バレンタイン・ポーション

 バレンタインデーまであと数週間に迫った或る日のことである。
 セバスチャンは暮れかけたロンドンの街を忙しく行き来する人々を冷めた目で眺めていた。
 彼らの後ろのショーウィンドウには早くも真っ赤なハートのオブジェが飾られている。
 二十年前にキャドバリー社という小さな製菓メーカーが、チョコレートの販売拡大のために無理やり考え出した「バレンタインデー」とかいうもの。いまではこの英国にすっかり馴染み、二月十四日には老若男女がこぞってチョコレートや赤いバラなどを想い人に贈り、愛を告げる日となった。
 くだらない。
と悪魔はうそぶいた。
 告白などいつだってよいではないか。
 赤いバラ?
 チョコレート?
 人間のいう大事な金を使わせる策略にまんまとはまり、製菓メーカーや花屋を儲けさせているだけではないか。
 セバスチャン・ミカエリスという悪魔で執事がここまで機嫌が悪いのは、我が主人であり、かつ将来の食料、かつ現在の恋人といういたって複雑な関係にある少年が、セバスチャンにまったくチョコレートをくれないからである。
 くれたっていいでしょう? 坊ちゃん。
「チョコをください」と素直におねだりすれば、主人はひょっとしたら小さなチョコレートぐらい贈ってくれるかもしれない。だが悪魔たるもの、人間ごときにおねだりなど死んでもしたくないのだ。
 思い返せば、十歳のバレンタインのときにもらえなかった。
 まあそれは契約したばかりで、自分もまだ悪魔根性丸出しで、坊ちゃんに上から目線で接する冷たい男だったからやむを得ない。
 十一歳のバレンタインにももらえなかった。
 その頃は執事業が随分板についてきて、坊ちゃんも勉学や狩猟やダンスに励んで多少伯爵らしくなった頃だった。今年はもらえるかななんて期待していたのが悪かった。
 坊ちゃんは立ち上げたばかりのファントム社の事業でバレンタイン用のチョコレートを売り出したものの、にわか商売が見え見えの粗悪でちゃちな商品だったからまったく売れず、在庫の山に頭を抱え、自分の商才のなさに絶望し、あげくはセバスチャンに八つ当たりをしてうさを晴らしたのだ。 
 余った山のようなチョコレートはノブレスオブリージュとかで貧民街の子供達にタダで配って善人ぶってみたいと思ったのに、すれた子供達には坊ちゃんの心の中などお見通しで、「余ったチョコかあ」「うまくないから、こんなに売れ残ったんだあ」などと聞こえよがしに呟かれ、坊ちゃんは立場がなくなって、悔しさに真っ青な顔をしてまたセバスチャンを殴りつけた。
 では十二歳のときはどうだったかというと、前年の失敗から学んだ坊ちゃんは質のよい、フランス仕込みの生チョコレートを編み出して、商品は大ヒット。バレンタイン当日は人手が足りず、セバスチャンもビターラビットとかいうウサギの着ぐるみの中に入って深夜まで販売したのだった──ご褒美のチョコレートはひとかけらももらえなかったけれど。
 さて今年は十三歳。もう坊ちゃんと三年も一緒である。二人の関係は深まり、最近はときどきベッドで過ごすことを許してくれる──好きだ、といってくれたことは一度もないけれど。
 今年こそは坊ちゃんからチョコレートをもらって、愛の告白なんぞされ、甘い甘い夜を過ごしたい。チョコレートなどドロドロした口触りでやたら焦げ臭い不気味なものだが(人間の味覚は全然わからない)、坊ちゃんからもらえるなら泥でも石でもなんでもいい。日々誠心誠意お仕えしているご褒美が欲しい。
 セバスチャンはファントム社の玄関前で一人馬車にぽつねんと座り、そんなことを考えながら主人が戻るのを忠犬のように待っていた。     
 主人はファントム社に来るときはいつもセバスチャンを中に入れない。「執事同行なんて、まるで保護者付きの子供みたいだろう」と嫌がり、不平顔のセバスチャンに顎を上げて命令する。
「Stay、だ」
 フン。
 Stayだなんて言われて嬉しいはずがない。
