第六話 宿命
あ……あ……あ……あ……
恐ろしいスピードで下へ下へと落ちていく。風が耳を切る。痛い……闇の中に金や銀の光がちらつく。ようやく落ちきったと思ったら、いきなり片足をつかまれて高く高く持ち上げら……れ、て、ジェットコースターだ……さかさまのジェットコースター。頭がシャッフルする……血が逆流す、る。気持ち、いい。ふ……。もう……みんな……いなくなってしまえば……いや、僕が、いなく……なれば、いいんだ……
「シエル!!」
誰かが呼んでいる、ぼ、くを、呼んでいる……
「シエルッ!シエルッ!!」
だ、れ……?呼んで…いる…のは………セ……
セバスチャンが見つけたとき、シエルは出口の横で倒れていた。呼びかけても反応がない。焦点のさだまらない目。口から涎を垂れ流している。一体なにが……。
「おやおや、ミカエリス君のお友達だったのかい」
後ろから声をかけられた。振り向くと黒尽くめの白髪の……。こいつはたちの悪い売人だ。こんな奴につかまったのか。セバスチャンはほぞを噛んだ。
「彼になにをしました?」
「なにもしていない。ただ、泣いていたから……」
「泣いていた?」
「あの大きなお目目からいっぱい涙がこぼれてたよ? 可哀想になって、つい、ね」
「……」
「買ってもらったのは、人気の魔法薬だよ。ピンクは君の気持ちをラクに、ブルーはハイに……」
セバスチャンは男の襟首をぐいっとつかんだ。男は怯む様子もなく、続ける。
「彼、3つ全部飲んじゃったのかな? 死ぬよって教えたのにきかなかったんだねえ。それとも、もしかすると、死んじゃいたかったのかな、ヒッヒッ」
「……!」
「ミカエリス君も罪なことするねえ。子どもを本気にさせちゃダメじゃないか」
「……助けるには?」
「吐かせるしかないねえ。こうやって悠長に話している間にも、どんどんクスリはからだをまわっていくよ? 全部吸収しちゃったら、本当に……」
男を乱暴に手放すと、カウンターの水のボトルをいくつか掴み、シエルを抱えてドアを開けた。雨がざあっと中に吹き込む。外はいつの間にか強い雨が降っていた。
「彼を守っておあげ……。ヒッヒッ」
男の声がドアの向こうに吸い込まれる。
横なぐりの雨が降りかかってくる。
舗道の隅にシエルを座らせ、口に指を突っ込んで、吐かせる。自分で吐く力がないのか、むせるだけで中身が出て来ない。水を口に含み、口移しに飲み込ませて、もう一度吐かせる。
「げぼっ、ごほ……げぇ……ッ」
溶けかけたカプセルと胃液がシエルの口から溢れた。幾度かそれを繰り返し、もう何も出て来ないのを確認してから、セバスチャンは意識のないシエルを荷物のように肩にかついで、歩き始めた
(この…クソガキッ……!)
いいようもないほど腹が立っていた。
突然イギリスに行くと言ってこちらを混乱させて……! このざまはなんだ?! 泣いていた? どうして? なぜ? なにがしたい、シエル。
どしゃぶりの雨が容赦なくふたりのからだを打つ。
***
暗い。……部屋……どこ?
セバスチャンの……部屋だ……薄暗い……。
濡れた服ごとバスタオルにくるまれ、ベッドに横たえられたシエルは目を覚ました。
「気がつきましたか」
霞がかかったようにぼんやりした頭で、セバスチャンの姿を探す。薄闇に浮かび上がるのは、冷たい横顔。水が滴っている。
「……シエル、お願いです。私をがっかりさせないでください」
「……」
「なぜ、ドラッグなんか……。貴方らしくない」
(だって、それは、セバスチャンが、僕のことを……)
「もう、私の元を離れるから、何をしてもいいと?」
(違う。そうじゃない。そうじゃないんだ、セバスチャン……!)
「私との生活はそんなに貴方を縛りつけていましたか」
(そんなことない、いつも僕のわがまま、聞いてくれて)
「まだ先の予定でしたが、貴方の出発を早めたほうがよさそうですね……」
黙り込んでいるシエルを一瞥して立ち上がり、セバスチャンは疲れきった足取りでドアのほうに歩いていく。
───嫌だ、待って。待って!セバスチャン!!
舌がしびれて動かない。声が出ない。だめだ、言わなきゃ、いま、言わなきゃ、言うんだっ!僕ッ!
