近未来パロです。
AIセバスチャンと天才科学者坊ちゃんとの愛の物語。
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話(完結)
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さだめ
休暇から帰ってしばらく経った頃である。
セバスチャンがシエルのためにモーニングティーの準備をしていると、ふと胸騒ぎがした。それは初めてセバスチャンの心に訪れたもので、どこか不安で、原因のはっきりしない、ざわざわとした不吉な感覚だった。
「なんでしょう……」
支度の手を止めると、ほどなくして体内で主人の異常を知らせるアラームが鳴った。
高熱。
非常事態。
急ぎ主人の寝室に飛び込むと、シエルがベッドから半分からだを落として、倒れ伏していた。
慌ててその身を助け起こす。
熱は三十九度を超えている。
からだはカタカタと激しく細かく震え、唇は紫色に変色していた。
脳内の回線を使って、医局に連絡すると同時に、シーツにくるみ、抱き上げた。途端、アラームが解除された。あっという間に熱が下がったのである。
「え……?」
すぐに意識の戻ったシエルは、一体なんだったんだろうなと、首を傾げた。
「あんなに高熱でしたのに……」
「たぶん疲れが溜まっていたんだろう」
「休暇明けにですか? それは考えにくいかと」
「とにかくあまり大げさにするな。社の株価が下がる」
その熱は一度きり、突然現れて消えたが、セバスチャンの胸に違和感が残った。
しかしやがて、仕事の合間にシエルはたびたび発熱するようになった。以前のような微熱ではなく、いずれも高熱であったが、毎回すぐに下がり、本人はケロリとして「たいしたことはない」と言う。だがセバスチャンは医局での精密検査を強くすすめた。
「いま忙しいのは知っているだろう? そんな暇はない」
「坊ちゃんに倒れられたら、ファントム社は終わりなのです。社員三千人を路頭に迷わせるおつもりですか」
はあ、とことさら大げさにシエルはため息を吐いた。
「お前は心配しすぎなんだ」
とはいうものの、シエルはセバスチャンの意見を聞き入れ、ファントム社お抱えの最新医療チームに検査を依頼した。
***
首都の特別医療センターは、どこかよそよそしい雰囲気を漂わせる純白の高層ビルの中にあった。時間をかけた徹底的な検査ののち、医療チームがはじき出した答えは「問題ない」というものだった。
「問題ないとはどういうことです? 坊ちゃんは……いえ社長はたびたび高熱を出しているのですよ」
セバスチャンの抗議にも似た訴えに、チームリーダーは説明した。
「体内のどこにも異常は発見できませんでした。腫瘍も炎症もありません。白血球数も通常です。もともと、おからだの弱い体質なので、お疲れが原因としか思えません」
その答えには納得しかねるものがあったが、セバスチャンにはどうすることもできなかった。
ただ、見守るしかないのだ。
なにか、はっきりとした兆候が現れるまで。
数週間、穏やかな日々が続いた。
そして、そのあと地獄が始まったのだ。
「ぐっ、ごほっ……!」
「坊ちゃんっ!?」
シエルは社内で打ち合わせ中に、突然吐血した。
赤黒い大量の血。
狼狽したセバスチャンは燕尾服が汚れるのもかまわず、慌ててシエルを抱きとめた。
ごほごほとシエルが咳き込むたびに、血液が溢れ出す。
事態の急変ぶりに、社内は浮き足立った。箝口令を敷き、外には極秘にするよう徹底させる。
シエルが倒れたことが知られれば、ファントム社のライバルたちに格好の餌を提供してしまう。ただでさえ、AI市場から締め出された企業に恨まれているのだ。天才が不在のうちに市場を奪い、利権を取り上げようとするのは目に見ている。それではシエルのこれまでの努力が水の泡だ。
──この天才を失ってはならない。
ファントム社は必死になってシエル・ファントムハイヴの回復に力を注いだ。
だが、その努力もむなしく、原因不明の病いに冒されたシエルの容態は悪化し続け、やがて最悪の結末を覚悟しなければならなくなった。
シエルはそれを聞いても動じなかった。
「そうか」
とただ一言いい、その後は会社への指示を出しつつ、粛々と医療チームの治療を受けていた。
その心のうちはいったいどのようなものだったのだろう。
もっと生きたいという願望はなかったのだろうか。
やり残したことはなかったのだろうか。
