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祈り
近未来パロです。
AIセバスチャンと天才科学者坊ちゃんとの愛の物語。
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話(完結)
シエル・ファントムハイヴ逝去の知らせは全世界を激震させた。
唯一無二の優秀な頭脳を持ち、数々のAI製品を生み出した天才科学者が亡くなったのである。各国の元首をはじめ、皇族、宗教関係者など世界の名だたる人物がその死を悼み、続々と哀悼のメッセージを発表した。著名人ばかりでなく、日々ファントム社のAI製品を使っていた一般の人々もまたシエルの死を悲しんだ。その中には、AIロボットビターラビットを友としている子どもたちも多くいて、彼らもシエルの死を知り、涙した。その一方で、ライバル社や一部の政府の者は心中で快哉を叫んだ。これでようやく邪魔者がいなくなったのである。トップ不在のファントム社から利権を取り上げ、市場に打って出ようと目論んでいた。
シエルの葬儀式典は六日後と決められた。
その遺体は葬儀までファントム社の地下室に安置されることになり、部屋は厳重に施錠され、そこにはセバスチャンも入ることを禁じられた。
式典に向かって、慌ただしく社員たちが準備する中、セバスチャンはただひとり、ひっそりと主人の眠る部屋の前に佇んでいた。その姿はさながら、エジプトの王を守る黒い犬──アヌビス神のようだった。
社員たちはほとんどセバスチャンに声をかけることはなかった。
所詮、器械なのだ。
主人が亡くなったとて、器械はなにも感じていないだろう。生前の命令どおり、傍らにいるだけなのだ。
死去から六日後、葬儀のセレモニーは厳かに始まった。
バチカンからは法王が直々に訪れた。壇上に置かれているシエルの棺に向かって、神の祈りを捧げようとした、まさにそのとき。
突然、出席者たちの前を黒い影が横切り、棺の中のシエルの遺体を抱いて、飛び去ったのである。
あっという間の出来事に、皆呆然としたまま、動けなかった。だが、次の瞬間、誰かが「ファントムハイヴ氏の遺体が盗まれた!」と一声発すると、まるで魔法が解けたように、人々は口々に叫び出した。
葬儀式場は騒然とし、警備隊が黒い影のあとを追ったが、その行方は杳として知れなかった。
その後の調査で、シエル・ファントムハイヴの遺体を盗んだのは、彼のAIセバスチャンだということが知れた。彼らはAIに取り付けられているGPSで行方を調べようとしたが──かのセバスチャンにはGPSはおろか、ロボット工学三原則の電子チップも埋め込まれていないことが発覚し、それはシエルの遺体がさらわられた以上に世界を騒然とさせた。
世界最高と呼ばれる特別なAIが、なんら制限なく行動できるのである。人間以上の力と人類の叡智を詰め込んだ頭脳……それらは人類にとって大きな貢献をするはずだった。がしかし、首輪が外れ、自在に活動できるようになった今、それは大いなる脅威になった。かのAIが人間に対して何をするかわからない。人々は次第に恐怖し始めた。
『噂』が生まれた。
実はファントム社のAIロボットには、電子チップは埋め込まれていない。自由に動き、人間を害することができる。これらはもちろん『噂」に過ぎない。実際にはすべての器械に電子チップは埋め込まれている。だが、恐怖に支配され始めた民衆は『噂』を信じるようになっていった。
AIロボットビターラビットを廃棄する人々が少しずつ増えた。中には家族同然のロボットと離れることを拒んで、泣く子どももいたが、親たちはビターラビットは危険なロボットだと叱りつけた。
廃棄されるビターラビットは増え続け、ある一点を超えるとそれは雪崩のように大きなうねりとなり、ファントム社の前には捨てられたビターラビットが累々と積み重なった。
