夜の言葉[セバシエ短編集]

新刊サンプル

収録の『秋の薔薇』より

=====以下サンプルです=====

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 階下の使用人部屋の一室では、悪魔で執事がベッドに横たわり、虚ろな目を天井に向けていた。
 なにもやる気にならない。動けば、それだけで腹が減る。夕方摂ったわずかばかりの薔薇の精気が、一層空腹を刺激して、辛かった。
 きっと朝になれば、餓えはいくらか薄らぐだろう。
 根拠のない希望にすがって、目を閉じる。今夜は人に倣って、ひさしぶりに睡眠を貪ってみようか……。
 ふと悪魔は近くに主人の気配を感じて、のろのろと重い身体を起こした。
「こんな時間に、なぜ……?」
 以前のように悪夢に怯えることもない主人が夜更けに自分を必要とするのは珍しい。何の用なのか。
 瞬時に移動し、主人がノックする前に扉を開けた。
「うわっ」
 主人が目を丸くして、自分を見上げている。にこやかな笑みを作り、背を傾けて幼い主人に諭すように呼びかけた。
「坊ちゃん、こんなところへいらしてはいけません。お呼び下されば、すぐに伺いますのに」
 従順な執事の仮面をつけて、慇懃無礼に何の用かと訊ねれば、主人は苛立たしげに言い捨てた。
「餌やりだ」
 開いた扉の隙間から、するりと部屋に入り込む。シーツに残ったヒト型の跡を見て、主人はにやりと笑った。
「眠っていたのか? 珍しいな」
 ぽすっとベッドの端に腰掛けて、傲慢に顎を上げる。
「お前……腹が減って、どうしようもないんだろう?」
「……ッ!」
「来い」
 幾分、緊張した面持ちで自分を手招いている。一体なにをするつもりなのだろう。セバスチャンにはまったく予想がつかなかった。
 いぶかしげに近寄った悪魔の腕を掴み、かがませると、シエルは顔を近づけ、ちゅっと薄い唇にくちづけた。
「!」
 驚いて身を離そうとするセバスチャンをさらに引き寄せ、歯の隙間に舌を入れると、自分の唾液を送り込んだ。悪魔がコクッと喉を上下させたのを確認して、シエルは唇を無造作に離す。
「いまはまだ、僕の魂はやれない。だから、これでしばらくの間……」
 気づけば、悪魔にきつく抱きすくめられて、あとを続けられない。
「く、るし……。はな…せ、セ、バ……」
「なんということを、なさるのです」
 切羽詰まった口調にシエルは驚いた。悪魔は瞳を紅く変え、大きく口を開けてシエルに迫ってくる。
 尖った犬歯が目に飛び込んだ。
──……ッ、喰われる……!
 シエルが思わず目を瞑ったとき、唇を塞がれた。
 柔らかく湿った獣の舌が、口内を深くあさる。もがいても、悪魔はしっかりとシエルをつかんで離さない。
 腰が熱を持ったように、じんと疼いた。口内を犯され、唾液を貪られて、悪魔の腕にぐったりともたれかかった。
──だめだ、こんな、はずじゃ……。
 悪魔の嗜好品。人の唾液。
 ほんの少し自分の唾液を分け与えて、それで部屋に戻るつもりだった。なのに──。
 ギシッと軋む音で、セバスチャンがベッドに片膝をついたのを知った。唇を合わせたまま、押し倒される。
「セバスチャン、やめ……!」
 顔をのけぞらせて叫ぶと、悪魔は組敷いた獲物に妖艶な笑みを見せた。その笑みにシエルは魅入られる。
 動きの止まった獲物に目を据えて、悪魔は自分の首元に静かに指を入れた。軽く頭を振って、タイをゆるめれば、艶めいた白い肌が衿からのぞく。しゅるる……と優美な仕草でタイを抜き、シャツのボタンを次々とはずして、厚い胸をあらわにする。
 シエルの頬に血がのぼった。
「坊ちゃんがいけないのですよ。餌やりなんて……。こんな中途半端な餌で、私が満足するとお思いですか?」
 声の底に抑えた怒りを感じ取った。
 怒っているのか、この悪魔は……とシエルは気づいた。自分の行為は、彼の矜持を──やせ我慢を己に強いている矜持を──傷つけてしまったのかもしれない。だが後悔はなんの役にも立たない。いまさら詫びたところで、この悪魔は許さないだろう。それどころか火に油を注ぐ結果になるのは目に見えている。シエルは言葉を呑み込んだ。
「坊ちゃん……」
 吐息まじりの甘い声を耳に吹き込まれ、からだが震える。
 いつもの声とはまったく違う。
「もう少し……ください」
「魂は、やれない」
 誘惑に抗うようにして、声を絞り出せば、悪魔は昏く翳った瞳で、主人を冷たく眺めた。
「ええ、わかっています。だから、もう少しだけ……貴方をください」
 その言葉の意味がわからないシエルではなかった……。


