秋の薔薇

 アフタヌーンティーが済み、ディナーの準備までのわずかな合間。それは執事にとって、一日のうちの数少ない、自由な時間だ。庭の奥で待っている漆黒の彼女のもとへと急ぐ。ふいに目の端に見慣れない白いものがよぎった。足を止め、違和感を感じた辺りに目を走らせる。
──白い薔薇。
 枯れた薔薇園に一輪、頼りなげに立っている。
 しかも、まだつぼみ。
 冬の訪れが近いというのに、今頃つぼみとは……。
 無理だろう。やがて花弁のふちが茶色く縮れて、萎み、花開かぬまま、枯れてしまうに違いない。
 有能な執事は、腕を伸ばして、つぼみを摘み取ろうとした。
 そのとき。
 生々しい豊潤な香りが鼻をついた。
 甘く絡みつく、高貴で、かすかに酸味のある香り。
 生きている、といわんばかりのその強い主張に、気圧された。同胞のほとんどが朽ち、もはや己だけだというのに、この堂々とした存在感はどうだろう。

──まるで。
 自分が仕えるあの子どものようだ。
 生き地獄から、魂と引き換えに、救い出した子ども。たった十歳にして、悪の貴族を継ぐことを決め、それから三年間、身を切るような辛い思いを積み上げながら、女王の番犬の使命を果たし続けている子ども。
 その意志の強さ。
 揺るがない復讐への信念。
 いまにも折れそうなくらい細いくせに、せいいっぱい強がって、気高くみせている白薔薇に、少年の姿が重なった。
──まもなく霜が降りて、あっけなく枯れてしまうだろう。いま、手折らずともよい。
 執事は伸ばしかけた手を引っ込め、屋敷に向かって踵を返す。そのとき、チリッと何かが、熱く胸を焼いた。
 刹那、目にも留まらぬ速さで身を翻すと、黒い爪を剥き出しにして、白薔薇を乱暴にむしり取った。小さくとも一人前の力を持つ刺が、手のひらを引き裂き、血がぼたぼたと黒い土に滴る。構わずに、強く握りしめて、その精気を奪った。あっという間に、乾いて粉々になったかつての薔薇の残骸が、指の合間から、はらはらと落ちる。
──手折らずによい、など……。私らしくもない。奪って、吸い尽くして、かけらも残さない。それが私のやり方ではなかったか。
 すっかり甘くなったものだ、と悪魔は独りごちて、屋敷に戻った。
 あとには、ただ、荒涼とした薔薇園が残るばかり。黒猫が悪魔の立っていた辺りに寄って来て、にゃあと小さな声で餌を催促した。

***
 二階の自室の窓から、シエルは一部始終を見ていた。
 忠実な執事が一瞬にして悪魔の姿に転じ、白い小さな薔薇のつぼみの命を奪い去ったとき、自分の身が引きちぎられた気がした。
「……ッ!」
 指が白くなるまで、ぐっと強く手を握りしめる。手のひらに爪がきつく食い込んだ。
 執事に戻った悪魔が屋敷の中に消えて、ようやく息を吐き、ゆっくりと手を開く。強く握っていたせいで、爪の痕が深く残っていた。
「あいつ……。ひもじくて、仕方ないんだろう……」
 三日月型の赤い痕を見ながら、呟いた。復讐の終わらない、いまはまだ、あの餓え切った悪魔に自分の魂をやるわけにはいかない。
 だが、哀れだった。あの悪魔は一体いつから空腹なのだろう。何年? いや何十年? もしかすると何百年も、なにも口にしていないのかもしれない。
──やせ我慢
 そんな言葉が頭に浮かんだ。あいつは、やせ我慢しているんだ。もう長いこと。
 嫌味な性格ではあるものの、美学を盾に、あくまでも契約に忠実に付き従い、骨身を惜しまず尽くす姿は、世間でいわれている怠惰な悪魔像とは、随分かけ離れていた。シエルは腕を組んで、考え始める。
 魂のすべてはやれないが、その一部をやることはできないのだろうか。たとえばガトーショコラのような、デザート的な……。
「おやつだ! そうだ、おやつをやろう。それであいつの腹も、少しはおさまるだろう」
 それが、自分が最も嫌う子どもじみた思いつきであることに気付かず、シエルはその考えに夢中になった。
 悪魔とヒトは違う。望みも生き方も。空腹に対処する方法も。そんな基本的なことを忘れて、シエルは悪魔と自分を同列に考えてしまったのだ。

***
 使用人たちが寝静まった真夜中。
 足音を忍ばせて、そっと図書室の扉を開ける。深夜の図書室は、古い紙と革の匂いに満ちていた。蝋燭の光は隅まで届かず、暗闇の中に、なにかが潜んでいるようで、踏み出すのが怖くなる。自分の屋敷なのに、怖がる奴があるかと無理に言い聞かせて、書棚に近づいた。
 いまシエルが探しているのは「悪魔のおやつ」についてだ。そんなものが記述されているのかどうか、いや、そもそも記述されていたとして、所詮、人の書いたもの。悪魔にとって正しい情報なのかどうか、それすらも怪しいが、本人に訊くわけにはいかない。与えたければ、自分で調べて、用意するしかない。
 それはシエルの背では届かない高い場所にあった。
「まるで僕の目から隠しているようだな」
 先代も、もしかしたら悪魔に関わりがあったのだろうか。いぶかりながら、踏み台に乗って手を伸ばし、タイトルが黒く塗りつぶされた分厚い書物を抜き出した。ぱらぱらとめくって、目的の項目を追っていく。
──悪魔の嗜好品。人の魂、目玉、肉、臓器、血液、唾液、排泄……、
 その一節を目にした途端、パタンと厚い本を閉じてしまった。
「どれも、いやだ……」
 想像するだにおぞましい。
 だが、と、シエルは唇を噛んだ。
 やらなければ、あの悪魔は飢えたままなのだ。この三年間、契約に従い、律儀にやるべきことをこなしてきた、従順な犬の空腹をまぎらわせてやりたい──。
 再び本を開き、並ぶ嗜好品のひとつに目を留める。
「……これだな」
 シエルは心を決めた。決めたとなれば、行動は早い。図書室を出て、階下へ向かった。

