残酷な童話

私だけが知っているのです。
「シエル・ファントムハイヴ伯爵」の秘められた過去を。

***
ひさしぶりに主の部屋からうめき声が聴こえてきます。
あのときの記憶はいまも主を苦しめています。まっすぐに立てないほど狭い不潔な檻。ろくに食事も与えられず、冷たい鉄の輪が足に食い込んで離れません。出荷される豚のように、身体に熱い焼き印を押し付けられて、治療などされず、放っておかれた傷はただれて、膿み始め、幾度も殴られた口元の腫れはひかないまま。痛みと空腹と汚れにまみれた身体を抱えてうずまっていました。

彼はほんの数週間前まで家族の愛に包まれて、不自由などひとつも感じたことのない子どもでした。寒ければ寒いと言うだけで誰かが温め、お腹が空いたと言えば贅沢な料理やお菓子が並ぶ毎日。清潔で、よく選ばれた衣服にくるまり、家族と使用人と犬に囲まれた恵まれた日々。幸せを意識したこともないぐらい、生まれたときから幸福を手にしていた子どもでした。しかしそれは彼の屋敷を襲ったものたちの手によって、簡単に崩されてしまいました。非力な子どもは家族を奪われ、自分の身ひとつ守れず、ここへ連れて来られたのでした。

*****
あのとき。
彼は必死で自分が生き残ることを考えました。次にミサ台に乗せられるのは誰なのか、選ばれないようにするにはどうしたらいいか。そうして、少しずつ檻の仲間たちが減っていくなかで、彼は最後まで残りました。彼のかたわれと共に。ファントムハイヴ家のふたりの子ども。ふたり以上の価値のある可憐で美しい子どもたち。ひとりは快活で健康で、ひとりは内気で病弱な子ども。そのふたりだけが最後に檻の中に残されたとき。なにが起こったのでしょうか。

残酷な大人たちは、彼らにこう訊ねたのです。
「どちらがシエル・ファントムハイヴ伯爵かい?」
名乗ったほうが先に殺されるのか、後になるのかは言わずに。

すでにひとりは伯爵の証となる指輪をこっそり飲み込んでいました。なのでどちらがファントムハイブ伯爵なのか、外見からは誰にもわからなかったのです。訊ねられてふたりの目の前は真っ暗になりました。伯爵だと名乗ったほうが助かるのか。いや先に殺されてしまうかもしれない。伯爵ではないほうが助かるかもしれない。いや神様が言うように嘘を付いてはいけない。正直に答えたほうが助かるかもしれない。10歳の子どもたちの頭の中はめまぐるしく動きました。

「さあ、早く答えないと、ふたりとも出て来てもらうよ?」

ふたりは焦りました。どっち?助かるのはどっちの答え?ついに片方の子どもが先に叫びました。

「僕がシエル・ファントムハイヴ伯爵だ!」

大人たちは笑いました。
「そうか、では出て来てもらおう」
「!」
名乗った子どもは衝撃を受けました。慌てて、自分の言葉を否定します。
「……え、…ち…違う!僕じゃない。嘘です。ごめんなさいッ。僕じゃないんです。シエル・ファントムハイヴ伯爵は……こ、こいつです!」と、もうひとりを差しました。
「違うッ!僕じゃない!!」
指差された子どもはびっくりして否定しました。どうして!?なぜ?僕を守るといったのに。大丈夫と言ったのに。どうして!!
「あいつだ!」「僕じゃないっ!」同じ顔をした子どもたちはつかみあって、互いをシエル・ファントムハイヴ伯爵だと叫び、争います。大人たちは腹を抱えて笑っています。狭い檻にぶつかりながら、殴り合っているふたり。とうとう片方が、もう片方を突き出しました。

「こいつがシエル・ファントムハイヴ伯爵です!!」

大人は突き出された子どもを受け取ると、檻の中のもうひとりに言いました。
「では、伯爵を最後にする。君が先だ!」
「!!」
絶望の淵に突き落とされた檻の中の子ども。
「…だってッ、いや、僕がシエル・ファントムハイヴ伯爵です。本当に。だから、僕は……」
大人たちは笑うだけでもうなにも聞いていませんでした。そう、本当はどちらでもよいのです。今晩か明日の晩かの違いしかないのですから。しゃくり上げ、泣いて抵抗する子どもをひきずり出しました。
「やめて!!連れていかないでっ!お願いっ!!」
「おやおや、さっきまでは憎くて殴っていたのじゃないかい?ああ、おかしい」
「……ッ……」
それでも手を、その小さな手をちぎれるぐらいに伸ばしました。けれど、届かない。自分が死に追いやった兄弟。自分が生き残るために争った……。苦しくて苦しくてたまりませんでした。

