potion & sugar[新刊サンプル]

BOOTH にて取り扱っています

……以下サンプルです……

バレンタイン・ポーション


 バレンタインデーまであと数週間に迫った或る日のことである。
 セバスチャンは暮れかけたロンドンの街を忙しく行き来する人々を冷めた目で眺めていた。
 彼らの後ろのショーウィンドウには早くも真っ赤なハートのオブジェが飾られている。
 二十年前にキャドバリー社という小さな製菓メーカーが、チョコレートの販売拡大のために無理やり考え出した「バレンタインデー」とかいうもの。いまではこの英国にすっかり馴染み、二月十四日には老若男女がこぞってチョコレートや赤いバラなどを想い人に贈り、愛を告げる日となった。
 くだらない。
と悪魔はうそぶいた。
 告白などいつだってよいではないか。
 赤いバラ?
 チョコレート?
 人間のいう大事な金を使わせる策略にまんまとはまり、製菓メーカーや花屋を儲けさせているだけではないか。
 セバスチャン・ミカエリスという悪魔で執事がここまで機嫌が悪いのは、我が主人であり、かつ将来の食料、かつ現在の恋人といういたって複雑な関係にある少年が、セバスチャンにまったくチョコレートをくれないからである。

<中略>

「ねぇ……」
 坊ちゃんは恥ずかしそうに布団の中でもじもじし、それから上目遣いにセバスチャンを見た。
「ねぇ、セバスチャン……。一緒に、寝よ?」
 ピクッとセバスチャンの指が震えた。
「坊、ちゃん?」
「一緒に、寝よ?」
 少し不安げに主人はもう一度言った。
 これは夢か幻か。
「寝よ?」なんて、坊ちゃんのほうから誘われたことなどこれまで一度もない。
 どうしよう。どうしたらよいのだ。
 ドキドキとセバスチャンの胸の鼓動が早くなる。
 馬車の中ではギリギリのところで踏みとどまった。
 甘い吐息をかけられても、潤んだ瞳で見つめられても、媚薬チョコに酔った主人の弱みにつけ込むようなことは美学が許さなかったのだ。
「坊ちゃん、今夜は……」
 やめておきましょう、と言いかけた。
 だがしかし……。
 こんな機会、もう二度とないかもしれない。
 もう二度と……。
 そう思った瞬間、口が勝手に動いていた。
「かしこまり、ました」
 生唾をごくりと飲み込んで、執事のお仕着せを脱ぎ捨てた。
 しゅるる……と黒いタイを抜く。
 ドレスシャツのボタンを次々とはずして、厚い胸をのぞかせれば、主人はベッドの中からとろんと熱に浮かされたような瞳を向けて、セバスチャンを待っている。
「では失礼します」と静かに主人の隣に横たわった。
 おずおずと細い腕を体に回されて、いつもとは違う展開に少しばかり緊張する。
「坊ちゃん……」
 軽く背を抱きしめ、指先でゆっくりと頰の輪郭をなぞると、桜色の唇がほんの少し開いて、意外な言葉を紡いだ。
「きす、して」
「えっ?」
 思わず聞き返した。
 まさか。
 いくら媚薬に酔わされているとはいえ、こんな言葉が坊ちゃんから出てくるとは思いもしなかった。
 いつもはキスだってセバスチャンが一方的に求めるだけで、坊ちゃんはどちらかといえばマグロ、いや黙って横たわっているばかり。興が乗ってくれば少しは抱きしめてくれるけど、わりと淡白な反応しか得られないのだ。
 嬉しくて飛び上がりそうになったが、すぐに待てよと思いとどまった。
 これがしらふのときなら天にものぼる心地だけど、媚薬のせいだと思うと心がしぼむ。
 躊躇するセバスチャンを見て、シエルは悲しそうに目を伏せた。
「いやなの?」
 嫌なわけがない。嫌なわけがないのですが……。
「ッッ?」
 焦れたのか、突然シエルは噛みつくようにセバスチャンにキスをした。小さな舌を潜り込ませ、いつもセバスチャンがするように、懸命に舌を動かして絡めようとする。が、うまくいかずにもどかしそうに身をよじった。
「セ、バ……」
 おねがい、きす…と切なげにねだられて、なにもかも決壊した。
 媚薬のせいだっていい。
 坊ちゃんが私を求めているのだ。応えなくてどうする?
 後ろ頭をぐっと手で押さえ、大胆に深く舌を潜り込ませた。 
「んん……っ」
 生暖かい舌で可愛らしい歯列を撫で、上顎をくすぐるようになぞれば、赤く染まった目の縁に涙が次第に溜まってくる。顔の角度を変えて、また唇を深く合わせた。銀の髪をやさしく梳きながら、くちゅくちゅと淫靡な音を立てて舌を吸う。
 細い体が敏感にピクンと揺れた。
「気持ちがいいですか?」
 銀糸を垂らしながら訊けば、こくこくと素直に頷く。
 今夜の坊ちゃんは本当に従順で、普段のそっけない態度とのギャップにセバスチャンの胸はますますときめいた。からだの力はすっかり抜け、腕はしどけなくシーツの波間に、寝間着の下の素足は絹のシーツをこすって、さっきからきゅっきゅっといやらしい音を立てている。
 嗚呼。こんなに乱れた主人を目にするのは初めてだ。
 もっと期待に応えて、いやらしい声をあげさせたい。
 普段は絶対許してもらえないあれやこれやをしてあげたい。
 セバスチャンはゆっくりと白手袋を噛んで抜き取った。
「ねえ坊ちゃん。キスよりももっとイイこと、致しましょう?」
「ん、もっと」
 甘い舌足らずな声に、腰の奥が激しく疼いた。


