輝く月の夜に

第三話 授業

「セバスチャン……セバスチャン……!」
───誰かが私を呼んでいる。呼んでいるのは……誰……?

「セバスチャン、起きて!もうお昼です」
 シエルがしきりにセバスチャンを揺り動かしている。セバスチャンは毛布を引っ張り上げて顔を隠し、
「もう少し……寝かせてください……シエル」
 とかすれた声でうなった。ここ数日、徹夜で仕事をしていた。ようやくクライアントのOKが出て、入稿を済ませたばかりなのだ。
「もぅっ! 僕はお腹が空いていますが…」
「んー、キッチンの缶の中に、クッキーが入っていますよ」
「あれは嫌だ」
「……ん」
「僕が焼いたやつだろ。あれ、うまくない」
「そんなこと……ない、ですよ。シエル……お願いです……から」
 セバスチャンはシエルを引き寄せ、胸に押し付けるように抱いて、そのまま再び眠ってしまった。
(もう、セバスチャンは……! 今日は数学の日だって言っていたのに)
 腹が立ったものの、セバスチャンの胸は暖かくて居心地がいい。規則正しいセバスチャンの寝息を聞いているうちに、シエルは次第に眠くなって、いつの間にか、すーっと眠りに落ちた。

***
 学校での例の話し合いのあと、結局セバスチャンはシエルを退学させ、納得できる次の学校が見つかるまで、自宅でシエルの勉強をみることにした。
「……貴方は何を教えられるの?」
心配そうなシエルの質問に、セバスチャンは答えた。
「貴方の知りたい事はなんでも」
「………」
「本当ですよ」
「フランス語は?」
「だいじょうぶです」
「ラテン語は?」
「問題ありません」
「日本語は……?」
「もちろん、話せます」
「………」
「たいていの言葉は話せます。言ったでしょう。あちこちで暮らしていたと。アジアも範囲内です」
「数学は」
「得意です」
「物理も?」
「まったく問題なし」
「音楽」
「なにをやります?バイオリン、ピアノ?それとも声楽?」
「美術……」
「絵画ですか? 立体? 現代アートに挑戦してみます?」
 シエルは黙り込んだ。
(この人は本当に教えられるの…? 全部、はったりじゃないの…?)
 疑い深そうに睨んでいるシエルの顔を見て、セバスチャンはぷっと吹き出した。
「シエル。私は貴方に嘘は吐きませんよ」
「ほんとに……?」
「約束します。貴方に信頼されないのは悲しいですから」
「わかった。では、僕にラテン語と数学と音楽を教えてください」
「なぜ、その3つ?」
「……不得意だから」
 ぷいっと横を向いて無愛想に答える。
「わかりました。ではファントムハイヴ君、いつから始めますか?」
「もちろん今日からです。よろしくお願いします、ミカエリス先生」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。
 空が明るい。春の陽射しがきらきらと窓ガラスに反射していた。

 シエルは聡明で飲み込みが早い。セバスチャンはその賢さに舌を巻いた。そのうえ、できないことはできるまでこつこつやるし、めったなことで投げ出したりしない。スパルタ主義のセバスチャンの教え方はかなり厳しく、すぐに音を上げるかと思っていたが、予想以上にシエルはタフだった。
「ファントムハイヴ君は、結構がんばりますね」
「……目標があるんだ」
「ほう」
「起業したい」
「なるほど」
「何をやるのかはまだはっきり決めていないけれど、自分で会社を興したいんだ」
「それはそれは。よい目標ですね」
 セバスチャンに褒められてシエルは嬉しそうな顔を見せた。シエルが会社を興すとは。なんの会社になるのだろう、楽しみだ。大学はどこを選ぶのだろうか。いや、大学など行かずとも起業して成功した人間はいくらでもいる。彼はどの道を選ぶのだろう───

