#2
夏休み、到来。
「ファントムハイヴ君、またね」
「休み明けに会おうぜ」
校門を出ながら、クラスメイトたちが口々に僕に声をかける。
「うん、また」
僕も明るく答える。
でも、僕はひとり。
群れをなして歩くみんなの中には入らない。彼らはモーリスとかエドワードとかファーストネームで呼び合うけれど、僕だけ「ファントムハイヴ」。御丁寧に「君」まで付けられる仲だから。
彼らは肩を組んだり、じゃれあったりして、楽しげに夏休みの計画を披露しあう。
「パパとアメリカに行くんだ」
「うちなんかコートダジュールでバカンスさ」
「親が仕事だから、俺はサマーキャンプに追いやられるんだ。たまったもんじゃないよ」
「あ、僕も。一緒のグループだといいね!」
彼らの声を耳にしながら、僕はさりげなくひとりで歩いていく。
僕に「夏休み、どうするの?」って聞く友人はいない。
そう──優秀過ぎる僕は、孤高の存在。僕の居場所がないわけじゃない。みんなに無視されているわけでもない。
彼らとちょうどいい距離を保ってる。
なんていったって、距離は大事だ。彼らの回りに張り巡らされた見えないロープに、無神経に触れちゃいけない。
空気を読んで、適切な距離を測って。それが僕の世渡りのコツ。
身の程知らずに勇んでパリのパティスリーに菓子修業に行き、ボロボロになって惨めに帰国した親戚のセバスチャンより、よっぽどうまくやってるさ。
気分を変えよう。
僕の今年の夏休みの計画はもう決まっている。
あの名作、プルーストの『失われた時を求めて』を読むのだ。夏の午後、おいしい紅茶とマドレーヌを用意して。
まず物置から古いウィスキーの木箱をひきずりだす。それをテーブルに見立てて、いい感じに色の褪せた長椅子の前に置く。
長椅子に横たわって、木陰でゆったりとくつろぎ、本のページを繰る。さやさやと葉ずれの音。駒鳥のさえずり。ときどき紅茶を口にする。
んー、なんて優雅な貴族的時間。孤高の僕にぴったり。
それを母はたったひとことで破壊する。キッチンから顔を出して、にっこりと微笑んで。
「シエルー、セバスチャンのお店の改装、貴方が手伝ってあげなさい。夏休み、暇でしょ?」
嫌だ。
あの暗い男になんぞ金輪際会いたくない。あの暗さが伝染して、僕まで暗い子どもになったら、一体どうするんだ。
絶対行かない。行かないから。行かないよ。
強く言い張ったのに、僕は再び改装途中の建物の前に立っていた。またもや、黒スグリとコケモモを大量に詰め込んだ籠を持たされて。
***
コンコン。錆びついた古い扉をノックした。
誰も出て来ない。辺りはしんと静まり返っている。生きている人間なんて誰もいないみたいだ。
ここは死の街。僕の知らないうちに世界の終わりがやってきて、生きてるのは僕だけ……なんてね。
「暑っ」
熱されたアスファルトから、陽炎がゆらゆら立っている。昼過ぎの光は強過ぎて、クラクラする。
──……ッポー。
「あ」
鳩だ。また鳴いてる。
グルッポー。
「グルッポー」
鳩に返事をしたとき、ようやくカチリとノブを回す音がした。軋んだ音を立てて、ゆっくりとドアが開く。
「また、貴方ですか」
ため息まじりに言われて、僕は帰りたくなった。
僕だって、好きで来ているんじゃない。母が行けって言ったから。家にいるわけにはいかないんだ。
僕は俯いて地面を見ている。まるで叱られて廊下に立たされた子どものよう。そんな風景は映画でしか観たことないけど。
「そこは暑いですよ。いつまでも立っていないで、入るなら入ってください」
そういうことはもっと早く言ってくれませんかね?
それからもう少しやさしい口調で言えないもんですかね?