***
 階下の使用人部屋の一室では、悪魔で執事がベッドに横たわり、虚ろな目を天井に向けていた。
 なにもやる気にならない。動けば、それだけで腹が減る。夕方摂ったわずかばかりの薔薇の精気が、一層、空腹を刺激して、辛かった。
 きっと朝になれば、餓えはいくらか薄らぐだろう。根拠のない希望にすがって、目を閉じる。今夜は人に倣って、ひさしぶりに睡眠を貪ってみようか……。
 ふと悪魔は近くに主の気配を感じて、のろのろと重い身体を起こした。
「こんな時間に、なぜ……」
 以前のように悪夢に怯えることもない主が、夜更けに自分を必要とするのは珍しい。何の用なのか。瞬時に移動し、主がノックする前に、扉を開けた。
「う……!」
 主が目を丸くして、自分を見上げている。にこやかな笑みを作り、背を傾けて、幼い主に諭すように呼びかけた。
「坊ちゃん、こんなところへいらしてはいけません。お呼び下されば、すぐに伺いますのに……」
 従順な執事の仮面をつけて、慇懃無礼に何の用かと訊ねれば、主は苛立たしげに言い捨てた。
「……餌やりだ」
 開いた扉の隙間から、部屋に入り込む。シーツに残った人の形を見て、主はにやりと笑った。
「眠っていたのか? 珍しいな」
 ぽすっとベッドの端に腰掛けて、主は言った。
「お前……、腹が減って、どうしようもないんだろう?」
「……!」
「来い」
 幾分、緊張した面持ちで手招いている。一体なにをするつもりなのだろう。セバスチャンには、まったく予想がつかなかった。
 いぶかしげに近寄った執事の腕を掴み、かがませると、シエルは顔を近づけ、ちゅっと悪魔の薄い唇にくちづけた。
「!」
 驚いて身を離そうとするセバスチャンをさらに引き寄せ、歯の隙間に舌を入れると、自分の唾液を送り込んだ。悪魔がコクッと喉を上下させたのを確認して、シエルは唇を無造作に離す。
「いまは、まだ、僕の魂はやれない。だから、これでしばらくの間……」
 気付けば、悪魔にきつく抱きすくめられて、あとを続けられない。
「く、るし……。はな……せ、セバ……ス……」
「……なんということを、なさるのです」
 切羽詰まったセバスチャンの口調に、シエルは目を見開いた。悪魔は瞳を紅く変え、大きく口を開けて、シエルに迫ってくる。尖った犬歯が目に飛び込んだ。
──……ッ、喰われる……!
 シエルが思わず目を瞑ったとき、唇に生暖かいものが入り込んで来た。
 柔らかく湿った獣の舌が、口内を深く漁る。もがいても、悪魔はしっかりとシエルをつかんで離さない。腰が熱をもったように、じんと疼いた。口内を犯され、唾液を貪られて、悪魔の腕にぐったりともたれかかった。
──だめだ、こんな、はずじゃ……。
 悪魔の嗜好品。人の唾液。
 ほんの少し、自分の唾液を分け与えて、それで部屋に戻るつもりだった。なのに──。
 ギシッと軋む音で、セバスチャンがベッドに片膝をついたのを知った。唇を合わせたまま、押し倒される。
「セバスチャン、やめ……!」
 顔をのけぞらせて叫ぶと、悪魔は組敷いた獲物に、妖艶な笑みを見せた。その笑みにシエルは魅入られた。動きの止まった獲物に目を据えて、悪魔は首元に静かに指を入れる。軽く頭を振って、タイをゆるめれば、艶めいた白い肌が衿からのぞいた。しゅるると優美な仕草でタイを抜き、シャツのボタンを次々と外して、厚い胸をあらわにする──。
 シエルの頬に血が上った。
「坊ちゃんがいけないのですよ。餌やりなんて……。こんな中途半端な餌で、私が満足するとお思いですか?」
 声の底に、抑えた怒りを感じ取った。怒っているのか、この悪魔は……とシエルは気付いた。自分の行為は、彼の矜持を──やせ我慢を己に強いている矜持を──傷つけてしまったのかもしれない。だが、後悔はなんの役にも立たない。いまさら詫びたところで、この悪魔は許さないだろう。それどころか、火に油を注ぐ結果になるのは目に見えている。シエルは言葉を呑み込んだ。
「……坊ちゃん」
 吐息まじりの甘い声を耳に吹き込まれ、からだが震える。いつものセバスチャンの声とはまったく違う。
「もう少し……ください」
「魂は、やれない」
 誘惑に抗うようにして、声を絞り出せば、悪魔は昏く翳った瞳で、主を冷たく眺めた。
「ええ、わかっています。だから、もう少しだけ、貴方を……ください」
 
 その言葉の意味がわからないシエルではなかった──。