***
 長い昼寝から目覚め、徹夜続きの睡眠不足を解消したセバスチャンはシエルに声をかけた。
「シエル、たまには外で食事をしませんか?」
 ようやく眼帯もはずれたし、気晴らしになってよいだろう。
 僕は朝から何も食べていませんよ、おなかの皮が張り付いちゃいましたよ、セバスチャンは全然起きないんだから、今日の授業はどうなったんです……とむくれているシエルを追い立てて、車に乗せて出掛けた。
 繁華街には、質の高いレストランが幾つかある。なににしよう、イタリアン? フレンチ? これはなんの店? 久しぶりの外出に浮き立っているシエルを見てセバスチャンは微笑んだ。ときどき、とても子どもらしくなる。
 早足で走るように少し先を歩いていたシエルの足がぴたっと止まった。肩が強ばって、緊張している。
(シエル?)
 3人の少年がふざけながら、こちらへ向かって歩いてくる。
───僕に目をつけて嫌がらせをしてくるのは、3人いて……
 シエルが言っていたのはこの3人か。リーダーらしい子どもに見覚えがある。あの子どもだ。シエルを痛めつけておきながら、野蛮な母親に連れられて、こちらを訴えると脅してきた……。セバスチャンは急速に膨らんでくる怒りの感情をぐっと抑えた。
 シエルは気を取り直して、ゆっくりと歩き始める。おやっという顔をして子どもたちがシエルに気がついた。にやにや笑いながら取り囲むようにシエルに近寄って来る。
「ハイ!」
「……」
「もう俺たちを忘れたのかよ?ファントムハイヴ。……あの晩は楽しかったな。また一緒に遊ぼうぜ」
 シエルは蒼白になった。吐き気がこみ上げて、思わず胸を手で押さえた。
───ファントムハイヴ、気持ちよくしてやるぜ
 あのときの声が蘇る。こいつらに殴られて、手足の自由を奪われて。あんな、気持ちの悪いこと……。頭がガンガンする。眼の前が、暗くな……る。だめだッ、倒れちゃだめだ、僕。立ってなきゃ、立って……。
 すっとセバスチャンの腕がシエルの背中を支えた。下卑た表情の相手に近づいてかがみこみ、耳打ちする。
「シエルに構うのはやめていただけませんか? もしまた手を出したら、『例の写真』を貴方のおかあさまに見ていただくことになりますよ」
 現れたシエルの保護者に子どもは後ずさった。
 『例の写真』。
 そう、セバスチャンは学校での話し合いのとき、わざとその写真だけ提出しなかったのだ。シエルのからだにいくつも印された、キスの赤い跡がはっきり写っているその写真を。
 子どもはセバスチャンのいわんとしていることを察したらしい。恨みがましい目をして睨んだものの、小さくうなずき、仲間を連れて引き下がった。

 シエルは詰めていた息を吐き出した。まとう空気が堅い。
「だいじょうぶですか?」
 こくんとシエルはうなずいた。だが目は彼らが去ったほうを追い続けている。
「シエル」
 ハッと気がついたように、シエルはセバスチャンを見上げた。蒼と紫の瞳が揺れている。手を伸ばしてシエルの肩をつかんだ。
「だい……じょうぶ。ありがとう、セバスチャン」
 青い顔をしている。まだ外出は早かったのかもしれない。シエルの反応を見てセバスチャンは後悔した。
「……えっと、どのレストランにする? まだまだ店はあるんでしょう?」
 陽気な声を出して、シエルはセバスチャンに話しかける。声が震えている。無理をしているその様子が痛々しくて、セバスチャンは見ていられなかった。
「帰りましょう、シエル。うちで私が何かおいしいものを…」
「嫌だ……帰らない」
「シエル」
「セバスチャン。僕は平気だから」
 ぎくしゃくした足取りで前を歩いていく。平気じゃないですよ、まったく。そんな青い顔をして何を言っているんですか、と言いたかったが、シエルの必死の努力を無駄にしたくはなかった。

***
 入った日本料理の店は最高だった。
 旬の野菜の煮物、天ぷら、茶碗蒸し、焼き物、豆腐料理、汁物……美しく盛りつけされた鉢が次から次へと出て来る。全体に量が少なめだが品数が多く、新しい皿が来るたびにシエルは歓声を上げた。さきほどの恐怖の色はすっかり消えている。
「和食が好きなのですか?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「今日初めて食べる」
 セバスチャンは驚いた。この店にはシエルが入ろうと言ったのだ。一度も食べた事のないものにチャレンジするとは。
「セバスチャンは和食は作れるの?」
「……残念ながら。私ができないもののひとつです」
「あんなになんでもできるのに」
「なんでもはできません。やれないことも結構ありますよ」
 でも、この子が好きなら和食をマスターしてもいい。きっと喜ぶだろう。
「じゃ、僕が作るよ、和食」
「え」
「貴方が作れないなら、僕が作る。いつも作ってもらってるから、その御礼だ。あ、これから練習始めるから、まだ先の話だけど」
 セバスチャンは胸がいっぱいになって何も言えなくなってしまった。
「どうかした?」
「いえ」
 けげんそうに自分を見る少年に、心の内を悟られないようにするのが精一杯だった。

***
 マンションに戻り、おやすみなさいを言って、それぞれの部屋に別れた。
 ベッドに横になったものの、セバスチャンは眠れなかった。バルコニーに出て、空をあおぐ。今夜は満月で、大きな月が空にかかっていた。
(ふう。こんな気持ちは初めてですね……)
 手すりに寄りかかり、セバスチャンはため息をついた。
 なぜだろう、切ない。
 自分の気持ちにセバスチャンは困惑した。なぜあの少年がこんなに気になるのか。
 保護者として? それとも……? 自分の心がわからない。

 夜空に煌煌と輝く月がセバスチャンを見ていた。

to be continued…