十三歳も年上の病んでるっぽい男にそんなことは言えないから、繊細な僕は頭の中で文句を言う。
相変わらず、薄暗い室内。
電気コードの類いは減っている。カウンターらしきものも出来ている。
セバスチャンは僕を招き入れたものの、歓待する気はないようだ。ふたりして、室内の中央につっ立っている。
気まずい沈黙のことを『天使が通る』っていうロマンチックな表現があるけれど、うん、僕たちの頭上の天使は、いま非常にゆっくりと歩いていくね。
天使のスローな歩みに耐えられず、僕は話しかけた。親しげに見える(はずの)笑みを浮かべて。
「あの……いつ頃、開店するんですか?」
「内装ができたら、ですかね」
即答。
その内装はいつできるんですかって、さらに聞きたかったけれど、怒らせそうだからやめた。
バルセロナのサグラダファミリアみたいに、ずっと未完成なのかもね。
心の中で毒づいて、少し溜飲を下げる。
パチッと音がして、室内が少し明るくなった。見上げると、小さなガラス製のアンティークな照明が天井から下がっている。
「電気、通ったんですね」
「ええ、おかげさまで」
どこまでも他人行儀な会話。僕の気持ちはさらに沈む。
早く籠を渡して、さっさと帰ってしまおう。公園で時間をつぶして、母には手伝ったよと言えばいいや。
「今日も、黒スグリとコケモモ、ですか?」
セバスチャンが籠の中身を言い当てた。
「ええ。母が持ってい……」
「赤ずきんちゃんみたいですね。毎回、籠を持たされて」
かぁっと頬が熱くなった。
赤ずきんちゃん、だって? 男の子に言う言葉じゃない。
侮辱されて、腹が立った。無言で投げつけるように籠を床に置き、ドアに向かう。
「待ってください」
まただ。帰れと言わんばかりの態度なのに。なんで引き留める。
でも僕は今日は動じないし、待たないし、ころばない。電気コードに足を取られないよう、用心深く黒豹のように素早く歩いて、無事ドアに到着。ノブを握って、扉を開く。
眩い夏の光線がさあっと部屋に流れ込む。光溢れる外の世界。
瞬間、すぐ後ろから腕が伸びて、ドン! と扉を閉められた。バッと振り返ると、セバスチャンの胸が目に飛び込む。黒い麻のシャツ。上から三番目までボタンをはずして、隙間から肌をのぞかせている。間近で見ると、思ったよりも厚みのある──おとなの男のからだ。
わけもわからず、胸の鼓動が早くなる。
後ろは扉に、前はセバスチャンのからだで塞がれて、僕は逃げ道を封じられてしまった。
扉を押さえたまま、セバスチャンは僕を見下ろしている……らしい。視線を痛いほど感じるけれど、目を上げられない。
「──覚えていますか?」
ささやくような低い声。前回も訊かれた。でも、特に覚えていることなんてない。
答えようがなくて黙っていると、セバスチャンはふいに僕の顔の高さまで身をかがめた。濃い紅茶色の瞳が僕の内部を見透かすように覗き込む。
「なんですか……?」
聞いた瞬間、唇にぎゅっとなにかが押しつけられた。
「?」
数秒遅れて、衝撃はやって来る。
ぷにぷにと柔らかい感触、ほのかに温かい……これはッッ
──唇!? セバスチャンの唇だ!
頭の中は真っ白。ショックで脳内爆発。
──なんで? なんで、キス?
瞬時に自分を取り戻し、腕を突っ張り、首をのけぞらせて、無理に唇を引き剥がした。
「や、めっ……ウゥ?」
うっかり開いた口にセバスチャンの舌がするりと潜り込み、僕の唇は完全に塞がれてしまう。
「~~~~っ」
こぶしで叩いても、膝で蹴っても、相手はやめず、さらに深く舌を差し入れられる。歯列を舌で撫でられ、上顎を何度も擦られて、痺れるような感覚がつま先からじわじわと這い上がってくる。
「っう……ん……」
頭を左右に振って離そうとしても、僕の後頭部は強く押さえられてて、動かない。セバスチャンは角度を変えて、また唇を重ねた。さっきよりも深く。さっきよりも熱く、激しく、唇を奪われて、息ができない。セバスチャンは僕にからだを密着させ、左手で僕の右の瞼にそっと触れた……
突然、びぃんと音叉が鳴った。
からだの奥で、音が響く。
びぃん、と深い音が鳴り響いている。
セバスチャンと僕。
響く。音。共鳴。
その感覚は一瞬で消えた。
僕は薄暗いセバスチャンの未完成カフェにいて、扉にからだを押しつけられて、激しくキスされてる。
それが現実。
夢のような一瞬に理性を乱されて、抗うことをすっかり忘れていた。
セバスチャンは僕の髪をやさしく梳きながら、キスしている。とろりと蕩けるような愛撫にからだが震えて、また音叉が鳴りそう……。
──だめだ、しっかりしろっ!
