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なぜかその記憶は霞がかかったようにさだかではなかった。いま思い返してみると、あの出来事は長い旅に疲れた私が見た白昼夢だったかもしれない。
あれは確か最後のイスタンブール行き国際夜行列車でのことだったと思う。
もう四十年以上昔のことだ。
十九世紀末に開通した豪華寝台列車。ヨーロッパから遠くイスタンブールまで走るこの列車は、当時王侯貴族や富豪のみが乗車できたと聞く。その乗車料金は召使い一年分の給料に相当したというから、庶民にとっては一生手の届かない、夢のような列車だったに違いない。
その列車が今回の旅を最後に役目を終える、と大々的に報道されたせいだろう。
駅のホームは乗り込む人々や彼らを見送る人々でごった返し、その賑やかさに私は少なからず辟易としていた。
中略
ザルツブルグに到着した頃にはもう結構な降りで、レインコートに身を包んだ人々が急ぎ足でホームを歩いている。その群れの中に忽然と長身の男が現れた。黒いコートの襟を高く立て、顔を埋めるようにして、私のいる一等車両に向かってくる。
「え……?」
彼はいままでどこにいたのだろう。ずっとホームを眺めていたのに、気づかなかった。
唐突に男は私の視界に入ってきたのだ。
男の荷物は小型の鞄ひとつだった。チップ目当てのボーイが鞄を持とうと腕を伸ばしたが、彼はそれを優雅な仕草で断り、自ら鞄を持って列車に乗り込んだ。
男の姿が車内に消えたのちも、私は煙草の煙をくゆらしながら、狭いデッキに立って、ぼんやりとホームを眺めていた。ホームでは雨に濡れるのも構わず、老婆たちがザワークラウトとソーセージを挟んだドイツ風サンドイッチを売り歩いていた。
「pardon(失礼)」
突然耳元で声が響いた。振り返ると、さきほどのあの男が私のすぐ後ろに立っている。
濡れたコートを片手に、もう片方の手に小さな鞄を提げて。間近に見る男は非常に美しかった。その陶器のような白い肌も、エキゾチックな漆黒の髪も、磁力の強い紅茶色の瞳も……すべて人間離れした美しさだった。棒を飲み込んだように突っ立っている私に、男は眉をひそめて、「excusez-moi」と流暢なフランス語で言い直した。
「あっ、すみません」
どうやら私は男の通り道を塞いでいたらしい。急いで端に寄ると、男はチケットと部屋の番号を確かめ、私の部屋にすっと入った。
「そこは……」
と言いかけて口を噤んだ。そうだ、今夜からは相客がいるのだった。この男がそうなのだ。
私の声に男が不審気な顔を向けた。
「なにか?」
「あの、私もその部屋なのです。今夜からご一緒する方ですね?」
おそるおそる問うと、男は嗚呼、と黒髪を少し揺らし、
「よろしくお願いします」
と薄い唇の片端を上げて、丁寧に頭を下げた。
中略
男は黒手袋を嵌めた手で時折ゆっくりと鞄を撫でていた。鞄は四十センチ四方のほぼ正方形で、宝石商が持っているような革製の鞄だった。長く使い込まれているようだったが、四隅の革はよく手入れされていて、黒光りしていた。蓋の部分には濃紺の天鵞絨が張ってあり、奇妙なことには、先程の大雨にもかかわらず、まったく水に濡れていなかった。男は傘をさしてはいなかったはずだ。
その鞄は不思議な雰囲気を湛えていた。
たとえていうなら、それはルーブル美術館の奥にひっそりと安置されている古代の琥珀石のような、或は中に名匠ストラディバリウスのバイオリンが眠っているような、妙に静かで、それでいて心のどこかをざわつかせる気配。鞄の中には、いったい何が入っているのだろう。
「気になりますか?」
やわらかな声にはっとして顔を上げると、男が微笑んでいた。
知らず知らずその鞄に見入っていたのだろう。意識せぬまま、ぶしつけな視線を送っていたことに、もごもごと詫びを口にすると、男はなんでもないという風に首を横に振った。
