エディンバラに吹く風は

第五話

 数十年ぶりの激しい嵐がハワイ諸島を襲っていた。
 人智を超えた禍々しい存在が怒り猛っているような嵐に、各島は軒並み停電となり、いつもは賑やかな灯がさざめいているラハイナも、いまは深い闇に閉ざされている。海は荒れ狂い、大きな黒い塊となってのたくっていた。

 ハレアカラ山の中腹にあるコーヒー農園も嵐に直面していた。赤い実をつけたコーヒーの木々が風に大きくたわんでいる。窓ガラスを割らんばかりに降りつける豪雨に、緑の瞳の少女──サリヴァン──は顔を曇らせた。
「おい、ヴォルフ。この分じゃ、せっかく育ったコーヒーの実が落ちてしまうぞ。もうすぐ収穫だというのにな」
「お嬢、今年の収穫がふいになったら、俺らは干上がっちまうんでしょうか。来年、どうやって暮らしたら……」
 ヴォルフと呼ばれた大男が、テーブルにランタンを置きながら眉を寄せると、サリヴァンは手を振って、からからと笑った。
「心配するな。去年収穫した豆をオールドビーンズとして熟成させているし、こんなときのためにちゃんと金も貯めてある。一年ぐらい収入がゼロでも、お前とボクぐらいは食べていけるから、安心しろ」
 少女の言葉にヴォルフはほっとしたように笑顔をみせた。
 ガタガタッ、とまた強く窓が鳴った。
「これまでの嵐とはケタ違いだな……」
 暗闇の奥にどこか不吉な気配を感じる。
 荒れ狂う風の音に混じって、ときおり、子どもの悲鳴のような声が聴こえてくる。
「ヴォルフ……聞こえないか?」
「なんでしょう、お嬢」
「ほら、子どもの声がする。それもひとりじゃない、何人も……」

 だ……か
 ……けて
 おねが……い
 はや……きて

 ヴォルフは耳を澄ませたが、彼の耳には風と雨の音しか聴こえなかった。
「……シエルたちは無事だろうか」
 あの岬の白い家は、あまり丈夫そうには見えなかった。
 今夜のような嵐では、屋根ごと吹き飛ばされてしまうのではないだろうか。
「お嬢、あの追っ手がいれば大丈夫。あいつが坊ちゃまを守ってくれる」
「追っ手、じゃなくて、夫な。ヴォルフ、いい加減英語をちゃんと喋れるようになれ」
「すいやせん」
 ヴォルフは肩をすくめて、ぽりぽりと頭を掻く。
 サリヴァンは自分に言い聞かせるように、ぽつりと呟いた。
「そうだな。あいつがいれば、きっとシエルは大丈夫だな」
 岬の家のふたりを想った。


***
 米国首都 ワシントンD.C.
 この街にも、季節はずれの嵐は襲いかかっていた。
 吹きつける風。渦を巻いて降りかかる雨。禍々しい嵐が郊外の送電所をいくつも損傷させ、市内のあちこちで停電が起きている。
 市内中心部のマンションの一室では、床に積み上がった本に埋もれるようにして、女流小説家が自分の上梓した本を眺めていた。本から放たれる蒼い光が、彼女のシルエットを大きく天井に浮かび上がらせている。
「ねえ、ミカエリス。今頃、貴方はどうしてる? この忌まわしい本から逃れられたのかしら。それとも、さすがの貴方も────」
 不安げな、それでいて少し愉しげな表情で彼女は呟く。
 立ち上がると、窓の前に立ち、明かりの消えた真っ暗な街を見つめた。
 