僕は叫ぶ。
「いやだ、やめろっ!」
「いやじゃないくせに」
「……っ」
絶句した。
「本当にいやなら、逃げてみたらどうです」
首筋をそろりと撫でられて、腰の奥がじんと疼いた。
「──……ぁ」
からだの自由が効かない。
セバスチャンの指の動きに勝手にからだが反応し始め、どうしようもなく甘い熱がウィルスみたいにからだ中に広がっていく。
この感覚は、知っている。
僕だって、自分ですることはあるから。
けれどセバスチャンの指は、僕の指なんかより、ずっと巧みで、ずっといやらしくて、やさしくて、気持ちが──
「気持ちがいい?」
からかうように訊かれて、すっと熱が冷めた。
「いっ、いいわけないだろう! ふざけるなっ」
セバスチャンはあっさり手を離すと、一歩後ろに下がり、ニヤニヤと僕を眺めた。
「気持ちよかったって、顔に書いてありますよ」
頭に血が上った。怒りと羞恥と。どろどろに混ざった感情が胸の中で渦を巻き、思わず怒鳴った。
「な……馬鹿か、お前はっ。負け犬のくせに!」
──しまった!
慌てて取り繕うとしたけれど、一度発した言葉は消せない。もう取り返しはつかない。
セバスチャンは顔色を変えると、押し殺すような声で言った。
「負け犬──ですって?」
言うなり、思い切り強く僕の顎を掴んだ。ギリギリと指が皮膚に喰い込む。瞳が炎のように赤く燃え上がっている。
「誰のせいだと思っているのです」
──えっ?
聞き返す間もなく、セバスチャンは扉を開けて、僕を乱暴に外につまみ出した。
グルッポー。
どこかで、また鳩が鳴いた。
***
日陰、日向、日陰、日陰、日向、日陰……。
花びら占いみたいにして、地面に落ちる日の光と広葉樹の葉っぱの影を交互に踏む。
日陰はセバスチャン。日向は僕。
セバスチャン、僕、セバスチャン、セバスチャン、僕、セバスチャン……。
ほこりっぽい乾いた風が僕の頬をかすめ、目に砂が入りそうになって、ぎゅっと瞼を閉じた。青や赤や変な色がちらちら網膜に踊っている。集まったかと思うと、それは像を結んでセバスチャンの瞳になる。
ザクロみたいに赤い瞳。怒りと失望に満ちた瞳。
力一杯掴まれた頬がズキズキと痛む。
──誰のせいだと思っているのです
僕のせいだっていうのか?
セバスチャンが心折れたのは、僕のせい?
僕にはなんの関係もない。セバスチャンがパリへパティシエ修業に行ったことだって、母から聞いて知っただけだし、大体この八年間、会って話したことだってないし。誰のせいって……そんなの僕は知らないよ!
──負け犬のくせに!
ああ、もうッ! いくらキスされたからって、酷過ぎる。全然いつもの僕らしくない。地雷を避けるどころか、自ら踏んでしまった。
自己嫌悪に陥って、頭を抱えた。
──覚えていますか?
なにを? 一体なにを覚えているっていうんだ。
頭の中はクエスチョンマークでいっぱいで、はち切れそう。
「わかんないよ」
呟いてから、唇に気づいた。
まだセバスチャンの唇の感触が残っている。
からだの火照りが消えない。
──覚えていますか?
その言葉が喉に刺さった鶏の骨みたいに、いつまでもチクチクと心を刺す。
チクチク、チクチク。
僕はなにを忘れている?
to be continued…