もちろん、その『噂』にはファントム社のライバルたち──あの政府高官の女も──が、一役買っていたのは言うまでもない。セバスチャンの失踪に乗じて、混乱を起こし、ファントム社を陥れようとしたのである。
その目論見はまんまと当たり、ファントム社は火を消すのやっきになった。ただでさえシエルの死で打撃をこうむっているのだ。株価は暴落し、社の存続自体が危ぶまれた──。
***
ぴちょん……、ぴちょん……と水のしたたる音がする。
ロンドンから遠く離れた北の海、深い洞窟の中で黒づくめの男が横たわる少年の前に跪いていた。
「坊ちゃん……お目覚めの時間ですよ」
男は呟くと、周囲に設置された精密な医療機器を操作し始めた。洞窟の奥にはガラス製の円筒形の筒がいくつも並び、その中はリンゲル溶液で満たされている。機械音がして、メスをはめ込んだクレーンが少年のからだから一片の皮膚を切り取った。それをシャーレに入れ、男は──セバスチャン──は顕微鏡で覗き込む。妖しく微笑むと切り取った細胞を培養器に移した……。
セバスチャンは今、主人のクローンを作ろうとしていた。
「なくなってしまったのなら、作ればよいのです」
そう考えたのだ。
シエルが聞いたなら「まさにAIの考えそうなことだな」と嘆息しただろう。
セバスチャンは洞窟の奥をラボにし、実験を重ねた。
主人の遺体からおよそ1000体のクローンが生まれた。
しかし、どのクローン体も時間が経つにつれて、細胞は崩れ始め、やがて肉の塊になってしまう。
病いに冒されたシエルの細胞では、クローンは育たなかったのである。
セバスチャンは苛立った。
──人類の叡智がすべてこの身に収まっているのだ。この私に不可能という言葉はない。
睡眠も休息も必要としないAIは、長い時間をかけて実験に打ち込んだ。
しかし、どれほど実験しても、シエル・ファントムハイヴのクローンは完成できなかった……。
セバスチャンが洞窟のラボを出たときには、すでに百年が経っていた。
その間に世界は大きく変わっていた。
ファントム社はとうになくなり、代わりに覇権を握った企業があらたなAI搭載兵器を開発し、市場に流した。皮肉なことに、セバスチャンがロボット工学三原則の電子チップをつけていなかったことで、チップの強制力はなし崩しになくなり、その結果、殺人兵器としてのAIロボットが続々と製造されたのである。
生前シエルが懸念したように、新たな兵器はテロに使われ、地球のそこかしこで紛争が起こった。武器商人たちは不安を煽り、雪だるま式に紛争は大きくなっていき……都市部は荒れ、周辺地域の人口はさらに減った。
セバスチャンは人間たちの世界になど興味はなかった。
ただただ、シエル・ファントムハイヴを復活させたい一念だった。シエルを自分のようなAIロボットとして復活させるという方法もあったが、セバスチャンはそれは嫌だった。シエル・ファントムハイヴは『人間』なのだ。あくまでも人間として蘇り、自分の主人として君臨しなければならない。セバスチャンはそこに執着した。
***
ある嵐の晩。
揺れる樹々の間から見える、森の中の小さな家は一幅の絵のように美しく、居心地がよさそうだった。
窓の外には、琥珀色のランプの光が漏れている。中には丸テーブルがあって家族三人が食卓を囲んでいた。ささやかな食事。なにかちょっとした冗談を父親がいったのだろう。子どもがころころと笑い、母親が微笑んでいた。
食事が済み、子ども部屋で寝巻きに着替えさせていると、子どもが聞いた。
「ねえ、ママ。夜になると悪魔が来るって本当?」
「ええ、本当よ。特にこんな嵐の夜は、夜遅くまで起きている子はさらわれてしまうのよ。早く眠りましょうね」
母親は銀灰色の髪の我が子を不安な目で見つめた。
銀灰色の髪……。
このところ、子どもの誘拐があいついでいた。
それも決まった姿形の子どもが狙われているのである。
銀灰色の髪。
蒼い瞳
紫の瞳。
男の子。
