恋のくじ引き[新刊サンプル]

ーーーーー以下サンプルです

「一日だけです」
「だめだ、二週間」
「一日」
「二週間!」
 ぐぬぬと、睨み合うこと五秒。
 その五秒の間に、天から啓示が降りてきた。
「じゃあ、くじ引きで決めよう!」
「……いいでしょう」

 こうして『くじ引き』という世にも公正な方法で二週間開催となった、カフェ[鳩と黒スグリとコケモモ亭]初の期間限定メニュー「ヴィクトリアサンドイッチケーキ」。
 二枚のスポンジ生地にラズベリージャムを挟んでパウダーシュガーを振りかけただけ。クリームデコレーション一切なしという、ケーキというにはあまりにもそっけないこのお菓子が、なぜヴィクトリア女王の心を慰めたのか理解できないけれど、英国人の心を掴む懐かしいケーキを、期間限定で出すというのはよいアイデアだった。
 たった一日なんてとんでもない。
 二週間だって少ないくらい。
 商売チャンスには貪欲に喰らいつくセバスチャンなのに、どうして一日だけのつもりだったのか、まったく彼らしくないけれど、そこはそれ、僕という優秀な恋人が彼をフォローすればいいだけさ。

 その優秀な僕は来たるべき五月二十四日──女王の誕生日であり、イベント初日──のために、セバスチャンの目を盗み、図書館から借りてきたレシピ本で夜な夜なスペシャル美味しいジャムの作り方を調べては、脳内にメモしていた。
 そのケーキが供される二週間、僕は全力で彼を応援するつもりだったんだ。だってさ、普段だってセバスチャンのカフェは近隣のマダムたちで大にぎわい。特に復活してから始まったランチメニューは大人気で、毎日行列が出るぐらいなんだ。
 だからいつもの登校前のカフェ掃除や、下校してからの早変わりのウェイターだけじゃない。早朝、彼と同じ……いや、その一時間前に起きて、まずはジャムの仕込みをする。
 ラズベリー、もとい、ここはひとつパリ風にフランボワーズといこう(発音は苦手だ)、フランボワーズをたっぷりの砂糖でコトコト煮詰める。セバスチャンが起き出してくるときには、もうジャムはすっかり出来上がっていて、つやつやと輝き、とろけるような甘い匂いを放っている(はず)。
 彼は鍋の中をのぞいて驚き、「へえ」とか「なかなかやりますね」とか、若干意外そうに、そして若干悔しそうな顔を見せる(はず)。
 もちろんオトナな僕は決して自慢したりはしない。
 少々顎をあげて、「たいしたことはないよ」と余裕の笑みを浮かべるんだ。

 ……の、はずだった。
 うん。確かにそのはずだったんだ。
 しかし僕の緻密な計画は、ウィルスという太古から地球上にはびこる謎の病原体のおかげであえなく頓挫したのだった。
 つまり、その、夜更かしして、冷えて、うっかり、風邪をひいてしまったんだ。
「……ぶぇくしょんっ!」
「今頃、風邪をひくバカはいません」
 セバスチャンの冷たい言葉が身に沁みる。
 ええ、まったくもってその通りです。
 うららかな春が過ぎ、まもなく英国の一年でもっとも素晴らしい季節を迎えようとするときに、高熱を出し、鼻水だらだら、声はがらがら、まっすぐに立っていることもできないぐらいの風邪をひくのは、バカに決まってる。なんといわれても言い返せない。でもそれは……と口を開いてすぐにパタンと閉じた。 
 言えるわけがない。
 セバスチャンを喜ばそうと思ってこっそりジャムの研究をしていたなんて! 言えば、たちまちセバスチャンは眉間にしわを寄せ、恐ろしい般若のような顔つきで「余計なことをしないでください」と絶対零度の声を響かせるに決まってる。
 しかも、客商売に風邪なんて禁忌中の禁忌。
 僕はただちにセバスチャンに下へ降りるなと命じられた。
 もちろん厨房へ出入りするなんてもってのほか。
 厳重に布団でぐるぐる巻きにされ、まずいカモミールティーを飲めと強要され、額には冷却ジェル、首にはタオル……といういかにも病人な姿で、五月二十四日を迎えたのであった。

    中略

──大変だったんだ。
 新しいメニューを仕込んで、掃除して、開店準備して、オーダーを取って、作って出して、全部ひとりで……。
 初日ぐらい、手伝ってやれればよかった。
「あのさ、風邪、もう大丈夫だから、明日から手伝……」
「やめてください」
 ぴしゃりと言われた。厳しい物言いに、思わず僕は息を呑む。
「ただでさえ普段よりも忙しいのです。これ以上手間を増やされてはたまらない」
 セバスチャンは食べ終わった僕の食器を取り上げると、さっさと下に降りてしまった。
 鳩が鉢から顔を上げ、グルグルと喉を鳴らしながら、小首を傾げて僕を見ている。
「やめてください……だって」
 鳩に向かって呟いた。
 うん、そう、だよね。
 初めての期間限定メニューで、ひさしぶりのスイーツで、お客さんがいっぱい来て、普段よりも仕込みも接客も大変で、そんなときに病み上がりの子どもがフロアをウロウロしていたら……迷惑だよね。
 それは正しくて、当たり前のことなんだけど。
 風邪なんか引いた自分が悪いんだけど。
 でも、僕は。
 できれば、僕は。
 もっと──暖かい言葉をかけて欲しかったな。
 少し病み気味の僕の恋人に、そんなことを求めるのは、難しいのかもしれないけど。
 風邪ひきの年下の恋人には、もっと優しくしてくれても、いいんじゃないかな。
 ぐすっと鼻をすすった。
 もぞもぞとベッドに潜り込んで、両手でからだを抱いて、蓑虫みたいにからだを丸める。
 もう久しくやってなかった、僕が寂しいときにやるポーズ。
 でも前と違って、その魔法はちっとも僕を慰めてくれなかった。セバスチャンの肌のぬくもりを知ってしまった今では、ひとり蓑虫なんて、寂しさを増すだけなんだ。
「ちぇっ」
 セバスチャンは仕事が残っているのか、まだ上がってこない。
 食器を洗う音が遠い。
 鳩はまた餌をついばんでいる。

 静かで、寂しい夜──。

ーーーサンプルは以上です