夜の言葉

それがいつ始まったのか、もう覚えていない。主と執事。獲物と悪魔。命令する者と従う者。喰われる者と喰らう者。どちらが上でどちらが下なのか、どちらが強くてどちらが弱いのか、常に揺らぐ天秤のように不安定で、歪な関係。互いに互いを力で抑え合うような日々。そのうえ肌を合わせるようになれば、もうその関係はなんなのか。わからなさすぎて何も考えたくはない。

ある月のない夜、主が私の燕尾服のテールをくいと引っ張って、そうして振り向いたときに、主の瞳と目が合って、強い磁力に吸い込まれるように、熱っぽい唇に触れたのが最初の出来事だったのだろう。ナイティのボタンをひとつひとつはずして、柔らかい素肌に舌を這わせた。関係はからだから始まって、特に愛しいとも恋しいとも思わなかった。ただ主を快楽に導いて、目的地に到達すればいいと思っていた。小さくて幼い主があえぐのは見ていて楽しかったし、欲望をそそるものがあった。でもそれだけ。束の間の息抜き。

それが変わったのはいつからだったろう。
あるとき、行為のさなか、主が涙のにじむ目を開いて、私を見つめていたことに気づいたとき?
シーツを握りしめるだけだった指が、おそるおそる、私の肩を掴んだとき?
歯を食いしばって、決して私を中に入れさせてくれなかった唇を、そっと開いたとき?
それとも…

「なにを考えてる」
ふいに声がした。主が不機嫌そうに眉を寄せて、下から睨んでいる。
「嗚呼、申し訳ありません」
言葉だけで謝って、上の空で緩慢にからだを動かす。小さな手が伸びて、髪をぐっとつかまれた。
「する気がないなら、やめろ」
吐き捨てるように言葉を投げつけられて、火がついた。
(脆弱な生き物のくせに。啼かせてやりたい…!)
つながったまま主のからだを180度ひっくり返し、後ろからのしかかった。遠慮せずに体重をかけ、思い切り奥まで貫く。
「…くっ…!」
肘を突っ張って、主は沈むからだを支えている。その背中が強ばって震えている。痛みか快感か屈辱か、そのすべてか。うつむいて黙ってこらえている。ゆっくりと前後にからだを揺らし、脂汗を焼き印の跡に浮かべてもがいている姿を、冷めた気持ちで眺めた。
(泣きわめけばいいのに)
主の手が何かを探しているように動いている。その手を掴めば、涎まみれの小さな口に運ばれて、人差し指に思い切り噛みつかれた。
「つッ!!」
腕を引こうとしたが、噛んだまま離さない。がぶりと噛まれた箇所から血が滴っている。からだを起こし、主の頭を掴んで、ようやく指を口からもぎ取った。びりりっと痛みが走る。滴る血をぺろっと舐めた。
「痛いです。坊ちゃん」
「お前が酷くするからだ」
主は顔をシーツに突っ伏して、くぐもった声で言う。
「やさしくしろとは言わないが、もう少し抑えろ」

ーーやさしくしてくれーー

彼がそう言ったような気がした。自分の大人げなさにちくりと心の奥が痛む。そっと抜いてからだの向きを変え、汗ばんでいる銀灰色の頭を胸に抱きしめる。しばらくそのまま動かずにいた。
「…もう、いいのか?」
「ええ。今夜は」
主のからだから力が抜けた。乱れていた呼吸が少しずつおさまっていくのがわかる。頬を私の胸につけて、主は目を瞑っている。眠っているわけではない。ふと気づいたように頭を持ち上げ、私の人差し指を手に取った。もうすっかり血は止まっているが、触れられれば、じんと痛みが戻って来る。主は人差し指を見つめて言った。