赤子から十三歳ぐらいの子までがさらわれた。
時に周辺にさらわれた子の腕や足と思われる部位が、捨てられていることもあった。
人々はその残酷さに身をこわばらせ、悪魔がいると、恐怖したのである。
ベッドに入ろうとしている子どももまた銀色の髪だった。綺麗な蒼い瞳をしていた。まだ六歳だった。
母親は怖くてたまらなかった。可愛らしい三角のナイトキャップをしっかりとかぶせると、子どもが寝入るまでそばにいてやった。
深夜、バタンと納屋の戸の開く音がして、子どもは目を覚ました。むくりと起き上がり、そっと素足を床につける。ひやっと冷気が直接足に伝わってきたけれど、構わずにぺたぺたと窓まで歩き、カーテンをそっと開けた。
「わっ!」
子どもは一歩後ずさった。
暗闇の中に誰かいる。
叫んで両親を呼ばなくてはと思ったけれども、怖くて声が出なかった。
その人は外からコツコツと窓を軽く叩いた。
「道に迷ったのです。開けてもらえませんか」
それを聞いて、子どもは戸惑った。
こんな嵐の晩に迷子になったなんて大変だ。放っておいたら、悪魔に食べられちゃうかもしれない。
子どもは窓を少しだけ開けた。途端、雨風が吹き込んで、窓が大きく開く。
「うわ、冷た……っっ!」
闇から伸びてきた手に唇をふさがれ、抱き上げられて、外へ引っ張り出される。
「んんっ、うう」
暴れてもがっちりと抑えられて、身動きできない。
子どもは次第に遠くなる自分の家を見つめていた……。
朝、母親が子どもを起こしに部屋に入ったとき、窓が開けっ放しで、あたりは水浸しになっていた。濡れたベッドに我が子がいない。両親は半狂乱になって家の周囲を探したが、子どもは見つからず、妻は「悪魔よ、悪魔が来たんだわ」とむせび泣いた。夫は黙って妻の肩を抱いた。きっと彼女のいうとおり、あの子は悪魔に連れ去れてしまったのだろう、もう二度とこの家に戻ってくることはないのだろうと絶望した。けれど、もしかしたらどこかで生きているかもしれないと……一縷の望みにすがって、彼らはその後一生、自分の子どもを探し続けたのである。
***
セバスチャンはシエル・ファントムハイヴの肉体を、他の子どもたちの身体を使って作り上げようとしていた。多少の傷跡は残るがそれはいたしかたない。主人そっくりの人間ができるのだ。それにまさる喜びはない。
多くの子どもをさらい、その手足、ボディ、顔のパーツを縫い合わせてシエルの再現を試みた。
特に瞳にはこだわった。
だが、ある者は指の長さが五mm足りなかった。
ある者は歯の形が違っていた。
ある者はそっくりにできたが、声が違っていた。
セバスチャンは完璧な主人を作り上げることができなかった。
それでも諦めることができず、子どもをさらっては実験に使用していたのである。
「セバスチャンはなぜ……僕たちを殺すの?」
そう聞いたのは、嵐の晩にさらってきた子どもだった。その子は主人とは似ても似つかなかったが、セバスチャンはなぜか心惹かれて、彼の命をすぐに奪うことができなかったのである。
「なぜ?」
「うん」
「坊ちゃんを顕現させようとしているのですよ」
「坊ちゃんって誰? けんげんってなに?」
「私の主人です。この世に再び復活させたいのです」
「イエス・キリストみたいに?」
「ふふ、そうかもしれませんね」
イエス・キリストか。
神なぞ信じなかった主人が神と同様に扱われるとは。
「……僕も、バラバラにされるの?」
その子はもう知っていた。
さらってきた子どもたちはバラバラに切断され、縫合されることを。そうして息を吹き返すことなく、ラボの裏、被験番号を標しただけの石の下に埋められることを。
彼は不安げな顔をして、セバスチャンを見上げた。
その瞳に胸を打たれ、心に迷いが生じる。
「いえ、貴方は……まだしばらくは『バラバラ』にはしませんよ」
優しく微笑むと、子どもは胸に小さな手をあてて、安心したようにほっと小さく息を吐いた。
