現パロ。ツイッターフォロワーさんの呟きから発想したお話です。
「ダサかわいい普段着セバシエ」がテーマです♡ 2022.3.4
「くそっ」
夜十時。
一月の空気は凍りつくほど冷たい。ふぅっと小さく息を吐けば、白く濁って、一層寒さが身に沁みる。
「なんで来ないんだよ、バカ執事」
セバスチャンがこんな言葉を聞いたなら、眉をひそめて端正な顔を少しゆがめ「お行儀が悪いですよ」とたしなめるだろう。まったく、あいつはいつでもどこでも口うるさい奴なんだから。
受験を間近に控えたシエルは、いま塾から家に帰る途中だった。
いつもなら塾の入口に車をとめ、忠犬のごとくシエルを待っているセバスチャンが、今夜はなぜかいなかった。電話をしてもつながらず、いつまで待っても迎えに来ず、仕方なく、寒風吹きすさぶ中、家路を歩き始めたのだ。
「なんで電話に出ないんだよ。せめてラインぐらい入れろよ…」
おととい、さんざん降った雪が消えずに、ところどころ道に残っている。すっかり硬くなった雪の塊を、腹立たしげに上からぎゅうぎゅう踏み潰した。
「…っていうか、いくら安いからってガラケーを選ぶなんて信じられない。あいつ、本当にバカじゃないのか」
本日二度目の「バカ」という言葉を口にしたシエルの耳に、遠くからちりんちりんと可愛らしいベルの音が聴こえてきた。目を凝らして暗闇を透かし見れば、薄青い小さな光が右に左にと大きく揺れながら、シエルに近づいてくる。
「自転車か…」
道の端に避けようとすると、
「坊ちゃん──!」
大声で呼びかけられた。
「え?」
「迎えに来ましたよー♡」
「な……っ、まさか!?」
目を瞠った。
セバスチャンがよろよろと、いまにも倒れそうに自転車に乗ってやってくる。
「おいっ、なんでお前、自転車…アッ、気をつけろっ!」
「坊ちゃん♡」
セバスチャンが嬉しそうな声を出した途端、自転車は派手によろめき、運悪く、凍った雪に滑って、ぐわっしゃん!!と思い切り、シエルの横の電柱にぶつかった。
「あっ、あぶなっ、危ないだろ、お前!」
すんでのところで激突から身をかわしたシエルが振り向くと、セバスチャンが自転車からころげおちて、尻餅をついていた。
「大丈夫か……?」
思わず手を差しのべれば、執事はおずおずとすまなそうに手をとって、起き上がる。
「お待たせしてすみませんでした、坊ちゃん」
「なんでだ?」
「は?」
「なんで遅くなった? なんで車で来ない? だいたい、なんで自転車?? お前、自転車、乗れないだろ?!」
続けざまにシエルに責め立てられて、セバスチャンは身を縮こめる。
「ですが……あの」
「あの、なんだ!」
「あの…坊ちゃん、お忘れですか? 車は昨日……」
「昨日? 昨日がどうした」
「…その…家賃のために」
「あ」
思い出した。
車は──ファントムハイヴ家のロールスロイスは、昨日、シエルとセバスチャンの住むアパートの家賃のために、中古車ディーラーに売り払ってしまったのだった。
***
半年ほど前。
シエルはロンドンのファントム社社長室で、いつものように山と積み重なった書類に目を通していた。季節は夏。午後の強い日差しがマホガニーの机の上に落ちてくる。立ち上がって、窓から見下ろせば、半袖やノースリーブ姿の人々が楽しげに街を行き交っている。常よりも人が多いのは、きっと夏のバカンスシーズンに入ったからだろう。
「のんきなものだな」
シエルは呟いた。
最後にとった休暇はいつだったか。
思い出せないほど前だと気づき、一層憂鬱になる。だが、シエルは去年亡くなった両親の跡を継ぎ、齢13歳にして大企業を経営する社長である。
何千人という社員、そしてその家族を食べさせるために、いっときも手を抜いてはならないと知っている。今日も今日とて、がんばらなければならないのだ。
ジャケットの襟を正して再び座り、書類に集中しようとした。
と、そのとき。
慌ただしい足音が聞こえたかと思うと、バン!と大きく音を立てて、扉が開いた。