イースター・シュガー



 イースターまであと数週間に迫った或る日のことである。
 ファントム社の若き社長、シエル・ファントムハイヴは、社長室の机の上で両手を組み、目の前に置かれたアリスブルーの包みを見つめて、うっそりと黒い笑みを浮かべた。
 来たるべきイースター商戦のことを考えているわけではない。
 あの夜、自分にさんざんけしからんことをした悪魔──セバスチャンへの仕返しを想像してほくそ笑んでいるのである。

<中略>

***
「セバスチャン」
「は」
 いつものようにディナーが終わり、風呂を済ませて寝間着に着替えたシエルは、甲斐甲斐しくナイトティーの準備をするセバスチャンに向かって、ポイッとアリスブルーの袋を投げた。
「なんです?」
「イースター向けの新製品だ」
 新製品、と聞いてセバスチャンの顔がパッと輝いた。
 こいつ。いま絶対、あの夜のことを思い出した!
 はらわたが煮えくりそうになったが、ぐっとこらえた。
 そそくさとセバスチャンは包みを開け、ロリポップキャンディを取り出した。
「なるほど、イースターのキャンディはビターラビットの形をしているのですね……可愛らしい」
 すんすんと匂いを嗅いだ。
「これは……。また媚薬入りなのでしょうか」
 嬉しげな声にむかついた。
「そうだ」
 頷くと、セバスチャンはホクホクと幸せそうな顔になった。が、すぐに怪訝そうな表情に変わる。
「なぜ、私に……?」
「試食してみろ」
「試食? だって坊ちゃん、これは人間用でしょう? 坊ちゃんが召し上がってみればいいのでは……」
「僕には強すぎるかもしれん」
 その言葉にセバスチャンは鼻の下を伸ばした。
 くそっ。また思い出して、歓んでいるな!
 怒鳴りつけたい気持ちをおくびにも出さず、シエルはもっともらしい顔をした。
「この間の件以来、社員は試食を嫌がって食べないんだ。商品化するかしないか、そろそろ決めないとイースターに間に合わない。だからお前に食べてもらおうと思ってな」
 よく考えてみれば、理由になっていないのはすぐにわかる。だが、あの夜を想って、熱くなっている悪魔は気がつかないはずだ。
 シエルの見込みどおり、セバスチャンは疑いもせず、「こんなものを食べさせて、坊ちゃんは私に何を期待しているんでしょうねえ」とにやにやしながらキャンディを口に持っていく。
 舌を伸ばして、ペロリと舐めた。

