おやすみ、セバスチャン

近未来パロです。
AIセバスチャンと天才科学者坊ちゃんとの愛の物語
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話(完結)




 この惑星のありとあらゆる命が絶えて久しい。
 かつて繁栄を誇っていたヒトと呼ばれた生き物も残らず消え去ってしまった。
 逆巻く灰色の猛吹雪と、無数の氷のかけらが舞い散る中、凍りついた大地に黒い人影が蹲っている。
 燕尾服のテールが激しく風に踊っているが、その人影は硬く身を丸めて、石のように動かない。
──人間にも哺乳類にも、地球上のありとあらゆる生きとし生けるものと異なるå私……。無機物のみで成り立つ精巧な機械の殻の中で思考するこの「私」は、いったい何者なのだ。
 金属の躯に「魂」など宿るわけがない。ならば永遠の呪いようなこの躯に閉じ込められて、幾千年も存在し続け、彷徨い続けている「私」という存在はなんなのだ。
いっそ、命を絶ちたいと幾度願ったことか。なにもかも凍りつく極北の地、なにもかも溶かす灼熱の火山島、息をするものとてない数千マイルの深海……。生物どころか鉱物でさえ存在不可能なはずなのに、いずこの地も私を葬ってはくれなかった。
 温かい血は体内に一滴もなく、流す涙も持たない。絶つべき「命」すらない存在。
 自らの創造主・シエル・ファントムハイヴの魂に向かって──



セバスチャン・ミカエリス

 
 時は遡る。
 二十二世紀の終わりになって、人々はようやく人工知能を受け入れるようになった。急激な人口の減少にAIなしではもはや生活は成り立たず、器械たちを自分たちの家庭や職場に入れることに拒否反応を示す人間たちも、その存在を認めざるを得なかったのである。
 十九世紀から脈々と引き継がれてきた巨大企業のひとつ、ファントム社の幼き社長、シエル・ファントムハイヴは、同時に幾つもの博士号を持つ天才科学者でもあった。生まれ落ちてすぐに言葉を習得し、三歳で大学を卒業。五歳のときにはすでに最初の博士号を戴いていた。そのシエルが生涯をかけたテーマとして選んだのが「人工知能」であった。先代から受け継いだゲーム部門とは別にAI部門を立ち上げ、一国の国家予算を軽々と超える金額を投じて研究を重ねた結果、ファントム社が製造するAIはずば抜けて優秀なものとなり、他社の追随を許さなかった。


 ロンドン中心部。
 百二十階建ての高層ビルの最上階に位置する硝子張りの空間で、いまひとつの契約がなされようとしていた。
「───では契約はこれですべて成立、ということでよろしいですか?」
 青い天鵞絨のジャケット、首元までぴっちりと覆ったストライプのシャツ。丸い膝が見え隠れするハーフパンツ……。十九世紀から抜け出たような衣服をまとった、まだあどけなさを残す少年が澄んだ声で念を押す。
 五十代とおぼしき女性は、気の強そうな眉を下げ、派手なルージュを塗った唇の両端を上げて笑顔をつくった。
「ええ、もちろんですわ、ファントムハイヴ社長。御社が開発した人工知能で人々の暮らしはよりよくなるでしょう」
「そう仰って頂いて光栄です」
 互いに電子羊皮紙に素早くサインをすると、ふたりは儀礼的な微笑みを交わして型通り握手した。
「お送りしろ、セバスチャン」
「は」
 仕立てのよい燕尾服を着込んだ長身の男が少年社長の傍らをすっと離れ、音もなく扉に近づく。
 優雅に扉を開け、客を先に通らせると、束の間、男は少年社長と視線を交わし、小さくうなずいてから静かに扉を閉めた。
 カツ、カツ……とヒールの音が無人の廊下に響き渡る。
 エレベーターホールに向かう途中、女は先程とは打って変わって、少女のように声を弾ませた。
「貴方のお願い、きいてあげたわよ」
 返事はない。女は構わずに続けた。
「出発は一週間後の夜よ。この季節のニースは最高よ。碧い海、白い砂浜……。早く貴方と泳ぎたいわ」
 視線を遠くに投げて、女は一ヶ月前のことを思い出していた。


