朝から坊ちゃんの姿が見えない。おかしい…とセバスチャンは首を傾げた。気配はあるから屋敷内にいることは確かなのに。シーツを抱えてすれ違ったメイリンを呼び止める。
「坊ちゃんを見ませんでしたか?」
「坊ちゃんですだか。えーと、申し訳ありません。ランドリールームにいましたので、お見かけしていないですだ」
「そうですか」
顎に指を添えて考え込む。とそのとき。とととととシエル・ファントムハイヴが走って来た。
「坊ちゃん!」
「なんだ」
「お探ししていたんですよ」
「なんの用だ」
「まだお顔も洗っていらっしゃらないですし、お着替えも…」
見ればシエルは一応着替えている。もしや自分で…?
「今朝は自分でやった」
「…どうしてです」
セバスチャンはやや不機嫌になった。朝のお着替えは楽しみのひとつなのに。主はぷいっと横を向いて、そそくさと部屋に入ってしまった。
「坊ちゃ……」
「入るな!ほうっておけ」
ばしっと閉められた扉の前でセバスチャンは困惑する。
なぜ、今朝に限って…。
*****
階下に降り、厨房でふうっとため息をつく。
自分のためにお茶でもいれましょう。たまにはよいでしょう。
「私だって…、私だって、気分転換したいときはあるんです!!」
不機嫌そうに茶をいれているセバスチャンにバルドが声をかける。
「おう、なんだ、坊ちゃんと喧嘩でもしたのか」
「…なんでもありません…」
このタイミングで声をかけないでいただきたいものですね、ふんっ。執事は立ったままぐいっと茶を飲んだ。空になった茶碗を見つめ、呟く。
「なんの味もしないじゃありませんか。ヒトの飲むものなんて、つまらないですよ」
後ろから家令タナカの枯れた声が響いた。
「その茶は、故郷より送ってまいりました新茶でございます」
「タナカさん……。勝手にいただいてすみません」
「いやいや、みなで飲もうと思っていたものですからよろしいのですよ。しかし立ったまま飲むとはいけませんなあ」
立礼の茶もありますが、まあ坐ってゆったりというのがよいのではありませんかな、ほっほっほっと後ろ手でのんびり去っていく。自分のイライラが見透かされているようで、情けなくなる。もう一杯いれ、今度は坐って飲む。
「…緑の香りがしますね」
相変わらず味はわからないが、むせ返るような緑の香りを感じる。肩の力がすっと抜けた。
「坊ちゃんから聞いたか?」
「なにをです?」
バルドの顔を見る。無精髭がまだらに残る顔。まったく髭ぐらい、ちゃんと剃ればいいのに。
「坊ちゃんがお前に言っていないなら、俺からは言えないや。直接、坊ちゃんに聞いてみろよ」
一体、なんの話をしているのでしょう。
******
主の部屋の前に立つ。
「坊ちゃん。失礼します」
入った部屋に主はいない。おや、と奥のバスルームをのぞく。そこには……。
鏡の前に大きな椅子を置いて、その上に乗り、かみそりを顔にあてている主の姿があった。
「危ないっ!」
突然の大声に飛び上がる主。手にした刃物を取り落としそうになり、慌てて今度は両手で掴もうとする。とっさに腕を伸ばし、かみそりを奪い取る。
「お前ッ!驚かせるなッ……う…ッ?」
執事の手を見て、竦み上がる。刃を直に掴んだ手から血が流れている。白手袋をはずすと、ペロッと傷口を舐め、血だらけのかみそりを涼しい顔で洗う。
「これぐらいの傷、なんということはありませんよ。ご存知でしょう、坊ちゃん」
主を落ち着かせるために、いつも以上に嫌みな物言いをする。
「あ、ああ…」シエルは目をそらして椅子の上から降りた。
刃物を丁寧に拭いて内ポケットにしまい込み、セバスチャンは聞く。
「それで、なにをしていたのです、坊ちゃん」
*******
「髭、ですか?」
「そうだ」
不機嫌そうに少年が告白する。
今朝起きたら、なんだか顔がざらついている。顔を洗ってもざらつきが取れない。鏡に顔を近づけてよく見たら、うすぼんやりした綿毛のようなものが生えている。
「それで、急いで、バルドのところへ行ったんだ」
「なぜ、私ではなくバルドの元へ?」
むっとした口調で執事が詰問する。
「だって!お前には髭がないだろうっ!聞いても無駄だと思ったんだ」
シエルは頬をふくらませて言い返した。