「……ッ、行くなっ!セバスチャン!!」
シエルは身を振り絞って叫んだ。セバスチャンは足を止め、驚いたように振り返る。
「……そうじゃないっ、そうじゃないんだ」
「……?」
「僕は、僕はッ、イギリスなんて行きたくないっ。セバスチャンのそばにいたい。いたいんだ」
シエルは涙がぽろぽろこぼれていくのを止められなかった。
もう泣いたっていい、なんだっていい。
「シエル……?」
「ぼ……僕、は、セバスチャン、が、……好きなんだ。けど、だ……けど、セバスチャンは僕が、邪魔、なんだろう……? 仕事、とか、女の人、とか……」
しゃくり上げながらシエルはなんとか続ける。このまま別れるなんて嫌だ。せめて伝えたい、気持ちを伝えたい。
「僕のこ……と、趣味じゃないって、さっき……も。でも、いい。それでも、いい。僕……僕は、セバスチャンが好きだから……っ」
シーツを両手で握りしめ、シエルは涙をぽたぽたこぼした。
これで、もう、いい、全部、言った。全部、伝えた。もう、これでいい……。
がくがくと震えながら泣いているシエルの腕をつかみ、胸に引き寄せて、セバスチャンはゆっくりと抱きしめた。
───私の腕の中で、震えて、泣いている。愛しい人が……。私を好きだと、泣いている……
「シエル」
セバスチャンはささやいた。
「シエル」
「……な……に?」
「私の、シエル」
泣き顔をそっと持ち上げられた。すぐ間近にセバスチャンの瞳がある。濃い紅茶色の瞳、いや深紅の……?と思う間もなく、唇を奪われた。
「……!」
服を脱がせるのももどかしく、セバスチャンは唇を合わせたままシエルのシャツのボタンを引きちぎり、肌に触れた。脇腹から胸に手を這わせ、軽くなでる。びくんとシエルのからだが胸の中で跳ねた。
「…や…ぅ、んっ…」
抗われても、もう止められない。離れた唇をまた合わせて、舌を小さな口の奥まで差し込んだ。怯えて逃げる舌を捉えて吸い上げる。シエルの細い指が小刻みに痙攣して肩を掴んだ。その指に上から指を絡ませ、強く握りしめる。
「セ……バスチャ……ン」
甘くその名を呼ばれて、背中がぞくっと粟立った。絡む指に力を込める。
シエルはセバスチャンの首に手を回して、しっかりとつかまえる。
───もう離れない、離さない、セバスチャン。僕のセバスチャン……。
つい、と顔を離されて、シエルは息を吐いた。
「……?」
セバスチャンはシエルの前髪をかきあげて、額をこつんとつけた。少し自信のなさそうな小さな声で尋ねる。
「シエル……。おとうさん、として私を好きなわけではないですよね……?」
シエルは思わず吹き出した。
「ちがう! こ、こ、……恋人として、好……」
言い終わらないうちにまた唇を塞がれた。
セバスチャンのキス。優しいキス。甘くて、蕩ける……。しがみつく。からだが、浮き上がる───。
***
翌朝。
シエルのからだはばらばらになりそうだった。あちこちが痛い。昨夜のことを思い出して、かあっと頬まで血がのぼった。
(なにをしたんだ、僕、いや僕たちは……)
カチャッとドアが開き、
「シエル、起きましたか?」
と、セバスチャンが熱いコーヒーを持って入ってきた。まともに顔が見られない。顔をそむけて、コーヒーをすすった。
シエルには気になっていたことがあった。
「セバスチャン、聞きたいことがある」
「なんでしょう」
「ゆうべ、僕のこと、趣味じゃないって言った」
セバスチャンは申し訳なさそうにうつむいた。
「……言いました」
「あれ、本当?」
「嘘、です。彼らにはああ言わないと、あとがうるさいと思ったものですから。ですが、それが貴方を傷つけてしまったのですね、ごめんなさい、シエル」
「僕は貴方の趣味ですか?」
「……はい。すごく趣味です。がまんできないくらい」と言って、頬にちゅっとくちづけた。
シエルは急いで続けた。
「まだある」
「ん……なんでしょう」
「あの小説家の女の人に、僕がもうすぐいなくなるって言った」
「?」
「彼はもうすぐいなくなるからって、セバスチャン、彼女に言ってたよ?」
「……! 嗚呼!」
セバスチャンは危うく手にしたコーヒーをこぼしそうになった。
「僕が早くいなくなればいいって思ってた?」
「違います! あれは彼女の担当編集者のことを話していたんです。センスが合わなくて仕事がやりづらいと相談を受けたのです」
「!」
「シエル、そんなことを気にしていたのですか」
「だって! セバスチャンの気持ちがわからなくて。なんにも言ってくれないし。引き止めてくれないし……」
「……そうですね。確かに貴方に自分の気持ちを伝えていませんでした。……怖かった。貴方は父親のように私を見ているだけなんじゃないかと。貴方を愛しいなんて思ってはいけないと」
