光、ふたたび

これでもう何度目だろう。数えるのさえ馬鹿らしい。最初の頃は首を吊った。呼吸を止めれば死ぬと思ったから。だが無理だった。引きちぎられるように喉が痛み、圧迫されて息ができない、吐いて、意識を失って、これでようやく…と思っても、目覚める。目を開ければ、そこにセバスチャンがいて、僕の痛みを和らげようとしている。身体中、切っても無駄だった。どこを切ってもすぐに傷口は塞がって出血は止まってしまう。飛び散った血で部屋が汚れるから、切るなら外でと奴に言われた。毒物も無駄だ。致死量の100倍飲んだって、ただ内臓が焼けるようにヒリヒリ痛いだけで、死に至らない。悪魔はちょっとやそっとじゃ死なない。死神のデスサイズか、あるいはあの剣でなければ。

「デスサイズを手に入れろ、セバスチャン」
「…嫌です」
「お前っ!命令に背くのかっ?!」
「そればかりはお許しください、坊ちゃん」
「…ッ…」
セバスチャンは悪魔になっても僕をあの懐かしい名で呼ぶ。もう『坊ちゃん』じゃない、別の名で呼べと言ってもきかない。
「…それなら、あの剣を持って来い」
「できません」
「な…に?あるだろう!まだあの場所にっ」
「いいえ、ありません。鞘となる新たな存在を求めて剣は去ってしまったのですよ」
自分で死ぬこともかなわないのか。この身のまま、ずっと生きろというのか。僕は苦しくて言わずにはいられない。手を伸ばして燕尾服の衿をつかみ、奴に食って掛かる。
「僕をっ、殺せ、殺せ、コロセ、コーローセッ……!」
「できません」
「こ…の、駄犬ッ!!」
殴ろうと思い切り腕を振り上げた。だが頬に達する前に掴まれる。ぶるぶると震える腕。セバスチャンは手首を掴んだまま深い眼差しで僕を見ている。
「僕をっ、人間に戻せ、セバスチャン!」
「できません」
奴は冷静に言い切る。できないことはないだろう、お前が知らないだけだろう。そう迫っても、首を横に振るばかり。
「…っ、頼むから、頼むから、セバスチャンっ。もう嫌だ…っ…」
どこへも進めない。何にもなれない。ずっと。ずっと。生きる『希望』も『夢』も『光』も『支え』もない。いつか命の尽きるときまで。長い生の終わるその日まで。こんなふうに日を重ねて何になる。何がおもしろい。生きていてもしかたないだろう。
「…うぁああああああああっ…」
僕は絶叫する。両手で床を殴る。殴る。血まみれになっても。殴って殴り続けて…。拳を握りしめて。嗚咽する。涙と涎がぽたぽたと床に落ちる。
「……ただ…ただ…死人のように生きているだけじゃないか…」
僕の小さな声をセバスチャンは聞き逃さなかった。
「ええ、そうです。坊ちゃん。それが悪魔です。悪魔なんですよ、坊ちゃん」