「坊ちゃん、あ、いえ、社長!」
シエルの秘書であり、かつファントムハイヴ家の執事であるセバスチャンが顔色を変えて、部屋に飛び込んできた。
「なんだ、セバスチャン。みっともないぞ」
「ぼぼぼ、坊ちゃん。落ち着いている場合ではありません!」
珍しい。
なにがあっても沈着冷静をモットーにしているセバスチャンが、顔色を変えてわめいている。
「いったいなにがあったんだ」
「やられました」
「やられた?」
「はい」
慌てふためくセバスチャンを落ち着かせて、話を聞けば、ファントム社の強力なライバルであるヴィクトリア社が打ち出した、夏のバレンタインと称した販促作戦が大当たりしたのだという。シェアを大きく奪われてファントム社の売上は下がり続け、現在前年比マイナス50%。このままだと倒産は目前だ。
「それだけではありません」
セバスチャンがさらに顔色を悪くして言った。
「SNSで誹謗中傷されています」
「なんだって?」
「当社がチョコレート成分を偽造表記しているというのです」
質の高いチョコレートを製造し提供する。それが19世紀から続く製菓会社ファントム社の社訓である。成分をごまかすなどあり得ない。
シエルがそう言うと、セバスチャンは眉を寄せた。
「英国チョコレート協会が調べたところによると……」
「ああ、あそこか。ヴィクトリア社を定年退職した社員たちの天下り先だろ。先月できたばかりの怪しい団体だ」
「ええ。その協会が当社売り上げNo. 1のカカオ成分60%のチョコレートを精密に検査したところ……カカオは59.999%しか含まれていないというのです」
「は? たった0.0001%だろ? 計測誤差の範囲内だ。たいしたことじゃない」
「それが、坊ちゃん……」
何者かによって、極秘であるはずの調査結果をSNSに流され、あれよあれよという間にそれは拡散し、ファントム社は成分表記を偽っている、実はあれはチョコレートですらないという悪意ある噂が一人歩きし、やがて「事実」に変換され、いままさにファントム社はネット攻撃にさらされているというのだ。あいにく、ファントム社はサイトはあるものの、SNSアカウントを有しておらず、秒単位で広まっていく噂を止めるすべがない。
「だからあれほど、アカウントを取れと言ったのに!」
シエルが歯噛みしてもあとの祭り。
頭の固い重役たちが自分たちの理解できないSNSなどというものに猛反対し、シエルは彼らに忖度して、結局自社の公式アカウントをとらなかったのである。
「ネット攻撃だけではありません。坊ちゃん、おもてをごらんください」
セバスチャンが窓をほんの少しだけ開けた。
さきほど、シエルが夏を謳歌していると思っていた人々は、いまや通りを埋めるほど増えている。よく見れば、彼らはのんびりとバカンスを楽しんでいるのではなかった。社の周りに集まり、腕を振り回し、口々にファントム社を罵っている。その憎々しい罵倒たるや、シエルがあたかも人殺しだといわんばかりだ。
「ひどすぎる……」
「あの人たちは日々、誰かを責めたくて責めたくてしかたがない人たちなのです。うちのチョコレートを買っていなくても、いえ、そもそもチョコレートなんて見向きもしない者たちが、尻馬に乗って、騒いでいるのでしょう」
こうなれば、いまさら釈明しても手遅れだろう。
いや釈明すればするほど、彼の怒りは増していく。
くだんの投稿のリツイート数は10万を超えそうです、とセバスチャンが悄然とタブレットから目を上げる。
「数は力なり」だ。
真実は「数」という力に押し潰されていくのだ。
「やられた、な」
シエルはゆっくりと汗の滲む額を押さえた。
ファントム社の株はその日のうちに大暴落し、数日後、伝統ある有名企業はあえなく倒産した。それでもまだ満足できない民衆はシエルの私邸にまで押しかけ、シエルとセバスチャンは先代から仕えているタナカの縁で、極東の島・日本まで這々の体で逃げてきたのであった。
***
自転車を引きながら、とぼとぼとふたりは歩いている。
