう? ご期待に応えただけなのですが」
「こんな、しおっからいマドレーヌなんて……」
「嗚呼、私、甘いものは大嫌いなのですよ」
くそっ。
澄ました顔で言ってのける男に返す言葉がない。本当に意地の悪い奴だ。そういえば、セバスチャンのつくるものに甘いものは一切ないのだった。
──パティシエのくせに。せっかくパリまで行って修業したくせに!
セバスチャンはことあれば、底意地悪くて、嫌味な奴ぶりを発揮した。けれどそのおかげで、僕は母のことをあまり考えずに済んだ。ひとりでいたらきっと心配でなにも手につかなかっただろう。
彼は最初の夜以来、まったく僕に迫って来ない。ときどき、背中に強い視線を感じることがあるけれど、僕を襲うことなく、毎夜律儀に、忠犬のように僕のベッドの横に寝袋を敷いて寝てる。
あの不思議な音叉も、最近は鳴らない。
***
五日後。
アン叔母さんに呼ばれて、僕はロンドン中央病院にいる。
おんぼろ車で僕を送ってきたセバスチャンは「病院は嫌いです」と言ったきり、車から出て来ない。
アン叔母さんは会うなり、僕に飛びついてハグした。
「シエル~、この間はろくに話もできなくって……。今日は少しおしゃべりできるわ」
「アン叔母さん、母は……?」
「いまはちょっと眠ってるの。もうしばらくしたら起きるから、そうしたら一緒に行きましょう」
叔母は明るい。その明るさが僕を気遣っているように感じられて、少し苛立つ。僕は子どもじゃないのに。いや、子どもだけど。優秀な子どもなのは、アン叔母さんも知っているはずなのに。
「どう? セバスチャンと仲良くやってる?」
「あ……ええ、まあ」
「あの子、あんたに会うのを楽しみにしてたのよ」
「えっ?」
「あんたに会うために、あの場所にカフェを開くことにしたみたいだし。ほら、あの物件、あんたの家から歩いていけるでしょう。シエルが遊びに来たらいいなあって言ってたのよ」
「……」
「嬉しそうにしてなかった? あんたに再会して」
あれで嬉しそう? 全然そんな風に見えなかったよ。
戸惑っている僕に気づかず、アン叔母さんは続けた。
「大体、あの子がパリに行ったのだって、あんたのためだったみたいだし」
「僕のため?」
「そうよ……ええっ?! なによ、シエル、覚えていないの? あんたがまだちっちゃな頃……」
音叉の響きと共に聞こえてきたセバスチャンのあの問い。
──五歳のとき。覚えていますか?
五歳のとき。僕は一体なにをしたんだろう。
「僕、なにを……」
「ダレス先生」
そのとき看護師が入ってきて、会話は中断した。アン叔母さんはカップを置いてさっと立上がる。
「起きました?」
「ええ。お会いできると思います」
「じゃあ──行きましょう。シエル」
アン叔母さんに促されて立上がる。
病室に入ると、母は僕の顔を見て、笑みを浮かべた。その笑みは、母が知らない人にするよそゆきの笑みで、僕の心臓は早鐘を打ち始める。
次に母の口から出た言葉は、僕を戦慄させた。
「どなた……?」
to be continued…