 だいたい自分は悪魔である。なにものでもなく、なんにでもなれる摩訶不思議な悪の妖精である。
「ん?」
 いま何か変な単語が浮かんだような気がするけれど、それはそれ。放っておこう。
 らしくない妙なことを思うのも、主人が自分をかれこれ六時間も放っておいているからである。
 いくら人間の時間などほんの瞬きに過ぎないといったって、もう我慢できない。
 バン! と重厚なあの扉を開けて、中に飛び込み、主人を連れ去ってしまおうか。執事の特権を使って。
 セバスチャンがいよいよ馬車から降りようとした時、バン! と勢いよくファントム社の扉が開いて、社員に両脇を支えられながら主人がよろめき出てきた。
「坊ちゃんっ?!」
 セバスチャンが血相を変えて走り寄ると、あまりの勢いに社員たちはシエルを抱えたまま、一歩後ろに飛びすさる。
 主人を奪いとるようにして抱き上げ、顔を覗きこむ。頰が真っ赤だ。ふうふうとやたらに呼吸が早い。
「坊ちゃん!」
 頰に手を添え、呼びかけると、シエルは気だるげに目を開けた。
「坊ちゃん、大丈夫ですか?」
「うん……」
 小さくうなずいて、セバスチャンの胸にしなだれかかる。そのからだが熱を持っている。
「な……んでも、ない、から」
 なんでもないという状態ではない。すぐに医者に診せなければ。
「医者は……だめだ」
 セバスチャンの心を見透かしたように主人がいう。
「え?」
「だめ……だから、な」
 呟くとシエルは再びを目をつむってしまった。
 医者がだめ? 
「どういうことです?」
 くるりとセバスチャンは向き直り、立ちすくむ白衣姿の社員に詰問した。しかし社員は「あの、それはあの……」と煮え切らない返事を繰り返し、業を煮やしたセバスチャンは般若のような形相で彼らに詰め寄った。その剣幕におそれをなして、ひとりは中に逃げ込んだが、足がもつれて逃げ遅れたもうひとりの社員の首根っこをひっ捕まえると、セバスチャンは乱暴に馬車に放り込み、主人とともに乗り込んで、さっと馬車を走らせた。
 体を小さくして馬車の片隅に縮こまっている社員に、ぐっと顔を近づけ、にっこりと微笑みかける。
「坊ちゃんに一体なにをしたのです?」
 悪魔のような笑みに社員はぞっとした。
「その、今年のバレンタイン用の商品の試作品を作っておりまして……」
 冷や汗をかきながら、しどろもどろに社員が語ったところによれば、今年のファントム社の新作チョコレートは「バレンタイン・ポーション──愛する人を射止める媚薬入りチョコ──」なるチョコレート・ボンボン。モニターの反応は上々、社長に商品化の許可をもらおうと今日の会議を開いたら、その席で社長は「僕にも味見させろ」と……。
「皆で止めたのですが、社長は一度言い出したらきかない性格……(そこでセバスチャンにギロッと睨まれ、社員は震え上がった)。ひ、ひと粒だけと差し上げたのですが、しゃ、社長は美味い美味いとおっしゃって、次から次へとポイポイお口に入れ、気がついたら、こんな状態に……」
 モノがモノだけに社外秘の案件で、だから医者も呼べずに、水を飲ませ、体を冷やして介抱したのですが……とすがるような視線を送る。
「毒性はないんですよ。リキュールと、あとハーブの類いで作っているんで、明日あたりにはきっと元通りになります」
 セバスチャンは深く頷いた。
「なるほど。事情はわかりました。大の大人がよってたかって幼い子供に媚薬入りのチョコを食べさせたというわけですね」
「え!? いえ全然違います!! 社長自ら、ご自分の意志で食べたんですよ! 僕たちのせいじゃありませんっ」
 セバスチャンは社員の抗議に耳を貸さず、馬車の扉を大きく開けると、走る馬車の中から思い切り彼を放り投げた。
「うわあああァァ!!」
 叫び声がどんどん小さくなる。
 真冬の寒空の下、ファントムハイヴ領の森の中に白衣一枚で放り出された社員がその後どうなったのか。それは誰にもわからない。
 さて、車内ではさきほどからシエルが苦しそうに身悶えしていた。ぎゅっと目を瞑り、額に汗を浮かべている。
