2021年9月6日発行
黒バーサリーさん主催アンソロジーに寄稿した書き下ろしです
……まったく人生というのは皮肉なものだねえ。
自殺した人間が『死神』になるなんて、考えもしなかったよ。あらかじめ、ちゃんと聖書に書いておいて欲しいね。
小生は死神として蘇り、あれほど嫌だった牢獄のような毎日をまた生きることになった。
灰色の日々よ、おかえりなさいってわけさ。
死神派遣協会に管理され、死亡予定者リストを抱えて、ひたすら魂を刈る毎日。小生は一刻も早く、死神としての生を終わらせたくて、真面目に任務を果たしたよ。
ノルマ以上に魂を刈れば、この仕事から解放され、完全な終わりを手に入れられると思って。
しかし、任務から解放されることはなかった。
いつこの仕事が終わるのか、いつ命を終わらせてもらえるのか、誰に聞いてもわからない。
もしかしたら『ヒトではない存在』となってしまったいま、『終わり』なんて永遠に来ないのかもしれない。それこそ永遠に働かされ続けるのかもしれない。
小生は絶望したよ。それは生きていた頃よりも、もっと深い絶望だ。『死』とは絶対的な終わりだと思っていたのに、終わるどころか死神として復活し、もう『終わり』なんて永久に来ないかもしれないなんてね。ヒッヒッ。なんて愉快なんだろう。
ところが、こんな小生にも僥倖というものが巡ってきた。
もしかしたら神のお恵みだったかもしれない。……だとすると神は相当嫌なチェスの名手だ。先の先を読んで小生を罠にかけたんだからね。
おや、執事くん、大丈夫かい。もう少しがんばっておくれよ。 せめて小生の話が終わるまで、ね。
ある日、小生はロンドン郊外のある貴族の屋敷へ向かった。その晩、そこで大量の魂を刈らなければならなかったんだ。
そんな大仕事、普通なら何人も派遣しなくちゃならないのに、いつだって人員不足の管理課は小生ひとりに押しつけたのさ。なにせ小生は、優秀な死神だったからね。
どうせ、いつもの退屈な仕事。淡々とこなせばいいと小生が出かけようとすると、管理課のひとりが引きとめて、面白いことを教えてくれた。
その貴族は代々、『悪の貴族』と呼ばれ、大英帝国を司る君主の命に従って、政府が手を出せない裏社会の汚れ仕事を、押しつけられた番犬だとね。
小生は興味を持ち、普段よりはいささか楽しい気持ちで、屋敷を訪れたのさ。
季節は五月。ちょうど社交界シーズンが始まったばかり。
屋敷では多くの招待客が、シーズン最初の舞踏会に浮足立っていた。
百人はいただろうか。
ダンスホールは色とりどりのドレス、むせかえるような香水の匂いに満ちていて、とても今宵、多くの死人が出るとは思えない光景だった。
小生は思わず死亡予定者リストを開いたけど、そこにはきちんと死者の名前が記され、定時になったら、何らかの形で、ここに集った人々が命を落とすのは、間違いなさそうだった。
小生は招待客のフリをして、ダンスホールに潜りこんだ。
普段はそんなことはしない。
けれど、その夜はね、話に聞いた『悪の貴族』というのをひと目見てみたかったのさ。もちろん小生も他の紳士方のように、燕尾服を身に着けたよ。小生はその頃、まだこんな傷跡はなくてね、なかなかいい男だったんだよ。
ヒッヒッ、笑うかい?