***
 葉巻の紫煙。カクテルグラスを気怠げに傾ける、イブニングドレスやタキシード姿の人々。華燭の光。
 地下の空間に、まるで十九世紀に戻ったかのような光景が広がる。
 そのすべてが富の象徴だ。葉巻一本にどれだけの金がかかっていることか。正絹のドレスを購うのにどれだけの富を使うことか。本物の爬虫類皮の靴、天然の宝石……いまではすべて希少なものだ。それらを惜しげもなく身に着け、消費できる者はそう多くはない。ここに集った人はこれみよがしに古風な服装をし、富を見せつけている。
 そう、ここは会員制の高級倶楽部。政府高官や企業のトップ、身分を隠した一国の王さえいるというセレブのための秘密の空間だ。
 その倶楽部の薄暗い片隅で、女はあくびを噛みころしていた。
 いつもと変わらぬメンバー、いつもと変わらぬくだらない噂話。いるだけ無駄だわ。
 変わらぬ世界に倦んで、そろそろ帰ろうと一歩踏み出したとき。ふと壁際の黒い影に気づいた。
 もの憂げな様子で、壁にもたれ、カクテルを飲むでもなく、ただ片手に持って、つまらなさそうに立っている男。
 仕立てのよい燕尾服を上品に着こなしている。どこかの省庁の若手官僚か、新興会社のボンボン社長か、あるいは誰かの愛人か……。
 目を惹いたのは、恐ろしいほどの美貌だ。陶磁器のように白く、なめらかな肌。長い睫毛の下の、鋭く光る切れ長の黒い瞳。薄く笑みを浮かべている酷薄そうな唇。
「あれは誰」
 傍らの秘書に聞くと、秘書はちらりとその男に視線を遣り、目を細めた。
「さすがお目が高いですね。あの男はファントム社社長の秘書です。社長が片時も離さない切れ者だそうですよ」
「ファントム社?」
 そういえば、そんな名前の会社が革新的なヒト型AIを製造したとニュースで見かけた。だが一民間企業のことなどさほどの興味はない。
 が──その男にはそそられた。
 集う人々に軽く挨拶するようにして(彼女は政府の要人としてよく知られていた)、さりげなく人混みを抜け、無表情に佇んでいる男に、にこやかに声をかけた。
「今日はファントムハイヴ社長はおられないのかしら」
 得た情報は最大限に使うものだ。
 ファントム社社長など会ったこともないが、最初の言葉として悪くないだろう。
 女は自分が一番魅力的に見えるであろう笑みをつくった。
 男は軽く微笑んで首を左右に振る。
 ただそれだけ。
 一言も発しない。
 小馬鹿にしたように、女を上から眺め下ろしている。
──失礼な奴!
 その男の態度が癪に障り、女は意地になり──そこから男に夢中になるまで、それほど時間はかからなかった。
 どちらが先に誘ったのか。
 気づけば、豪奢なホテルの一室のベッドに押し倒され、巧みな指の愛撫に喘いでいた。
「あ、……ンッッ!」
「指だけでイってしまったんですか?」
 からかうような男の低い声に、下腹部が熱く疼く。
 乳首を舌で愛撫されながら、指は執拗に内部をこすり、何度も絶頂に追い上げられた。
 何時間も責められたあと、息を荒げて死んだようにベッドに横たわる女が見たものは、汗一つかかず、着衣にまったく乱れがない冷えた瞳の男だった。
 男に──溺れた。
 何度目の逢瀬のときだっただろうか。
 或る夜、女を可愛がりながら男は口を開いた。
「ねえ、『お願い』をきいてもらえませんか?」
「お願い?」 
 反射的に繰り返した。
 頭の中がぼうと霞んでいる。
 男の指が中に入って、もっとも感じるところを酷く擦っているのだ。
「お、ねがいって……なに?」
 男が耳元でささやいた内容は、難しいことではなかった。
 政府が使用するAIのすべてをファントム社製のものとすること。他社のものはすべて廃棄すること。今後も他社とは一切契約しないこと。
 ファントム社の独占というべき状態を作るこの契約が、男の「お願い」だった。
 女は霞む頭の奥で懸命に考えた。
 政府内の調整には幾ばくかの金を使わなければならないだろうが、たいしたことではない。
 しかし……。
 わずかに躊躇していると、内部に入っていた男の指が繊細にひだを撫でた。
「あっ……っぅん……!」
「もう浅い仲というわけではありませんし、叶えてくれてもいいでしょう?」
 ご褒美は差し上げますから、という男の誘いに女は喘ぎながら、うなずいた……。