「坊ちゃん……」
 見かねて襟のリボンをゆるめ、ひとつふたつシャツのボタンをはずした。
「ぁ…… セ、バ……?」
 シエルは薄く目を開けてセバスチャンを見上げた。ふぅと赤い唇から零れた吐息は甘く、瞳は熱で潤んでいる。
 セバスチャンの胸の鼓動が大きくひとつ跳ねた。

 
***
 ようやく屋敷に到着し、「坊ちゃん、どうされました」とわらわらと駆け寄ってくるバルドやメイリン、フィニといった障害物にしかならない邪魔な存在をどうにかし、窮屈なブーツを脱がせ、鎧のように重い外出着を取り払い、寝間着に着替えさせてから、水をたっぷり飲ませて主人を寝室に横たえた。その間にもうっかり肌に触れるたび、「ん……」とか、「ねぇ」とか、普段の坊ちゃんらしからぬsweetな声を落とされて、セバスチャンはクラクラする。
 とりあえず主人に上掛けをかけ、冷やしたタオルを額にのせて「おやすみなさいませ、坊ちゃん」と休ませようとすれば、
「セ、バスチャ、ン……」
と鼻にかかった甘い声が自分を呼んだ。
「なんです、坊ちゃん」
 欲望を抑え、あえてクールな声を出せば、主人は少し寂しそうな顔をした。
 その表情にキュンと胸が締めつけられる。
「ねぇ……」
 坊ちゃんは恥ずかしそうに布団の中でもじもじし、それから上目遣いにセバスチャンを見た。
「ねぇ、セバスチャン……。一緒に、寝よ?」
 ピクッとセバスチャンの指が震えた。
「坊、ちゃん?」
「一緒に、寝よ?」
 少し不安げに主人はもう一度言った。
 これは夢か幻か。
「寝よ?」なんて、坊ちゃんのほうから誘われたことなどこれまで一度もない。
 どうしよう。どうしたらよいのだ。
 ドキドキとセバスチャンの胸の鼓動が早くなる。
 馬車の中ではギリギリのところで踏みとどまった。
 甘い吐息をかけられても、潤んだ瞳で見つめられても、媚薬チョコに酔った主人の弱みにつけ込むようなことは美学が許さなかったのだ。
「坊ちゃん、今夜は……」
 やめておきましょう、と言いかけた。
 だがしかし……。
 こんな機会、もう二度とないかもしれない。
 never more.もう二度と……。
 そう思った瞬間、口が勝手に動いていた。
「かしこまりました」
 生唾をごくりと飲み込んで、執事のお仕着せを脱ぎ捨てた。
 しゅるる……と黒いタイを抜く。
 ドレスシャツのボタンを次々とはずして、厚い胸をのぞかせれば、主人はベッドの中からとろんと熱に浮かされたような瞳で、セバスチャンの動きを追っている。
「では失礼します」と静かに主人の隣に横たわる。
 おずおずと細い腕を体に回されて、いつもとは違う展開に少しばかり緊張する。
「坊、ちゃん……」
 軽く背を抱きしめ、指先でゆっくりと頰の輪郭をなぞると、桜色の唇がほんの少し開いて、意外な言葉を紡いだ。
「きす、して」
「えっ?」
 思わず聞き返した。
 まさか。いくら媚薬に酔わされているとはいえ、こんな言葉が坊ちゃんから出てくるとは思いもしなかった。
 いつもはキスだってセバスチャンが一方的に求めるだけで、坊ちゃんはどちらかといえばマグロ、いや黙って横たわっているばかり。興が乗ってくれば少しは抱きしめてくれるけど、わりと淡白な反応しか得られないのだ。
 嬉しくて飛び上がりそうになったが、すぐに待てよと思いとどまった。
 これがしらふのときなら天にものぼる心地だけど、媚薬のせいだと思うと心がしぼむ。
 躊躇するセバスチャンを見て、シエルは悲しそうに目を伏せた。
「いやなの?」
 嫌なわけがない。嫌なわけがないのですが……。
「ッッ?!」
 焦れたのか、突然シエルは噛みつくようにセバスチャンにキスをした。小さな舌を潜り込ませ、いつもセバスチャンがするように、懸命に舌を動かして絡めようとする。が、うまくいかずにもどかしそうに身をよじった。
「セ、バ……」
 おねがい、きす……と切なげにねだられて、なにもかも決壊した。
 媚薬のせいだっていい。
 坊ちゃんが私を求めているのだ。応えなくてどうする?