「…悪かった」

普段の主とは思えない素直な謝罪に驚いた。いえ、と短く答え、主の手を軽く握り返した。

***
その夜からだったと思う。
ときおり、主は小さな声を漏らすようになった。ため息まじりの切ない声は、私の頭に入り込んで、必死に抑えている心を乱す。ヒトのからだは、気持ちと無関係には開かない。からだを開くときには必ずその心も開かれている。いまようやく主のからだは開き始めていて、それは彼が蛇蝎のように嫌っているはずの私に対して、閉じていた心を開こうとしているのか。その変化が気になって、確かめたくて、毎夜、彼を抱く。

「…あっ…セ…バス…チャ…」

初めて、行為の途中で名を呼ばれた。ようやく受け入れられたような気がして、ぽっと心に灯がともった。与えて与えて与えるだけだったのに、少しだけ満たされた。もっと欲しくなって、もっと奪いたくなって。小さな熱いからだから発するなにかに心が溶けていく。

コノキモチハ、ナンダロウ…?

あるとき、思いがけない言葉が自分の口から出た。
「坊ちゃん。私のことが、好きですか?」
主は驚いたように目を見開き、私の顔をじっと見つめる。
「お前…そんな顔をするな」
「…」
「まるでヒトのようだぞ?」
騙されそうになった、と主はつぶやいて遠くを見遣った。いいえ、悪魔の手管でなく、本当に知りたいのですと言ったとしても、信じてもらえるかどうか。きっと信じてはもらえまい。人間以上の能力を持っている私を、主は人間以下のように蔑む。私はただ聞きたいだけなのに。貴方の口から。貴方の気持ちを。

「坊ちゃん」
呼べば、潤んだ瞳をものうげに向けてくる。
けれど、彼は言わない。
どんなに私に溺れていても、決して言わない。一番聞きたい言葉を。

「坊ちゃん。私のことが好きですか?」
「…」
「ねえ、坊ちゃん。答えてください。好きですか?」
「…お前は、どうなんだ」
「!」
切り返されて答えられなかった。私はどうなのか。彼のことが好きなのか。即座に返せず、目をそらした。
「人に聞くなら、自分の気持ちを先に伝えるのが筋だろう?」
苦笑いしながら主は言う。相手に言わせるだけなんてフェアじゃない。主はそう言いたいのだろう。
「私は…」
また言葉が止まってしまった。どう言っていいのかわからない。とまどう自分がわからない。焦って混乱し始める私をおもしろそうに主は眺めている。
「馬鹿だな、お前は。…好きでもない奴がすることを、僕は我慢したりしないぞ」
「!」
主の頬がかすかに赤くなっている。
「酷く扱われる夜があっても、堪えているのは、お前がすることだからだ。お前がからだのつながりだけが目的でも構わない。僕は僕だ。僕の想いはお前とは別だ。なのに、お前はそれをあえて聞きたいのか。そんな顔をして。そんな目をして」
「…聞かせて欲しいのです」
主は私の頬に指を走らせる。半分怒ったような、半分泣き出しそうな顔をして、ひとつひとつ言葉を押し出した。

「一度しか言わない」

「お前が好きだ」

「愛してる」

「嘘じゃない。僕は嘘つきだけれど、それは嘘じゃないから」

それだけ言うと、主は目を閉じた。瞑った目の端からつぅっと涙が流れた。指は私の頬に触れたまま、動かない。主の言葉は、深い井戸に落ちた小石のように私の心に届いて、そして、きぃんと響いた。

「愛しています、マイロード」

主はふっと口元を片方に上げて言った。
「本当に馬鹿だな、お前は。いずれ喰らう人間を好きになってどうするんだ」
「…どうしましょう」
ぷぷっと主は吹き出した。くくくとおかしそうに笑っている。
「どうでもいい。困るのはお前で、僕じゃないからな」
そのときが来るまでせいぜい大事にしてもらおう、とくすぐったそうに笑って私の首に腕を回す。

「僕の悪魔が、お前でよかった」

独り言のようにそう言って、主は私にぴったりとからだを寄せた。

fin