おやすみ、セバスチャン

近未来パロです。
AIセバスチャンと天才科学者坊ちゃんとの愛の物語。連載中。
第一話 第二話 第三話

3
微熱

「……さて」
 呟くと、セバスチャンは静かにベッドを下りた。
 深く寝入った主人の細い肩が冷えないように、薄手のウールの上掛けをきっちりとかける。
「おやすみなさいませ、坊ちゃん」
 愛おしそうに額にくちづけ、シエルの顔を見つめて、甘く優しくささやいた。
 だが次の瞬間にはもう、それまでの優しさの一片すらうかがえない、凍てついた表情に豹変していた。
 白手袋を再びきゅっと嵌め、窓の外を窺う。
「……今夜のお客様は全部で五十人といったところでしょうか。子どもひとり殺すにしては多いですね」
 顎に手を添え、クスリと笑う。
 窓をそっと開け、後ろ手に閉めると、音もなく屋根に飛んだ。



***
 夜陰にまぎれて、ファントムハイヴ邸に忍び込んだ暗殺者たちは困惑していた。
「なんだ、これは……っ」
「ひぃ!」
「しっ、声を立てるな」
「で、でもっ」
 あちこちで上がる悲鳴。
 彼らの足には、まるで砂糖に群がるように、無数のアリたちがたかっていた。アリは上へ上へと這い上がり、いくら振り払っても次から次へと執拗に登ってくる。
 腕に、首に、顔にまといついて、強靭な顎で素肌に噛みつく。その痛みときたら、熱く鋭く到底がまんできるものではなかった。
「うああぁ──っ!?」
 突然、地面が傾斜し、蟻地獄のような円錐型の巨大な穴が現れた。
 ちっぽけな虫に気をとられていた侵入者たちは苦もなく巨大な蟻地獄と吸い込まれる。
 人間たちを吸い込むと、穴はすみやかに閉じた。
 もはや悲鳴は聞こえない。もがき苦しむ何本かの腕が宙を掻き、大きく痙攣したかと思うと、ばたりと力なく垂れた。

 池のほとりでは猫たちが赤く目を光らせている。
 刺客が通りかかるのを狙って飛びかかり、その鋭い爪は暗殺者たちの衣服をやすやすと破り、皮膚に深く食い込んだ。狙撃しても、恐ろしいほどの速さで走る猫にはあたらず、いたずらに弾を消耗するばかり。

「ぎゃぁああっ!」
 屋敷の近くでは、葉陰に隠れていた鳥たちが一斉に羽ばたき、錐のように尖った嘴で襲いかかってきた。暗殺者たちの目を突き、耳を破り、唇をむしりとる。
 ようやくその場を逃げのびても、今度は柵の中でおとなしく眠っていたはずの羊たちがそっと近寄って、草を食むように彼らの太ももを噛みちぎった。
 「ぐうぅっ……!」
 そこかしこから仲間たちの絶叫が聞こえ、暗殺者たちは戦慄した。
 森の中で、暗闇の奥で、動物たちに攻撃されているのだ。
 そう、たかが動物に!
 一歩先になにが潜んでいるのかわからない。
 足がすくんで動けなかった。
 だが、自分たちはプロだ。依頼された仕事は完璧にこなさなければならない。
 まさか森の動物や虫が怖くて、引き返したなどど報告するわけにはいかない。