 後ろ頭をぐっと手で押さえ、大胆に深く舌を潜り込ませた。 
「んん……っ」
 生暖かい舌で可愛らしい歯列を撫で、上顎をくすぐるようになぞれば、赤く染まった目の縁に涙が次第に溜まってくる。顔の角度を変えて、また唇を深く合わせた。銀の髪をやさしく梳きながら、くちゅくちゅと淫靡な音を立てて舌を吸う。細い体が敏感にピクンと揺れた。
「気持ちがいいですか?」
 銀糸を垂らしながら訊けば、こくこくと素直に頷く。
 今日の坊ちゃんは本当に従順で、普段のそっけない態度とのギャップにセバスチャンの胸はますますときめいた。主人の体の力はすっかり抜け、腕はしどけなくシーツの波間に、寝間着の下の素足は絹のシーツをこすって、さっきからきゅっきゅっといやらしい音を立てている。
 嗚呼。こんなに乱れた主人を目にするのは初めてだ。
 もっと期待に応えて、いやらしい声をあげさせたい。
 普段は絶対許してもらえないあれやこれやをしてあげたい。
 セバスチャンはゆっくりと白手袋を噛んで抜き取った。
「ねえ、坊ちゃん。キスよりも、もっといいこと、いたしましょう?」
「ん、もっと」
 甘い舌足らずな声に、腰の奥が強く疼いた。

***
「ン、アッ、アッ」
 厚いカーテンに閉ざされた寝室に少年の淫らな声が響く。
「そんなにいやらしい声をあげて……いけない子ですね、貴方は」
「だって、セバ、スチャンが……」
「私が、なんです?」
 両腿の間から顔を上げて、唾液と白濁にまみれた唇を手の甲で拭えば、主人は羞恥に頰を染めながら「……気持ちいいこと、するから……」とつぶやいた。
「ッ」
 クラリとした。
 頭がおかしくなりそうだ。
「嗚呼、今夜の貴方は本当に素直で可愛らしい……」
 ふと気づけば、空気に触れて寒いのか、胸の突端が軽く持ち上がっている。
 可愛らしく立ち上がった薄桃色の乳首をやさしくつまんだ。
「あッ」
 主人はいまにも泣き出しそうに目を潤ませて、手の甲を噛んで声を殺す。
「我慢しなくてよろしいのですよ」
 そっと手を取って指を絡めた。
 いつもとは違う貴方の声をもっと聞かせてほしい。
 熱く喘ぎ、息も絶え絶えな姿をもっと見せて欲しい。
 唾液でたっぷりと濡れた舌を乳首の周りに這わせ、赤くぷっくりとふくらんだ先端を噛んで執拗に愛撫する。シエルは背をしならせて「ああ……っ」と切ない声を洩らした。
 脊髄のあたりがぞくぞくする。
 淫らに色づいた胸の周りからへそ、へそから足の付け根まで丁寧に舌を這わせれば、それに呼応するようにシエルのからだはぴくぴくと細かく震え出す。
 自分の愛撫に翻弄される姿がかわいくてたまらない。
「あっ、そ、こ、やだ……っ!」
 両腿を掴んでぐっと持ち上げ、微かにひくついている桃色のそこにくちづけたとき、主人がわずかに抵抗した。
「だ、め……」
「だめ?」
「そこ、や……だ」
「では──やめますか?」
 愛撫の舌を止めて意地悪く尋ねると、シエルはきゅっと唇を噛んで、責めるような瞳でセバスチャンを見た。
「坊ちゃん? 答えて?」
「〜〜〜〜っ」
 主人は耳まで真っ赤にしながら、聞こえるか聞こえないかの小さな声で「して……」と唇を震わせた。
 契約して三年。
 ようやく坊ちゃんの口からこんな言葉を聞いた。
 存分に愛して愛されて一緒に登りつめたい。
 セバスチャンはぎゅうっとシエルを抱きしめて、そっと後ろに指を挿れた。中をやさしく拡げながら、指の数を増やしていく。
「ン…、ァ…あッ」
 腰を引き攣らせ、セバスチャンの胸にすがってシエルは啼く。