「さあ、儀式を始めようね」

暴れる子どもの四肢を大人たちは押さえつけています。残されたもうひとりは再び檻の中でその風景を見ていました。…仲が良かったのに…。僕達はいつも一緒で、笑っていて。あの日屋敷の庭でふたりとも花の冠を乗っけて、エリザベスと楽しそうに微笑んでた…。なのに、なんで僕は…僕達は…っ。ぽたぽたと涙がこぼれ落ちました。
でも「代わりに僕を!」なんていう言葉はとうとう口から出て来なかったのです。自分を犠牲にして人を助けるなんて、できなかったのです。そんな美しい自分ではないのだと彼は思い知らされたのでした。胸が詰まって悲しくて苦しくてどうにもならなくて彼は祈りました。

「誰か助けて。僕たちを助けて。
神様、神様!とうさま、かあさま」

無情にも、ミサ台の上の子どもは、いまにも鋭い剣で貫かれようとしています。毎夜の光景が脳裏に浮かびます。刺され、血があふれ出し、痙攣し、息絶えていく子ども。檻の中の子どもは気づきました。結局、誰も助けてはくれないことを。彼は全身の力を振り絞って強く祈りました。いいえ、それは切羽詰まった呪いの言葉でした。

「誰でもいい、なんでもいい、僕達を助けて!!」

叫びと同時にミサ台の上の子どもの胸が貫かれました。辺りが硫黄の匂いでいっぱいになり、苦しくて息ができません。濃く立ちこめた霧の向こうから、何かがやってきます。ゆっくりと。大人たちがざわめきます。「本当にいたんだ」「わ、わしに金をっ」「永遠の命を!!」その存在はゆったりと辺りを見回しながらつぶやいています。「これじゃない」「違う、これじゃない」「これも違う」。そして檻の前で足を止めました。

「ああ、コレだ」

檻の中の子どもに言いました。
「貴方は大きな犠牲を払った。私と契約するもしないも自由。さあ、選んで」
わたり賃は、しかと頂きましたから、とペロリと唇をなめ、子どもに選択を迫りました。
「悪魔、お前と契約する!僕に力をっ!!」
契約印が子どもの右眼と悪魔の左手に刻まれ、彼らの契約は成立しました。

悪魔は子どもの命令で部屋にいたすべての人間を殺しました。子どもは覚束ない足取りでよろよろと歩き、息絶えているかたわれの腹の中から、指輪を取り出しました。そして、血に汚れた蒼い指輪を親指にはめ、かすかなため息をつきました。
「貴方のお名前は…?」
「…僕の名前は…シエル。シエル・ファントムハイヴ伯爵…ファントムハイヴ伯爵家を継ぐ者」
悪魔はくすりと笑いました。だってすべてを知っているのですから。おかしくてたまりません。しかし子どもが悪魔も震え上がるぐらいの目で睨んだので、笑いをひっこめ、余計なことは言わないことにしました。

こうして悪魔を召喚し、己の剣と盾にすることで命をつなぎとめた子どもは、しかし、人の世での幸せを求めませんでした。豪華な住居、爵位、財産、婚約者、万能な執事。それがあれば、たいていの贅沢はできます。甘い甘い幸せの中に浸って、助かった命をありがたがればよいのに、子どもはそれに背を向けて、復讐を誓ったのです。

それは、自分の親を殺し、血を分けたかたわらを殺し、自分を汚した奴らへの復讐心だけではありません。彼は、自分だけが生き残ろうとした、その醜い自分が許せないのです。本当は認めたくないのです。なかったことにしたいのです。でも聡明な彼は、その罪がなかったことにならないことぐらい、とっくにわかっています。生きていく限りその重みを抱え、地獄のような苦しみから逃れることはできないのだと。彼らを消して、それから自分をも消し去りたいのでしょう。

***
坊ちゃん。私は知っています。坊ちゃんの中身が醜いものでいっぱいに詰まっている人間だということを。その事実に目をそらすことができず、もがいてもがいて、なおも復讐などという愚かな行為に向かっている哀れな子どもだと。
ねえ、坊ちゃん。
最後の瞬間、貴方の魂はどれほど美味でしょう。この身が滅びようとも私は絶対に貴方のお傍を離れません。地獄の果てまでお供しましょう。…私は嘘を言いませんよ。貴方のかたわれと違ってね。

fin