 ひとかたまりになって、おどおどと屋敷に向かって進んでくる一団を屋根から俯瞰していたセバスチャンはくつくつと喉の奥で笑った。
「まるで怯えたうさぎのよう……」
 あの森にいるすべての愛らしい生き物は、我が主人シエル・ファントムハイヴが造った器械仕掛けの動物だ。
 いつもは森の中で息づく動物のフリをしているが、地を這うアリはもちろん、猫もフクロウも、羊ですら、すべて器械。ファントムハイヴ家に仇なすものたちを排除するよう、主人が造り、プログラムしたのだった。
「ですが、そろそろ鳴きやんでいただかなくては。坊ちゃんが起きてしまいます」
 セバスチャンは屋根から一気に下降し、森の中にふわりと降り立った。
 燕尾服の襟を整えながら、木立の中を足音ひとつ立てず、ゆったりと歩き、暗殺者の前に出ると、優雅に一礼した。
「みなさま。ようこそ、ファントムハイヴ邸へ」
「……っ」
 突然現れた黒づくめの男に、刺客たちは息をのみ、思わず一歩後ろに引き下がった。
「な、なんだ、お前っ!?」
 よく見れば、現れた男は執事の姿をしている。
 暗殺者たちのリーダーが
「お前……執事、か?」
 と尋ねれば、
「さようでございます」
 といかにも執事らしい落ち着き払った返事が返ってきた。
 執事とわかって、彼らはわずかに警戒心を解いた。
 銃を見せつけ、
「おいおい、執事さんよ。この庭はどうなってんだ」と聞く。
 セバスチャンは穏やかな笑みを浮かべ、
「大分お仲間を削られたようですね。一人、二人、三人……なるほど、いまいらっしゃるのは二十名さまですか」
「っ、呑気に構えてんじゃねぇよ。さっさとてめえのご主人様のところに案内しろっ」
 銃をセバスチャンの横腹に当てて、ぐいっと乱暴に押す。
「ほら、歩け!」
 しかしセバスチャンは動かない。
 笑みを浮かべたまま、平然と彼らに向き合っている。
「ちっ、こいつ、状況を全然わかってねえようだな、少し脅かしてやれ」
 リーダーに命じられ、銃を押しつけていた部下はいきなり引き金を引いた。
 ビシッと弾はセバスチャンのつま先ギリギリの地面を抉り、砂がバッとあたりに散る。
 にやりとリーダーは笑い、
「優男さん、わかったか? 今度は手加減しないぜ。殺される前にさっさと案内しろ!」
「それはできかねます」
「はぁっ?」
「主人の眠りを妨げることはできません。坊ちゃんに叱られてしまいます」
 困ったように眉根を寄せるセバスチャンに呆れ、「なんだ、こいつ、バカじゃないのか」と口々に男たちは罵った。
「もう、いい。そこをどけ!」
 セバスチャンを銃先で荒々しく脇にのけた。が、すぐに執事はリーダーの前に立ちはだかり、行く手を阻む。
「……面倒だな」
 リーダーは低く言い捨てると、銃を構え直し、セバスチャンを真正面から撃った。
 避けもせず、あっけなく撃たれたセバスチャンは、ばったりと地面に倒れ伏し、微動だにしない。
「けっ、ざまあないぜ。おい、行くぜ!」
 しかし仲間たちを先導しようとリーダーが振り返った時には、セバスチャンはすでに立ち上がっていて
「ぬけがけはいけませんよ?」
 とたしなめると、長い足でリーダーを蹴り飛ばした。
 そのからだは数メートル先まで吹っ飛び、スズカケの太い幹に叩きつけられて、ずるずると力なく崩れ落ちる。
 セバスチャンは、声もなく呆然と立ち尽くす暗殺者たちに構える隙を与えず、素早く銀のナイフを数本投げつけた。その刃は月光に煌めき、華麗にカーブを描いて、容赦なく彼らの首を切り裂いていく。
 森の中に男たちの断末魔の叫びがこだました。
「貴様っ!」
「ちくしょう……!」
 生き残った数人の刺客たちは恐怖にガクガク震えながら、それでもセバスチャンに向かって銃を連射した。 ダダ、ダ、ダダダと銃声が森に鳴り響く。
 セバスチャンはビシ、ビシと弾が当たるたびによろけ、お仕着せの燕尾服に次々と新しい穴が開いていく。
 だが──。
「え……?」
 男たちはどこかおかしいことに気づいた。
 よくよく見れば、セバスチャンのからだから、血がまったく溢れていないのだ。
 燕尾服の銃穴から一滴の血も流れていない。こんなことはあるはずがない。
「お、お前……?」
「嗚呼、こんなに穴を開けられては、もう繕っても着られませんね」
 お屋敷から支給された大切なものなのに、と燕尾服を見下ろして嘆く姿に、暗殺者のひとりがごくっと唾をのみこんだ。
「お前、ひょっとして、AI……か?」
「ようやく、お気づきになりましたか」
「そんなバカな……! 嘘に決まってる! AIは俺たち人間を攻撃できないはずだ! そうだろ、こいつは、AIじゃないっ。人間だ。奴が着てるのは、特殊な防弾スーツなんだ!」
 それを聞くとセバスチャンは、ひょいと肩をすくめた。
「いいえ。私はあくまでAI──ただし、特別な、ね」
 高くジャンプすると、宙に浮かび、暗殺者たちの頭を続けざまに攻撃しその命を刈り取っていく。
「ひ……いいっ」
 セバスチャンの攻撃をかろうじて避けたひとりの男は尻餅をつき、仲間たちの惨状を目にしてずるずると後ずさった。
 その襟首をぐいっと掴み、
「どうやら貴方が最後の一人らしいですよ。そろそろお話していただきましょうか?」
「な、なにを……?」
 男の目は泳ぎ、恐怖のあまり口からはよだれを垂れ流している。
「やれやれ。しっかりなさってください」
 セバスチャンは男の両肩を掴み、目を合わせた。
「貴方たちの依頼人はどなたです? 教えてくださらないと、お仲間と同様、その頭が胴体とお別れしてしまいますよ」
「い、言う! 言うから、助けてっ……、助けてくれ!」
「ええ、もちろん。素直にお話くだされば、解放して差し上げます」
 セバスチャンは陶器の人形のように美しい顔を近づけ、にっこりと微笑んだ。その笑みの真の意味に男は気づかない。一本の儚い蜘蛛の糸にすがるように、男は口を開いた。
「お、俺たちに仕事を依頼したのは…………」