***
 血が沸き立つ。
 野生が解き放たれる。

 セバスチャンは半ば気が狂ったように、シエルを抱いていた。
 なにもかも失っても、この子だけは手放してはならない。
 魔の声など、もうどうでもよかった。
 この肌も。
 この首筋も。
 甘い喘ぎをこぼす唇も。
 小刻みに震える桜色の爪も。
 すべて──そうすべて、自分のものだ。
 自分が育て、教え、愛し、彼も自分を愛して……。
 からだはこんなにも溶け合えるのに、どうして彼の心に入れない?
 彼の魂に直に触れることができたなら、この苦しみを取り除いてやれるのに。
 どうして、心の中に入れないのだ。
 ぽたり、と何かがシエルの肌に落ちた。続けて、またぽたり、ぽたりと、雫が落ちていく。
「……っ」
 自分が泣いていることなど、セバスチャンは認めたくなかった。だが歯を食いしばり、堪えても、涙は勝手に溢れ出て、自分の頰を濡らしていく。
「シエル……」
 ただひたすらセバスチャンは願いを込めて、「シエル、シエル」と何度も愛するひとの名を呼び、プライドも美学も──セバスチャンがセバスチャンであるために必要だったなにもかも──をかなぐり捨てて、ただその愛を失いたくない一心でシエルを抱き続ける。

 僕を抱くこのひとは一体誰なの?
 からだが熱い。
 気持ちいい。
 身も心も蕩けそうなぐらい気持ちがいい。
 ああ、このひとはきっと僕のことが好きなんだ。
 だってこんなに気持ちよくしてくれるんだもの。
 なのに──。
 なのに、どうして泣いているの?
 ぽたり、ぽたりと熱い雫が落ちてくる。激しく揺れ動く黒髪のせいで、顔がよく見えないけれど……きっとこれは涙だ。
 可哀想なひとだ、と思った。
 慰めようと腕を動かした途端、革が肌をこすり、自分が拘束されていることに気づく。
「……っ」
 そうして黒い革のベルトで縛られていることが、シエルを再び過去の悪夢に引き戻した。
──縛られて、ずっと痛いことをされていた。
 やめてと叫んでも、誰にも届かず、聞こえるのは子どもたちのすすり泣きと、酒に酔った男の怒鳴り声だけ。
 奪われ、剥かれ、貫かれた記憶。
 セバスチャンの愛撫に喘ぎながら、シエルの意識は過去と現在を激しく行き来する。

 いま僕を抱いているのは、僕を愛している人で。
  違う。
 いま僕を犯しているのは、ぼくを閉じ込めた男で。
  違う。
 いま僕を見て泣いているのは、セバスチャンで。
  違う。
 いま僕を見て嗤っているのは、あの男で。
  違う!
 誰が僕を抱いて、犯して、愛し、憎んでるの。
 誰の指に僕は啼かされているの。
 汗。
 精液。
 涎。
 涙。
 僕を快楽に導くもの。僕を惨めに貶めるもの……。

「シエル、シエル……!」

 遠くから僕を呼ぶ声がする。
 誰なの?
 誰が僕の名を呼んでいるの?
「ッ…ぅっ」
 セバスチャンが呻いたとき、シエルの鼻をツンと匂いがかすめた。
 男の唇から漏れ出た匂いに、急速に嫌悪感が沸き立つ。
 ああ、この匂い。
 甘く苦く酸っぱい匂い。煙のようなくすんだ匂い。
 嗅ぐと、からだが凍りついてしまう。胸の中が恐怖でいっぱいになる。
「え……っ?」
 いま、僕はなにを思った?
──煙のような、くすんだ匂い……?
 刹那、シエルの脳裏にバチバチッと激しい火花が飛んだ。
 この匂い。
──スコッチだ……。
 これは、スコッチの匂い。
 あの場所の匂い。
 あの男の匂い。
 パブの匂い。
 匂いがシエルの心の深層部を刺激し、忘れていた世界を蘇らせていく。バラバラだったピースが、パチリ、パチリとシエルの中で、次々と音を立てて嵌まっていく。
 クレマチスの茂み。
 曲がり角。
 地下室。
 火。
 そして……。
 ああ、もうすぐ記憶の芯に手が届く。

 僕が閉じ込められていたその場所は────
 その街は──

「ッ、あ、あ……ぁッ」
 刹那、高く快楽の頂点に持ち上げられる。
「あっ、やだ、やだ……っ、セ、バ……ッ」
 シエルが記憶の芯を掴んだとき、こらえきれないほど熱を溜めたセバスチャンに強く貫かれ、背を大きくそらして喘ぎ、そして同時にセバスチャンも熱を放った。
 シエルの奥へ、深く、熱く……。


