水の波紋

水槽から引き上げられたシエルは、びしょぬれのまま、薄暗い一室で悪魔の問いに答えていた。

「貴方の村は焼き払われた」
「…僕の村が焼き払われた…」
「yes.セバスチャン・ミカエリスによって」
「…セバスチャン・ミカエリスが僕の両親を殺した…」
「yes.貴方の復讐相手はセバスチャン・ミカエリス」
「…僕の復讐すべき相手はセバスチャン…」
「yes.貴方は私の下僕」
「?…僕は…お前の…下僕…?」
「yes.お前は私の下僕」
「僕は…貴方の…下僕…」
「yes.さあ、ひざまづいて、もう一度」
シエル・ファントムハイヴはふらふらと立ち上がり、悪魔の足下にひざまづく。
その手を取り、唇をあてる。
「お前は私の下僕」
「…yes,my load」
(チッ)
クロードと呼ばれている悪魔は心の中で舌打ちをした。
(それはセバスチャン・ミカエリスの台詞ではないか)
シエルの耳に正しい返答をささやく。従順にシエルはうなづき、クロードの手の甲に再び唇をあて、教えられたまま答えようとした瞬間。セバスチャン・ミカエリスが部屋に飛び込んで来た。

「坊ちゃん…!!」
ギッとクロードを睨みつけ、
「こんなに濡れて…。薬液の中にでも浸けましたか…?」
「貴殿には関係ないこと。さあ、シエル」
シエル・ファントムハイヴは促され、セバスチャン・ミカエリスに向かって叫ぶ。
「僕の両親を殺したのはお前だったんだな。セバスチャン・ミカエリス」
「坊ちゃん?」
「命令だっ、僕の前に姿を現すな」
「!」
「シエル、よくできた。さあ屋敷へ戻るぞ」
シエルはおとなしくひざまづくと、クロードに頭を垂れた。
「…yes,your highness…」
「……ッ!!」
二重の衝撃がセバスチャンを襲う。
「坊ちゃん、いけませんっ、こんな悪魔の…っ」
「セバスチャン・ミカエリス!貴殿は主の命令に背くのか?」
「…クッ…」
「さっさと消えろっ!、セバスチャン!!」
シエルの厳しい言葉に引きさがらざるを得ない。
「…yes,myload…」
どんなに悔いても己が遅過ぎたことはいまさらくつがえせない。ドアを閉める間際、クロードが自分の方を見て、ククっと嘲笑ったのが目に入った。

******
「お帰りなさいませ、旦那様」
ハンナと三つ子がクロードを出迎える。
「使用人が戻った。当面は何か下働きでも」
「…かしこまりました」
ハンナから部屋を与えられ、シエルは着替えるように指示される。僕はこれまで人に命令されて動いていたのだろうか…。わからない。だけど、心地いい。人の言うがまま、指示されるまま、動けばいい。自分で決めなくていいんだ。すべて旦那様にまかせればいい。シエルは背負っていた荷物が軽くなったような気がした。

数日後。大広間では。
「シエル坊ちゃんの様子はどうだ?」
クロードが従えた悪魔たちに尋ねる。三つ子が伏せていた紙を表に返した。そこには文字が書かれている。
『悪態をつきます』『不器用過ぎです』『すぐに倒れます』
「ハンナは?」
ハンナは少し躊躇したが、手元の紙を掲げた。
『夜に使い道あり』
「正解」
シエル坊ちゃんは『夜』使わなければとクロードは舌なめずりをした。

****

沈みかけた真っ赤な太陽があたりをルビー色に染める。
(まるであいつの眼みたいだな)
シエルは、自分を裏切っていた悪魔を思い出す。僕は両親を殺した奴とずっといたのか。ずっと?
ずっと…って、どれぐらいだ?僕の屋敷が焼かれ崩れて、それをあいつは一晩で元通りにして…。屋敷?いや違う、焼き払われたのは僕の村で…村であいつが両親を殺した…。それでクロード様が僕を救って…え、僕を救ったのは…。
おかしい。
ピースが合っていない。だいたい、僕はいつから今の主人に仕えているんだ…これが僕の仕事なのか?…女王の番犬は…いや女王の蜘蛛の…。僕…僕はいったい。

闇が近づいてくる。

りんりん。呼び鈴が鳴った。
主が呼んでいる。
シエルは身支度を確認してから、主の部屋へ向かった。
「御用でしょうか、旦那様」
「靴を脱がせろ」
「yes,your highness」

シエルが服従の言葉を口にする度に、クロードは快感に打ち震える。あのシエル坊ちゃんをひざまつかせ、靴紐ごときをほどかせるとは…。シエルの魂に執着しているセバスチャンがこの光景を目にしたらどうするだろう。不器用な手つきで紐をはずしているシエルを見下ろす。
「立て」
「はい…」
「脱ぎなさい」
「…?…」
「服を脱ぎなさい」
「え…それは…っ」
「主人の命令が聞けないのか?」
「…ッ」
………yes,your highness.