「バルドはいつも無精髭を生やしているから…。行ったら、このかみそりで剃ればいいと言われた。だから自分でやっていたんだ。そこへお前がきて…!」
「坊ちゃんのお髭でしたら、私があたりますよ?」
「嫌だ」
「何故です?」
「それぐらい自分でやる」
「坊ちゃんを危険な目に遭わせたくありません」
「危険じゃないっ!」
「……」
「……」
執事は先程のかみそりを取り出し、パチンと刃を立てる。
ずいっとシエルの前に乗り出し、刃で頬をなでる。
「…や…めろっ」
脇の下を冷や汗が流れる。意に介さず、執事はひやりと冷たい刃でゆっくり顔をなぞっていく。目のふち、鼻…こらえきれず、シエルは叫んだ。
「…わかった。命令だっ、僕の髭を剃れ!」
「yes,myload」
執事は満足そうににっこり微笑んだ。
*****
ふわふわに泡立てたシェービングクリームを顔に塗りたくられ、シエルは憮然とした表情で温室の椅子に坐っていた。何事にも形から入るのが好きな執事は、床屋を気取って革ベルトでしゅっしゅっと刃を研いでいる。
「では、坊ちゃん」
顔を近づけ、ゆっくりと刃をあてていく。間近に見るセバスチャンの真剣な表情。睫毛が恐ろしいほど長い。陶器のように滑らかな肌には髭ひとつ見当たらない。口元をきゅっと引き締めて手元に集中している。
──綺麗だな……
シエルはあらぬことを頭に浮かべてしまった自分に気がついた。顔が火照っていくのがわかる。まずい。視線に気づいたのかセバスチャンが目を上げた。
「なんでしょう、坊ちゃん」
シエルはぶんぶんと首を横に振ろうとした。セバスチャンは目だけで笑って、それを抑え、
「動かないでくださいね、すぐに終わりますから」
そのまま髭を剃り続けた。甘い拷問のような時間が過ぎ、ふわっと温かい蒸しタオルが肌にあてられる。
「はい、終わりました。いかがです?」
鏡に映った自分の顔はつるつるでいつもよりも明るい。指で剃りあとを触ってみる。
「…まあまあだな…」
クスッと執事は笑う。鏡を覗き込むと、ふたりの顔が並んで映った。黒髪の獣と、蒼と紫の瞳の少年。不意に気恥ずかしくなって、シエルは鏡に映らないように顔をずらした。素早く悪魔は少年の顔を戻し、鏡越しに目を合わせる。
「私の顔を見ておられましたね」
「……ッ…」
「なにかついておりますか?」
「………」
頬を朱に染めて、主はぎゅっと唇を結んでいる。鏡の中の瞳は潤んでいまにも涙がこぼれそうだ。セバスチャンは目を伏せて、シエルの頬にそっと唇を付けた。
「…貴様ッ!……」
殴ろうと手を上げたシエルの手首をつかむ。そのまま顔をほんの少し横に移して、唇を合わせた。
「…んん!…」
抗いたくてもかなわない。手首をつかまれたまま、くちづけは次第に深く、優しく、むさぼるように──。
「ん…」
からだから力が抜けていく。シエルは抵抗をあきらめてセバスチャンにからだを委ねた。温室の鳥がさえずっている。薔薇の香りが漂う。
──このまま時間が止まればいい。
蕩けるようなキスがからだを満たしていく。
*****
「…」
「……ん」
「……ちゃん」
誰だ、うるさいな、ほうっておいてくれ。いいところなのに。
「坊ちゃん?」
うわっとシエルはからだを起した。いつのまにか眠ってしまったらしい。執事が道具を片付けているのが目に入った。
「終わりましたよ、坊ちゃん。ぐっすり眠っていらっしゃったので、お声をかけるのは忍びなかったのですが」
さっさと道具をしまい込み、それでは昼食の準備がございますのでとパチンと懐中時計の蓋を閉じ、執事はシエルを置いて去って行った。
──夢だったのか……。
取り残されたシエルは中途半端な気持ちで立ち上がった。唇に生々しい感触がまだ残っている。
****
厨房に戻ったセバスチャンはそっけなく礼を言って、バルドにかみそりを返した。
「坊ちゃんと話したのかよ」
「ええ、お顔は私があたることにいたしました」
「…まあ、そのほうがいいよな…」
にこっとシェフに愛想の良い笑みを返し、エプロンの紐をぎゅっと結ぶ。さてと料理に取りかかる。トントントントンと小気味よい包丁の音が響く。湯気の向こうに主のきょとんとした顔が目に浮かんだ。笑いがこぼれる。
──坊ちゃんにはまだ早いようでしたので……とりあえず、夢ということにいたしました。
FIN