何度呼び鈴をならしても執事が来ない。奴にしては珍しい。一体どこで何をしているのか…。しびれを切らしてシエルは自室を出た。
「坊ちゃん、どうなさいましただか」
すれ違ったメイリンが訊ねた。シーツを腕いっぱいに抱えている。
「セバスチャンを見なかったか」
「申し訳ありません、ずっとランドリールームにおりましたので、見かけていないですだ」
「そうか」
窓に目をやると、庭の奥に黒い影が見えた。

***
「なにをしている?」
うずくまった執事に声をかける。とたんにクシュッとくしゃみが出た。…猫だ。
「具合が悪いようなのです…」
いつもの嫌みな態度は消え失せて、悄然と肩を落とし、白手袋の指で猫のひたいをなでている。足下に置いた皿の上には、餌が山もりに盛られたままだ。
「なら、お前の力で治してやればいいだろう」
執事は無表情な顔で見上げて言った。
「坊ちゃん。私にはそんなことはできないのです。自分の傷ならある程度治せますが、他の生き物を治せはしないのです」
「…!」
「もしも私にそんな力があるなら、坊ちゃんが忌み嫌う背中の焼き印を消していることでしょう」
「…そうだな」
長く生きてはいますが、できないことはできないのですよと悪魔は白い顔を一層白くさせて言う。瞳からはいまにもはらはらと涙をこぼしそうだ。信じられない。いつもの自信満々な態度はどこへ消えたんだ。なにか嫌みを言ってやろうかと思ったが、言ったら本当に奴が泣き出してしまいそうで、口をつぐんだ。執事は猫をそっとなでては、小声で話しかけている。
(バカだな、お前は)
シエルはきびすを返した。

「スネーク!すぐに馬車の用意をしろ」
「わかった…ってダンが言ってる」
本当に仕方のない奴だ。僕にこんな手間をかけさせるなんて。
「おい、セバスチャンっ!!」
しゃがみこんだまま、執事はゆっくりと振り返る。
「でかけるぞ、その猫を連れてこい!」

***
「軽い中毒でしょうね」と猫を診断した獣医は言った。
「なにか植物の葉を食べて、あたったのでしょう」
「葉を食べるのですか?」
「ええ。猫はみづくろいのときに飲み込んだ毛を吐くために、草を食べるんですよ。そのときに、毒性のある葉を食べてしまうことがあるんです」
ほおっておいたら死んでしまっていたかもしれないと告げる。
「ときどきキャベツか青菜をやると良いですよ。それで変な草は食べなくなりますから」
見違えるように元気になった黒猫は、セバスチャンにからだをすりよせて甘えている。
「もう大丈夫ですね。今夜からはサラダもつけましょう」
なにがサラダだ。だいたいその猫はお前の言うことを理解しているのか。シエルは心の中で毒づいた。わざわざ獣医のところまで、使用人の猫を連れてくるやさしい主人は僕ぐらいだ。
「…クションッ」
鼻と口を幾重にも覆っても、猫アレルギーは止まらない。
「さっさと帰るぞ、セバスチャン」
「yes,myload」

***
「坊ちゃん、お待たせしました」
いつもの笑みが戻った執事が、盆を提げて部屋に入って来た。深い絨毯が足音を吸い込む。
「本日の紅茶はウバでございます。天然のメントールの香りが漂う良質な茶葉が農園より送られてきましたので」
そして、と続ける。
「本日のおやつは、『ふわふわ肉球の木苺シャルロット』でございます」
ぶぶっと、いま口に入れたばかりの紅茶を吹き出した。
「なんだっ、それはっ?!」
「坊ちゃん、お行儀が悪いですよ」
「な、な、なにをっ。お前が変なものを作るからじゃないかっ」
「変ではありません。猫の手の形に成形したビスキュイ・ア・ラ・キュイエールの中に、薄桃色の木苺のムースを詰め、深紅の木苺ソースで、肉球を描いてみました」
猫と私を助けてくださった坊ちゃんへの御礼です。ささ、ひと口召し上がってくださいませ、と流れるような仕草でフォークを使い、ひと切れ、あーんと差し出す。
「い、いい。自分で食べる!」
フォークを奪い、勢いのまま口に入れる。
「ん。悪くない」
(いつも以上に絶品だな)
軽く泡立てた生クリームと甘酸っぱい木苺がちょうどいいバランスで口の中で溶ける。猫を助けたぐらいで、こんなうまいスイーツを食えるなら結構なことだ。椅子の背に身体を預け、執事をまじまじと見る。

「お前、あの猫を医者にみせる気はなかったのか」
「……嗚呼、その発想は浮かびませんでした」
「普通、一番先に考えるだろう?」
「さあ、どうでしょう」
どうでしょう…って。ときどきこいつのことが本当にわからなくなる。完璧な執事のはずなのに。なにか欠けている。ふと思い当たって、訊いてみた。
「もしかして、お前、何かを『助けた』ことがないのか」
「……」
執事は白い手袋に包まれた指を顎に添えて、考えている。
「そうですね。無償の行為として、助けたことはないようです」
「!」
シエルは一瞬絶句した。が、すぐに思い直した。こいつは悪魔で執事。悪魔が褒美もなく何かを助けるなんてするわけがない。下心のない親切なんてこいつに一番似合わない行為だ。
「哀れな奴だな」
「……」
悪魔は黙っている。言ったことを理解しているのか、していないのか。悪魔の考えていることなんて本当にわからない。

「もう、いい」
「?」
「<彼女>の元へ行きたいんだろう?もう行っていいぞ」

執事は首を傾けて主を見た。瞳に悪戯っぽい光をちらっと浮かべ、盆を脇に抱えて机を回り込み、主の横に立つ。すいっと手を伸ばして、小さな顎を捉え、素早くかがんで、冷たい舌でペロリと主の唇の横を舐めた。
「…なっ!?…」
「…ビスキュイのかけらが付いておりましたので」
クスッと微笑み、軽く礼をして、それではお言葉に甘えて失礼しますと、シエルに言い返す隙を与えずにさっさと部屋を出て行ってしまった。

ひとり部屋に取り残されたシエルは、悪魔が舐めた箇所を指でぬぐった。その指をそっと口に入れる。冷たい舌の感触が生々しく蘇って、胸の鼓動が早くなる。くるりと椅子を回して外を見ると、ちょうど執事が玄関を出て、元気になった<彼女>の元に走っていくところだった。

「…この…猫バカ…!」

頬をかすかに赤くして、シエルは小さく罵った。

fin