輝く月の夜にシリーズ第三章です。『夢のはじまり』後になります。
女流小説家からの一本の電話でセバスチャンは……。
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prologue
北緯五十五度五十六分五十八秒 西経三度九分三十七秒に位置する古い都。
切り立つ厳しい崖の下は荒れ狂う北海が激しい音を立てて打ち寄せている。
七世紀に築かれた王の城。
地下に多くの死者が眠るという呪われた旧市街。
世界遺産として賑わうその街の、どこにでもありそうな狭い路地。
二百年前のレンガが敷き詰められた小道のほんのわずかな隙間から、小さな土埃が舞い上がった。
細かい雪のカケラのような、あるいは空気に触れてバラバラになった古代ミイラの布帛のようなそれは風に操られ、くるくると回り、回るごとにさらに微細に砕け、北国特有の冷たく乾いた空気の中に溶け込んで、海に向かった。
シエルとセバスチャンの住む南の楽園から、六千九百マイル離れた北の地で生まれたこの風が、ふたりを密やかに呼び寄せる。
第一話
「エディンバラ、ですか?」
セバスチャンの怪訝そうな声にシエルは後ろを振り返った。
開けっ放しの扉の向こうでMacの画面を見ながら、携帯で誰かと話をしている。
眉をひそめているところを見ると、あまりよい話ではなさそうだ。
シエルはそっと立ち上がり、声の聞こえないところへ移った。
今日の海は凪いでいる。
普段もあまり荒れない海だが、いまは鏡面のように滑らかで静かな海だ。
デッキを降りて、素足で浜辺に出た。
──いつ、言おうか。
胸の中で渦巻いているこの気持ちを。
学校へ行きたい、という気持ちを。
マウイ島でしか採れない希少な品種・マウイモカを栽培している、あのコーヒー農場を訪れてから、ずっと胸にあたためていたこと。
コーヒー豆に関する会社を立ち上げたい。
それは豆を扱う商社かもしれないし、あるいは自分でコーヒー農場を起こすことかもしれない、それとも街でカフェをやることかもしれない。
なにをやるのかは決まっていないけれど、どうすべきなのかはわかってきた。
このままじゃいけない。
いまのままではセバスチャンの庇護のもと、ぬくぬくと甘えさせてもらって、なんの苦労もせず、穏やかな日々が続くだけだ。
それが嫌だというわけじゃない。
大好きなセバスチャンと、毎日ずっといられて、同じものを見て、同じものを食べ、同じ時間を過ごし……。
幸せを絵に描いたようないまの暮らしは何ものにも代えがたい。
でも。
ビジネスを立ち上げたいのならば、そこから外に出なくてはならない。
世間知らずのお坊ちゃんでは世の中を渡っていけないことぐらいシエルにはわかっていた。
ましてや生き馬の目を抜くビジネスの世界では。
自分の部屋のベッドの横、トートバッグの中に入れっぱなしになっている学校案内のパンフレットの束を思い出す。
調べたけれど、マウイ島にはシエルが入りたいと思う学校はない。
かといってアメリカ本土の学校に通うのは気が進まない。あまりにもここと離れすぎていて、セバスチャンが反対するだろうし、それに自分もそんなに遠くへ行ってひとりでやれるかどうか自信がない。
でもせめてオアフ島の学校には行きたい。
まずそこで今の学力を知って、それから大学進学のための準備をして……。
目指す大学だってシエルの中ではもう決まっている。
だけど相談すれば、セバスチャンは私が教えてあげます、と言い出すだろう。
大学なんかに行かなくてもビジネスで成功することはできると。
彼自身、ひとりでヨーロッパからアメリカに渡って、そこで人一倍苦労して、フリーのデザイナーとしてトップに君臨した人だ。自分たちを巻き込んだあの卑劣な事件で、生死の境を彷徨うほどの大怪我を負わなければ、いまも彼は出版界で活躍していたことだろう。
だからきっとビジネスを立ち上げるコツや、人との付き合い方なんかも教えてくれるはずだ。
でも、僕が望むのはそうじゃない。
人に会って……人と関わりたいのだ。
セバスチャンとふたりだけの暮らしから一歩外に出て。
でも……。なぜだろう、どうしても言い出せない。
***
「シエル」
「ん? なに?」
砂を踏み、セバスチャンが困ったような顔をして、近寄ってきた。
片手で陽射しを遮りながら、シエルの傍に腰を下ろす。
「どうかしたの」
「デザインの仕事を、依頼されたのです」
「えっ、だって、セバスチャンはもう……」
「ええ、デザイナーは引退したと、すべての仕事先に伝えてあります。シエルには言いませんでしたが、その後もいくつかオファーはあって、でもそのつど断ってきました。ですが今回は……」
セバスチャンは頭を大きく振って、顔に落ちた黒い髪をかきあげた。
「シエルも知っているでしょう? あの赤い髪をした女性の小説家……」
「知ってる。セバスチャンが賞をとったときの人でしょ」
まだふたりがワシントンD.C.にいた頃、セバスチャンは華々しくデビューした女流小説家の二作目の本を装幀し、その年のベストブックデザイン賞を獲得したのだった。その本のデザインはセバスチャンにしては珍しく、得意の赤と黒の色彩だけではなく、美しい蒼を加えたものだった。赤と黒の世界の中に優雅な曲線を描いて走る蒼。それはシエルの瞳の色を表したものだ。
「あの本、僕も持っているもの」
自分をイメージしてデザインしてくれたことが嬉しくて、シエルはその本を大切に保管し、ときどき表紙を眺めては当時のことを思い出していた。