自転車のハンドルはぶつけた衝撃で曲がっている。
「お前、その自転車はどうしたんだ」
シエルは自転車なぞ持っていない。英国では必要なかったため、セバスチャン同様、乗れないからだ。
「お隣のグレルさんに貸していただきました。少しでも早く坊ちゃんのお迎えに行きたくて」
「あいつか……」
東京下町のアパートに引っ越してきたとき、セバスチャンが一応お隣にご挨拶をと小さな小さな菓子折りを持って訪ねると、出てきた真っ赤なロングヘアの男はセバスチャンにひとめぼれしてしまったのだ。以来、彼──グレルさん──は、なにかとふたりの世話を焼いてくれる。
「あいつの自転車なら、弁償しなくてもいいな」
「坊ちゃん」
セバスチャンがそっとシエルをたしなめるも、ない袖は振れない。
昨日、5ヶ月ためた家賃を支払うために、遠路はるばる英国から船で輸送した、ファントムハイヴ家のロールスロイスもついに売ってしまったのだ。
「考えてみたら、あの輸送代があったら、もう少しマシなアパートを借りられたな。あんな車、なくたって全然構わない」
シエルは平然とうそぶいたが、セバスチャンは知っていた。
主人は幼い頃からずっとあの車に乗っていたのだ。いまは亡き両親とのたくさんの思い出のつまった車。英国から逃げるときも手放さずに、この国まで運んできたというのに。
その最後の思い出の品までも手放してしまった……。
「坊ちゃん、がんばりましょう!」
セバスチャンが暗い気持ちを振り払うように呼びかけた。
だがシエルは力なく呟く。
「……セバスチャン」
「なんです」
「塾、辞めてもいいんだぞ」
タナカの口利きで安くしてもらったものの、毎月それなりの受講料はかかる。その金を捻出するために、セバスチャンは先月からバイトを増やしたのだ。
「なんてことを言うんです、坊ちゃん」
「だけど……」
「英国では坊ちゃんは名の知れた企業の社長、そして大貴族の血筋。坊ちゃんが名乗っただけで、人々は一目おいてくれました。ですが、この国では違います。坊ちゃんはただの外国人に過ぎません」
「……そうだな」
「その坊ちゃんがのし上がるためには、学歴が必要なのです。この国では学歴がなによりもものを言います。よい高校、よい大学、よい企業に入って修業したのち、坊ちゃんは起業するのです。ファントム社は、ここ日本で復活するのです!!」
セバスチャンがきらきらと瞳を潤ませているのが、夜目にもわかる。
「お家再興のために、坊ちゃんにはがんばっていただかないと! そういえば、坊ちゃん、私、今晩、素晴らしいものを用意しておりました! さあ、早く帰りましょう。坊ちゃん、後ろに乗ってください」
「ええっ!?」
「さあ、早く!」
いきなり急ぎ出したセバスチャンに気をのまれて、シエルは言われるがままに自転車の荷台に飛び乗った。
曲がったハンドルをしっかりと握りしめたセバスチャンは、
「いいですか? 行きますよ」
とペダルを踏み、自転車はぐらぐらと揺れながらも、夜道を進む。
ひえっとか、危ないっとか、シエルの叫びが聞こえてもセバスチャンはどこ吹く風。腰に回された主人の腕のぬくもりが愛しくて、ぐいぐいと自転車を漕ぐのであった。
***
いつもの三倍の時間をかけてようやくアパートに到着すると、セバスチャンはいそいそとエプロンに着替えて台所に立った。なにかをジュワッと揚げているいい匂いが狭い部屋に漂ってくる。フィッシュ&チップスのような香ばしい匂い……
「今日の夕飯はなんだ?」
おいしい匂いに誘われて、ぐうとシエルの腹が鳴った。
「坊ちゃん、はしたないですよ」
「しかたないだろ! 自然現象だ」
やれやれとセバスチャンは肩をすくめ、「さあ、手を洗ってきてください」とシエルを追い立てた。
戻ると、ちゃぶ台の上にすっかり料理が並べられている。
白皿の上に、千切りのキャベツ、その横にはほこほこと湯気の立った茶色いかたまり。
フリッターだろうか? それともカットレット?