*** 
「おい、おめえら、たんと食えよ。死なれちゃ困るからな」
 男が頰をひきつらせ、ぐびりぐびりとスコッチの瓶を傾けながら、子どもたちの檻を回っていく。細かく震える手が掴んでいるのはボロボロの古い鍋だ。中には得体の知れない食べ物がちゃぷちゃぷと音を立てている。到底食べ物とは思えない饐えた匂いに、子どもが口を開けるのを拒否しても、男は無理やり襟首をつかんで、漏斗で細い喉に流し込む。
「げほっ、げほっ」
 液体が気管に入って喉が詰まり、苦しみ悶えて、子どもが窒息死しても、男はまったく顔色を変えずに、死んだ子を乱暴に洞穴の奥に投げ込んで、他の獲物の「餌やり」を続けた……。

 四十年前──。
 息も凍りそうな真冬の夜。しんしんと雪が降り積もる夜だった。男はまだ臍の緒が付いている状態で、教会の前に捨てられていた。
 貧乏な牧師は育てることができず、隣町の小さな児童養護施設に子どもを連れて行ったが、そこは最悪の場所だった。子どもを守り、養育するはずの大人たちは、子どもたちのからだも心も、意のままに支配していた。最低限の食べ物だけ与えられ、生きているのがやっとの劣悪な環境。子どもたちは、職員たちの好きなように弄ばれ、性のはけ口にされていた。
 牧師が連れてきた子どもも、例外ではなかった。まだ八歳にもならない頃、院長に呼ばれ、カビ臭い絨毯の上で無理やり犯されたのだ。そして不幸にも、そのからだを気に入られた彼は、院長と施設の職員たちから虐待を受け続けた。

 十五になった頃、あまりの辛さに施設を逃げ出した。
 逃げ出した先に待っていたのは、さらに酷い地獄だったが、彼は身を売りながら食いつなぎ、つてをたどって、やっと今の職──運送会社のトラック運転手──を得た。
 もう誰にも犯されたくなかった。
 心もからだも支配されたくなかった。
 だが、ろくに教育を受けておらず、読み書きするのがやっとという男に世界は優しくなかった。さらに、幼い頃から虐待を受けたために、男の頰は意志に反してひくひくと痙攣した。それを気づかれないために、制服のキャップを目深にかぶって、常にうつむきがちに人に接したが、それがかえって、陰気で病的な印象を与えてしまったのだろう。
 職場の人間は男を避けた。ときには、まるで彼がいないもののようにふるまった。
 三十歳を越えても、本当に心を許せる友人もできず、昇進もできず、男の貧しい生活はいくつになっても変わらなかった。働いても働いても、安アパートで安い酒をあおるしかできない、貧しい人生に絶望した。
 真冬の晩に捨てられ、ぬくもりを知らずに育ち、恨みだけを積み重ね……。
 こんな寂しい人生しか与えてくれない神を──呪った。
 
 ある日、いつものように配送トラックを運転していると、瀟洒な家の玄関ポーチで幼い子どもが遊んでいた。艶やかな亜麻色の髪をした、とても可愛いらしい子どもだった。清潔な衣服を着て、苦労など知らぬ無垢な顔つきをしていた。
 男の心にぽっと明かりが灯るように、魔が宿った。
 男は配送トラックを停め、スコッチをひと口呷ると、荷台の扉を開け、古毛布と空の段ボールを抱えた。そして荷物を届けるようなふりをして、のろのろとその家に近づいた。咎められたら、家を間違えたというつもりだった。
 だが、運よく誰にも見つからず、男は子どもを背後から古毛布でくるむと、さっとすくい上げ、素早く段ボールに押し込んだ。荷台に積み、口と四肢にガムテープを巻きつけると、扉をしっかりと閉め、すぐに車を出した。
 すべて衝動的な行動だった。
 男は深夜、トラックを高速道路のパーキングエリアに停め(そこでよく仮眠をとったのだ)、暴れる子どもを荷台で犯した。綺麗な子どもを思いのままに扱うのは、とても気分がよかった。まるで自分が支配者になった気がした。
 そうだ、と男は思った。
 自分がされたことをこいつらに味わわせてやるのだ。
 今度は自分が支配する側に回るのだ。
 それが男の夢になった──。