自分の死を知っても、淡々と受けとめているたった十三歳の子ども。
誰にもその心中を察することはできなかった。
セバスチャンは献身的に世話をした。
シエルの全身に巡らされたチューブを交換し、点滴をチェックし、食事を与え、汗を拭き、髪を梳かして最低限の身だしなみを整え……。
「こういうときにAIというのはいいな。二十四時間、何日だって寝ずに看病できるし、感情に流されることもない。看護師たちはお前を化け物のように怖がっているぞ。なまじ人間そっくりに作られているから、気味が悪いらしい」
可愛いウサギ型に作ればよかったかなと、にやりといたずらっぽく笑った主人は、いきなり前かがみになって、ごほごほと咳き込んだ。
「坊ちゃん!」
すぐにセバスチャンはシエルの背中をさすり、少しでも楽になるように手を貸した。
口元に伝う血を拭うと、吸引器をつけさせ、酸素濃度を上げる。
真っ青になっていたシエルの顔色は、まもなくまた色を取り戻し、目元に笑顔が浮かんだ。
上掛けから出した細い指をかすかに動かす。
セバスチャンが手を握ろうとすると、その手のひらに指を伸ばした。
『ありがとう』
指文字でありがとう。
主人はこれまでそんな言葉をかけたことはなかったのに。セバスチャンの胸がつまる。
セバスチャンは即座に主人の真似をした。小さな手のひらにそっとメッセージを書く。
『どういたしまして。早くよくなってください』
シエルはふふと笑ったようだった。
時に容態のいい日もあった。
シエルは病院の窓から差し込む初冬の日差しを浴びて、セバスチャンとチェスをした。
「──check mate」
「嗚呼、坊ちゃんには敵いませんね」
「お前、手加減しただろう」
「いいえ?」
すまして答えれば、主人はキッとセバスチャンを睨んだ。
「余計なことをするな。気を使うなど、器械らしくもない。お前には感情など必要ないんだ」
「ええ、私にはもともとそんなものはありませんよ」
シエルは疑い深い目でセバスチャンを見上げた。
「お前はときどき僕の想像を超えるからな……たとえばその目だ」
シエルはセバスチャンの目を指差した。
「私の瞳?」
「たまに赤くなるだろう? 僕はそんなプログラムを組んだ覚えはないんだ」
「……」
「ホラー、だな」
悪戯めいた笑みに、セバスチャンはどう答えていいかわからない。
AIの戸惑いに気づいたシエルは口元の片端を上げた。
「いいんだ、忘れろ」
疲れたのだろう。ベッドに背をもたせて、窓に顔を向けた。
差し込む金色の淡い光に浮かぶ主人の顔は、やつれたと言っても、まるでルネサンス絵画の天使のように美しい。
「坊ちゃん」
額に落ちた銀の髪を撫で、セバスチャンは心配げに主人を見つめた。シエルは少し困ったように眉をひそめ、黙って窓の外を眺めていた。
***
──死に至る過程がこれほどむごいものとは。
セバスチャンはやがて迎えるであろうシエルの「死」に怯え、竦んでいた。
ヒトを殺したことなどいくらでもある。ロボット工学三原則の外側にいるセバスチャンにとって、ヒトの命を刈り取ることなど簡単で、なんの感情も湧かない『作業』だった。
だが、いま死の淵にいるシエルに対しては別だった。
ベッドに寝たきりで、ほぼ五分置きに全身を痙攣させ、吐血する。透析療法の効果がなく、尿毒が全身に回っているのだ。
痛みはモルヒネで抑えてあるが、最期まで意識を保っていたい、というシエルの願いをかなえるために最小限しか使用していない。襲いかかる痛みと激しい痙攣は、思考力を奪っているはずだ。
だが、セバスチャンが顔を覗き込むと、シエルははっきりと意志のある視線を返した。目の下は黒ずみ、皮膚の下の骨格がわかるぐらいに痩せているが、意識は明瞭だ。
そう判断したセバスチャンは、シエルにいまの社の状況を報告し始めた。それはシエルの容態がひそかに外に漏れ、ファントム社の株価が影響を受けつつあるというニュースだった。
聞いて、シエルは苦笑した。
「社員の無能を笑っておられるのですか」
セバスチャンが首を傾けて問うと、シエルはかすれた声で返事をした。
「違う。お前を笑ったんだ。さすがに人じゃないな。こんなときに、人間はそんな報告をわざわざしない」
「……申し訳ありません」
「謝る必要はない」
坊ちゃんはきっぱりと言った。
「お前は、そういう存在なんだ。それでいいんだ。なにも間違ってはいない」
そう言った主人の瞳がほんの少し揺れたように見えたのは、自分の気のせいだろうか。