ーーこれが人間だ、人間なんだよ、セバスチャン!!ーー
かつて僕が人だった頃、奴に言い放った言葉だ。姑息で残酷で醜悪で悪魔よりもよっぽど悪魔らしい。醜い中身が詰まっている…これが人間だ、人間なんだよ!…と。
そうか。
希望もなく、光もなく、死も遠く、ただ、ただ、どん詰まりの世界で絶望を抱えて生きている。それが悪魔なのか。
「ふ、は、はははははは。あははははは!」
血まみれの指で床に爪を立て、僕は乾いた声で嗤う。
「お前、お…まえ、セバスチャン!お前は、どれほど長い間、そうやって生きてきたんだ?どうやって耐えてきたんだ?教えろ…」
この短い間でも、僕の心はみしみしと軋んで、辛くて、鉛の塊を飲んだみたいに胸が詰まって、重みで窒息しそうなのに、お前は一体どれほどの時間を。
「さあ?どれぐらいの間でしょう。はじめからそういうものでしたから、それを辛いと思ったことはなかったのですよ。…そう、坊ちゃんに出会うまでは」
「……?」
奴は静かな紅茶色の瞳で、いつもよりもゆっくりと話す。かがんで僕の手を取り、血だらけではがれかかっている黒い爪を押さえながら。
「坊ちゃん。貴方に出会って、初めて知ったのです。希望も目的も生き甲斐もなく、ただ生きているということがどれほどつまらないか。ヒトの生は短くて儚い。なのに、その小さな命にしがみついて、強欲にあれもこれもと夢を見る。考える。実現する。失敗する。嘆き、怒り、喜ぶ。ヒトとはなんておもしろいのでしょう。なにかにすがって、なにかを掴みたくて、生きていく。貴方のように、『復讐』すら生きるための希望にする。ねえ、坊ちゃん。貴方は、私の想像以上でした。貴方の生きる目的は復讐。それのみ。せっかく助かったのに、大切な命なのに、貴方はそれを復讐などという馬鹿馬鹿しいものに捧げた。爵位にも豪勢な暮らしにも婚約者にもこの私の力にも心を動かされずに。日々必死に、罪を抱えて懸命にもがきながら生きている貴方。貴方に付き従っているうちに、私は少し変わったのかもしれません。人間の心がわかるようになってきたようです」
「…ッ!なら、お前、わかるだろう。生きていくには、希望が、光が必要だと…!」
「ええ、人間なら。坊ちゃんは、もう人間ではありません。悪魔です。希望も光もなく、闇の中で生きていけるはずです」
「いやだ」「いやだ」「いやだっ!!!」僕は叫ぶ。
「お前はなぜ平気なんだ!なぜこんな真っ暗な心のまま生きていけるんだ!?」
「言ったでしょう、坊ちゃん。坊ちゃんに出会って私は変わってしまったと。ねえ、坊ちゃん。いまの私には希望があるのです。光があるのです。悪魔のくせに、おかしいでしょう?笑いますか?私はヒトに近くなってしまったんですよ、貴方に出会って」
セバスチャンは僕を背中からそっと抱きしめた。
「…なんだ、お前の希望とやらは…?」
「貴方です」
「…ッ…」
「貴方が私の生きる希望です。光です。貴方さえいればいい。貴方がいれば私は終わらない。この長い生を、空しい悪魔の生を耐えられるのです」

僕は絶句した。
なにを言っているんだ。セバスチャン。
喉がカラカラで声にならない。
だって、お前はあれほど切望した僕の魂を喰らえなくなったんだぞ、それなのに無理矢理僕につながれて、切なくて苦しくて、お前はいまにも死にそうになって、白い、真っ白な顔をしていたじゃないか。本当に死人のような…。

「ええ、私はあそこで一度死んだのかもしれませんね。あのときの苦しみはとても堪えられるものではなかった…。いっそ坊ちゃんを殺して、私も消滅したいと本当に思っていました」
「なら、いま…!」
「嫌です」
背中越しにセバスチャンが変化したのがわかる。黒い羽が辺りに飛び散り、闇が濃くなっていく。
「セバスチャ…」
「坊ちゃん、貴方は私の光です。貴方がいる限り私は生きていける。そうヒトのように、生きる目的を、希望を持ってしまったのですよ、私は。貴方と共に、終わりが来るまで、ただ生きたいのです」
「僕、僕は…。僕にはもう何もないんだぞ、セバスチャン!!この闇を抱えたままで生きろというのかっ」
「ええ、坊ちゃん」
「それがどんなに残酷なことなのか、わかって言っているんだろうな…?」
「ええ、坊ちゃん」
「…僕を死なせないんだな」
「ええ、坊ちゃん」
「…人間に戻さないんだな」
「ええ、坊ちゃん」
「このまま」
「ええ、このまま」
「…永遠に…?」
「私の生きている限り」

…ふ、と苦い笑いがこみあげてくる。そうだ、僕はひとりでは何もできない。こいつがいなければ死ぬこともできない。生きていくこともできない。セバスチャンは赤い瞳を僕に向けてくる。獣の瞳。残酷な悪魔の愛。「シエル、君は悪魔に愛されているんだね」アロイスの寂しそうな声が蘇る。愛じゃない、愛なんてものじゃない、セバスチャンが欲しているのは僕の魂で、僕を愛しているわけじゃない。あのとき僕はそう思った。だけど、だけど…こいつは今、僕を愛している。

「わかった。命令だっ、セバスチャン。一瞬たりとも、僕を離すな!お前が死ぬその瞬間まで」
──そして僕の空っぽの心を悪魔の愛で満たせ。お前が生きている限り。

「yes,myload」

セバスチャンはそのとき、心から幸せそうだった。

fin