 男は配送先の町でこっそりと子どもをさらった。
 彼は用心深かった。
 同じ町で二度、誘拐はしなかった。
 間をおいて、ひとりずつ。
 運送会社のマークのついたトラックで人々に荷物を届けながら、目をつけた子どもを連れ去った。
 英国においてミッシングチルドレンは珍しくない。人口六千六百万人のこの国で、行方不明になる子どもは年間二十万人にも及ぶ。大概が金目当ての犯罪だ。身代金目当てだったり、そのまま人身売買の組織に売り飛ばされる場合もあるが、表に出てくるのは氷山の一角。未解決事件は数え切れないほどだ。
 男の行為もまた、誰にも怪しまれなかった。
──俺はツイている。
 人生で初めて、ツキを感じた。
 人間らしい扱いなどされず、常に底辺を歩いてきた。そんな自分が今、無垢な子どもを欲望のまま、自由にできる。子どもを抱き上げ、段ボールに入れて荷台に積むたびにドキドキした。その先にある甘い時間を予感して、興奮した。指先まで熱い血が流れ、心が滾った。生きている実感があった。

 一人目の子どもは時間をかけた。
 からだを堪能した後、スコッチを飲みながら、一晩中いろいろな方法で子どもを苛み、夜明け頃、血まみれの断片をビニール袋に詰めて、ゴミ収集車に投げ込んだ。
 二人目、三人目と犯行を重ねるうちに、男は自分の『勲章』が欲しくなった。
 刻んで捨ててしまうと、後になにも残らない。死体を撮影して、携帯に保存しようかと思ったが、薄っぺらなデータなど自分にふさわしくない。手で触れられる、素敵な記念品。自分だけの『勲章』が欲しい。
 そのためには、安全な『屠殺場』が必要だった。

***
 男が理想の『屠殺場』を見つけたのは、エディンバラに荷物を運んだときだった。
 旧市街の迷路のような一画に乱立する、いまにも崩れ落ちそうなアパートメントの一室に荷物を届けた。住人に遅かったことを責められ、罵られ、うんざりした気持ちで外階段を降りていると、建物と建物の間に細い道があることに気づいたのだ。
 人一人がやっと通れるぐらいの狭い坂道。坂は建物の真下で行き止まりになっていた。以前は建物の下をくぐり抜けられたのだろうが、いまは途中にガラクタが山と積まれ、先へは行けない。その左脇の壁に小さな扉があった。男は好奇心に駆られて、壊れかけた扉をそろそろと開けた。
「ひでぇな」
 中は廃墟も同然だった。天井の一部が落ちて、上の建物のレンガが見えている。床には梁や窓枠の切れ端が散乱していた。
 何か金目のものはないかと小屋の中を調べていると、床にいびつな隙間が空いているのに気づいた。乾いた泥の合間から、錆びついた金属が覗いている。
「……?」
 ひざまずいて床板を何枚か外してみれば、泥で塗り込められたように、地面に埋まった金属の板があった。それは一メートル四方の蓋のようなものだった。男はころがっていた木切れを使って、蓋の隙間に差し込み、力いっぱい持ち上げた。厚く積もった土埃が一斉に舞い上がる。けほけほと咳き込みながら、腕で宙をかき、埃を払った。
 やがて視界が開けると、そこには地下へ続く長い階段があった……。

 スコットランドの首都・エディンバラは、十六世紀にひらかれ、都市として大いに賑わい、発展した。だがそれゆえに人口は増え続け、十八世紀になると本格的に住居が不足し始める。人々は、上へ上へと建物を積み上げ、いまでいう高層住宅をつくったが、やがてそれだけでは足りなくなり、今度は下へ幾層にも住居のような洞穴を掘ったのである。地下道を掘りながら、住居空間をつくり、結果、地下には蟻の巣のような街が出来上がった。
 地上の街と、地下の街。
 地上には貴族や富裕階級が住み、地下には貧民がはいつくばるようにして暮らす。当時エディンバラには、ふたつの街が存在していたのだった。 
 しかし劣悪な環境の地下の街からペストが発生し、地上に住む為政者たちは、貧民を助けるどころか、住人ごと地下を閉鎖するように命じた。文字通り、地上への出入り口をすべて塗り込めてしまったのである。
 いまもエディンバラ旧市街のあちこちに地下住居の跡が残っている。大きなものは過去の遺産として観光に利用しているが、その他にも知られざる地下住居への入り口が街の中に多々存在しているのだ。
 男が見つけたのも、その巣のような地下住居のひとつだった。