その仕草は子どもらしいとても可愛いもので……セバスチャンの胸がほのかに暖かくなった。
それからセバスチャンはその子と一緒に旅をした。
ヨーロッパ大陸から、アフリカ、アジア、すべての国を渡り、その都度子どもをさらってはラボに連れて帰った。
もう数えるのも嫌になるぐらい、子どもをさらっては殺した。
セバスチャンは、うんざりし始めた。
来る日も来る日も坦々と、淡々とさらい、手術し、失敗し、骸を捨てる。
「疲れたの? セバスチャン」
「ええ、少しだけ」
そのとき、陽の光の加減かその子の瞳が蒼く深く輝いて、セバスチャンはどきりとした。
その色は瞬きの間に消えてしまったが、一瞬見たその光はシエル・ファントムハイヴの瞳……のように見えたのだ。
「坊ちゃん……?!」
セバスチャンは次の実験にその子を使うことにした。随分長く一緒にいた、可愛い子どもだが……主人にはかえられない。ちょうどよいヘッドがある。顔のパーツを解体し、付け替えればいい。ボディと手足は保存してあるものが合うだろう。
セバスチャンはその子に手術着を着せ、ベッドの上に横たえた。
「僕も死ぬの?」
とその子は聞いた。セバスチャンはギクリとした。
「いえ、生き返りますよ。我が主人として」
安心させるように言ったが、その子は顔を曇らせた。
「セバスチャン……かわいそう」
かわいそうに、とセバスチャンの頰を撫でるその顔が、主人の顔に重なった。
──セバスチャン、すまない。
あのとき、なぜ主人は謝ったのか。ずっとセバスチャンにはわからないままだった。そして今、この子がなぜ『かわいそう』と涙するのかわからなかった。
それからしばらくして「材料」のなくなったセバスチャンは、旅の支度をした。
「さあ、行きましょう」
いつも彼の後ろをちょこまかと歩いていた子どもに声をかけると、返事がなかった。
「?」
振り返っても誰もいない。
部屋はしんと静まりかえっている。
「嗚呼……」
セバスチャンは気づいた。
あの子どもはもうこの世にはいないことを。
あの子の命をこの手で摘み取ってしまったことを。
もう彼には二度と会えないのだ。
柔らかく可愛らしい声も、キラキラ輝く瞳も、もう二度と……。
──セバスチャン、かわいそう
子どもの最後の言葉が脳裏をよぎった。
セバスチャンはその後も何千、何万と子どもをさらい、実験を重ねたが、満足するものはひとつも作れなかった。ラボの外には、セバスチャンが命を奪った千とも万ともつかぬ子どもたちの墓標が遠く、遥か地平線まで続いていた。
──これほどまで命を奪ってきたと言うのに。
「たったひとりの人間ですら、蘇らせることはできないのか……」
セバスチャンはひざまずき、地面に両手をついた。
「本当にバカだな、お前は」
主人の声がした。
ハッとして顔を上げると、自分の主人が、シエル・ファントムハイヴが目の前に立っていた。あの蒼と紫の二色の瞳を輝かせ、セバスチャンを見下ろしている。
「坊ちゃん……!」
セバスチャンはシエルの手を取った──取ろうとした。だが、その手はセバスチャンの指を素通りし……気がつけば、主人の姿はあとかたもなく消えてしまっていた。
「坊ちゃん……?」
立ち上がり、いくら探しても主人はいなかった。
セバスチャンは世界中を彷徨った。一瞬の幻に見たシエルの姿を探して。
AIが幻影を見ることなどない。だから、
──あれは、顕現した坊ちゃんだ。坊ちゃんが私に会いにきてくれたのだ。
セバスチャンは神にすがった。
主人を復活させてほしいと。
そのためならどんな犠牲をはらってもいいと。
世界中に存在するあらゆる聖地を訪れ、何日も何万日も祈った。
だが、願いは叶えられなかった。セバスチャンは神を呪った。
セバスチャンは悪魔に願った。
捧げる供物として村一つ焼き払った。
それでも足りなければ、さらに人々を虐殺した。
自分の願いのためなら、なにをしてもよかった。
たかが、人間ごとき。
殺してなにが悪い?