僕はここで何度この言葉を口にしただろう。口にするたびに、なにかが削られていく気がする。服従するのは、依存するのは楽なのに。けれど…。
思考がまとまらないままに佇む。主人の命令に従わなくては。そう思ってもからだが動かない。
「シエル」
「…あ…はい…」
祖末なシャツのボタンを外し始める。この先に待ち受けていることをかすかに予感しながら。

*****

坊ちゃん。
お願いです。私の名前を呼んで。
そんな奴の言葉に耳を貸さないでください。
私の坊ちゃん。

セバスチャンは、蜘蛛の屋敷から少し離れた森でシエルの気配を追いかけていた。いっそ、いますぐ助け出したい。主のもとに駆けつけたい。しかし己の美学が邪魔をしている。
(美学なんて…。主を救えない美学なんて、なんの役に立つのでしょう)
けれど命に背いて、これ以上シエルに拒絶されたくはない。その怯えがさらにセバスチャンの足を止める。

坊ちゃん…私の名前を呼んで…

****

覚悟していても、それはシエルにとって辛い、あまりにも辛い行為だ。舐められ、しゃぶられ、噛まれ、執拗に。涙がこぼれる。快感よりも恐怖が先に立つ。
クロードの二股に分かれた舌がちょろちょろと追って来る。逃げても逃げてもつかまえられる。もう何時間、主の好きなように弄ばれているだろう。自分の指を強く噛んで主の行為から意識をそらす。ぐっと肩をつかまれてからだをひっくり返された。本能的に起き上がろうとしたが、押さえつけられ、指を挿入される。
「…ひっ………」奥歯を噛みしめる。
一本、また一本、指が、増やされていく。苦痛のあまり、シエルの意識はホワイトアウトし、あのときに戻っていく。

誰か助けて。
とうさま、かあさま、助けて。
神様ッ。神様ッッ。
誰でもいい、僕たちを助けて。
……。
……。
そうだ。
神なんていないのは、とうに知っていたはず。
あのときに僕を救ったのは…。

唐突に指が引き抜かれ、現実に戻される。尻に主のものがあてがわれた。
…もう、限界だ。耐えられない。ぎゅっと拳を握る。眼帯をはぎ取り、かすれた声で力いっぱい叫んだ。
「…ッ……セバスチャンッ、来い!!」
「!」
クロードは驚き、動きを止めた。まさか、あの悪魔の名を呼ぶとは。
「シエル、あの者はお前の両親を殺めたのです」
「~~~~ッ」
混乱するシエル。必死の言葉が口をついて出た。
「違うッ、あいつは僕を助けたんだっ!」
「それは偽りの…」
「うるさいっ。あいつは、お前のようなことはしなかった!あいつは…」
そうだ、あいつは、いつだって、僕の言うことを聞き、僕を守り、僕に付き従い…。

「坊ちゃん」
聞き慣れた響きが全身を包む。
「そんなはしたない格好をして…。風邪をひきますよ?」
引き抜いたシーツで全身をくるまれた。
「セバスチャン」
自分の悪魔が顔を近づける。
「命令だっ!僕をここから助けろ!」
悪魔は優雅にひざを折って、頭を垂れる。
「yes,myload」
主をしっかりと胸に抱いて、セバスチャンは窓を開ける。振り向きざまに、主をさんざん弄んだ悪魔と目を合わせた。
(残念でしたね、クロードさん。私の坊ちゃんは貴方など、趣味ではないようです)
トンと窓枠を蹴って、宙に舞う。歯噛みするクロードをあとにして。

*******

抱きかかえられ、頬を冷たくなぶる夜風を気持ちよく感じながら、シエルはセバスチャンの顔を見上げた。
「なんでしょう」
シエルは確かめたかったことを訊いた。返って来た返事に満足し、安堵のため息をつく。セバスチャンの胸にからだをまかせて、コトンと眠りに落ちた。そのからだの重み、この世に二つとない美味なる魂の香り、セバスチャンは銀灰色の髪の中に顔をうずめる。自分の手に戻って来た少年のぬくもりを感じて満ち足りた気持ちになった。
 
『お前…僕に嘘はついてないな?』
先ほどの主の問いが耳に蘇る。ふっと悪魔は笑って、さらに宙を蹴って高く飛んだ。 

FIN