なんにせよ、とにかくうまそうである。
「これ、なんだ?」
シエルが聞くと、セバスチャンはよくぞ聞いてくれたといわんばかりに、にっこり微笑んだ。
「坊ちゃん、ごらんください!」
セバスチャンはばっと勢いよくエプロンをはずした。知らぬ間に白いトレーナーに着替えている。
見ればトレーナーには可愛らしい、ピンクの豚の顔が描いてある。正直言ってダサい。セバスチャンには全然似合ってない。
「お前……それ、全然似合ってないぞ」
「そういうことではありません! 坊ちゃん、この絵はなんですか?」
「豚」
「はい! ではこれは?」
セバスチャンは勢いよく後ろを向く。その背中には漢字で大きく「勝」と書いてある。シエルはもう漢字ぐらいは読めるようになっていた。
「勝……かつ?」
「はい、日本では豚はトンとも呼ばれます。そして後ろの文字は『勝』つまり、『カツ』。では、坊ちゃん。ここで問題です。このふたつをつなげると?」
「トン……カツ、トンカツ?」
「正解です! この料理の名前は『トンカツ』、ポークを揚げたフライです。そしてその名から、勝負運を上げる縁起のいい食べ物とされ、日本の方々は受験や就職前、勝負事の前には、ゲンを担いで必ず食べるのだそうです!!私のバイトするスーパーの同僚であるおばちゃんレディ達から聞いてきたので間違いありません!
さらにさらに、私が調べましたところ、トンカツはそもそも英国料理のカットレットが日本独自の発展を遂げ、この国に根づいたお料理だとか。つまり、英国から日本にやって来た坊ちゃんが、この地に根を張り、民衆の支持を得て、成功をおさめるというお告げのようなおかずなんです!」
滔々とまくしたてるセバスチャンを、シエルはうろんな目で見やる。前半はともかく、後半はほぼこじつけと言っていい。
「……」
「坊ちゃん、もうすぐ受験です。どうかトンカツを召し上がって、勝負に勝ってください。おや、私としたことが大切なものを忘れていました」
ちゃぶ台の下から、そろそろと包みを出す。
「坊ちゃん、プレゼントです」
「プレゼント?」
悪い予感がしたが、目の前で嬉しそうにそわそわしているセバスチャンを見れば、開けないわけにはいかない。
シエルはバリバリと粗悪な紙包みを開けた。
「えっ、これは……!」
「はい、お揃いです!!」
包みの中には、白いトレーナー。もちろん表には可愛らしいピンクの豚の絵。裏を返すと「勝」の文字がでかでかと書かれている。
「これを着て、トンカツを召し上がってください。きっと、勝負に勝てますよ!」
着れるかこんなダサいものっ、とシエルは投げ返そうとした。
だが。
きっとこれは、セバスチャンが稼いだお金をコツコツと貯めて、買ってきたものだろう。もしかするとバイトを増やしたのはこれを買うためだったかもしれない。そう思うと、むげにはできず、シエルはしばらくためらったあと、もぞもぞとトレーナーを着た。
「よくお似合いです、坊ちゃん」
そんなことを言われても一ミリも嬉しくない。
それでも「ああ」と返事をした。
部屋に大きな鏡はないから、窓ガラスの前に立った。そこにはお揃いの白いトレーナーを着たふたりが映っている。胸にはピンクの豚の絵、背中には勝の文字。
くだらない、と笑い飛ばすのは簡単だ。けれどそこにはセバスチャンの想いがある。シエルの胸にこみあげるものがあった。
「ほんとにバカだな、お前は」
シエルは小さく、本日三度めの『バカ』を呟いた。
「え?」
聞き返したセバスチャンに向かって、力強く言う。
「セバスチャン!」
「はい」
「──がんばるぞ」
「ええ!」
「がんばってがんばって、必ず復活してみせる。僕は……僕は、シエル・ファントムハイヴだからな!」
「嗚呼! さすがはファントムハイヴ家の当主! それでこそ、私の坊ちゃんです!」
と無邪気に手を叩く執事に、シエルも明るく笑ってみせた。
そうだ。がんばろう。
このトレーナーに恥じぬよう、がんばろう。
ライバル社に蹴落とされたファントム社再興のため、これから長い道のりをふたりで一緒に歩くのだ。
『勝負に勝つ』のだ!