けれど何万人と殺しても、主人は現れず、セバスチャンは悪魔をも呪った。
──セバスチャン、かわいそう
あの子の声がまた聴こえた。
「坊ちゃん、私はもうどうしたらいいのか、わからないのです」
セバスチャンは両手で顔を覆った。
願いが叶えられないのは、自分に捧げるべき魂がないからなのだろうか。
この器械のからだでは……魂の欠片すらないこの私では、奇跡など起こらないのか。
「坊ちゃん……」
セバスチャンは絶望した。
人を憎み、神も悪魔も憎み、世界を憎んだ。セバスチャンの虐殺は止まらなかった。
恐ろしいほどの時が流れていく。
その間に少しずつ地球は衰えていった。
太陽の光が弱くなり、地球全体の温度が下がり始めた。
生き物たちは死に始め、やがて人間も滅亡への道をたどった。
街は廃墟となり、山間の小さな村々で唄う人々も消えた。
動物たちも生き絶えた。
植物もまた力を失い、わずかに残っていた地衣類でさえ、消えた。
ただひとり。
セバスチャンはこの広大な世界に、ただひとり、取り残された。
地球の温度はさらに下がり、灰色の雪が降ってくる。
雨と雪と氷のブリザードが吹き荒れる。
目に見えるものといえば、灰色一色の世界だけ。
セバスチャンはこの無の世界で、孤独に存在していることの恐ろしさを知った。
死ぬこともできず、眠りに逃げることも、狂うことすらできない。
──人間にも哺乳類にも、地球上のありとあらゆる生きとし生けるものと異なる私……。無機物のみで成り立つ精巧な機械の殻の中で思考するこの「私」は、いったい何者なのだ。
金属の躯に「魂」など宿るわけがない。ならば永遠の呪いようなこの躯に閉じ込められて、幾千年も存在し続け、彷徨い続けている「私」という存在はなんなのだ。
いっそ、命を絶ちたいと幾度願ったことか。なにもかも凍りつく極北の地、なにもかも溶かす灼熱の火山島、息をするものとてない数千マイルの深海……。いずこの地も私を葬ってはくれなかった。
温かい血は体内に一滴もなく、流す涙も持たない。絶つべき「命」すらない存在。
金属と永久プラスチックで構成された塊が、黒い大地に踞り、天に向かって咆哮する。
自らの創造主・シエル・ファントムハイヴの魂に向かって──
「坊ちゃん、貴方はなぜ、私をお造りになったのですか?」
太陽はもう風前の灯だった。老いて死に、そのまま太陽系も滅ぶかのように思われた。
だが、小さな奇跡が起こった。
小惑星のかけらが冷えた太陽の軌道上にまぎれ込み、その進路をほんの少し変えたのだ。それは宇宙から見れば、たいしたことではなかったのかもしれない。ちょっとした神の気まぐれ。かすかな蝶の羽ばたき。しかし、そのことは惑星たちの運命を変えた。
太陽に光が戻ってきた。
地球上にかすかな陽の光が落ちてくる。
しかしそれはまだ、命あるものを生み出す力を持たない。
孤独に苛まされたセバスチャンは海水を汲み、透明な鉱石の一片で光を集めた。
それを何度も何度も繰り返し……。
やがて暖かい水に微細な原初の生命が生まれた。
セバスチャンはウィルスのように肉眼では見えないその微生物を、そっと海に戻した。
微生物は消滅と生成を繰り返しながら育ち、アメーバが生まれた。
セバスチャンはその様子をじっと見守っていた。
太陽の光は次第に強くなっていく。
やがて水生生物が誕生し、魚類が現れ、その中で陸上に上がるものもあり、爬虫類、鳥類が登場した。
植物が繁茂し始め、地球上には生物が次第に増えていった。
地球の南には密林が生まれ、北では白い雪が降り、それは高い山々を白く飾った。
地球はもう一度、新たに生まれ変わっているようだった。
哺乳類が生まれた。
猿人が生まれた。
最初の人間たちが生まれ、彼らは子をなし、次第にその数を増していった。