***

「ゆうべはご苦労だったな」
 翌朝、シエルはいつものようにベッドに朝食を運んできた執事に声をかけた。
「おや、ご存知でしたか、坊ちゃん」
 セバスチャンは流れるように美しい仕草で、香り高い紅茶をこぽこぽとティーカップに注ぎ、主人に差し出す。
「僕の可愛い『森の動物』たちが何匹か行方不明だからな。シグナルが消えているぞ」
「嗚呼、申し訳ありません。随分彼らに痛めつけられてしまいまして……。治して差し上げようとしたのですが、残念ながら坊ちゃん、いまの私の腕前では完璧には治せませんでした」
「ふん。なにもかもお前にこなせたら、僕の出番がなくなる。あとで、調整室に持ってこい」
「かしこまりました」
 頭を軽く下げたセバスチャンに、
「で──結局、あの女の仕業だったんだろ?」
「さすが坊ちゃん。ご明察です」
「あのプライドの高い女が、僕とお前に恥をかかされたんだ。あれでおさまるわけはない。契約は破棄できないが、代わりになにかやり返さなければ悔しくて悔しくて、腹がおさまらなかったんだろう。それで思いついたのが、僕の暗殺だ。まったく想像以上に単純な女だな」
「ええ、そのとおりです。あのおつむで政権の中枢にいられるとは、世も末ですね」
 クスッとセバスチャンが嗤う。
「泥を吐いた暗殺者はどうした?」
「お話をじっくり伺ったあと、解放して差し上げましたよ。雑巾のようにボロボロになった肉体から、ね」
 軽く笑うと、シエルの顔が暗くなった。
「セバスチャン……あまりむごいことはするな」
「なぜです。坊ちゃん、私にも少しは楽しませてくださらないと。私は人間がどこまで持ちこたえられるのか、知りたいのです」
 シエルは嘆息し、もういいと手を振った。
 紅茶を飲み干して、ベッドから足を下ろす。すかさず、セバスチャンはひざまずいて、主人の小さな足を膝に乗せ、シルクのソックスを履かせ始めた。
「しかし、あの女もばかなことをしたものだ。『人間』を寄越すとはな」
「ええ、本当に愚かです。たったひとつしかない『命』なのに、すっかり無駄にしてしまって……。ですが、坊ちゃん。彼らは、AIに殺人は不可能だと信じ込んでいるのですから、この場合、生身の人間を派遣するしかなかったのでは」
「はっ、ロボット工学三原則か。くだらない」 シエルは吐き出すように言った。



***
 ロボット工学三原則。
 それは20世紀に活躍したとあるSF作家が、100年後の未来を描いた空想物語の中で作り上げたロボットと人間との『ルール』だ。
 いわく、

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

 このロボット工学三原則と呼ばれるルールは、今では空想物語から飛び出して、現実の社会に適用されている。器械仕掛けの製品が増えるに従って、器械から人間を守るルールが必要になったのだ。それは器械たちに人間を攻撃されないための絶対的ルールでなければならない。いわば人間にとっての盾であり、AIにとっては自分たちを縛る鎖である。
 「ロボット工学三原則」はその願いにうってつけだった。すべての器械には三原則にもとづいた電子チップを埋め込むことが義務付けられ、違反すればただちに破壊される仕組みになっている。

