第五話 名前
───血のつながっていない、他人の貴方様に……
ミッドフォード夫人の言葉が頭にこびりついて離れない。
確かに血のつながりのない関係でいつまでも一緒にいるのは不自然だ。やはりシエルは親戚の元で暮らしたほうがよいのだろう。許嫁も待っているというし……。だがセバスチャンの中で何かが反対していた。
(私はどうしてしまったのだろう。ずっとひとりで生きてきたのに……)
親代わりの家族といたときも、いつも孤独だった。髪の色も瞳の色も出自も異なる自分を受け入れてくれたことは感謝しているけれど、家族というよりも、常に居候のような存在で、心からくつろいだことはなかった。自力で学び、道を切り開いて、いまの地位にたどり着いた。以前はそれで充分満足だった。なのに、なぜだろう。シエルのいない暮らしはひどくつまらないもののように思えた。
セバスチャンはシエルの姿を思い浮かべる。あの瞳。ふいに赤くなる頬、つんとした鼻。華奢な指先、握りしめたら折れそうなぐらいの。嗚呼、すべて折ってしまいたい。どこにも行けないように。くちづけて、強く抱きしめて、貴方の骨を全部折って……。はっとしてセバスチャンは我に返った。
(いけない。何を考えているのか、私は)
自室のベッドで寝転びながら、シエルはエリザベスからの手紙を読み返していた。
『シエルへ。
元気ですか?私はとても元気です。シエルのパパとママはとても残念なことでした。シエル、大丈夫?シエルはあまり本当のことを言わないから、私は心配しています。ママからの手紙にもあったと思うけれど、エドワードが家を出ることになって、シエルが来る事を反対する人はいなくなりました。
私もママもパパも(それからいまはエドワードも!)、シエルが家に来る事を望んでいます。小さい頃、毎年シエルがイギリスに夏を過ごしに来るのが本当に楽しみでした。一緒に暮らせたら素敵ね! 待ってます。エリザベス・ミッドフォード』
かわいらしい薄ピンクの便せんに、丁寧に、ひと文字、ひと文字書かれた手紙。エリザベス。僕の従姉妹で許嫁。
シエルはセバスチャンのもとに来てからの半年間、エリザベスのことをまったく思いださなかった自分に気がついた。セバスチャンとこのままここで暮らしたい。セバスチャンはどうして何も言わないんだろう。どう思っているんだろう。
***
ミッドフォード夫人の手紙が来て以来、セバスチャンは仕事に一層打ち込むようになった。シエルへの態度はどことなく距離を置いたものとなり、その変化にシエルは苛立った。
(僕が邪魔なの? セバスチャン)
思い切ってそう聞きたかった。けれど、もし「そうだ」と言われたら? 怖くてとても言葉にできなかった。セバスチャンから離れたくなかった。父親みたいな人だから?
(違う!そういうんじゃない。僕……僕は)
今夜は来客があるとセバスチャンから告げられて、夕食のあとシエルは自室にひきあげた。あの女流小説家が、装幀を担当したセバスチャンに興味を持ち、直接会いに来たのだ。リコリスのような真っ赤な髪をした彼女は20代半ば。シエルに簡単な挨拶をして、セバスチャンの仕事部屋に入った。それから小一時間が経っている。ふたりはまだ話しているのだろうか。シエルは暇をもてあました。
(ゲームを取りに行こう)
仕事部屋にはポータブルゲーム機が置いてある。トントンとノックして、僕のゲームを取りにきましたって言って、すぐに戻る。頭の中で一通りシミュレーションしてから自室を出た。仕事部屋の前に立ってノックをしようとしたとき、中から声が聞こえた。
「……したいわ」
「そのうちに」
「そのうちって?」
「もうすぐ彼はいなくなりますから」
「……わかったわ。ならそれまで我慢する」
衣擦れの音がして会話は止んだ。シエルはくるっと踵を返して自室に戻り、音がしないようにドアを閉めた。頭の中でたったいま聞いた言葉がぐるぐる回っている。胸の動悸が激しくなる。
───そのうちに
───もうすぐ彼はいなくなりますから
僕のことだ。セバスチャンは僕が邪魔なんだ。僕に出て行って欲しいんだ。
行くなって、行くなって言って欲しかったのに。セバスチャンといたいのに。
シエルはシーツに顔を埋め、声を押し殺して泣いた。いつまでも、いつまでも涙は止まらなかった。
***
「ミカエリスさん、僕はミッドフォード家に行きます」
翌朝、赤く泣きはらした目をしたシエルは、はっきりとセバスチャンに告げた。黙って立ちすくんでいるセバスチャンを見て、シエルは失望した。
(引き止めてくれないのか、セバスチャン)
ギリギリと悲しみが心を蝕む。シエルは自室に閉じこもって、その日一日、出て来なかった。
何故、急に?