「貴方はどちらから?」
男が訊いた。
「パリからです」
答えると男は小さく頷いた。
「そしてどちらへ?」
「イスタンブールまで……。商用で」
「商用?」
「ロンドンで骨董店をやっていまして、その商品の買付けに。異国の品物は英国人に喜ばれますから」
最後の列車だから乗ったミーハーな客と思われたくなくて、私はいつも仕事で乗っていることを言外にほのめかした。
「なるほど、ロンドンで……。それはまた懐かしい」
「いらしたことがあるんですか?」
「ええ、随分前になりますが」
男は想いを馳せるように、視線を遠くへ向けた。
「貴方はなぜ骨董店を始められたのです?」
「えっ? あ、その……」
「古いものがお好きなのですか?」
「あの、ちょっと子どもじみているんですが、いわくのありそうな古いものが好きで、いえ、オカルトマニアとかそういうんじゃありません。あ、いえ、そういうのも好きなんですが」
「呪いのダイヤとか?」
「ああ、たとえばそうです。うちにはそんな高価なものは扱っていませんけど、古いものには、大なり小なりそれにまつわる物語があって、そういうエピソードに興味があって……」
顔に汗を浮かべて、しどろもどろに答える私に男は目を細める。
「なるほど。それで先程からこの古びた鞄を見つめていらしたのですね」
ふふと男は笑い、ハンカチでしきりに汗を拭っている私を見遣った。
「では……もしよろしければ、退屈しのぎにこの鞄についてお話しましょうか」
男の言葉に私は飛びついた。
「ぜひとも!」
中略
物語?
作り話にしては妙にリアルだった。
男の描写が真に迫っていたからだろうか。男はときに悪魔のことを「私」と言い、少年を「坊ちゃん」と呼んだ。話にのめり込むあまり、まるで自分の身に起こった出来事のように語ってしまったのだろう。
──自分の身に起こった出来事……。
ぽつんと黒いインクが落ちたように、私の胸にひとつの疑念が生まれた。
それはみるみるうちに心の中で大きく広がっていく。
もしかしたら。
もしかしたらこの話は事実なのではなかろうか。いま目の前にいる美しい男は、本当は悪魔で、彼が身を以て経験したことなのではないか……。
背筋がぞくっと震えた。
まさか。そんなはずがない。悪魔などというものは存在しない。
これはただのお伽話。そう、世界に古くから伝わる悪魔伝説のヴァリエーションなのだ。
私たちは狭苦しい部屋の中で身じろぎもせずじっとしていた。
窓の外は真っ暗でどこを走っているのか、皆目見当もつかなかった。
空には月はなく、七月だというのにひんやりとした冷たい空気が部屋の中に漂っている。
「……そろそろ休みますか」
穏やかな男の声に空気が弛んだ。私はほっとして頷く。それから私たちは当たり障りのない会話を少し交わすと互いにベッドを譲り合い、男は上段、私は下段のベッドにそれぞれ横たわった。
目を瞑ると、瞳孔が針のように細くなった男の紅い瞳が瞼の裏に蘇った。私は何度もその瞳の色を思い出した。そして同時に男の話も思い返していた。
──いま私の頭上にいるのは、悪魔なのだろうか……。
すらりとした、しなやかなからだつき。類い稀な美貌。悪魔とはあれほど美しい生き物なのだろうか。
私は狭い寝床で寝返りを打った。
馬鹿馬鹿しい。そんなことは考えるだけ無駄だ。
男は眠れないらしかった。時折、頭上でかすかに動く気配を感じたが、私は堂々巡りのような意味のない思考に疲れ、そのうちに寝入ってしまった。
夜更けにひゅう、ひゅうと風の唸る音で目を覚ました。窓が開いているのかと思ったけれども、睡魔には勝てず、また深い眠りに吸い込まれていった。
どこか遠くで女の悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
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