***
「なんのお話でしょう?」
 男は突然足を止めると、けげんそうな表情で振り返った。
 女ははっと顔色を変えた。不安を断ち切るように男の胸にしなだれかかる。
「いやだわ、忘れたの? お願いをきいてあげたら、バカンスを一緒に過ごすって約束したでしょう」
 男は女の体を軽く押し返すと、落ち着きはらって、首を横に振った。
「そのような約束をした覚えはありません」
「え……? ねえ、からかっているんでしょ? まさか忘れたなんて言わせないわよ」
 女が思わず尖った声で叫ぶと、クックッと男は肩を震わせて笑い出した
「失礼ながら、それは貴女様の夢なのではないのでしょうか? 私と寝たいという貴女様の願望が見せる夢では……」
 バシッと頬を叩く鋭い音がして、男が小さくよろけた。
「いい加減にしてよっ」
「どうしました、レディ?」
 いつまでも戻って来ない秘書を探しにきたのか、少年社長の声が背後から響く。
「いえ、あの……」
 動揺する女を横目で見遣り、男が少年社長に向き直った。
「社長。この方が私にご執心でして……。一緒に旅行に行こうと利かないのです」
 聞くなりシエル・ファントムハイヴは声を上げて笑い出した。傍らの男も顎に指を添えてクスクスと笑い始め、ふたりの嘲笑にも似た笑い声は次第に大きくなり、女の顔色は鑞のように白くなった。
「なにがおかしいの……?」
「レディ、こいつは確かに美しい。貴女が心を奪われるのも無理はないのですが……。残念ながらこいつは貴女のようなお方にはふさわしくない」
「えっ?」
「こいつは──セバスチャンはヒトのように見えますが、そうではありません。我が社が誇る最新のヒト型AIなのです」
 女は絶句した。
 驚愕に目を飛び出んばかりに見開いて、男を凝視している。
「そんな、ばかな……!」
「本当です。私はただの器械。人間の愛を受けるにはふさわしくないのですよ」
 情事のときのあの低く甘い声で、男が答える。
「器械? だ、だって、あの、とき……」
「あのとき?」
 シエルの鋭い声に、女ははっと口を噤んだ。
──言えるわけがない。AIに抱かれたなんて……!
「い、いえ! なんでもありませんわ。そうですの。こちらが御社の最新型AIとは、素晴らしいですわね。人間とまったく変わらないわ」
──そう、ベッドの中でも人間の男と変わらなかった。いえ、これまでのどの男よりもよかった……。
 男との夜を思い出して、一瞬女のからだが熱く疼いた。同時に器械にからだを侵されたのかと怖気が走る。
「お騒がせして失礼しましたわ。それでは、また。ファントムハイヴ社長」
 取り出したシルクのハンカチで額の汗を押さえ、声の震えを必死に押し隠して、女はエレベーターに乗り込んだ。
 セバスチャンと呼ばれた男は扉の前で、帰る客に向けて恭しくからだを折った。
 エレベーターの扉が閉まる最後の瞬間、彼はすっと頭を上げると、女の顔を見てニヤリと笑った。
 その笑みに女は戦慄した。


 エレベーターの表示が下へ向かうのを確認して、シエルはやれやれと大きく背を伸ばした。
「お前も人が悪い。彼女は本気だったぞ」
「私も本気でしたよ、彼女はなかなかに素敵でした」
「よく言う」
「いえ、本当です。私は貴方に嘘を吐けるようにできておりません。そうでしょう? 坊ちゃん」
「社内で、その呼び方はやめろ」
「嗚呼、失礼しました。『社長』」
「お前が言うと、馬鹿にされているようだ」
「言えとおっしゃったので、そうしましたのに……。尊敬しておりますよ、マイロード。貴方がいなければ、私はこの世に存在しない」
 大袈裟な奴だとシエルは口の中で呟く。
「それにしても、笑えたな、さっきの彼女は」
「ええ」
「彼女を落とすのに、どれぐらいかかったんだ?」
「一ヶ月といったところでしょうか。丁寧に事を進めましたので……」
 主人の顔にかすかに陰りが走ったことに気づかず、セバスチャンは続けた。
「ですが坊ちゃん、腹を立てた彼女が契約を破棄する可能性もあります」
「それはない。AIと寝たなんてことが世間に知れてみろ。いい物笑いの種だ。あの女だって、そんなことぐらいはわかっている。契約を破棄されるようなことがあれば、お前とのことを公開するさ。証拠はあるんだろう?」
「もちろんです。いつでもご用意できますよ」
 優雅な仕草で自分のこめかみを指差した。
「ならば問題ない。心配するな」
 シエルは部屋に戻ろうと向き直り──そのはずみで軽くよろけた。
 セバスチャンはすかさず片腕を出して小さなからだを支え、ふわりと横抱きに抱き上げる。
「っ……!」
 薄い唇がシエルの唇を奪う。忍び込んできた舌が軽く上顎をこすり、ひくっとシエルのからだが震えた。
「お、お前っ!」
 両手でぐっとセバスチャンの肩を押しやった。
「現在の体温、三十七度四分。お熱が出ていますね」
「キスで体温を計るのはやめろと言ったろう」
「そうでしたか?」
 AIはしれっと笑ってみせる。
「このエロマシン!」
「おや、ひどい言いようですね。私をこんな風に造ったのは坊ちゃんなのでは?」
「なっ!? そんなわけあるか。バグだ、バグッ!」
 バグだとしても、体温計よりはキスのほうがよっぽど気持ちがいいと思いますが……といえば、またシエルに殴られ、セバスチャンは肩を竦めた。
「さて、マイロード。本日の業務は切り上げて、お屋敷に戻りましょう」
「まだ昼過ぎだぞ」
「今日はもう十分に働きました。あとはタナカさんにお任せして」
「おいっ?」
「もう連絡は済ませておきました」
「またお前は勝手なことを……!」
「坊ちゃんのおからだのほうが心配です。さっさとお屋敷に戻って休みましょう」
 シエルの抗議などどこ吹く風。セバスチャン・ミカエリスと名付けられた最新型のAIは、主人の健康と幸せを第一に考えるようプログラムされているのだ。
 シエルを軽々と抱きかかえると、屋上の扉を開け、宙に向かってタン! と軽く硬質ガラスの床を蹴った。