セバスチャンはわけがわからなかった。突然、行くなんて。
(私たちは結構うまくやっていたのではないですか?貴方は楽しそうに見えたのに……)
───セバスチャン、起きて!
───貴方が作れないなら、僕が作るよ、和食
───もちろん今日からです。よろしくお願いします。ミカエリス先生
───コーヒー、入ったよ
───セバスチャンも。一緒に見よう
シエル、離れたくない……!
どんとこぶしで壁を叩いた。辛い。泣きたいくらいだ。けれど所詮、赤の他人だ。シエルがそう決めたのなら、引き止める権利などないと、セバスチャンは自分に強く言い聞かせた。
(ミカエリスさん、ですか。はじめて会った頃の貴方に戻ってしまいましたね)
仕事部屋にもうシエルは来ない。ぽっかりと空いた椅子。綺麗に片付けられたテーブル。教科書もノートもない。
翌日の夜は、出版社の企画した、セバスチャンの受賞祝賀パーティだった。
憂鬱な気持ちを抱えたまま、ふたりはニナが仕立てた服を身に着ける。シエルはクラシックな燕尾服を見事に着こなしたセバスチャンから目を離せなかった。肩にぴったりフィットした上着、タイ、その下のドレスシャツ。長い足を包むスラックス。テールが揺れる。そこはかとなく色気が漂う。
それはシエルも同じこと。セバスチャンはあらためてこの少年の美しい姿に心踊った。少年らしいからだに映える上品な濃紺のジャケット。シャツの衿は高く、ストイックにぴったりと首元を覆い、ストライプのリボンタイがアクセントになって美しさを引き立たせている。可愛い膝がのぞくハーフパンツ。靴下留め、ソックス、編み上げ靴。古風な装いがとても似合っている。
「ではシエル、行きましょう」
一緒に過ごす時間は限られている。せめて楽しく過ごしたい。セバスチャンはやさしくシエルをエスコートした。
内輪のパーティとはいえ、出席者は100人を超え、格式高いホテルのパーティ会場は賑わっていた。出版関係者ばかりではなく、芸能人や名の知れた有名人の顔がちらほら見える。例の赤毛の女流小説家も来ている。シエルの心は一瞬曇った。だがぎゅっと唇を結んで憂鬱な思いを振り払った。今日はセバスチャンのお祝いの日だ。明るくしていよう。もうあまり時間がないもの。
セバスチャンはパーティの間中、シエルをそばにおいて、祝いの挨拶に来る人たちに応対していた。ずっとシエルの肩から手を離さなかった。手を離したらシエルが消えてしまうとでも思っているかのように。時折、疲れていないかどうかシエルに問いかける。
(どうしてこんなにやさしくする。セバスチャンは僕を嫌いなわけじゃないの……?)