「ここは、なんだ……?」 
 男は十八世紀のことなど知らない。
 突如出現した地下への入り口に茫然としながらも、おそるおそる階段を降りていく。下に行くにつれ、ひんやりした空気に包まれた。
 内部には地面を掘って作ったらしい空間が広がっていた。まるで氷室のように寒い。壁面には窪んだ箇所があり、木の燃えカスがあって、そこが暖炉として使われていたことが知れた。奥にいくつも小部屋のような洞穴があリ、ひとめ見るなり、子どもを閉じ込めるのにぴったりだと直感した。
 まるで男のために誂えたような空間だった。
「ここがいい……」
 ぽつりと、ひとりごちた。そして、くくくと笑い始め、やがてその笑いは大きくなり、洞窟全体に響き渡った。

 
 男は小さな洞のひとつひとつに鉄の棒で檻を付け、さらってきた子どもたちを閉じ込めた。それからひとりずつ、暖炉の炎で熱く焼いた焼印を押し当て、自分の「徴(しるし)」をつけた。
「やめて、やだっ、お願い、やめて……!」
 間近に迫る赤く焼けただれた鉄の棒に、子どもが恐怖に震え、懇願しても容赦しなかった。
 獲物にしっかりと徴をつけると、自分の愛を存分に分け与えた。子どもの体温は高くて、男のそれを温かく包み込む。ずっと中に挿れていたいほど、気持ちよかった。
 子どもが嫌がれば、荒縄で縛り付けて、息も絶え絶えになるほど虐めた。虐待のあまり、子どもが絶命すると、死体を奥の小部屋に運んで、大ぶりなナイフで皮を剥いだ。回を重ねるうちに、背中の皮が比較的綺麗に剥けることを学び、それ以来、背中を剥ぐようにした。
 焼印がくっきりと浮かぶ、ベージュ色のなめらかな皮。皮の端には宝石のように黒い血がこびりついている。
 自分の『徴』のついた皮。
──まさに俺の勲章だ。
 やつらをなるべく長生きさせて、楽しもう。
 死んだら、腐らないうちに皮を剥ごう。
 一枚、一枚、皮が増えるたびに、男は歓びを味わった。
 それは生まれて初めて味わう感情だった。

 ***
 一年が過ぎた。
 
 ある夏の午後、ロンドンの街なかでトラックを走らせていると、目の端に銀色の光がきらりと輝いた。
 ハッとして目をしばたたくと、光だと思ったそれは子どもの銀色の髪だった。風に流れる銀の髪が陽に透けて、それが儚い蜻蛉の羽のようで、美しかった。その子は本物の天使みたいだった。
 目をそらすことができず、見入っていると、少し離れて歩いている若い夫婦──おそらく両親だろう──に向かって、その子は走り出そうとしていた。
「とうさま、かあさま、待ってえ!」
 子どもの甘い声が聞こえた。鈴をころがすような可愛らしい声。なびく髪の隙間から、ふっくらとしたさくらんぼ色の頰がのぞいている。瞳の色は……蒼と紫のオッドアイだ。のびのびと育った柔らかそうな肢体が地面を蹴って、駆けていく。
 男はごくりと唾を呑んだ。
 トラックを徐行させ、道の端に停めると、音を立てないようにゆっくりと車を降りる。いつものように古毛布と空の段ボールを持って、子どもに近づいた……。

「あら、シエル? シエル、どこなの?」

 男が荷台の扉をバタンと閉めたとき、母親の不安げな声が後ろで響いたが、そのときにはもう、子どもは縛られて、暗闇の中に押し込められていた。

to be continued…