***
 セバスチャンの毎日は充実していた。
 己を創造せしめた主人シエル・ファントムハイヴの傍にいて、そのために尽くすことは彼の喜びだったのである。製造されてからまだ日は浅かったが、すでにこの世界の何もかもを知り尽くしていると思っていた。
 人類の叡智が全てこの身に収められていることが誇らしかった。
 全世界、いや地球上にただひとつしかない特別な存在。
 こうやって主人を抱いて宙を翔ける能力も、遥か遠くまで見通せる赤い瞳も、快楽を届けられる繊細な指も、すべて主人がプログラムしてくれたものだ。
 セバスチャンは自分の創造主を見た。
 上空の強い風に流されて、絹のような前髪が陽の光を受けて輝いている。ふっくらとした柔らかい頰はさくらんぼのように淡紅色だ。蒼紫の二色の瞳が濡れたように煌めいている。
 美しい、と思う。
 脳内に蓄積されているどの絵画よりも、どの写真よりも美しい。
「おい」
「は」
「よそ見をするな。落ちる」
「坊ちゃんがあんまり美しいのでつい」
「世辞はいい」
「お世辞ではありません。本当のことですよ」
 ささやけば、主人は耳を少し赤くしてうつむいた。
 腕に感じる主人の体温がまたわずかに上がったようだ。
──恥ずかしいのだ。
 セバスチャンはデータを元に人間の感情を推し量ることができた。表情から感情を察することは不得手だったが、脈拍や体温や呼吸、虹彩の収縮……それらのデータを元にして、ある程度人間の感情を察することは可能だった。表情、などという曖昧でとらえどころのないものよりも、よっぽど正確に把握できる、と彼は思っていた。
「結構荒れているな」
 主人が下方を見下ろしながら呟いた。
「そうですね」
 ロンドンを離れると、廃墟が目につく。
 人口が激減し、人が住まなくなった地域が廃墟化しているのだ。浮浪者や貧民が空き家に住み着き、中には立ち入り禁止の危険区域に指定されている場所もある。
 それでもまだあちらこちらに農地が点在し、農作業が行われているのはさすが農業国というところか。といってもその作業は人間ではなく、ほぼAIが担っているわけだが。
「もうそろそろお屋敷ですよ、坊ちゃん」
「ああ」
 眼下に広がる広大な森林地帯。二千エーカーに及ぶファントムハイヴ領は十九世紀そのままの姿を維持し、しっかりと管理されていた。
 ブナや松、ナラなど緑の木々はどれも樹齢数百年を超えている。
 黒くごつごつとした太い幹の向こうには小さな池があり、そこから小川が流れている。水面に光が反射してきらきらと輝いていた。
 水辺では鴨や白鳥など水鳥たちがくつろぎ、親猫が子猫のために、茂みの中から彼らを飢えた瞳で狙っている。
 犬の吠え声が遠くで何度も聞こえた。
 アンクル・サムの農場で放牧されている羊の群れを追い立てているのだろう。
 失われつつある楽園のような風景。アンリ・ルソーの描く一幅の絵画のようだ。
「着きましたよ、坊ちゃん。お疲れではないですか?」
 そっと芝生の上に主人を下ろすと、少年はまたふらりとよろけた。
「大丈夫ですか?」
 慌てて体を支え、顔を覗き込めば、シエルは眉をひそめて、顔を横に向けた。
 顔色が悪い。
 油断は禁物だ。
 脆弱な人間はほんのささいなことで命を落とす。気をつけなければならない。
セバスチャンは脱いだコートでシエルを包み込み、古風な屋敷に入った。