貴方の香りが今宵私を狂わせる[新刊サンプル]

 以下サンプルです


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「それで、だ。セバスチャン、お前にひとつやってもらいたいことがある」
 あらたまった口調でいわれ、私はぐっと気持ちを引き締めた。
「なんでしょう、坊ちゃん」
「僕専用の香水をつくって欲しい」
「は?」
「聞こえなかったのか? 僕だけがつける、僕のための香水をつくれと言ったんだ」
「プライベート・パフュームですか? 坊ちゃん、なぜそんなものを……」
「理由が必要か」
「いえ、そんなことはありませんが……」
「なら、命令に従え。僕が欲しいといったら、欲しいんだ。お前はただつくればいい」
「はい……」
 といっても、私に香水づくりのノウハウがあるわけではない。「Lily of the valley」の開発研究に私は関わらなかったし……香料の材料を集め、器具を用意し、精製、蒸留するのは、いつぞやのカリーよりもハードルが高い。
 困り切っていると、主人がニッと人の悪い笑みをみせた。
「ほう、お前でもそんな顔をするんだな。おもしろい。せいぜい、悩むといい。……ああ、そうだ。気に入らなかったら、すぐにつくり直させるからな。そのつもりで」
 承知しましたと、しぶしぶ頭を下げる私に、主人は愉快そうに笑って、書斎をあとにした。

「やれやれ……」
 今度はいったいなんの気まぐれだろう。
 いきなり、自分の香水が欲しいとは。
「Lily of the valley」を開発しているうちに、自分も欲しくなったのだろうか。
 いや、理由などどうでもいい。
 とにかく、主人が気に入るものを作らなければ。
 私は彼の完璧な執事なのだから。
 それに、とかすかに唇の片端をあげた。
 少年伯爵の香水、というのはどこか背徳的な匂いがする──。

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「さて、どういたしましょうねえ」
 天下に比類なき美しい魂を持つ我が主人が使う香水だ。生半可な材料ではつくりたくない。悪魔を従えた少年伯爵にふさわしいものでなくては。
「では」
 私は白手袋をきゅっとは嵌め直すと、タン! と地を蹴った。
 向かう先は世界最高峰の山脈、極北の氷原、ジャングルの奥地、太平洋に沈んだ幻の大陸、砂金に輝く黄金海岸……。
 寒さに凍えながら、地獄のような暑さに灼かれながら、私は世界中を駆けずり回り、主人のために選りすぐりの材料を集めた。
──いままでこんな努力はしたことがない。
 数え切れないほどの人間に仕えたが、私にこんなことをさせるのは彼だけだ。
 しかも不思議なことに、これっぽっちも嫌だとは思わない。むしろ彼のために働くのは、とても心地よい。可愛らしい子猫のわがままにつきあっているような気になる。
 苦労して手に入れた大量の材料を、ファントムハイヴ邸の地下に運び込む。
 地下、といってもワインセラーのある階ではない。ワインセラーの更に下、最下層にファントムハイヴ家の秘密の牢獄が存在するのだ。
「おおかた、拷問にでも使ったんでしょう」
 汚れた壁に錆びた手枷や足枷、鎖の千切れた跡があるところを見ると、その推理はあながちはずれてはいないだろう。石畳の床が赤黒く染まっているのは、きっと泥の汚れだけではない。
 だが、いまの主人の代になってからは一度も使用されたことはない。主人は一度たりともここに足を運んだことはないのだ。必要以上に人を痛めつけるよりは、いっそ殺した方がいいと考える主人だ。拷問など思いつくことさえないのだろう。
 私は血と恐怖の匂いが染みついた地下牢で、夜な夜な主人のための香水を研究していた。
「さあ、しっかりとお手伝いくださいね」
 世界各地から、私が運び込んできたのは、香水の材料ばかりではなかった。
 各国の一流調香師を連れ去り、地下の牢獄に閉じ込めたのである。彼らから、香水づくりの秘技を聞き出すために──。
「頼む。い、家に帰してくれ……」
「警察に訴えるぞ!」
 泣きつく者、脅す者。
 しかし私が顔を近づけて、にっこりと微笑めば、彼らはみな恐怖に竦んだ。
 異国から『運ばれてきた』彼らは、夜空を自在に飛ぶ私の姿を知っている。
 私が人ならざるものであることを、彼らは骨の髄まで知り尽くしているのだ。
 だから彼らは昼夜を問わず、必死で働いた。
 もちろん、私も……。

<中略>

 トップノートからミドルノートへと香りは移る。次第に香りはミステリアスに深く濃く、その姿を変えていく。練り香水を何度も舌ですくっては、主人の肌に塗り込め、その美しい肌に香水をまとわせていった。そのつど香りは万華鏡のようにめくるめく姿を変え、濃紺の闇に覆われた真夜中の庭を、神秘の輝きで満たしていく。
夜の中に沸き立つ香り。
 主人の『香り』は私を虜にした。
 自分で調香した香水のはずなのに、彼の肌に触れるとたちまち香りが変わってしまう。まるで炎に触れて窯変する器のように、彼の魂の匂いと合わさり、蔦のようにからみついて、しずくとなり……主人の汗に混じった香りが、くらくらと私を酔わせた。
 私の舌はへそへ、さらにその下へと這っていく。 
 突然、主人が軽く足を伸ばして、私の腿の間を爪先で触った。
「ッ、坊ちゃん?」
「なんだ、これは。……お前、僕が欲しいんだろう?」
「いえ、そんな……」
「フン。口ではそういっても、お前のからだはそうじゃない。そうか──美学が邪魔をしてるのか」
「……」
「お前の美学が勝つか、僕のからだが勝つか、見ものだな」
 主人はそういうと尊大に椅子の背にからだをもたせかけた。
 私の両肩に足をかけると、
「舐めろ」
 と傲慢に命じた。
 私は彼の前にひざまずき、白いふくらはぎから靴下留めをはずした。唇でソックスをゆるゆると脱がせ、そのままふくらはぎを舌で辿って、小刻みに震える可愛らしい小さな足指にキスをする。親指を口に含んで、キャンディをころがすように口の中で軽く愛撫すれば、主人は震えながら背をのけぞらせ、大きく喘ぐ。
「ッ、あぁ、あっ………」
 足の親指から小指へと、丁寧にすべての指を舐めると、舌を尖らせて、今度は足首、ふくらはぎ、太ももへとのぼっていく。すくいとった練り香水を唾液で広げては、主人の肌に塗りこめ、何度も肌を行き来して……。
 内腿を舐めたとき、主人のからだがひくり、と大きく震えた。
「んぅ……っ」

……サンプルは以上です