***
「怖い、ですか?」
 笑いを含んだテノールの声が上から落とされる。
 シエルはぐっと奥歯を噛んだ。
 怖くない、といえば嘘になる。
 かつて黒ミサの生け贄となり、ほぼひと月の間陵辱され続けたシエルにとって、からだの接触は恐怖をもたらすものだった。しかしこの悪魔は常日頃まったく性的なものは匂わせず──だからこそシエルは安心してすべてをまかせることができたのだが──今夜のようにからだを求められる日が来ようとは思ってもみず、一体どうやってこの時間を乗り越えればいいのか、見当もつかなかった。
 セバスチャンは黙り込んでいるシエルの銀の髪を丁寧に梳いて、小さな耳にそっと舌を這わせた。
 ぴちゃり、と淫靡な音が耳を打つ。
 耳朶に触れる悪魔の舌。
 邪な意図を持って愛撫するその舌の動きはいやらしく、そして魅惑的だった。
「あ……っ」
 足の先からぞわぞわと悪寒のような感覚が這い上がってくる。ぎゅっと目を瞑って、寒気をこらえた。
「我慢しなくてよいのですよ」
 セバスチャンは目を細めると、やわらかく食むように、シエルの唇を啄んだ。小鳥のように軽く、やさしく。
 シエルはふっと安堵の息を吐き、からだの力を少しだけ抜く。
 その途端、セバスチャンの気配がガラリと変わった。
 後ろ頭をぐっと掴み、舌を乱暴にねじこんでシエルの舌を捕らえると、ぎゅっと強く巻きつかせ、引きちぎるほどの勢いできつく吸い上げる。
「ンンッ!」
 痛みに驚き、思わず身を固くすれば、セバスチャンはそのか細い腕を掴んで、頭上に縫い止め、ナイティを毟り取るようにして引き剥がし、野性をあらわにして一気に襲いかかった。
「やめろっ」
「餌をやるとおっしゃったのは坊ちゃんでしょう。飢えた獣にどうかお恵みを」
 唐突に自分の部屋に現れて、「餌やり」だかなんだか知らないが、空腹を見抜いて情けをかけられたのが腹立たしかった。見下していた幼い主に、逆に見透かされ、同情されようとは。
──泣いて許しを乞うまで、追い詰めて差し上げましょう。
 ほの暗い情欲の炎が胸の奥底で密やかに灯る。
 片頬をシーツに押しつけてセバスチャンを拒む主人の唇を再び捕らえると、今度はやんわりと上顎を撫で、繰り返し歯列を擦る。主人の腕の力は少しずつ弱まり、鼻孔から洩れる吐息にかすかに甘い色が混じった。
「いい子、ですね」
 快楽に蕩け始めた瞳を見れば、怒りよりもむしろ情欲をそそられる。普段は気丈な主が少しずつ官能に支配されていく様子は、セバスチャンのからだの芯をざわめかせた。
 なめらかな首筋にくちづける。
 ぴくりと揺れた肌に細く尖らせた舌を静かに辿らせて、うっすらと紅く色づいた胸の突端をぺろりと舐めた。
「っ……」
 主人が唇を噛み締める。
 眉を寄せ、宝石のような瞳に涙を滲ませて必死に快感をこらえている。
 その姿がどれほど獣の劣情を煽っているか、主人はまるで気づいていないのだろう。
 こくりと喉を鳴らして、両の乳首をじっくりと舐めた。ゆるく周りに円を描いて。舌先で掬うように乳首を執拗に愛撫して。
「く……ぅ」
 シエルの口から呻きのような音が洩れた。
──ただの、餌やりなんだ。
 そうだ。これは餌やりに過ぎないんだと、強く自分に言い聞かせても、からだは言う事を聞かなかった。なによりも嫌なのは、悪魔の舌にからだが反応してしまっていることだ。巧みな舌遣いに呷られて、腰の底がジリジリと炙られたように疼いている。
「アッ」
 腿の付け根に指を這わされて、からだがひくりとわなないた。渇いた手のひらがゆっくりと確かめるようにシエルの内腿を撫でていく。そわり、と肌の表面だけを撫でる羽のような愛撫はシエルの奥の熱を更に掻き立てた。
「…は……」
 小さく息を零せば、悪魔の紅い瞳が粘ついた視線を送ってくる。自分を弄ぶ悪魔から一刻も早く解放されたいのに、ひとたびその視線に囚われてしまえば、頭の中は催眠術をかけられたようにぼうっと痺れ、されるがままになっていく。甘く罪深い瞳に誘い込まれ、シエルは両足をかすかに開いた。



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