「僕は、あと何時間もつんだ?」
「──二十四時間が限界だと思われます」
「そうか。まだそんなに……」
何十回目かの痙攣が、シエルの言葉を浚っていった。仮に五分に一回の発作として、二十四時間で二百八十八回。まだ、そんなに……の言葉のあとには「長いのか」と言いたかったのだろう。
セバスチャンは考えた。
死の間際にこんな責め苦に苛まされることはない。
いっそ、主人を楽にして差し上げるのはどうだろう。
いずれ死ぬのだ。
その時間が多少、短くなったとしても主人は怒るまい。
セバスチャンは常に身につけている、よく研がれたディナーナイフを片手に隠し持って、すっと立ち上がった。
「こら、セバスチャン……」
弱々しい声が聞こえた。
「お前の考えていることはお見通しだ。だめだぞ、僕はちゃんと定められた最期の瞬間が訪れるまで、耐える。途中で、殺してくれるなよ」
主人はすっかり肉の落ちた手を、セバスチャンの方へ伸ばした。思わず、ぎゅっとその手を握りしめる。
「ですが、坊ちゃんがあまりにもお辛そうで……」
「もうあまり痛くないから気にするな。お前のそんなヒトくさい顔を見るほうが辛いぞ。おい、ちゃんと僕の傍にいるんだ。絶対、離れるなよ」
「ええ、坊ちゃん。ずっとお傍におります」
セバスチャンの言葉にシエルは安心したように目を閉じ、やがてすうと眠りに落ちた。
しかし、この眠りも、五分後には発作で再び打ち破られるのだ。
──定められた最期。
一体、誰が定めたというのだろう。ヒトにも主人のような創造主がいて、それが寿命を定めているのだろうか。「神」などいないと主人は常々言っていたが、「神」ではないとしたら、誰が、いやなにが、生き物の寿命を定めているというのだ。
なにもかもわかっているはずだったのに、今更わからないことだらけだ。
苦しんでいるのに、その時間を短くしようとしない主人、神はいないと言いながら、自分の寿命は定められているという主人。
──わからない。
セバスチャンほどの優れた人工知能であっても、シエルの心を真に理解することは難しかった。
ピッ、ピ……ッ、ピ……
無機質な医療器具が並ぶ病室に、電子音が響いていた。
さきほどから不規則に、それでも続いていた音は、いま次第に弱く、遅くなっている。
医師ら数人の白衣を着た人々に取り囲まれた小さなベッドの上に、やせ衰えたシエルが横たわっている。
白一色の部屋の中で、異彩を放っているのは、唯一の黒。黒い燕尾服をまとったセバスチャンだった。
焦燥しきった周囲の人々と違い、彼は白いロウのような顔に汗ひとつ浮かべず、その場に立っている。
「こ、れを……取っ……」
シエルは酸素マスクを外して欲しがり、医師らは目を伏せてうなずいた。
もう彼の時間は少ないのだ。
「セバ……スチャン」
ほとんど見えていないだろう瞳をこらし、自分の従者を探した。セバスチャンは小さな手を握りしめた。
「こちらにおります。いつでも坊ちゃんのお傍におりますよ」
シエルは安心したように、ひとつ息を吐いた。
「なんでしょう、坊ちゃん?」
「……すまない」
その言葉にセバスチャンは息をのんだ。主人が謝ることなどかつて一度もなかったからだ。
「すまない」
かぼそい声で、もう一度シエルは言った。
なにを謝っているのか、まるでわからない。坊ちゃん、一体何を、と訊こうとした時には、もう主人の瞼は閉じ、唇からは静かな寝息が零れていた。
主人の瞼の縁に小さく光るものがあった。指先で拭ったそれが涙だと理解するまでにさほどの時はかからなかった。だが、涙だということは理解できても、主人がなぜ泣いたのか、それを理解することはできなかった。
「坊ちゃん……?
主人の顔を見遣る。
臨終の時を迎えようとしている主人の顔は、いつもよりも幼く映った。セバスチャンが初めて見た時の、十歳の頃の主人のようだった。
ピ──……
最期に長く伸びた電子音は、唐突に途切れた。
セバスチャンは声もなく、ただ主人の手を握りしめていた。呼吸が止まり、次第に体温が低くなり、主人が人間でなく、ただの肉の塊、命のないただのモノになっていく瞬間に立ち会っていた。
胸が塞ぎ、喉がつまり、手の先がカタカタと震えて止まらない。
唇が震えて止まらない。
待機していた医師たちが乱暴にセバスチャンを押しのけて、蘇生治療を行なったが、その小さな心臓が再び動き出すことはなかった……。
to be continued…