セバスチャンの声がかすかに震えた。
「セバスチャン?」
「……貴方を箱の中に閉じ込めてしまいたいと思っていました。貴方がどこかへ行くなんて耐えられない。閉じ込めてしまえばもうどこにも行かないと……。けれどそんなことはできない。だから、自分の想いを封じて……」
「……」
「愛しています、シエル。本当に。心の底から」
セバスチャンの瞳が翳って、深紅に変化する。
「セバスチャン、瞳の色が変わるの……?」
「嗚呼、母親譲りだそうですよ。ひどく怒ったり、興奮したりすると少し変わるようなんです。自分では意識していないのですが」
「……いまは?」
「いまは、欲情しています。貴方が欲しくて」
セバスチャンはシエルの髪に指をいれ、頭を引き寄せてキスをする。小鳥のようについばみ、やがて深く……。シエルは腕を突っ張って顔を離した。
「朝、だよ? セバスチャン」
「だから?」
「……ッ」
「だから、なんだというのです?」
セバスチャンはシエルに覆いかぶさり、その唇をむさぼっていく。からだも。心も。
───もう離さない、私のシエル。どこにも行かせない。誰にも渡さない。
光の中、ふたりは何度も互いを求めては果てた。繰り返し、繰り返し……。
***
数週間後。
夜空に細い三日月がかかっている。
バルコニーにキャンドルが並び、ゆらゆらと美しい光を放つ。
お祝いなので今夜はバルコニーで食事しましょうと、セバスチャンに言われ、シエルは首をひねった。なんの祝いか尋ねても、内緒ですと笑ったきりセバスチャンは答えない。
午後いっぱいかけてふたりは晩餐の支度をした。ドクター・タナカに和食の手ほどきを受けているシエルは、お祝いなら茶巾寿司だよと、黄色い卵焼きで包んだかわいいお寿司を仕上げ、セバスチャンはニース風サラダ、トマトのヴィシソワーズ、デザートにはベリーのガトーショコラを用意して、バルコニーのテーブルには彩りも綺麗なフレンチジャポネの料理が並んだ。
支度が済むと、セバスチャンに促され、シエルはニナが仕立てたスーツに着替えた。燕尾服をまとって現れたセバスチャンが少しだけワインをグラスに注ぐ。
「少しならシエルも飲めるでしょう? 今日は特別な日なので」
セバスチャンはシエルを椅子に座らせると、その前に恭しくひざまづいた。
「シエル。この州の法律では16歳になれば誰とでも結婚できるのです。……たとえ相手が同性でも」
「!」
「3年後、貴方が16歳になったら、私と結婚していただけますか?」
「!!!!!」
「嫌……ですか?」
シエルは首を激しく横に振った。嫌なわけがない。大好きだもの。愛しているもの。シエルは頬を真っ赤にし、返事を口にした。
「……yes,my darling」
セバスチャンは頭を垂れ、シエルの手の甲に唇を押しあてた。小箱を取り出し、蓋を開く。中には、細いブラチナの台にスクエアにカットした蒼い石を埋め込んだシンプルな指輪があった。
「これは婚約指輪です。結婚指輪は3年後のお楽しみに……」
シエルの手を取り、すっと薬指に指輪を嵌めた。キャンドルの光を反射して指輪が鋭く輝く。石が蒼から深紅へとその色を変えた。その瞬間、セバスチャンはカチリと運命の輪が回った音を聞いた。
───嗚呼、これは宿命だ。おそらく貴方は私の必然。永遠に……。
シエルを抱き寄せ、その胸にきつく抱きしめた。
***
夏も終わる頃、ミッドフォード家にシエル・ファントムハイヴから手紙が届いた。
『フランシス叔母さま
返事が遅くなりました。僕は叔母さまの家には行きません。せっかくの叔母さまのご厚意に応えることができなくて、申し訳ありません。僕はセバスチャン・ミカエリスと婚約しました。僕が16歳になるのを待って結婚します。
叔母さま、どうかびっくりなさらないでください。僕たちはお互いに愛し合っているのです。エリザベスには本当にすまなく思います。僕などではなく、彼女にふさわしい男性がきっと現れるはずです。それではお元気で。
シエル・ファントムハイヴ』
ミッドフォード家は天地がひっくり返ったような騒ぎになった。エリザベスがこの世の終わりのように泣いていたが、ミッドフォード夫人はなぜかこうなるような予感がしていた。娘にはいずれもっとよい伴侶が見つかるだろう。3年後の彼らの結婚式には一家でアメリカまで行こうと思った。
手紙には一枚の写真が添えられていた。
燕尾服をまとった長身の男と、ハーフパンツに編み上げ靴、リボンタイにジャケットという昔風の装いをした少年。それはまるで19世紀イギリスの……そう、ヴィクトリア朝時代から抜け出てきたようなふたりの写真だった。
fin