 汗まみれの前髪をやさしく撫で、くちづけながらゆるゆると中に侵入した。もうたっぷりと愛された体の内部は柔らかく熱くセバスチャンに絡みついてくる。
「坊ちゃんの中、とても熱いですよ……」
 低く唸るようにささやけば、シエルはうっすらと目を開けて、あたたかく微笑んだ。
「セバスチャン……好き」
「っ」
「ずっと、前から、好き……。セ、バスチャンは?」
 胸がいっぱいでもうなにもいえない。
 嗚呼。これが坊ちゃんの本心なのだ。
 自分は愛されていたのだ。
 はからずも媚薬が主人の心の声を引き出し、セバスチャンは泣きそうなくらい嬉しかった。
「……私も坊ちゃんが大好きですよ」
 かすれた声で応えると、主人はニコリとまた笑って、ちゅっ♡とセバスチャンの頰にくちづけてくれた。
 もう死んでもいい。ここで悪魔の生が終わってもいい。
 胸に溢れる歓びと、頭の中が蕩け出しそうな快感にとろとろになりながら、セバスチャンは主人の唇にキスを返し、自分にやっと訪れた幸福を噛み締めていた。

***
「腰が痛い」
「は」
「足がつる」
「は」
「唇が腫れてる」
「は」
「は、じゃないっ! お前、昨日僕になにをした!」
 翌朝のことである。
 シエルは怒りに真っ赤な顔をして、モーニングティーを運んできたセバスチャンを怒鳴りつけた。
 執事は嬉しそうに顔をほころばせる。
「知りたいのですか? 坊ちゃん」
「当たり前だ!」
「昨晩の、あれやこれやを……?」
「え? あれや、これや……?」
 シエルの勢いが弱くなった。
「ええ、坊ちゃんは昨日ファントム社で新製品『バレンタイン・ポーション』の試食をなさり、食べ過ぎて体調がおかしくなってお屋敷に戻り、それから私に……まだ続けますか?」
 ぞっとしたような顔をしてシエルは押し黙った。
 そうだ、あのチョコレートだ。
 バレンタイン・ポーションと名付けたアレ。
 あのチョコレートを食べたときから妙にからだが熱くなって……それで……。
 自分がなにをしたのか急に恐ろしくなった。
 あれやこれや。
 この悪魔と。
 これ以上聞かないほうがいい、いや聞いてはならないとシエルの理性がささやいた。
「いや……、いい」
「さようでございますか」
 ちらと見上げれば執事はいつになくツヤツヤとした顔をして喜色を浮かべている。
 こぽこぽとカップに注がれる紅茶が普段よりも高級な香りを漂わせているのは気のせいではないだろう。
「あの新製品は……なかなかよいものですね」
「ぶっ」
「坊ちゃん、吹かないでください。汚れます」
「あ、ああ」
 できるならもうあの製品については触れないで欲しい。
 シエルは切に願った。
「きっとヒットしますよ」
「そ、そうか」
 にんまりとセバスチャンは唇の両端を吊り上げた。
「──とても効き目がありましたから」
と、ちゅっ♡とシエルに投げキッスを贈る。
「ヒッ!」
 シエルはベッドから飛び上がった。
 執事はニコニコと目を細めて先を続ける。
「坊ちゃんがあんなに私のことを想っていらっしゃったとは……」
 うるさいっと耳を塞いで、一目散にバスルームに駆け込んだ。
 鏡の前でおそるおそる寝間着のボタンをはずし、全身をチェックする。そこには赤いキスマークがびっしりと隙間なく付けられていた──普段は絶対許さないあの場所にも。
 一体どんなことを僕はやったんだ……!
 ああああと頭をかきむしったが、あとの祭り。
 おぼろげに脳裏に浮かんできたあれやこれやは恥ずかし過ぎて、もう思い出したくもない。