あまたの男女が、楽団の奏でる音楽に合わせて、カドリールを踊っている。これから死が訪れるとも思わず、愉しげに。最期の享楽に溺れて。
小生は給仕がしつこく勧めるシャンパンを断り、壁にもたれて、彼らの様子を眺めていた。
すると人々の合間に、色鮮やかな一羽のカナリアが飛んでいるのが見えた。
いや、カナリアじゃない。
オレンジイエローのカナリア色のドレスを身にまとい、小鳥のように軽やかにステップを踏んでいる──令嬢だ。
「……っ」
小生は思わず息を呑んだ。
楽団が奏でる音楽も、人々のざわめきも、頰に触れる春風も──一瞬にしてすべて消えた。
美しかった。
彼女はとても美しかったのさ。
蒼銀色の髪。
深い湖のように蒼く澄んだ瞳。
白皙の顔に小さく笑みを浮かべて。
小生の胸の鼓動は速くなり、からだはかつて味わったことのないほど、熱く火照った。
近づいて、彼女の声を聞いてみたい。
その美しい瞳を間近に見たい。
もう片時も彼女から目をそらせなかった。
じりじりと胸を焦がすような、甘やかな切ない想いが、からだ全体に広がっていくんだ。
これが恋だと、初めて知った。
身のうちに走るこの激情こそが、恋なのだと。
小生はいつのまにか一歩踏み出していた。
ちょうど音楽は終わったばかり。
小生は、どうしても彼女を間近に見たくて──そしてできるなら、ほんの少しだけでも彼女に触れたくて、踊り終わって、息を弾ませている彼女におそるおそる近づき、軽く腰を折って、次のダンスを申し込んだのさ。
彼女に向かって差し出した小生の手は、情けないことにカタカタと震えていたよ。
見知らぬ客に、彼女は一瞬けげんそうに蒼い瞳を見開いたけれど、すぐににこりと微笑んで、小生の手のひらに華奢な手をのせてくれたのさ。
楽団がワルツを奏で始めた。
彼女は素晴らしかった。
ツンと可愛く尖った鼻。汗ばみ、上気した桃色の頰。蒼い瞳は夢見るように、儚い視線を投げかけている。小生の拙いリードに合わせて優雅に踊る、その姿のなんと愛らしいことか。
時折、彼女の顔を暗い影が差したけれど、小生は気に留めなかった。彼女の左手がずっと小生の背中に触れていてね、甘いぬくもりをからだ中に感じて、嬉しくてしかたなかったよ。
ダンスの間、小生たちはひとことも言葉を交わさなかった。
目が合うと、彼女ははにかんだようにうつむき、小生は若者のように気恥ずかしくて、なにも言えなかった。
お互い黙ったまま、一曲ワルツを踊って、それだけさ。
曲が終わって、彼女の手が離れるとき。小生はたまらずに、彼女の手を握ってしまった。彼女は拒まなかった。
陶器のようになめらかで華奢な手だった。
桜色の爪がシャンデリアの光を反射して、珊瑚のようにきらめいていた。ほのかに温かかった。
彼女が少し悲しそうに瞳を揺らし、それはそれは優しい仕草で、小生からそっと手を離したとき。
屋敷中の明かりがふっと消えた。
いきなり真っ暗な闇に襲われて、人々は悲鳴を上げる。
「ああ、始まった……」
小生は呟いた。
素晴らしい時は一瞬にして過ぎ、いよいよ、死の時間がやって来たんだ。小生は本来の姿に戻ると、愛用のデスサイズを取り出した。
ダンスホールの様子ときたら、まさに地獄さ。
雲間から顔を出した月の光が窓から射して、悶え苦しむ彼らの姿を浮かび上がらせた。
「ぎゃぁあ……っ」
「た、たすけ……で……」
口から血を吐き、もがく男たち。
長い爪で胸をかきむしり、身をよじらせる女たち。
泣き、叫び、助けを求める声がそこかしこから起こるけど、ファントムハイヴ家のものは押し黙ったまま、誰一人として助けようとしない。それどころか、使用人たちは全員、ダンスホールの各扉の前に立ち、逃げ出そうとする者を鋭いナイフで始末していた。
小生は焦っていた。
あのカナリア色のドレスの令嬢はどこにいる?
あの美しい少女は?
暗闇の中、急いで目を走らせて、その姿を見つけようとした。 できるなら、助けたい。死神の掟を破ったって構わない。
小生はシネマティックレコードを回収しながら、やっきになって探したけれど、彼女は見つからないのさ。やがてホールにいた客たちはすべて生き絶え、小生はひとりひとりの顔を確認して、リストの最後のページに、ポンとスタンプを押した。
リストの中に彼女の写真はなかった。
彼女は、載っていなかったんだ。
ならば。
ならば彼女は──?
ことりと音がして、小生は後ろを振り返った。氷のように冷ややかな青月を背負って、バルコニーに誰かが立っている。
その姿は影になっていてわからない。けれど、ドレスのシルエットから、女であることは間違いなかった。
小生は吸い寄せられるように、のろのろと一歩ずつ人影に向かっていく。
女は小生に気づいたらしく、わずかに身じろぎした。
そのとき満月の青い光が、スポットライトのように女にあたり、その姿をくっきりと照らし出した。
それは──彼女だった。
小生がカナリアと見間違えた、あの可憐な令嬢。
ひと目見るなり、小生が恋に落ちたあの少女。
真珠のような涙が彼女の頰をつたって、ぽろぽろと零れ落ちていた。虐殺の風景を見つめ、声を殺して泣いていたのさ。
小生が近づくと、彼女は慌てて、手の甲で涙をぬぐった。
その左手の親指に、蒼い指輪がキラリと光ったのを、小生は見逃さなかった。
ファントムハイヴ家当主の証。
世にも珍しいブルーダイヤモンドの指輪。
そう、彼女こそ『悪の貴族』だったのさ。
「……死神、さん?」
初めて耳にしたその声は、虐殺の夜にふさわしくない、銀の鈴の音のようだった。きっと彼女は、デスサイズを持った小生の姿を見て、そう尋ねたのだろう。
小生は返事をしなかった。
かわりに屋敷の屋根に舞い上がり、泣き顔でさえ美しい彼女を見下ろして、姿を消したのさ。
これが小生と彼女との初めての出会いだった。
*サンプルは以上です