「AIは人を殺してはならない。人の命令に服従せねばならない。そして人に頼らず、自分の身は自分で守れ……随分と人間に都合のよい規則、ですね」
 セバスチャンは嘆息する。
 しかし、シエルが造ったこのセバスチャンというAIには、「ロボット三原則」の電子チップは、埋め込まれていない。もちろん、それは「ルール違反」だ。知られれば、シエルは犯罪者として拘束され、ファントム社のトップといえども懲役刑は免れないだろう。
「だが、なぜ反則がいけない? この世界は、ルールに従わなくては勝てないチェスのようにはできていない。必ず反則をする騎手も、裏切る駒も出てくる。そういうものと対等にゲームをしようと思ったら、僕も反則をしなければ勝てないだろう?」
「ええ、そのとおりです。坊ちゃん」
 たとえば、私にハニートラップを仕掛けさせることもね、とセバスチャンは思ったが、それは言わずにおいた。
「お前は僕の大事な盾であり、剣だ。いざというときに、僕を守れないようでは何の役にもたたん。それに……」
 シエルは言いかけて、口を閉じた。
「それに?」
 セバスチャンが促すと、シエルは「いや」とかぶりを振った。
「僕らが生きるこの世界では、油断をすればすぐにチェックメイトだ。足元をすくわれないようにしろよ」 着替えを終えたシエルはぐっとセバスチャンを睨みあげた。
 決意にあふれた強い眼差し。
 思わず、セバスチャンは息を止め、見惚れてしまう。
「セバスチャン?」
 訝しげに呼ばれて、はっとセバスチャンは我に返った。
「ええ、坊ちゃん。わかっています。ここを訪れた者は、誰一人として生きて帰れません。彼女には何もできませんよ」
 答えれば、シエルは満足そうにうなずいた。

 襲撃はその後数回続いたが、そのつどセバスチャンと『森の動物』たちが撃退した。 
 政府高官の女は、自分がファントムハイヴ邸に送り込んだ数百人の刺客があとかたもなく消えてしまうことから、全員が邸内で殺されたと確信したものの、果たして誰が殺したのか、ファントムハイヴ伯爵は凄腕の殺し屋を雇っているのか、それともひょっとしたらあのセバスチャンと呼ばれるAIが……と疑わないでもなかったが、ロボット三原則に従わないAIなど存在しない。疑惑を抱きつつも、このままでは部下を削るばかりだと諦め、ギリギリと歯ぎしりをしながら引き下がったのであった。



***

 ファントム社の全ては順調だった。
 シエルは、セバスチャンがハニートラップを仕掛けて手に入れた利権で市場を独占し、次々と新しいAIを出荷した。
 中でもウサギ型AI『ビターラビット』たちはよく働き、性能の割には安価で、人々にありがたがられた。彼らが冷たいステンレスボディではなく、ビロードと綿に包まれたウォームボディだったのも好かれる原因のひとつだった。
 可愛らしいAIは子供たちに愛され、ときに彼らの友達であり、またときに教育係にもなった。中には家政をまかされ、執事のような役割を担っているものもあった。
「おかえりなさいませ」
「お食事の用意ができております」
 愛らしい姿でそう迎えられると、子どもだけではなく大人も顔をほころばせた。またAI「ビターラビット」を模して製造されたウサギのぬいぐるみ「ビターラビット The ぬい」も飛ぶように売れていた。

 すべてが順調のその中で、セバスチャンにはひとつだけ気になることがあった。
 主人が頻繁に熱を出す。
 たとえ微熱程度であっても、前にはなかったことだけに不安が拭えない。
「坊ちゃん、具合は悪くありませんか?」
 甘く濡れた唇を離して、セバスチャンは心配そうに訊ねた。
「別に。いつもどおりだ」
「もう一度、測らせてもらえませんか」
「お前──本当は、僕とキスしたいだけなんじゃないのか?」
 シエルは頰を赤くして睨んだ。
 まったく。この獣を少々甘やかしすぎたようだ。
 そう言いたげな主人の顔を、セバスチャンは両手で優しく包み込んだ。
「心配なのです」
 強く訴えれば、シエルはわかったわかったと手を振って、目を瞑った。
「……ん」
 唇を割って、セバスチャンのあたたかい舌が入ってくる。
 シエルはこういうときのセバスチャンが嫌いではなかった。
 人間に肌を触れられることは絶対に拒んだが、自分が造り上げたこのAIにだけは、心許せたのである。

 to be continued…