山の上に住むセバスチャンを神のように敬い、木の実や果物をまつった。
セバスチャンは、天候をよみ、作物を実らせ、人間たちに狩りをすることを教えた。
ある日、村人のひとりが死んだ。
村人たちは死者のために祈り、花とともに土に埋め、墓標を立てた。親、兄弟や友人たち、村人たちはその前にひざまずき、悼み、悲しんでいた。
そのとき、セバスチャンの頭にひとつの光景が浮かんだ。
「……っ」
もう何万年も前のことだ。
あの頃……子どもの命を奪っていた頃、ラボの裏に延々と続く、被験番号だけを記した墓標……。
その光景が脳裏をよぎったとき、セバスチャンは雷に打たれたような衝撃を受けた。
「嗚呼……」
あの墓標の下に眠る子どもにも親や兄弟がいて、その死を悼む者たちがいたのだ。
あの墓標のひとつひとつに、小さな幸せや人生があったのだ。
あの子どもらにはひとりひとり名前があって、それは両親が想いを込めて名付けたものなのだ。
なのに自分は、ただの名もない肉の塊、材料のひとつとしてしか扱っていなかった。
そこに『命』があり『人生』があることを、『幸せ』があることをセバスチャンは理解していなかったのだ。
「私は、なんていうことを……」
自分が摘み取ってきた命の重さを、自分の罪を今初めてセバスチャンは自覚した。
***
大地にひざまずき、セバスチャンは天に許しを乞うていた。
自分の罪を、自分の大罪を悔いた。
日々祈った。
そして人間たちを守った。
緑を愛し、花々を愛し、子どもたちを愛した。
山々は緑に輝き、海はきらめいている。
セバスチャンは上空からそれらを眺めた。
命に満ちた世界。再び息をし始めた世界。
ぽとり、となにかが頰を伝った。
「え……?」
またぽとりと落ちた。
セバスチャンの頰を涙が流れていた。
「私が泣くなどあり得ない……」
手の甲で頰をぬぐったとき。
「セバスチャン! セバスチャン──っ」
遠くから、誰かが走ってくる。
その誰かは、銀灰色の髪をなびかせ、頰を紅潮させて、自分の名を呼びながら、こちらに向かって走ってくる。
その瞳。
蒼の瞳、紫の瞳。
自分を魅了したあの瞳──!
「坊ちゃん!」
セバスチャンは走り出した。
シエルは、はあはあと息を切らせ、セバスチャンに抱きついた。
「セバスチャン、元気だったか?」
「……はい、……いいえ」
「おい、どっちだ」
「坊ちゃん……」
シエルは笑いながら、セバスチャンの黒髪を撫でた。
「──ずっとひとりにして、すまなかったな」
「坊ちゃん」
「さびしかっただろう?」
「……」
セバスチャンはなにも言えなかった。ただ主人のからだを抱きしめて、頰を寄せた。
あたたかく、柔らかな頰。とくん、とくんと打つ心臓の音。
「坊ちゃん、私は……」
呟いて、ひざまずいた。
「私は、とてもひどいことをしました」
「ああ、そうだな」
「たくさんの人たちの命を奪ってきました」
「ああ、知っている」
「坊ちゃん、私は、私は、どうしたら……」
「セバスチャン、見ろ」
と主人は指差した。
指差したところには一面の花が咲きこぼれ、鳥たちが歌っている。
遠くでは人間たちが楽を鳴らし、祭りの準備をしている。
そのにぎやかな声がかすかに聞こえてくる。
セバスチャンがほんの微細な生物を生み出して、光と大地と海が育てた世界。
「美しいな」
「──……ええ、ええ、坊ちゃん。とても美しい……」
セバスチャンは頰に零れる涙をぬぐいもせず、にっこりと笑った。
逆巻く嵐は惑星を覆い、灰色の雪を降らせている。
大地を、海を、山を、空を、灰色一色に包んでいく。
地球上でただひとつ存在する、思考する黒い人影。
地面にうずくまるその塊はもう微動だにしない。
けれどその顔は──まるで幸せな夢を見ているように、穏やかに微笑んでいた。
<おやすみ、セバスチャン 完>