「その彼女が、個人的に装幀を依頼してきたのです」
「個人的?」
「ええ、一般に販売するものではなく、彼女の、彼女だけの本として作って欲しいのだと」
「どういうこと……?」
セバスチャンは視線を遠くに投げた。水平線の向こうに、灰色の雲が現れている。
ほんの少し風が出て、椰子の葉がかすかに揺れた。
「彼女がつい先日出した本を知っていますか?」
「うん、すぐにベストセラーになったんだよね。どんな話かはよく知らないけど」
「今回の本は実際に起きた猟奇的な事件をベースにして書かれたミステリで──人間の皮膚を剥いでコレクションする男の物語なのだそうです。私のもとにも一冊献本されているのですが、あいにくまだ読んでいなくて」
「それで……?」
「彼女は事件を調べ、物語を綴っているうちに……変な話ですが、実際に人の皮膚でその本を装幀したくなったというのです。自分が描いている世界にのめり込み、書けば書くほどその想いは強くなり、出版した後もその欲求が抑えられず、どうにも我慢できなくなって私に連絡してきた、というわけなのです」
「え。セバスチャン。まさか人の皮膚で……本を作るの?」
「シエル。本当にそんなもので作ったら私は犯罪者ですよ。第一どうやって、材料を調達するのです? 死体置き場からですか?」
セバスチャンはクスリと笑った。
「彼女がいうには、なにか……人間の皮膚に近い素材を探して、それで作ってくれないかと。彼女の恐ろしい欲望を封印するために」
「恐ろしい欲望?」
「ええ、このままにしておいたら、自分は人を殺しかねないと彼女は訴えるのです。自分の書いた本の中のキャラクターのように人を襲って皮膚を剥がして……。まあ、作家というものは書いているうちに、自分の創る世界に深く入り込んでしまうのでしょうね。彼女は特にその傾向が強いのでしょう。だからこそ人よりも面白いものを生み出して、大衆の心を打つ……」
シエルはごくりと喉を動かした。
創作にかける想いというのはそれほど強いものなのだろうか。もはや執念というより、業のように感じる。
「もしも……もしもセバスチャンが彼女の依頼を断ったら?」
「どうなるのでしょうね。私にもわかりません。彼女は他に相談できる人はいないと話していましたが、私よりも優れたデザイナーはたくさんいますから……」
そう言いつつも、セバスチャンの表情はすっきりしなかった。
シエルは気になっていたことを尋ねた。
「ねえ。エディンバラって、なんのこと?」
「嗚呼。聞こえていましたか。……今回彼女がモチーフにした事件は、いまからおよそ百三十年前のエディンバラで実際に起きたものでした。ジャック・ザ・リッパーと同じ時代の事件でしたが、その影に隠れて、知る人は少ないと思います。実は──エディンバラ外科医大歴史博物館には、犯人とされた男の皮膚で作った書物が、いまも展示されているのです」
「え、ほんとにあるの? そんなものが?」
「ええ、殺人犯の死刑執行後、その皮膚を剥いで製本したのですよ。当時は見せしめの意味もあったのではないでしょうか。数年前まで博物館のサイトに写真が出ていましたが、最近は皆、敏感になりましたから、人権団体から抗議でもあったのでしょう。現在は写真は下ろされて、ネットでは見られません」
「そう、なの」
「依頼の返事はともかく、エディンバラに行って、その本を見て欲しいと彼女はいうのです。そうすれば自分の気持ちがわかるから、と。まあ、その本のことはデザイナーの世界では知られた話ですから、私もいつかは見てみたいと思っていましたけどね」
「で……どうするの? 行くの?」
思わず不安になって聞くと、セバスチャンはフッと笑った。
「行くなって顔に書いてありますよ」
シエルの鼻の頭をちょんとつついた。
「え……」
「貴方が行くなというのなら、行きません。私の可愛い奥さん♡」
「あっ、また奥さんって言った! もぅお! セバスチャンが奥さんだってば!」
ハイハイとセバスチャンは勢いよく立って、足についた砂を払った。
「さあ、夕食を作りましょうか。今日はリクエストのあったナポリ料理ですよ」
***
「さて。どうしましょうね……」
深夜のキッチンである。
顎に長い指を添え、一冊の真新しい本を前にセバスチャンはひとり逡巡していた。
昼間、シエルにああは言ったものの、セバスチャンはエディンバラ行きに心が動いていた。
恐ろしい欲望を封印したいという彼女の願いにほだされたのだろうか。
いや、それだけではない。
『人間の皮膚で装幀された本』が、デザイナーとしての本能を揺り動かしたのだ。
それは悪魔的な書物であるがゆえに、一層自分を刺激した。
人間の心に巣食う闇を具現化した書物。
たとえ殺人犯の皮膚だとしても、作られてはいけなかった背徳的な書物。
それはどんなオーラを放っているのだろう。
禍々しいのだろうか、それとも偽りの天使のような清らかな空気をまとっているのだろうか。
考えれば考えるほど、本物を見たくなってくる。
長い年月に晒され、おそらくは退色しているであろうその皮の色合い。シワや毛穴が残るリアルな皮膚。
できるなら手にして、その皮の手触りを確かめたい……。
「いけない」
セバスチャンは額の汗をぬぐった。
自分までも猟奇的な夢に囚われてしまう。
そう思っても、底なしの沼にずぶずぶと呑まれていくように、暗い妄想に取り憑かれ、セバスチャンは小説家から送られてきた本をゆっくりと開いた。
to be continued…