<中略>

「上着を、脱いでもよろしいですか……?」
「ああ」
 セバスチャンはのろのろと燕尾服を脱ぎ捨てた。脱いだ上着がパサリと床に落ちる。いつもならすぐに拾い上げるはずなのに、億劫そうに一瞥しただけで拾いもしない。
 首元に指を入れ、頭を乱暴に振ってしゅるっとタイを抜いた。  
 銀の懐中時計をはずし、ウェストコートもするすると脱いでしまう。気がつけば、セバスチャンはドレスシャツのボタンもはずし始めていた。
「お、おい、そこまで脱げとは言ってない」
「申し訳ありません。でも坊ちゃん、熱くて、たまらない……」
 その声が掠れていて、妙にセクシーだ。
 シエルの心臓がとくん、と小さく跳ねた。
「水を、くださいませんか」
 ドキドキしながらテーブルの水差しを取り上げ、こぽこぽとグラスに水を注いでやった。
「ほら」
「ありがとうございます」
 顔色が悪い。いつもにもまして真っ白だ。
 まさか死んでしまうわけじゃないだろうな。
 ハラハラしながら、様子を見守った。
「大丈夫か?」
 声をかけると、セバスチャンは蚊の泣くような声で、ええと答えた。苦しそうに胸を押さえている。
 それでもシエルに命じられたことを思い出したのか、手にしたキャンディを律儀に舐め始めた。
 殊勝な姿に、良心が少しとがめた。
 セバスチャンは薄く開いた唇から赤い舌を伸ばして、ぺろり、ぺろりとロリポップキャンディを舐めている。
 れろっと舐めるたびにキャンディの表面がセバスチャンの唾液に濡れて、てらてらと淫靡に光る。
 キャンディは次第に溶けて、もうウサギの形をとどめていない。
「ん……」
 セバスチャンは小さくなったキャンディを、今度は口に含んだ。
 唇をすぼめて、ちゅぽっとキャンディを出してはまた含み、れろれろと舐めている。
 ちゅぱ、ちゅぽっと濡れた音が夜の寝室に響く。
──なんか、こいつ、ヤらしい……。
 いつのまにかセバスチャンの頰がうっすらと赤く色づいていた。 横目でシエルを眺めながら、額に浮かんだ汗を片手で拭い、しっとりとした黒髪をかきあげた。
 その艶めいた仕草に、不覚にもシエルはときめいてしまう。
「ふぅ……」
 セバスチャンは甘く吐息を零すと、酔っぱらったような目つきでシエルを見据えた。焦点がまるで合っていない。
 媚薬が効いてきたのだ。
「坊ちゃん……お願いが……」
 切なげな声を出した。
「なんだ」
「お傍に行っても……?」
 来たな。そうはさせるもんか。
 シエルは冷たく拒んだ。
「ダメだ」
「お隣に、座るだけです」
「ダメだ」
「坊ちゃん……」
「来れば、キスするだろ?」
「ええ、まあ……」
「キスしながら、服を脱がせるだろ?」
「ええ、まあ……」
「それから、ベッドに押し倒すだろ?」
「はい♡」
「ダメだ」
「坊ちゃん」
「ダメだと言ったらダメだ。おい、最後までちゃんとキャンディを食えっ」
 セバスチャンは叱られた犬のようにしゅんとうなだれた。
 小さくなったキャンディをガリガリと齧り、棒をぽいっと投げ捨てる。うらめしそうにシエルを見上げて、ぼそりと呟いた。
「では……坊ちゃんが、触ってくださいませんか……」
「は?」
 触る?
 触るってなにを?

ーーーサンプルは以上です

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