セバスチャンの態度にシエルの心は揺れた。セバスチャンの気持ちが知りたい。このままイギリスに行くなんて……。
パーティはやがてお開きとなり、ふたりは二次会に繰り出す人々に連れられて会場を出た。
「シエル、疲れていませんか。帰りましょうか?」
セバスチャンがシエルの顔を覗き込んで尋ねる。
「……行ってみたい」
と、ぼそっと答える。シエルはなんとかしてセバスチャンの気持ちを聞き出したかった。
***
大音響。赤や黄、緑の光が倉庫を改造したクラブの中を照らしている。光、音、色、人の氾濫。フロアで踊る人々、抱き合っている人々、ソファに寝そべるようにしてアルコールを片手に囁き合っているカップル……男同士のペアもいる。ホテルのパーティ会場とはまるで違う雰囲気にシエルは息を飲んだ。
「だいじょうぶですか、シエル?」
「……うん」
ソフトドリンクを手渡され、セバスチャンに小さく返事をする。
「こういうとこ、よく来るの?」
「以前は。結構ひさしぶりです」
セバスチャンの肩をポン!と誰かが叩いた。
「ひさしぶり、ミカエリスじゃない?」
「本当、随分ご無沙汰だったわね、ミカエリス」
「ミカエリス? きゃあ、彼、来てるの!?」
あっという間に数人の男女に取り囲まれた。
ミカエリス、ミカエリス、ミカエリス……誰もセバスチャンと呼ばない。
「ねえ……」
シエルは燕尾服のテールをくいっと引っ張った。
「なんです? シエル」
「みんな貴方のことをミカエリスって呼んでる」
「……そうですね」
「なぜ……?」
セバスチャンはかすかに眉を寄せて、目をそらした。
「それはねえッ……」
突然、女が割って入った。
「ミカエリスにセバスチャンって言うと、怒るのよ!」
「え?」
「名前で呼ぶなって。好きでもない人間に名前を呼ばれるのは嫌だって。ひっどいでしょう!?」
シエルの心臓がどくんと波打った。
(え、セバスチャンは、僕にセバスチャンと呼んで、って……。それって……?)
「貴方はもうその名で呼んではくれませんが……」
セバスチャンはシエルから目をそらしたままつぶやくと、仲間たちとの会話に戻った。
(待って、セバスチャン、それって、もしかして、僕のことが……好……き?)
シエルは聞きたかった。セバスチャンの気持ちが知りたかった。だが回りがふたりをさえぎる。
「で、そっちの子はなに?ミカエリスの隠し子?」
「そういえば、似てるわよ、貴方たち。まさか本当に親子なの?」
違います、親友の子どもです、一緒に暮らしているんですよとセバスチャンは軽く受け流す。
「かなーり、可愛いじゃない?もう、手を出した?」
露骨な質問にセバスチャンはちょっと顔をしかめた。
「まさか、まだ子どもですよ。趣味じゃない」
そりゃそうーよ、あったり前じゃない、アタシ達がいるんだからあ、とみなで嬌声を上げる。
───趣味じゃない
その言葉を聞いて、すうっと血の気が引いた。
(僕は)(セバスチャンの)(趣味じゃない)
ふらっと、その場を離れる。
「あ、シエル。離れないで……」
セバスチャンの声が音楽にかき消される。
趣味じゃない。
趣味じゃないんだ。
僕……僕は……、
僕はセバスチャンが好きなのに。
こんなに、好きなのに。
シエルの目から涙がこぼれた。場内の人々をかきわけながら歩いていく。「あら、かわいいわね、坊や」「ひとりなの?一緒にどう?」「ねえ、こっちを向いて……」。うるさい、話しかけるな、放っておいて……。
シエルは泳ぐように歩き続けた。出口が見える……。早く帰ろう、帰りたい。帰るって……どこに? セバスチャンの家に? 帰れない。帰れないよ、もう帰るところなんて、どこにもないじゃないか……。
腕をつかまれた。
「坊や、泣いているのかい?」
白い髪を長く伸ばした男が寄って来る。黒皮のロングジャケット。鋲の付いたロングブーツ。黒尽くめ。
泣いてなどいない。そう思っても、自分の頬が、首筋が濡れているのを、否定することはできなかった。
「気持ちが楽になる魔法のクスリがあるよ?」
男はシエルに囁いた。こんなに胸が詰まって、張り裂けそうなくらい、苦しい思い。これが楽になるなんて、あり得ない。男を押しのけて出口に向かう。
「いらないのかい?ほんのちょっとのお金で手に入るんだよ?ヒッヒッヒッ」
男の誘惑がシエルを動かす。後ろポケットから無造作に札を取り出すと、そのまま差し出した。
「おやおや、こんなにかい。なら特別サービスだよ」
手の上には、カプセルが3つ乗っていた。
「ピンクは君の気持ちをラクに、ブルーはハイに、白は君に天使の眠りを」
全部いっぺんに飲んじゃだめだよ、死ぬよ?、そう男は言いおいて、ひらひらと手を振って去っていった。
───ピンクは君の気持ちをラクに、ブルーはハイに、白は君に天使の眠りを……
ああ、めんどくさい、なんだってかまわない。光と音と人の渦、自暴自棄になったシエルはカクテルのグラスを取ると、3つのカプセルを全部一度に口に流し込んだ。
直後に、落下する。
to be continued….